NKVD・秘密警察」タグアーカイブ

迎えにきたジープ p.018-019 五課の情勢分析はズバリ適中

迎えにきたジープ p.018-019 The Soviet Army's aim was to arrest Japanese war criminals and to detect White-Russians and reverse spies, but more importantly, to forfeit the vast Soviet information collected by the Kwantung Army.
迎えにきたジープ p.018-019 The Soviet Army’s aim was to arrest Japanese war criminals and to detect White-Russians and reverse spies, but more importantly, to forfeit the vast Soviet information collected by the Kwantung Army.

クリエールも大変な仕事で、終戦少し前ごろ、シベリヤ本線の列車内で、某中佐がウォッカを買って飲んだところ、毒薬入りで血を吐いて死んでしまった。同行の若い大尉は逆上してしまってその死体を下ろさせない。

そこでソ連側は、とうとうチタで実力を行使して、大尉を縛り上げ、死体を下ろしてしまった。急報でモスクワの大使館員が駈けつけた時には、暗号のコードブックが入ったトランクは開かれ、暗号はちゃんと盗写されてしまっていたという。外交特権を持ったクリエールでさえこんな調子である。

しかし、さきごろアメリカで発表されて問題となっている、例のヤルタ会談協定によって、ソ連が極東向け第一陣を送り出したのは、二十年の二月下旬であった。これをシベリヤ本線で目撃したのが、クリエールとしてモスクワに向っていた丸山元大尉ら三名の日本将校で、参謀本部に打電して曰く。

『リンゴ二箱、すぐ送れ』(二ヶ師団が東に向った)

これは当時の参謀本部ロシヤ班が、その対ソ資料によって判断していたことと同じで、五課の情勢分析はズバリ適中した訳だったのである。

昭和二十年八月九日、一斉に満ソ国境を越えたソ連軍は、ハルビンへ、新京へ、奉天へと、怒涛のような進軍を開始した。その第一線戦闘部隊のすぐあとには、スメルシ、NKVD(内務省秘密警察軍)などが我先にとばかりに続いている。

直ちに摘発が始まった。彼らの狙いは戦犯の逮捕であり、祖国の裏切者である白系や逆スパイの検挙だったが、それよりも重大だったのは、関東軍の対ソ資料を押えることだったのである。

侵入してきたソ連軍は一兵卒にいたるまで、出逢った日本軍人にこういった。

『日本人は独乙人とウラルで握手して、ソ同盟を半分コにしようとしたんだろう』

そう教育され、固く信じこんでいた彼らにとって、日本がソ連の実情をどの程度に把握していたかということは、今後のスパイ戦の研究と、祖国の防衛とのために、是非とも調べねばならないことだった。

一方日本陸軍では八月はじめついに全軍に重要書類の焼却命令を発した。参謀本部では重宗元中佐が焼却班長となって、八月六日から十一日まで、連日のようにこれらの対ソ資料を煙とともに灰にしていった。

だが、課員のうちのある者たちは『どうしてこれを焼き捨てられよう。他日、再び日本のために役立つ時がくるのではないか』といって、目星しい資料をあつめ、将校行李につめて復員隠匿してしまった。

ところが現地軍では、樺太では大部分をソ連軍に押えられ、関東軍ではわずか一部分を、駐蒙軍でもやはり一部分が国府軍に流されていった。

迎えにきたジープ p.038-039 光っているスパイの眼と耳

迎えにきたジープ p.038-039 The thing that I recall in Kobari's words was a very detestable my own memory. I was in Hsinking at the end of the war, but was captured by Soviet troops at Gongzhuling.
迎えにきたジープ p.038-039 The thing that I recall in Kobari’s words was a very detestable my own memory. I was in Hsinking at the end of the war, but was captured by Soviet troops at Gongzhuling.

