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編集長ひとり語り 番外編その3 差別用語とは(つづき)

編集長ひとり語り 番外編その3 差別用語とは 平成11年(1999)5月12日 画像は三田和夫50歳前後?(写真中央 正論新聞初期)
編集長ひとり語り 番外編その3 差別用語とは 平成11年(1999)5月12日 画像は三田和夫50歳前後?(写真中央 正論新聞初期)

■□■差別用語とは■□■番外編その3■□■ 平成11年(1999)5月12日

たまたま、インターネットをいじっていたら「差別用語一覧」みたいなものに出会った。それによると、「バカチョン・カメラ」はB級として出ていたが、「バカチョン」は出ていなかった。つまり、バカチョン・カメラの流行りだしたころに、これは「差別語」とされたようだ。この言葉の流行りだした時期と「札チョン」の時期とを、キチンと調べるとその相関関係は明らかになるだろう。

と同時に、朝鮮高校生へのいやがらせ事件との関連も必要だろう。先生を「先公」と呼んだ時期も、朝高生⇒朝公⇒チョンコウへの転移が明らかになれば、より明快になろう。

各社の国語辞典の「バカ」の項をみると〔馬鹿・莫迦・破家〕とあり、「馬鹿は当て字。梵語の慕何、または梵語の摩訶羅(無知)の転で、僧侶が隠語として用いたことによる」とある。つまり、佛教関係語が語源だったということだ。

一方、「願人(がんにん)」の項をみると①請願する人、②祈願する人、③願人坊主、とあり、「願人坊主」とは「江戸時代、僧形の乞食。加持祈祷などをして、礼をすすめた俗法師とも。人に代わって祈願や水垢離(みずごり)などをして、銭をもらって歩いたもの」

岩波古語辞典には、「ちょぼくれ・ちょんがれ」があった。「近世、亨保頃から始まった願人坊主の大道芸。錫杖を伴奏として、野卑な文句を口早に語り、ちょぼくれ・ちょんがれと、囃子詞を入れたので、こう名づけた」とある。辞典には“野卑な文句”とあるだけで、その内容は書かれていない。

この時、「僧侶の隠語」であった「バカ」が、バカ・チョボクレ、バカ・チョンガレと唱えられたのではあるまいか。古典落語や江戸時代の浮世絵に、「バカでもチョンでも」という言葉があれば、一件落着となる。これは、私にとっても、これからの研究課題でもある。結論として、私は、この「バカ」と「チョンガレ」との結合語が「バカチョン」の語源だと信じている。従って「バカでもチョンでも」は、日本の古語で、差別語だとは思わないし、差別語としても認めない。

中国を「支那」と呼ぶことは、中国人が不快感を覚えるから使わない、と書いた。すると、「チョン」に韓国人が不快感を持つというのだから、首尾一貫しないという指摘もあった。だが、戦後1979年に初めて中国旅行に行った時、ガイドの中国人が、「シナという言葉は慎んでください」と注意した。韓国にも旅行したが、ガイドは「朝鮮と朝鮮人という言葉は使わないように」としかいわない。つまり、「チョン」が韓国人への蔑称だという説は、戦後ずっと経ってから、札チョンののちの、バカチョンカメラ時代に、「差別をことさらに意識する人たち」によって、言葉狩りの対象にされたのだ、と思う。

韓国旅行のガイドの“朝鮮・朝鮮人”について、私はバスの中で異議を唱えた。「朝鮮ホテルや朝鮮日報が現存するのに、ナゼですか」とたずねた。すると、「韓国人が歴史的な事実からその名を残したのであって、日本人が朝鮮と言うと、植民地時代が思い出させられるから」という。「支那」についても同じだろう。「東シナ海」が現存するのだから。

今回の番外篇を書くに当たって、韓国人に「チョン」の感想をたずねたい、と思った。前回登場した大新聞記者に紹介された、2人の韓国人を探した。1人は三井物産の社員だったが、昨年の9月に退職していた。もう1人は、浦和市で翻訳業をしていたが、転居したと見えて、電話が通じなかった。従って、韓国人には、チョンについての感想を聞くことができなかったのは、残念なことであった。

