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迎えにきたジープ p.166-167 最も重要な看板は「極東軍」

迎えにきたジープ p.166-167 U.S. officials are confused about the fact that Prime Minister Hatoyama said in a meeting with foreign reporters, "To store atomic weapons in Japan should be accepted if it can strengthen peace."
迎えにきたジープ p.166-167 U.S. officials are confused about the fact that Prime Minister Hatoyama said in a meeting with foreign reporters, “To store atomic weapons in Japan should be accepted if it can strengthen peace.”

思わぬ反響に驚いた鳩山首相は十六日の記者会見で、

『原爆を日本においてくれという、アメリカからの話もなければ、またそうした切迫した状態に、日本が置かれているとも考えていないが、先の会見で仮定の議論として出たので、私の腹の中を言っただけだ。言いかえれば、必要のないのに答えたわけだ』(十六日付読売夕刊)と弁明した。

またワシントン三月十四日発UP電(十六日付毎日新聞)は次の通り報じている。

「鳩山首相が十四日外人記者団との会見で『日本に原子兵器を貯蔵することは、これによって平和を強化しうるなら認めるべきだ』と、発言したことについて、米官辺筋は当惑の色をみせている。

米国務省では、これが既定事実か、または近く実際的な交渉にとりあげられる段階にあるかについて、何ら知るところがないと述べている。

純粋に軍事的見地からいえば、日本に原爆を貯蔵することは、共産側が太平洋で原爆戦争に乗出した場合、これに反撃するためには有効なものとなろう。

しかし現在の日米間の政治的関係の枠内で、これに必要な協定を結ぶことが可能であるかどうかは、高等政策の問題で、軍事的概念以上のものである。このため軍部筋では、この問題について論評を加えるのをさけている。

しかし米外交筋では、鳩山首相の言明は、中ソ両国の日本に対する圧力が強くなった場合、日本のとるべき道について述べたものとみている。

しかし同首相は、東西間の緊張緩和の希望を表明しており、これは鳩山首相が原爆貯蔵問題について、決定を行わねばならぬ事態にならぬよう、望んでいるものと観測されている。」

この原爆貯蔵容認問題を、冷静に考えるためには、この秘密のNYKビル(郵船ビル)のタウン・プラン班の仕事を、一つの重要な資料として検討してほしいのである。

いずれにせよ、このタウン・プラン・マップの基礎は、日本人技術者の〝技術〟によってでき上ったのである。そしてこの都市計画(タウン・プラン)班は、二十五年六月二十五日に勃発した朝鮮動乱のさいも、情報準備が全く出来ていなかった朝鮮について、徹夜仕事で基礎作業をやられたのであった。そして元山上陸作戦のはじまる三日前に、同じようなタウン・プラン・マップができ上ったのだった。

最後にもう一つ付け加えるならば、さきほど、読者の注意を呼んでおいたように、市ヶ谷の司令部は三枚看板であるということだ。

その最も重要な看板は「極東軍」である。極東軍ということは、日本を防衛する目的の軍隊ではなく、米国の安全と防衛のための、中共、ソ連への対抗兵力である、ということだ。

そして、この事実は元の参謀本部陸地測量部、現在の建設省千葉地理調査所で、正確な日本

地図を作らせて、タウン・プラン・マップと同様の地図を作ったことがあった(と私は思う)ということで裏付されるだろう。日本もまた、シベリヤ、樺太、大陸の各都市と同じように、「ST四三二一、消滅!」といった工合に、精確無比な爆撃を受ける可能性があるということである。

迎えにきたジープ p.204-205 悲しいスパイ道具の犠牲

迎えにきたジープ p.204-205 "Who killed him?" ... Kyutarou Chiba returned to Japan by Daitakumaru on October 9, 1949. In mid-January, he received a call from the NYK Building. After the interrogation, he hanged himself in his shed on January 24.
迎えにきたジープ p.204-205 ”Who killed him?” … Kyutarou Chiba returned to Japan by Daitakumaru on October 9, 1949. In mid-January, he received a call from the NYK Building. After the interrogation, he hanged himself in his shed on January 24.

その夜の宿直だった復員庶務課のN事務官は、MRRC(舞鶴引揚援護局)という腕章のまま

毛布を被って寝ていたが、『大変です、来て下さい』という声に揺り起された。

復員者の寝ている第三寮に行ってみると、入口には支給の真新しい軍服を着た引揚者が十名ばかりも、彼の来るのを待っていた。

『自殺です!』

プッツリとそう言ったきり、中隊長らしい男が彼を階下の物置部屋に案内した。

——ア、遂に第一号が出たか!

彼はそう思った。CICからの連絡で、復員者の挙動注意が宿直の申し送りにさえなっていたのだった。

上陸してから入浴、着換え、散髪まで済ませたその男は、梁に紐を吊して縊死していた。遣書はなかった。仲間の話によると、乗船した頃から何か悩みがあるらしく沈んでいたという。調べ室から帰ってきてからは、すっかり無口になり、考えこんでばかりいたとのことだった。

調べてみると、家族には『◯ヒカエル』という喜びの電報さえ打っていた。死体は検証が必要だったので、N事務官はすぐ事務室へ戻って、課長の家に電話をかけて知らせようとした。

——なぜ死んだのだろう?

Nはフト電話機から手を放して、彼の自殺の原因を考えてみた。課長に報告する必要もあっ

たからだ。

『一体、誰が殺したのだろう?』

憐れな〝道具〟の第一号は、このようにして消えていった。

二十五年一月二十四日夜九時半ごろのこと、秋田県仙北郡金沢西根村の農業熊堂久之助さん方の小屋で、実弟千葉久太郎(35)さんが、首をくくって死んでいるのが発見された。久太郎さんは二十四年十月九日大拓丸で上陸したが、一月中旬、郵船ビルからの呼出しを受けて上京、二十日に帰郷した。

東京から帰ってきた久太郎さんは、まるで人間が変ったようにおびえ切っており、家につくなり『誰か訪ねて来なかったか』と、かみつくように家人にきいた。

地区署の結論は、郵船ビルの呼び出しから帰郷以来、急激に恐怖に襲われているので、「幻兵団」の強迫観念から縊死したものとなった。果して、誓約書の自供を強いた郵船ビルがおどしたものか、同所での自供を知ったソ連側の圧迫があったのか、その辺は不明だが、何れにしろ久太郎さんも悲しいスパイ道具の犠牲には違いなかった。

そしてまた、さらに悲惨を極めた第三の犠牲者がいる。それが前述した佐々木克己元大佐である。