調べの進展と同時に、私はグレン隊安藤組と過去において、何の関係もなかったことが明らかになった。事実その通りである。またどうしてもという義理ある人の依頼もないことが判ってきた。脅かされたという事実もなければ、ましてや、金で誘われたこともないと判明した。しかし、本人は勤続十五年の一流新聞を辞職している。末は部長となり、局長となると目された(?)人で、腕は立つ(?)のである。それが一ゴロンボーのために、名誉と地位と将来とを棒に振った
のである——納得がいかないのも無理もない。
私は答えた。「棒に振った? グレン隊と心中した? 飛んでもない! オレは棒に振ったり、心中したなんて思ってみたこともないよ」と。
私は自分の仕事に責任を持ったのである。私とて、大好きな読売新聞を、こんな形で去りたいと願ったことはない。もちろん、胸は張り裂けんばかりに口惜しいし、残念である。ことに、過去が輝かしいだけに、その哀別離苦の念はことさらであった。
出来ねばボロクソ商売だ
だが、私は十五年の記者生活で、この眼で見てきて知っている。落伍していった先輩、後輩たちの悲しい姿を。俗にいう通り、「新聞社は特ダネを抜いて当り前、出来なくてボロクソ」と。出来ても当り前なのである。
新聞という公器としての性格と、近代企業としての性格が重なって、新聞社はこのように冷酷非情なものなのである。〝出来なければボロクソ〟なのである。冷たい男と知りながら、血道をあげて、すべてのものを捧げつくして去っていった女、しかし、それでも女はその非情な男を慕わざるを得ない——これが新聞社と新聞記者の間柄である。
私は、自分の、新聞記者としての取材活動が失敗に終ったことを知った。〝出来なければボロクソ〟である。私は静かに辞表を書いた。逮捕され、起訴されれば、刑事被告人である。刑事被
告人の社員は、社にとってはたとえどんな大義名分があろうとも、好ましいことではない。私は去らなければならないのだ。
私は捜査官にいった。「棒に振ったなんてサモシイことをいいなさんな。ほかの奴はどうあろうと、オレは記者としての仕事に、職どころか、生命さえ賭けているンだ。辞職で済めば安いものサ」
どうも抽象論が長きに過ぎたようである。もう少し具体的に、私の〝悪徳〟ぶりを語らねばならない。
大東亜戦争がすでにたけなわとなっていて、我々は半年の繰上げ卒業だった。昭和十八年秋だった。朝日、読売、NHKのアナウンサーと、三社を受験した。試験成績には充分な自信があったが、朝日は「残念ながら貴意に添い難く…」の返事だった。怒った私は、盛岡出身の伊東圭
一郎出版局長(先ごろ亡くなられた)に頼んで調べて頂いたところ「試験成績は合格圏内だが、出身校が日大芸術科なので……」と、いい難そうに説明されたのである。激怒した私は数寄屋橋の上から、朝日新聞社をハッタとばかりにニラミつけて、「畜生め、あとで口惜しがるような大記者になって見せるゾ!」と、誓ったものだった。
(写真キャプション)まさに〝歴史的〟記念品ともいうべき辞令二葉