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正力松太郎の死の後にくるもの p.060-061 前借伝票には局長の印が必要

正力松太郎の死の後にくるもの p.060-061 「何だ。ノミ屋の支払いか? ……今のうちから、前借りのクセをつけるな、酒は上手にのめよ」安サンはニコヤカに笑いながら、私の差出した伝票を丸めて、クズ籠に投げこんだのである。
正力松太郎の死の後にくるもの p.060-061 「何だ。ノミ屋の支払いか? ……今のうちから、前借りのクセをつけるな、酒は上手にのめよ」安サンはニコヤカに笑いながら、私の差出した伝票を丸めて、クズ籠に投げこんだのである。

七月二十一日の月曜日朝、部長と同道して、警視庁に新井刑事部長(前警視庁長官)を訪ねた私は、犯人隠避の事情を説明して引責退社の手続きの猶予を乞うた。翌二十二日午前中に、依願退社が決定され、私は正午に警視庁の表玄関の石段を上っていった。二十日の日曜日、別の事件のため出社した私は、旭川支局からの原稿「横井事件特捜本部は旭川に指名手配犯人の立廻り方

を手配してきた。立廻り先は……」を読んで、我が事敗れたりと知ったのであった。

殷鑑遠からず。私の退社、逮捕、起訴の経過をみつめていた、社会部の〝不平不満〟は、破れた風船のようにシボンで、金久保が小島に与えられた〝去勢〟任務は、望外の成果を納めたもののようであった。

立松事件、三田事件と、この半年余りの間に、立てつづけに読売社会部を襲ったアクシデントは、それから、四十年に小島が死去するまでの丸七年間、彼をして局長の椅子に安泰せしめたのである。そして、原はその間に出版局長として、外部におかれ、正力のランド熱中の影響から、読売は斜陽の一途をたどり、四十年春の務台事件当時は、まさに倒産寸前にまで傾いていたのであった。

小島の前任の編集局長、安田庄司(故人)についても語らねばならない。この人の愛称は〝安サン〟であった。小島の〝ハリ公〟と比べて、人柄が偲ばれるであろう。小島を、〝ハリサン〟と呼ぶ人はいても、安田を〝安公〟と呼ぶ人はいなかったのである。

昭和二十三、四年ごろ、まだ、チンピラ記者であった私が、どうしても金の必要に迫られた時、社で前借をすることを、社会部の先輩に教えられた。だが、この前借伝票には、当該局長の承認印が必要であった。私は、金参千円也、と書いた伝票を持って、勇を鼓して局長室のドアをノックした。

安サンは、初めて見る若い記者の入室に、いぶかし気な表情をした。私としても、はじめて編集局長とサシで会う次第だ。私が差し出した伝票を見て、安サンはいった。

「何だ。ノミ屋の支払いか? ……今のうちから、前借りのクセをつけるな、酒は上手にのめよ」

赤くなって、酒代を否定しようとする私をみて、安サンはニコヤカに笑いながら、私の差出した伝票を丸めて、クズ籠に投げこんだのである。ハッとする私に、安サンはおもむろに、自分の財布から三千円を取出して、「返せたら、返せよ」といった。——これが、〝安サン〟であった。

こうして編集局長の人となりと社業のおもむくところを眺めてみると、あるグラフが描かれるのである。第二次争議で、鈴木東民編集局長を追放して、〝共産党機関紙〟から脱け出した読売の、昭和二十三年以降の二十年代における飛躍的な伸びは、安田編集局長時代であったし、毎日を完全に蹴落して、朝日、読売の角逐時代を迎えられたのは、原四郎になってからである。小島時代の昭和三十年代は、事実、「新聞」なるものの、体質変化の過渡期でもあったろうが、読売の発展とはいい得ないであろう。