読売梁山泊の記者たち p.110-111 「オレが中曽根を総理にした」と豪語した

読売梁山泊の記者たち p.110-111 渡辺のほうは、順風満帆、読売の社長である。「あンたは、政治家になるの?」と、直接たずねたことがある。「イイエ、いまから転身しても、陣笠ですから、私は、最後まで読売記者です」と。
読売梁山泊の記者たち p.110-111 渡辺のほうは、順風満帆、読売の社長である。「あンたは、政治家になるの?」と、直接たずねたことがある。「イイエ、いまから転身しても、陣笠ですから、私は、最後まで読売記者です」と。

しかし、派閥の親分・子分というのは、非能力、不努力の輩が、おのれの生存を護る手段から、自

然発生するものだろう。エンピツ一本だけで、生きてきた私は、読売での十五年間に、〝親分〟を持った経験はない。

テレビ朝日の三浦甲子二(故人)は、朝日新聞政治部記者であり、中曽根康弘が総理になった時、いみじくも、読売政治部記者の渡辺恒雄とともに、「オレが中曽根を総理にした」と、異口同音に豪語したものであった。

三浦の晩年はテレ朝から北海道へ追われ、投資ジャーナル・スキャンダルにまみれて、中曽根に「参院候補者の上位ランク」を要求したが、「もう借りは返している」と、拒まれた。その中曽根との交渉も、赤坂の料亭・茄子で長時間待たされた揚句のタッタの五分間。

痛憤・痛飲の果て、その翌暁、腹上死したと伝えられているが、私が逢った限りでは、三浦は痛快男児であった。

三浦が政治部次長の時、部長の異動があった。たまたま、新任部長と同車して帰宅の時に、彼は、部長を自宅に誘った。三浦家で、二人が酒を呑み、盛り上がってきたころあいを見て、隣室のフスマがサッと開くと、子分の記者十数名が、そこに並んでいて、部長はアッと声をのんだ、といわれている。

この〝伝説〟の真偽を、三浦本人に質したことがあった。彼は、ニコヤカに笑いながら「朝日には、そんな〝伝説〟を創り出すフンイキがありまして、ネ」と、否定した。

三浦の〝末路〟に比して、渡辺のほうは、順風満帆、読売の社長である。渡辺は、朝日の渡辺誠毅

と同じく、東大出のマルクス・ボーイ。東大新人会の出身で、読売には、出版局嘱託として、不正規入社したが、三浦よりは、頭脳と処世術に長じていたのだろう。「あンたは、政治家になるの?」と、直接たずねたことがある。「イイエ、いまから転身しても、陣笠ですから、私は、最後まで読売記者です」と、答える彼を、私は見直した。

大野伴睦、河野一郎、中曽根康弘など、政界人の〝親分〟は、取材対象だ、ということなのだろう。ロッキードの児玉誉士夫をも含めて…。しかし、政治部のなかで、〝子分〟を養っていたことは、確かであった。

原の「社会部帝国主義」について説明しよう。

私が辞めた昭和三十三年夏のころで、部員八十六名。その六年後は、百十名、現在でも九十九名と、社会部は、編集局内で、地方部(総支局を含める)に次ぐ大所帯。まさに、一等部である。

原四郎は平成元年二月十五日に亡くなったが、八十一歳——ということは、第一回・菊池寛賞に輝く「東京租界」の時は四十四歳であった。四十年・常務編集局長、四十五年・専務編集主幹、四十六年・取締役副社長、四十九年・代表取締役副社長。五十六年に、監査役に退くまで、実に七年間も代取副社長として、務臺社長の次に、その名が並んでいた。

私の手許にある、読売の社員名簿によれば、四十九年の社会部員は百十三名、五十年には百十名である。そして、総務局長、人事部長、労務部長、文書課長と総務の中枢が社会部出身。編集局では、

総務、局次長、参与、顧問の十六名中の六名。整理第二部長、社会、科学、婦人、地方庶務の六部長も、社会部出身者であった。異色は、渡辺恒雄・政治部長の下に六次長、四主任が並び、その次に、部長待遇として、社会部記者が位置しているのだ。経済部や外報部などの一等部には、そのような例はない。そしてまた、発送部長。