私は、中学時代から半島出身者の友人がいたし、日大時代もそうだったと書いたことは、私に外国人に対する偏見がないこと、すなわち、差別を意識しない育ちだった、ということを述べたのである。このような学友たちがいたということと、差別の問題とは別だ、というご意見もあったが、外国人を外国人と意識しないでいられる生活環境が、差別をなくする道ではないだろうか。

そしてまた、バカチョンとはバカとチョンをつなげた言葉だ、と受け取る人が意外に多いようである。宇喜多秀家(百済人)の血を引いた「浮田」姓の日本人がいることを書いたが、朝鮮民族がバカだと思う人たちこそが差別主義者である。

南方からの黒潮に乗って日本に流れついた外国人を黒潮民族と呼ぶ。九州南部、四国南部など、黒潮が洗う一帯である。これに対して瀬戸内民族がある。瀬戸内海の沿岸一帯に土着した外国人である。主として朝鮮民族、中国人も含まれよう。

この瀬戸内海沿岸(中国・四国とも)から碁、将棋の名人が何人でているか。もっと具体的に、日本国の総理大臣が、何人でているか、指を折って数えてみたら分かる。つまり朝鮮民族の血を継いでいる日本人の多くが、バカではない、ということである。

岡山県東部の福岡町に居城を構えた黒田家に、秀吉は大阪に近すぎるというので、不安を覚えて九州に飛ばした。黒田一族は博多に移ったが、福岡という地名も持っていったので、福岡と博多が同居するハメになった。同じように、岡山県中部の吉備高原に栄えた吉備文化とは、朝鮮文化である。大和朝廷は、やはり吉備文化に脅威を感じて、これをツブしたのだった。岸、佐藤の兄弟首相も、橋龍も、アーウーの大平首相も、DNA検査をしたら、朝鮮民族だと判明するに違いない。

チョンがどうして、朝鮮半島出身者に対する蔑称なのか? そうしたことを思いこんでいる人たちこそ、差別者である。その言葉の歴史的、合理的な根拠を示されない限り、私は、それを認めない。そして、韓国人にもそう思っている人がいるならば(蔑称と受け取り不快感を覚えるという)、私は、あらゆる機会に誤解を消し去る努力をするだろう。そんな枝葉末節にとらわれず、自分たちの先祖が、どんなに日本に貢献したかの歴史的事実を学んで、誇りに思ってもらいたい。 平成11年(1999)5月12日

黒幕・政商たち p.068-069 住宅公団の宅地買収のデタラメさ

黒幕・政商たち p.068-069 千葉県を舞台にして、公団が宅地を買付けた。「坪六千円の土地が、ある業者の手を経て、公団に買収されたが、その価格が坪一万一千円。ほぼ倍の値段です」
黒幕・政商たち p.068-069 千葉県を舞台にして、公団が宅地を買付けた。「坪六千円の土地が、ある業者の手を経て、公団に買収されたが、その価格が坪一万一千円。ほぼ倍の値段です」

確かに、この話の通り、佐藤首相の周辺には、不思議と思えるほど、〝黒い噂〟も情報もないのは事実だろう。そして、池田首相夫人とは違って、佐藤寛子夫人にさえ、〝出過ぎた〟話

も出てこない——私は、これこそ、首相の執念とみる。

賞めすぎるようだが、六〇年安保をなしとげた、兄岸首相のあとをうけて、七〇年安保に政治生命をかけた、佐藤栄作の〝自覚〟が冷酷にさえ見えるその人事にうかがえる。河野一郎を閣外に追落し、返す刃で片腕ともたのむ田中角栄を党からはずす。兄弟の長年の〝忠僕〟大津秘書官さえ暇を出すという、この徹底した潔癖さは、側近の非違のために挂冠するハメにおちいることを、極度に警戒しているものであろう。

世田谷の私邸でも、一国の総理としては貧弱な家である、これほど〝身を持すること厳〟な首相ではあるが……。

幽霊会社に消える土地代金

「私も不動産業者ですから、ある時には、結構、稼がせてもらいますよ。でも住宅公団の宅地買収のデタラメさには、義憤を感ぜざるを得ませんよ」

彼はこういって言葉を切った。私は黙って、彼の口許に眼をやる。

——落ちる瞬間とはこれだな!