小針証人が立上って証言をはじめる。

『……各収容所にスパイを置きます。このスパイというのはソヴェト側の情報部の部長がその収容所の政治部の部員に対しまして、お前に処に誰かいわゆる非常な親ソ分子がいないか、いたら二、三名だせ、といって出させます。

……この男ならば絶対に信頼できると、ソ連側が認める場合にはスパイの命令を下します。

……そうしてスパイというのは、殆どスパイになっておる人は、非常に気持の小さい男で、ビクビク者が多いというので、民主グループを作る場合にはその人を使いません。

……こういう男を選んで、それに新聞社から行って連絡しまして、こういうことをやれ、その代り後のことは心配するな、後で問題が起った場合にはすぐ連絡する……』(参院速記録による)

委員会は深夜の十時まで続いた。

二 私こそスパイなのだ

私が小針氏の言葉で反射的に想い浮べたあるデータというのは、実にいまわしい私自身の想い出であったのである。

私は終戦時新京にいたのだが、公主嶺でソ連軍の捕虜になった。九月十六日、私たちの列車が内地直送の期待を裏切って北上をつづけ、ついに満州里を通過したころ、失意の嘆声にみちた車中で、私一人だけは鉄のカーテンの彼方へ特派されたという、新聞記者らしい期待を感じながら街角で拾った小さな日露会話の本で、警乗のソ連兵に露語を教わっていた。

イルクーツクの西、チェレムホーボという炭坑町に丸二年、採炭夫から線路工夫、道路人夫、建築雑役とあらゆる労働に従事させられながらも、あらゆる機会をつかんではソ連人と語り、その家庭を訪問し、みるべきものはみ、聞くべきものは聞いた。

恐怖のスパイ政治! ソ連大衆はこのことをただ教え込まれるように〝労働者と農民の祖国、温かい真の自由の与えられた搾取のない国〟と叫び〝人類の幸福と平和のシンボルの赤旗〟を振るのではあるが、しかし、言葉や動作ではなしに、〝狙われている〟恐怖を本能的に身体で知っている。彼らの身辺には、何時でも、何処でも、誰にでも、光っているスパイの眼と耳があることを知っている。

人が三人集れば、猜疑と警戒である。さしさわりの多い政治問題や、それにつながる話題は自然に避けられて、絶対無難なわい談に花が咲く。だが、そんな消極的、逃避的態度では自己保身はむずかしいのだ。

三人の労働者のかたわらにNKVD(エヌカーベーデー)(内務省の略、ゲペウの後身である秘密警察のこと。正規軍をもっており国内警備隊と称しているが、私服はあらゆる階層や職場に潜入している)の将校が近寄ってくる。

と、突然、今までのわい談をやめた一人が胸を叩いて叫ぶ『ヤー・コムミュニスト!』(俺は共産主義者だゾ!)と。それをみた二人はあわてる。黙っていたなら、日和見の反動になるからだ。ましてそこにはNK(エヌカー)がいるではないか! すかさず次の男が親指を高くかざして応える。『オウ・スターリン・ハラショオ!』(おう、スターリンは素晴しい!)と。

迎えにきたジープ p.040-041 同胞の血で血を洗う悲劇

迎えにきたジープ p.040-041 Hundreds of thousands of Japanese became Soviet military POWs. In chronic hunger, some have become Soviet spies in return for a piece of bread. They forged and informed the facts, and a tragedy occurred that forced many compatriots to die.
迎えにきたジープ p.040-041 Hundreds of thousands of Japanese became Soviet military POWs. In chronic hunger, some have become Soviet spies in return for a piece of bread. They forged and informed the facts, and a tragedy occurred that forced many compatriots to die.

三人の労働者のかたわらにNKVD(エヌカーベーデー)(内務省の略、ゲペウの後身である秘密警察のこと。正規軍をもっており国内警備隊と称しているが、私服はあらゆる階層や職場に潜入している)の将校が近寄ってくる。

と、突然、今までのわい談をやめた一人が胸を叩いて叫ぶ『ヤー・コムミュニスト!』(俺は共産主義者だゾ!)と。それをみた二人はあわてる。黙っていたなら、日和見の反動になるからだ。ましてそこにはNK(エヌカー)がいるではないか! すかさず次の男が親指を高くかざして応える。『オウ・スターリン・ハラショオ!』(おう、スターリンは素晴しい!)と。

 平常から要領のうまい最初の男を嫌っていた最後の人の良い男は、真剣な表情で前の二人に負けないだけの名文句を考えるが、とっさに思いついて『ヤポンスキー・ミカド・ターク!』(日本の天皇なんかこうだ!)と、首をくくる動作をする。

