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赤い広場―霞ヶ関 p048-049 ラストヴォロフ事件は内調のデッチあげ、と。

赤い広場―霞ヶ関 p.48-49 ラストヴォロフ事件は内調のデッチあげ、と。
赤い広場ー霞ヶ関 p.048-049 The Lastvorov case was fabricated by the Cabinet Research Office…

ソ同盟、中国をはじめ、共産党や大衆団体の情報を提供している。

そして三たび、三十年二月二十七日付「アカハタ」は「アメリカ諜報機関と日本官憲の謀略工作」と題して、八段二百八十四行の大記事を掲げた。

……ことにかれらは、最近新しい謀略事件を予定の計画として準備している事実があり、第二の松川事件、第二の鹿地事件が企らまれている。しかもこの憎むべき企らみは、アメリカ諜報機関と、その奴隷になりさがっている、警視庁、公安調査庁、外務省の重要な部分が関係をもっていることである。これはラストヴォロフ事件の正しい事実が、これら売国奴どもによって、国民の前から覆い隠されてしまっている事実と合せて考えるなら、こんどのかれらの動きの背後に重大な問題があることがわかる。(前文)

この男は中尾将就(四五)――東京都板橋区上赤塚町七五――である。かれは常盤相互銀行飯田橋支店に勤めていることになっているが、それはうわべのことで、実は彼はアメリカ諜報機関員である。中尾は他の多くのスパイ分子の例にもれず、戦前の転向脱落者である。……この手はかれらがいつも使うやり口で、馬場機関の清水郁夫が、当時電產統一委の活動家だった宗像創を、スパイの手先に引ずり込み、「日共の電源爆破」という謀略事件をデッチあげたのも、このやり口からはじめていた。

中尾将就と同じアメリカ諜報機関員で、中尾とともに活発に動いているのが山口茂雄(四一)――

東京都北多摩郡泊江町和泉二六四の六――である。……山口、中尾と緊密な連絡をとりながら、アメリカ諜報機関の対日対ソ謀略に協力している分子は相当数あるが、そのうちで特徴的なものは、次のような人間である。

ここまで、記事の半分を費して、中尾、山口両氏の紹介をしている。それからさらに人名とその〝悪事〟の紹介が続く。

望月は日米合作の官設スパイ機関である內閣調査室の、庶務部広報班員と情報文化班員をかねた任務をもつ男だ。……

川村三郎は公安調査庁調査第一部調査第三課第二係長である。かれはラストヴォロフ事件と深い関係があり、当時もっとも活潑に活動していたのである。ラストヴォロフ拉致事件を合理化するために、アメリカ側の指示で渡米した柏村信雄は、当時この調査第一部の部長であった。

高橋正は外務省欧米局第五課員である。ラストヴォロフ書記官が、日本で多くの日本人を手先にして、スパイを働いていたかのようにデッチあげ、白昼外国の首都で外交官を拉致するという、アメリカ諜報機関の不当行為を正当なものと思わせ、かえって反ソ反共の気運をもりたてようとした、同事件の経過とこの課は関係が深い。緒方自由党総裁につながる当時の内閣調査室長村井順と、当時の外務大臣岡崎の子分の曾野明の二つの謀略線が、ラストヴォロフ書記官の拉致に関係深いことを、隠しきる自信をなくして自殺した日暮信則は、この課の課長補佐で、しかも当時内閣調査室の情報部海外 第一班(対ソ情報)の班長を兼任していたのである。

赤い広場ー霞ヶ関 p.194-195 馬場機関の清水郁夫

赤い広場ー霞ヶ関 p.194-195 It was Ikuo Shimizu who guided Domnitsky and Chasovnikov to the Hatoyama residence. According to Akahata, Ikuo Shimizu is a member of the Baba syndicate that made by Yusuke Baba, who is the agent of the US intelligence agency.
赤い広場ー霞ヶ関 p.194-195 It was Ikuo Shimizu who guided Domnitsky and Chasovnikov to the Hatoyama residence. According to Akahata, he is a member of the Baba syndicate under the control of the US intelligence agency.

しかし、心配はない。案内役がいたのである。

この時、車で乗りつけたのは三人連れであった。ド氏とチャ氏、そして残るもう一人は日本人であった。この日本人を目撃した治安当局の係官は、何者であろうと考えていた。すると、ド氏の到着を待ちかねたように、また一人の日本人が現れて、車から降り立ったド氏を、裏玄関へと案内した。

コツコツ。ドアをノックするまでもなく、扉は開いて、一人の日本人がド氏を迎え入れた。この三人目の男は、扉をしめると鳩山首相のもとへと案内していった。この男は多分二人の会見にも立会したのであろう。

この三人の日本人は、もちろん、華々しく話題となっていた、馬島、藤田、杉原、風見氏などのような人物ではない。無名人である。有名人は舞台の俳優のようなもので、視線をそこに集中させるための、ピエロである。

この〝奇怪な三人〟について、私もあまり正確な知識を持っていない。第一、この三人がある一つの意志のもとに、各人の間、或いは各人の背後で、連絡をもっているのかどうかさえ、私には分らない。

まず、第一の男。これは当局の係官が目撃している。そして以前からソ連代表部に出入りしていた男の顔と一致するので、当局ではこの男を「清水郁夫」と断定した。

清水郁夫という名前は、前々章の「先手を打つアカハタ」の項(四八頁)に登場してきている。そこで古いアカハタを調べてみた。「日本にもはびこる米諜報網、元皇族、国警長官も登場、破壊と陰謀の巣〝馬場機関〟」という大変な見出しの記事の中に、この清水氏が紹介されている。

この二十八年七月三日付のアカハタによると、米諜報機関の手先である、元上海特務機関員馬場祐輔氏の馬場機関員で、大正十三年生れのハルビン学院出身。しかも、二十七年四月一日号の日本週報で、「電源をスパイする二人の怪紳士」として紹介された男で、この時は、電産で活躍していたシベリヤ・オルグ宗像創氏をダマクラかして、日共の武装蜂起の危機宣伝のため、宗像氏を引張り出したほど悪質な男だと書いている。

こうして、一度アカハタに取上げられた清水氏が、再び「馬場機関の清水郁夫」として、アカハタに書かれ、しかも、ド、チャ両氏と同車して、音羽へ現れているのだ。

本人に会ってみた。『飛んでもない。私は馬場先生の秘書ではあるが、馬場機関などというものはない。あるとすれば、『秘書格の私一人が機関員です』といいながら、『音羽へ行ったなんて、何かの間違いでしょう。私は青二才で、そんなエラクないですョ』と笑う。

本人の語る経歴は、ハルビン学院卒、満州石塔の幹候隊在隊中、軍曹で終戦となった幹候十

三期生、ウォロシロフ付近の炭坑作業の収容所にいて、二十二年四月に引揚げてきたという。