刑事のいう〝落ちる〟とは、犯人が自供をはじめることだ。私の記者生活の体験からいうと、多くの場合、事件の真相を知る人物は、実は事件の主役たちと利害の上で、相当程度に密着し

ているものである。それ故に彼が提供したその記事のもたらす影響と、彼の利害との関係位置に気を配らねばならない。それが一瞬、口をつぐませるのだった。

彼——その男は、まだ三十台の若さながら、都心に事務所を持つ有力な業者の一人だった。ある意味での、成功者のうちに数えられる彼にとっては、シャニムニ、金にさえなれば良い、といった、アクドイ商売には、批判の眼を向けざるを得ない〝ゆとり〟が生れていたのだ。

彼の話には、まだウラがとれてない。つまり、私自身の調査による、裏付け取材がしてないのだが、やはり関係者の談話なので、ここで一通りの紹介をしておこう。千葉県を舞台にして、公団が宅地を買付けたのだという。

「坪六千円の土地が、ある業者の手を経て、公団に買収されましたが、その価格がなんと、坪一万一千円。ほぼ倍の値段です。大衆にとって、宅地が高嶺の花にならないよう、宅地債券などが新らしくできましたが、この実例でみると、宅地債券など買う奴は、安い土地をわざわざ高く買う結果になっているのです」

これは、他の実例を見ても、間違いのない事実である。もう少し、彼の話を聞かねばならない。

「公団と地主の間には、ある会社がクッションになって入っています。ホテルニュー・ジャパンの中にあるその会社の社長というのは、ある金融機関の支店長だった男です。そして、彼

が、その土地を、半年でも一年でも持っていて、公団に売ったというのなら、まだよろしいでしょう。しかし彼が所有していたのは、僅かに一日間だけです。土地の広さですか? 坪六千円の土地で、総額十数億円にのぼる面積です。そして、彼はその土地のある農協から十億もの融資を受けているのです」

護国青年隊関連資料/『日本を哭く』推薦の言葉・三田和夫

関連資料 元護国団団長・石井一昌著『日本を哭く』推薦の言葉 正論新聞編集長 三田和夫
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関連資料 元護国団団長・石井一昌著『日本を哭く』推薦の言葉 正論新聞編集長 三田和夫

石井一昌著「日本を哭く」をご紹介する

正論新聞 編集長 三田 和夫

昭和三十二年春ごろのこと。当時、読売新聞社会部記者だった私は、光文社発行の「三光」(注・支那派遣軍の暴虐ぶりをバクロした本)が、護国青年隊の抗議に、広告を中止し、絶版を約束させられた、という情報を得て調べはじめた。と、岸首相が自民党幹事長時代に、やはりオドされて、金を出したという話も出てきた。当時の中村長芳秘書が、警視庁捜査二課に事情をきかれた、という。

それらの取材を終えて、社会面の大きな記事になったその日から、社の読者相談室は、護国青年隊の抗議の波状攻撃を受けて、騒然とした空気に包まれていた。

「三田の奴メ! 同志のような顔をしやがって、裏切りやがったな。どうするかみていやが れ!」(拙著「最後の事件記者」より)

そんな彼らの言葉も、耳には入ってきていた——それから一年余を経て、私は、横井英樹殺害未遂事件にからむ、安藤組の犯人隠避事件の責任を取って、読売を退社する。

昭和四十二年元旦付号から、私は、独力で「正論新聞」を創刊する。読売退社から八年余、雑誌の寄稿家として生活するうち、出版社の都合で、私の原稿はカットされ、ボツにされることが多くなった。本当のことを書くとモメるのである。「三田の原稿はヤバイ」ということである。そのため、自分が発行人で、編集人で、執筆者でなければならない、という結論に至ったからだ。