 これが美辞麗句をぬきにして、ソ連大衆が身体で感じているソ連の政治形態の、恐怖のスパイ政治という実態だった。

戦争から開放されて、自由と平和をとりもどしたはずの何十万人という日本人が、やがて、〝自由と平和の国〟ソ連の軍事俘虜となって、慢性飢餓と道義低下の環境の中で混乱しきっていた。その理由は、俘虜収容所の中まで及ぼされた、ソ連式スパイ政治形態から、同胞の血で血を洗う悲劇が、数限りなくくりひろげられたからだった。

一片のパン、一握りの煙草という、わずかな報償と交換に、無根の事実がねつ造され、そのために収容所から突然消えて行く者もあった。

収容所付の政治部将校(多くの場合、赤軍将校のカーキ色軍帽と違って、鮮やかなコバルトブルーの

制帽を冠ったNKの将校である)に、この御褒美を頂いて前職者(憲兵、警官、特務機関員など)や、反ソ反動分子、脱走計画者、戦犯該当者などの種々の事項を密告(該当事項の有無にかかわらず)した者がいたという事実は、全シベリヤ引揚者が、その思想的立場を超越して、ひとしく認めるところである。

だがこの密告者たちは、そのほとんどが、御褒美と交換の、その場限りの商取引にすぎなかった。これは昭和二十一年末までの現象であった。

二度目の冬があけて、昭和二十二年度に入ると、身体は気候風土にもなれて、犠牲も下り坂となり、また奴れい的労働にもなじんでくるし、収容所の設備、ソ連側の取扱もともに向上してきた。生活は身心ともにやや安定期に入ったのである。

ソ連側の混乱しきっていた俘虜政策が着々と整備されてきた。俘虜カードの作成もはじめられた。だが、やがて腑に落ちかねる現象が現れはじめてきた。

その一つは、或る種の個人に対する特殊な身上調査が行われていること。特殊なというのは、当然その任にある人事係将校が行うものではなく、思想係の政治部将校がやっていることだった。しかも、呼び出しには作業係将校の名が用いられ、面接したのは思想係だったというような事実もあった。

迎えにきたジープ p.064-065 訊問事項次の如し。

迎えにきたジープ p.064-065 If I incur their displeasure, I cannot return to my homeland Japan for a lifetime. I was caught in deep loneliness and fear and answered everything as they liked.
迎えにきたジープ p.064-065 If I incur their displeasure, I cannot return to my homeland Japan for a lifetime. I was caught in deep loneliness and fear and answered everything as they liked.

このことありてより四、五日後、収容所付のMVD(少尉)より彼の部屋(二重扉にて錠あり)に出頭を命ぜられ、次の事項に亘り訊問調査を受けたり。

1、氏名 斎藤卓郎 年 月 日 生 三二歳

本籍 鹿児島県日置郡——

父母 健在 弟妹五名健在

父の職業 役場員 母 農業

2、出身学校 鹿児島県立中学校、第七高等学校、九大工学部

3、就職先 ——造船所

4、入隊の状況(略)、少尉任官は一九四三年十二月一日

5、部隊の任務(略)

6、航空発動機、軍艦、旋盤の断面略図、之はMVDは何れも知らざる為、極く簡単にスケッチにてごま化せり。

以上にて第一回目は終りたり。それから又暫くして一九四六年二月の半ば頃、又も上記MVDに例の彼の室に呼び出され、上記事項のスケッチ不十分なる点を更に書く様強要せられたり。

以後当地マカリオを出発に至る迄異状なし。

私は玆に於ては倉庫の建築作業に指揮官として(ソ連側監督より指名)従事せり。

一九四六年十一月十八日私達の大隊は帰還の為集結地マルタに向い出発せり。(約一〇〇〇名の中八五〇名)残り一五〇名は其の後の情報によればチェレムホーボ第31の1(炭坑作業)に移動せる模様なり。

一九四六年十一月十九日マルタ第三八二の2収容所に到着。当収容所の修理等雑作業に従事中異状なし

一九四七年二月の或る日(夕方)、MVDより呼び出され、訊問調査を受けたり。この時のMVDは大尉一、通訳(見習士官)一にして「マカリオ」に於ける調書を見つつ訊問せり。

