クリエールも大変な仕事で、終戦少し前ごろ、シベリヤ本線の列車内で、某中佐がウォッカを買って飲んだところ、毒薬入りで血を吐いて死んでしまった。同行の若い大尉は逆上してしまってその死体を下ろさせない。
そこでソ連側は、とうとうチタで実力を行使して、大尉を縛り上げ、死体を下ろしてしまった。急報でモスクワの大使館員が駈けつけた時には、暗号のコードブックが入ったトランクは開かれ、暗号はちゃんと盗写されてしまっていたという。外交特権を持ったクリエールでさえこんな調子である。
しかし、さきごろアメリカで発表されて問題となっている、例のヤルタ会談協定によって、ソ連が極東向け第一陣を送り出したのは、二十年の二月下旬であった。これをシベリヤ本線で目撃したのが、クリエールとしてモスクワに向っていた丸山元大尉ら三名の日本将校で、参謀本部に打電して曰く。
『リンゴ二箱、すぐ送れ』(二ヶ師団が東に向った)
これは当時の参謀本部ロシヤ班が、その対ソ資料によって判断していたことと同じで、五課の情勢分析はズバリ適中した訳だったのである。
昭和二十年八月九日、一斉に満ソ国境を越えたソ連軍は、ハルビンへ、新京へ、奉天へと、怒涛のような進軍を開始した。その第一線戦闘部隊のすぐあとには、スメルシ、NKVD(内務省秘密警察軍)などが我先にとばかりに続いている。
直ちに摘発が始まった。彼らの狙いは戦犯の逮捕であり、祖国の裏切者である白系や逆スパイの検挙だったが、それよりも重大だったのは、関東軍の対ソ資料を押えることだったのである。
侵入してきたソ連軍は一兵卒にいたるまで、出逢った日本軍人にこういった。
『日本人は独乙人とウラルで握手して、ソ同盟を半分コにしようとしたんだろう』
そう教育され、固く信じこんでいた彼らにとって、日本がソ連の実情をどの程度に把握していたかということは、今後のスパイ戦の研究と、祖国の防衛とのために、是非とも調べねばならないことだった。
一方日本陸軍では八月はじめついに全軍に重要書類の焼却命令を発した。参謀本部では重宗元中佐が焼却班長となって、八月六日から十一日まで、連日のようにこれらの対ソ資料を煙とともに灰にしていった。
だが、課員のうちのある者たちは『どうしてこれを焼き捨てられよう。他日、再び日本のために役立つ時がくるのではないか』といって、目星しい資料をあつめ、将校行李につめて復員隠匿してしまった。
ところが現地軍では、樺太では大部分をソ連軍に押えられ、関東軍ではわずか一部分を、駐蒙軍でもやはり一部分が国府軍に流されていった。