日暮信則書記生」タグアーカイブ

赤い広場―霞ヶ関 p058-059 ソ連の手先「新日本会」とは。

赤い広場―霞ヶ関 p.58-59 ソ連の手先「新日本会」とは。
赤い広場ー霞ヶ関 p.058-059 What is the “New Japan Association” that the Soviet uses as an agent.

文芸春秋誌のラ氏手記には、「新日本会」という団体について次のように書いてある。

われわれはその年(一九四五年)の夏にソ連の対日宣戦布告以後、モスクワに抑留されていた日本の外交官のなかから、スパイの手先に使う人間を物色し始めた。その外交官のなかに日本における自由主義的な政治思想を促進するという見地から、「新日本会」というのを組織した五人の大使館員がいた。われわれはこの五人を一人ずつ、他の者にはわからないように買収しにかかった。

彼らに「西方の帝国主義」とくにアメリカの帝国主義を吹きこむことによって、われわれの側につけることは比較的容易な仕事だった。日本政府は崩壊したと同様の状態にあり、彼らが果して将来職にありつけるかどうかもわからない有様で、とくにその経済的な見通しは絶望状態におかれていたので、彼らに金のことをにおわせれば、比較的簡単にこちらの話にくっついてきた――おまけにその金も余り大きな額でなく済んだ。(一九八頁)

この手記がすべて事実である、とはいえないのはもちろんである。従って「五人の大使館員」という数字も身分も、また「新日本会」という名も、必ずしも事実ではない。

だが、若干の相違はあるとしても、この話の本筋そのものは事実である。つまり何人かの人

が「買収」(というこの言葉も事実ではなく、脅迫と強制かも知れない)されて、「われわれの側についた」ことは、事実である。

終戦当時モスクワには佐藤尚武大使、守島伍郎公使、矢部忠太陸軍、臼井淑郎海軍両武官ら家族とも六十余名の大使館員と、民間人である朝日清川勇吉、毎日渡辺三樹夫、共同坂田二郎三特派員とが、大使館内に軟禁されていたのであった。

この新日本会という会の発生には、当時の人たちの談話を綜合してみると二説ある。一説は戦後のある日、佐藤大使がソ連側に呼ばれて大使館を出ていった。帰ってきて間もなく、大使の秘書格だった日暮信則書記生が大使に呼ばれ、この会ができたというものだ。

他の説は、東京外語ロシヤ語科出身者のうち、昭和七、八年ごろの卒業生で組織している「七八(ナヤ)会」というのがある。この七八会のメムバーが集って「新日本会」をつくり、日暮書記生から佐藤大使に話をして、その会長格になってもらったというのである。

いずれにせよ、この新日本会が七八会員を中心として、作られたものであることは間違いないし、同じ年ごろの気の合った連中ばかりであったことも事実である。

この新日本会の会員といわれる者のうち、意志を通じ合っていた五人のメムバーというのは、毎日渡辺三樹夫記者(東京外語昭八卒)、朝日清川勇吉記者(同昭十三卒)、日暮信則外務書記生(同昭八卒)、庄司宏外務書記生(同昭十三卒)、大隅道春海軍書記生(同昭十二卒)であった。このグループのイニシァチヴをとったのは渡辺記者であり、懐疑的だったのは大隅書記

生であり、大使との連絡係は日暮書記生であったといわれる。

赤い広場―霞ヶ関 p060-061 佐藤尚武大使がソ連との協力を指示?

赤い広場―霞ヶ関 p.60-61 佐藤尚武大使がソ連との協力を指示?
赤い広場ー霞ヶ関 p.060-061 Ambassador Sato Naotake directed cooperation with the Soviet Union?

このグループのイニシァチヴをとったのは渡辺記者であり、懐疑的だったのは大隅書記

生であり、大使との連絡係は日暮書記生であったといわれる。

ラストヴォロフはその手記で、『この五人を一人ずつ、他の者にわからないように、買収しにかかった』と述べているが、やはり当時の関係者の談話を綜合してみると、ラ氏手記は若干違うようである。

新日本会そのものの出発は、ラ氏手記にあるような目的だったらしい。ところが、結成後の会の運営は、「ソ連側に協力する」という方向へすすみつつあったので、これはイカンと云い出したのが大隅氏で、リーダー格の渡辺氏と論争ばかりしていた。これをマアマアと大隅氏をなだめて、「協力」の方向へ一致して進もうとすすめたのが、日暮氏だという。するとラ氏のいう『他の者に分らないよう』というのは少しズレている。少くともこの五人のメムバーはその任務について論じ合っているのだから。

ところが、さきほどの佐藤大使召喚の説である。これによると、大使はソ連側に呼ばれて、〝協力を要請〟された。平たくいえば、スパイになるか、或は部下からスパイ要員を出せということだ。

これに近い例は、シベリヤ捕虜でも、常に連隊長、大隊長などの最高責任者に要求し、応じなければ長以下全員を苦しめる。そこでその長が屈服して要求に応ずるということだ。第集

の幻兵団の、山田乙彦獣医大尉の大隊が悪条件の伐採に出され、山田乙彦大尉は部下のために誓約したのなどもその例である。

大使は困って、帰館してから腹心の日暮書記生を呼んで、因果を含めて「協力」させ、新日本会全部がその方向に向ったという説である。佐藤尚武氏は参院議長もやられた外交界の大長老であるから、失礼にならぬよう〝説〟と申上げるが、日暮、庄司両氏が逮捕されたときには佐藤大使の身辺危うしの説が流布されていたのは事実である。

そして、大隅氏が説得されて、新日本会の方向が「対ソ協力」と決定されてから、軟禁されていた日本人たちの行動の自由が恢復し、街へ買物にも行けるようになってきた。そこでスパイ誓約書の署名などという、ソ連式儀式が行われたかどうかは知らぬが、私がスパイになることを承知してダモイできたように、この外交宕たちも敗戦の犠牲となったのであった。 果して、帰国後、佐藤大使以下のモスクワ駐在日本人たちのうち、誰と誰とに合言葉のレポがあったかは、私には分らない。ともかく警視庁の捜査当局は、新日本会の会員(?)であった日暮、庄司両氏だけを逮捕したのであった。もちろん他の人々、公務員も民間人も、参考人として任意に出頭して、或は泣きながら、或はオドオドしながら、当時の事情を供述し、その止むを得ざりし環境を釈明したのであった。