二月末頃、部下一〇〇名を連れべリーの製材工場に出張、三月二十日頃二十三時過ぎ所長の命により歩哨来り、直ちに之と同行、翌四時三十分頃マルタに到着。

収容所門にて歩哨次の如く言えり『八時になったら所長の所へ行け』と。八時に所長の所へ行きし所、暫く待てとのことで待つこと約三十分ばかり、例のMVDの通訳来り私を彼等の例の場所に連行す。この日は上記大尉、通訳の外に中佐居り、主としてこの中佐が訊問せり。

訊問事項次の如し。

1 過日大尉が調べし調書により同様の事を調査せり。

2 作業の状況

『皆元気で百%以上毎日遂行しあるも食糧は二食分にて少く、段々弱りつつあり』と答えたり。

マカリオで二回、又此のマルタへ来て二回目。私は何が故に斯様に取調べを受けるのだろうと不思議でたまらなかった。〝エンジニャー〟なる為なのか? 若し彼等の気に触れる様なことがあったら一生涯なつかしの祖国日本へは帰れない。炭坑作業手として送られ、遂にシベリヤの土と化せねばならないか? と私は深コクなる寂莫感と恐怖心に包まれ、彼等に都合の良い様にすべてを答え

たり。

最後の事件記者 p.084-085 「アメリカはすばらしい」

最後の事件記者 p.084-085 帝政時代のクラーク(富農)の老人は、ツアーリのいた時は、生活もたのしかったし、食物にもこんなに不自由はしなかった。日本もミカドがいなくなったら…
最後の事件記者 p.084-085 帝政時代のクラーク(富農)の老人は、ツアーリのいた時は、生活もたのしかったし、食物にもこんなに不自由はしなかった。日本もミカドがいなくなったら…

収賄と贈賄は活発に行われ、上司も部下も、自らの腹が痛むわけでもなく

国家のをゴマ化すのであるから黙認する場合が多い。

記録上で完成されねばならない仕事も、事実は未完成なため仕事は延長され「失業のない国」の理想のみ実現されている。

死刑囚まで働らかねばならないシベリアこそ、失業のない国の宝庫である。独ソ戦で独軍の捕虜となり、祖国戦勝の基を築いた二百万と称する勇敢な兵士たちは、米軍に接収されて、母国帰還と同時にシベリアに送られてしまった。

被占領地区で独軍に協力したという理由で、数多くの女子供が同様に送られてきている。また革命の時、現政権に好意をよせなかった人々も、囚人もみな五ヵ年計画によるシベリア開発に挺身しているが、彼らは何を感じ何を想っているだろうか。

          ×    ×    ×

帝政時代のクラーク(富農)の老人は、

『ツアーリのいた時は、生活もたのしかったし、食物にもこんなに不自由はしなかった。日本もミカドがいなくなったら、同じ目にあうからお前たちは可哀想だ』

と、帝政の昔をなつかしがり、独ソ戦の光栄ある捕虜の若者は、

『アメリカはすばらしい。うまい食べ物がたくさんあるし、よい服をくれたし、作業は楽だし、ほんとうにアメリカはよい国だ』

首に十字架を下げたウクライナの女は、

『私の夫はソ連兵に殺された。私の子供はどこかに連れさられた』と。

彼らは私とほんとうに二人切りの時に、語ってくれたのだった。彼らは知っている。身廻りのどこにいるかもしれない、おそろしいNKVDの銃口を!

元気な若者は、真剣に北部シベリアから、アラスカヘ出るアメリカヘの逃亡を考えて、私を誘ったこともあった。ソ連側から放送される米ソ戦の危機は、全シベリア住民の関心をたかめているが、彼らはいう。「その時は銃をすてて投降するサ」と。

シベリアの親米反ソの胎動は、NKVDの黒い幕のかげで起りつつあるが、スターリンの恐怖独裁政治は、まだしっかりとその幕を押えている。

三百人もの、老若美醜とりどりの女たちの、半分以上がクツもはかずに、ぞろぞろと群れ歩く周囲には、自動小銃が凝されているあの光景を想い浮べる時、ナホトカ港でみた船尾の日章旗と、舞鶴湾の美しい故国の山河の感激、上陸以来の行届いた扱いと温かいもてなしとに、有難い国日 本、美しい国日本と、目頭をあつくして、いまなおシベリアに残る六十万同胞の帰還の一日も早かれと祈るのであった。