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最後の事件記者 p.146-147 新聞記者の功名心だって?

最後の事件記者 p.146-147 『どういう目的で書いたか? こんなことをバクロすれば、ソ側スパイに殺されると思わないか。生命が惜しくないのか? 怖くないのか』
最後の事件記者 p.146-147 『どういう目的で書いたか? こんなことをバクロすれば、ソ側スパイに殺されると思わないか。生命が惜しくないのか? 怖くないのか』

しかし、実際には私もこわかった。「スパイは殺される」という。所轄の北沢署に保護を頼んだり、一日中社へよりつかなかったりした。ある夜などは、私の帰りを待ちくたびれた妻が、深夜にフト眼覚めて、用足しに階下へおりようとして、二階の踊り場から見通しの階段へ一歩踏み出した。

アッと、もう少しで叫び出して、階段から転がり落ちそうになった。玄関のドアにはまったガラス、その上のラン間のガラスに、一条の懐中電燈の光りが走っている。

その光りは、標札の文字でも確かめているらしく、瞬時にして消えた。耳を澄ます妻には、玄関を去ってゆく足音さえ聞えない。背筋を冷たく氷が走って、片足は階段に踏みだしたまま、もう身動きができなかった。

その夜、私は帰宅しなかった。妻は今でもその時のことを想い出しては、

『あれほど恐かったことは、まずちょっとなかったわね』

という。あの懐中電燈の光の主が保護を頼んだ警官なのか、或いは郵便配達か、また〝黒い手〟の人だったのか、とうとう判らない。

『危いから、待伏せされてるかも知れないと考えて、あなたが帰ってこなければいい、と願ったわ。外泊を祈ったのは、後にも先にもこれだけね』

新聞記者の功名心

意外な反響は、米軍側のものだった。東京駅前の郵船ビルのCICが、私と私の記事とを疑ったのである。「どうしてこの事実を知ったか」「なぜ記事にしたのか——危険だと思わないのか」の二点に集中されて、私への疑惑を露骨に出した調べだった。

調べ官はハワイ生れの二世で、田中耕作という中尉だった。「私の父は百姓なので、コーサクとは、耕す作ると書くんです」というほど、日本人らしい二世だったが、調べは厳しかった。

『どういう目的で書いたか? こんなことをバクロすれば、ソ側スパイに殺されると思わないか。生命が惜しくないのか? 怖くないのか』

これに対して私の答は簡単だ。

『書いたのは新聞記者の功名心からだ。生命も惜しくない。戦争と捕虜とで、二度も死んだはずの生命だ。新聞記者として仕事のために死ぬのは本望だ。自分の記事のために死ぬなんて、ステキだ』

『新聞記者の功名心だって? 生命の危険を冒した功名心? 信じられない、納得できない』

最後の事件記者 p.270-271 肉体をスリ減らし家庭を犠牲に

最後の事件記者 p.270-271 私の妻には、彼女なりの、私の事件や、新聞に対する批判があった。彼女には、私が退職しなければならない、退職したということが、どうしても納得できないのであった。
最後の事件記者 p.270-271 私の妻には、彼女なりの、私の事件や、新聞に対する批判があった。彼女には、私が退職しなければならない、退職したということが、どうしても納得できないのであった。

そして、この一文に対して、実に多くの批判を受けたのである。私の自宅に寄せられたのもあれば、文芸春秋社や読売にも送られてきた。あるものは激励であり、あるものは戒しめであった。この一文が九月上旬に発売された十月号だったので、まもなく十月一日からの新聞週間がや

ってきた。その中でも、私の事件への批判があった。

ことに、私の妻には、彼女なりの、私の事件や、新聞に対する批判があった。彼女には、私が退職しなければならない、退職したということが、どうしても納得できないのであった。

私は構わない。私は、自分が今まで生きてきた世界だけに、その雰囲気はよく知っている。それを私はこう書いた。「冷たい男と知りながら、血道をあげて、すべてのものを捧げつくして捨てられた女、しかし、それでも女は、その非情な男を慕わざるを得ない——これが、新聞社と新聞記者の間柄である。私は、自分の新聞記者としての取材活動が、失敗に終ったことを知った。

〝出来なければボロクソ〟である。私は静かに辞表を書いた。逮捕され、起訴されれば、刑事被告人である。刑事被告人の社員は、社にとっては、たとえどんな大義名分があろうとも、好ましいことではない。私は去らなければならないのだ」と。

文春記事の反響

『ね、パパ。暮のボーナスで、家中のフトンカバーを揃えましょうよ』

『エ? 暮のボーナスだって? どこからボーナスが出るンだい?』

『アッ、そうか!』

つい最近でも、妻は私がまだ読売にいるつもりで、こんなことをいう。彼女には、結婚以来の十年間の、辛い、苦しい、そして寂しい、事件記者の女房生活から、私が社を去ったということが、このように納得できない。私が留置場にいる時、彼女は、社へ金を受取りかたがた、エライ人に挨拶をした。

『これからは、お友達として付合いましょう』

その人のこの言葉を、妻は何度も持ち出して、私に聞く。

『これ、どういう意味?』

彼女をしていわしむれば、あんなに肉体をスリ減らし、家庭生活をあらゆる面で犠牲にして努めてきたのは、社のためだったのではないのか、ということらしい。しかも、今度の事件も、取材であったのだから、所詮は社のためである。それなのに、辞表を受理するとは、というのである。

だが、私はそう思わない。クビを切られずに、辞表を受取ってもらえて、有難いことだと思う。その上、十四年十カ月の勤続に対して、三十万百八十四円の退職金、前借金を差引いて、三

万円の保釈金を払って、なおかつ九万円もの金が受取れたことを、ほんとうに有難いことだと思う。一日五百九十円の失業保険は九カ月もつけてもらえた。

私は満足であり、爽快であり、去るのが当然であると思う。