読売梁山泊の記者たち p.108-109 親分・子分の関係

読売梁山泊の記者たち p.108-109 派閥の親分・子分というのは、非能力、不努力の輩が、おのれの生存を護る手段から、自然発生するものだろう。エンピツ一本だけで、生きてきた私は、読売での十五年間に、〝親分〟を持った経験はない。
読売梁山泊の記者たち p.108-109 派閥の親分・子分というのは、非能力、不努力の輩が、おのれの生存を護る手段から、自然発生するものだろう。エンピツ一本だけで、生きてきた私は、読売での十五年間に、〝親分〟を持った経験はない。

そして、私は「正論新聞」を創刊し、その目玉として、田中角・小佐野——河井検事・児玉誉士夫キャンペーンを張った。昭和四十二年当時のことであった。

脳いっ血かなにかで倒れて、言葉も不自由になった遠藤が、ある朝、当時住んでいた戸田の公団住

宅の私のもとに現われた。

「コ、ダ、マ、さんが怒っている。正論新聞の記事を止めろ」と、たどたどしくいった。その変わり果てた姿に、私は暗然とした。そして、不自由な手で、カメラを取り出した。自分が、三田をオドかしてきた、という証拠がほしいのだろう。私は、承知して、撮影させてやった。…それからしばらくして、彼が死んだという話を、風の便りに知った…。

もちろん、遠藤の〝オドシ〟で、私は、キャンペーンを止めたわけではないが、その話は、別の機会に譲ろう。

「社会部の読売」時代の武勇伝

最近、読売新聞の記者たちは、こんな〝笑い話〟に興じている、という。

「社会部記者が、新宿で、車を二時間待たせたら、大目玉! 政治部記者が、赤坂で、四時間待たせても、オ構いなし!」

これは、政治部出身の渡辺恒雄社長への〝戯れ言〟である。

原四郎・社会部長が七年間に及ぶ〈名・社会部長〉のあと、副社長・主幹と、位、人臣を極めていた当時の、「社会部帝国主義」に比べると、ナベツネの〝実力〟は、はるかにスケールが小さい。自分が育てた、子飼いの記者たちを、社内の要所々々の、要職に登用していくことが、「社会部帝国主義」と呼ばれたのである。

そしてまた、原四郎に育てられたその社会部記者たちは、要職に就けるだけの、能力を具備していたのである。それは同時に、能力のない者、努力しない者に対する、冷酷なほどの〝切り捨て〟でもあった。それが、「原チンは冷たい」という声になる。

それでは、原社会部長の時代に、新聞記者として大きく成長した私が、原四郎に、いわゆる〝可愛がられ〟たか、というと、決して、そんなことはない。深見和夫・報知社長の逝去の記事で、私は、深見さんに〝可愛がられた〟と書いている。これは、先輩が後輩に目をかけることを意味する。ある場合には、先輩・後輩の関係から、親分・子分の関係に転化してゆくことになる。

社会部員以外の記者をして、〝社会部帝国主義〟と戯れ言をいわしめるのは、もはや、親分・子分の関係に近いのだろう。だが、私が読売を退社したのは、昭和三十三年。原四郎は、ヒラ取締役の出版局長であったので、この〝社会部帝国主義〟の、実態についてはまったく、知識も体験もない。

私の読売時代、毎日新聞では、親分・子分の派閥がスゴくて、部長が異動すると、部員の半分が異動した、という〝伝説〟があったものだった。ところが、読売には、まったくといっていいほど、派閥がなかった。しいていえば、正力派と非正力派であろうか。これは〝非〟であって、〝反〟ではなかった。

だから、社会部長としての原四郎は、能力と努力は認めても、そして、そのどちらにもエンのない者は、黙殺されて、いつしか、社会部から消え去ってゆくのだった。

しかし、派閥の親分・子分というのは、非能力、不努力の輩が、おのれの生存を護る手段から、自

然発生するものだろう。エンピツ一本だけで、生きてきた私は、読売での十五年間に、〝親分〟を持った経験はない。