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編集長ひとり語り第25回 適者生存の原則

編集長ひとり語り第25回 適者生存の原則 平成11年(1999)8月19日 画像は三田和夫71歳(右側 1993.02.26)
編集長ひとり語り第25回 適者生存の原則 平成11年(1999)8月19日 画像は三田和夫71歳(右側 1993.02.26)

■□■適者生存の原則■□■第25回■□■ 平成11年(1999)8月19日

この8月15日の終戦記念日を中心としたお盆休みの間中、私は新聞6紙に釘付けにされていた。戦争をテーマにした連載記事から、長銀、日債銀の摘発記事、そして、圧巻は丹沢湖にそそぐ玄倉川(くろくらがわ)のキャンプ事故である。

この事故ほど、現在の日本の危機的情況を端的に示したものはあるまい。行政のあり方とマスコミの対応である。同時に、子供に対する大人の社会的責任の問われ方である。

少女売春の女の子たちが、「私が私の身体で金を稼いで何が悪い。だれにも迷惑をかけていない」と、放言していたのは、ツイこの間のことであった。そして同様に、会社仲間のキャンプグループも、度重なる関係者の注意にも、耳を傾けないで、子供たちを巻き添えにした。50歳代のひとりと他の2人の3人が中州を離れて、これまた注意をしていた。多分、少女売春の口グセと同じく「オレたちのことはオレたちでやっているンだ。余計な口出しをするな。迷惑をかけちゃいないンだ」と、いうところだったのだろう。

結果は、自衛隊から消防、警察と連日300人規模の大動員で、彼らのお盆休みを奪い、かつ人件費、資材費などの莫大な出費を強いる“大迷惑”を現出したのである。余談だが、壮年の3人の社長が、ホテルの三部屋を使っての自殺騒ぎ——ところが、新聞の報道は、3人がどんなに親しく、事業協力をしていたとか、美談調なのである。毎日1件以上はあると思える、鉄道の飛びこみ自殺——何万人の足止まる、と恒例の報道ぶりなのである。どうして、自殺者が死後に及ぼす社会的損害の糾弾の紙面を作れないのか。鉄道は、その損害の金銭的損失をすぐ計算し、自殺者の財産に仮処分をかける、という反応ができないのか。先日のハイジャックの西沢容疑者の自宅(親の家か?)は、一戸建てである。全日空は仮処分をかけたのか。新聞は、特別欄を設けて、追跡報道しろ。それが、迷惑をかけられる社会の防衛手段なのである。

自己所有の家のない奴は、社会に迷惑をかけない場所で、首吊りでも服毒でも、好きな手段で自殺しろといいたい。私の友人の東大法卒の不動産屋は、遺書を残して青木ヶ原で自殺した。私の尊敬する江藤淳の自殺に、すぐ新聞紙面には「自死」などという“新語”が出てくる。それをいいだす文化人も、それを取り上げる新聞も、ともに怪しからんと思う。自殺は自殺だ。

話がそれたが、親は子供を自己所有物として扱うから、学級崩壊へと進んでゆく。オレの子供に口を出すな、が、今回の悲劇を招いた。悲劇は悲劇だが、自業自得である。新聞は大きく取り上げるな。死体発見のたびに、ベタ記事で十分だ。しかも19日現在で、バタバタと死体発見が続いたのは、地元の人の話で、河口付近に漂着する場所がある、というではないか。10何人かの人が流されるのを記者たちは見ていたハズだ。流されてから2日ぐらいで捜索は打ち切るべきだ。自己責任の原則を、行政も確立すべきである。

おりしも、17日付東京新聞夕刊は、厚底サンダル問題の投書特集をしていた。危険だから止めろというのは、60代のジジイばかりだ。だが、街頭でこのポックリみたいなサンダルの女の子に、「危ないから止めろ」と声をかけたら、どのような場面になるか、想像に難くない。電車の床にペッタリ座る連中、電車の中で化粧する女たち——すべて、このキャンプの家族連れと同じ反応である。

例えば、この女の子が転ぶ、自転車が避けようとしてバイクとぶつかる。そこに車が突っ込んでくる。死傷者が出ることは十分予測されるが、女の子にサンダルを止めろ、とはいえない時代なのである。社会も、それなりの自己防衛を考えねばならない。適者生存の原則は、厳しいものなのである。 平成11年(1999)8月19日