「私はかつて読売記者時代、『護国青年隊』の恐喝事件を取材して、総隊長・石井一昌に会った。昭和三十二年四月十九日である。その時の印象は、まさに粗暴な〝飢えた狼〟であった。彼は、読売記事を読んで激怒し、私を憎んだ。連日のように、読売本社に押しかけ、私を痛罵したものだった。

そして、本紙(注・正論新聞)がさる四十五年暮れに、『右翼暴力団・護国団』を取りあげるや、当時潜行中の彼は機関誌の『護国』に地下寄稿して、またもや、私を非難攻撃した。

しかし、因果はめぐる小車…で、私は、彼の自首説得に、小さな力をかすことになる。保釈になった彼は、その尊敬する先輩の事務所で、正論新聞の綴じこみを見て、質問したのだった。その先輩は、『真の右翼浪人たらんとするなら、正論新聞もまた読むべし』と訓えられたという。…こうして、私と彼とは満十五年目のさる昭和四十七年四月二十九日に、再び相会って握手をした」(正論新聞47・10・15付、連載『恐喝の論理…〝無法石〟の半生記』続きもののはじめに、より)

こうして、私と彼との交際がはじまり、すでに二十三年になる。さる平成六年四月二十九日、「護国団創立四十周年記念会」の席上、私は指名されて、あいさつを述べた。

「…実は、石井さんは、当時隊員たちに指令して、〝いのちを取っちゃえ〟という目標の人物を十五名リストアップしていた。その最後の第十六位にランクされたのが、私だったのです…」と。

いのちを〝取る〟側は、国の将来を憂えてその邪魔者を排除する信念。〝取られる〟側は、真実を書き貫こうとする信念。その死生観には、共通するものがあって、対立する立場を乗り越えて、結ばれた友人である。これをいうならば、〝怪〟友といわんか。それは 快友であり、戒友であり、魁友でもある。

平成三年十一月「正論新聞創刊二十五年を祝う会」で、私は、この話を披露した。「この席には〝捕える側〟も〝捕えられる側〟も参会されている…」と。

読売の警視庁記者時代に親しくした、土田国保、富田朝彦、山本鎮彦の昭和十八年採用の元長官たちと、石井さんはじめ、稲川会や住吉会の幹部たちのことを話したのだった。

昭和三十二年、売春汚職事件にからんだ立松記者誤報事件で、対立関係にあった当時の岡原昌男・東京高検次席検事(故人。元最高裁長官)も、「…正論新聞の論調は〝おおむね〟正論である。どうして、おおむねをつけたかといえば、ある時には、三田編集長の個人的見解が、色濃く出されているからです…」と祝辞を下さった——対立のあとにくる友情とは、こういうものであろうか。

「右翼といいながら、ゴルフ三昧の奴や、クラブを経営しているのもいるんだ」——このパーティーのあとで、石井さんは、痛憤の情を吐露した。

「ウン。むかしの『恐喝の論理』の続編でもやろうか。日ごろ、感じていることを、メモに書き留めておきなさいよ」と私。それからまた歳月が流れる。「石井一昌の憂国の書を出版したいんだ。もう年だから、総括をしておきたい。だれか、書き手を紹介してよ」と頼まれて、まる五年——とうとう、このほど「日本を哭く—祖国の建直し、魁より始めよ」が立派な本になった。

「この本のため、石井のいのちを取っちゃえというのが、現れるかもしれない。だが、自分の信念のために斃れるなンて、カッコいいじゃないですか」と、石井さんは笑う。かつて私は、彼の第一印象を、「粗暴な〝飢えた狼〟」と評した。が、いまも、顔は笑いながらも、眼は、決して笑っていなかった。

この著の、戦後秘史としての価値が大きいことを、ご紹介の第一の理由とする。

(平成七年十二月一日記)