小島のクビが危うかったことは、その前にもう一度ある。昭和三十二年秋の、例の「立松事件」の時である。売春汚職にからんで、社会部立松和博記者(故人)が、「宇都宮徳馬・福田篤
泰両代議士召喚必至」という、大誤報を放った時である。
原が、社会部長から編集局次長兼整理部長に栄転したあと、原の僚友景山与志雄が社会部長となった。古い社会部記者のタイプの、温情派であった景山は、原の後任としては、社会部長の椅子が重かったようである。おりからの売春汚職にさいして、やはり、〝ここらで一発!〟の気が動いたらしく、療養生活から出社してきたばかりの、司法記者のヴェテラン立松を起用した。
立松はいうまでもなく、昭電事件のスクープで「事件の読売」の評価を高めるに、大功のあったスター記者であった。彼は、米軍占領下で大量追放の憂き目にあった、思想検事閥に代って、GHQに迎合した経済検事閥(注。いわゆる〝馬場派〟のこと)の先達、木内曾益次長検事に可愛がられて、馬場——河井ラインに密着していたので、他社を呆然とさせる連続スクープを放つという、輝かしい経歴を作っていた。
景山には、立松のスクープ可能の〝限界〟が、十分に理解できていなかった。当時、立松のネタモトである河井信太郎検事は、現場を離れて、法務省刑事課長であったのだ。立松を部長直轄として、司法クラブのキャップであった私の、隷下には属させなかったのも、景山のアセリを示し、指揮統率上からも、誤報を生む原因となった。
なぜならば、立松は、長い療養生活から戦線復帰をしてきた直後であり、売春汚職と政界のつながりなどの、十分な基礎知識を勉強する体力も気力もなく、昭電事件当時のように、直接、逮
捕状まで見せてくれた河井検事のような、現場の検事がいなかった。(注。昭電事件における読売の派手なスクープは、事件そのものが、GHQ内部の対立からきた謀略でもあったから、逮捕状を事前に見せるだけの〝意義〟があったのである。そして、この事件に加担した経済検事閥は、この時から国家権力を私する〝よろこび〟を覚えて、検察を堕落させるのである)
立松は、私に良く、部長に対し負荷の任に耐えないことをコボしていた。もし、彼が私の指揮下にあったなら、私はあの原稿の出稿を認めなかったであろう。というのは、私の部下であった滝沢、寿里両記者とも、その内容が、当時〝怪文書〟として流れていた、マルスミ・メモ(注。代議士の氏名の上に、済の字を丸で囲った印のついた名簿)と、あまりに符合していたからである。
そして、立松記者の取材の最後のツメは、私と滝沢とが立会って、河井検事の自宅への電話取材ということになった。私が、あの大誤報のニュース・ソースが、河井検事であると公言できるのは、この事実と、立松が正式に部長、デスクに対し、「河井からの取材」と報告している事実とからである。
宇都宮、福田両代議士の、即日の告訴から、立松の現職逮捕となって、事件は大きくひろがった。検察内部の派閥対立から、告訴を受けた 岸本義広東京高検検事長の指揮の下に、「立松記者のニュース・ソースは河井検事に違いない」というので、現職の法務省刑事課長である河井検事を、国家公務員法違反、ひいては、名誉棄損の共犯として逮捕し、馬場派検事を一挙に潰滅させ
よう、という、岸本派の狙いがあったのである。