読売梁山泊の記者たち p.244-245 だからこその安井都知事の衆院選出馬

読売梁山泊の記者たち p.244-245 安井都政への批判は、都民の間に沸き立っていた。都庁の腐敗は、警視庁も手が出せない、と記者クラブで噂されるほど。警視庁どころか、東京地検でさえ、安井兄弟の身辺には、手をつけられないほどであった。
読売梁山泊の記者たち p.244-245 安井都政への批判は、都民の間に沸き立っていた。都庁の腐敗は、警視庁も手が出せない、と記者クラブで噂されるほど。警視庁どころか、東京地検でさえ、安井兄弟の身辺には、手をつけられないほどであった。

そして、その夏。東京都知事安井誠一郎が衆院選出馬を声明した。昭和三十四年春までまだ、任期が一年半もある、というのにである。
この二人の〝新人〟の衆院選出馬は、どのような影響を、当時の政界地図に及ぼすであろうか。現役の代議士にとっては、実に重大な問題である。

安井都知事の身辺をみてみよう。昭和三十年春の都知事選は、まったく危うかった。当時の都庁は伏魔殿、とさえいわれ、安井都政への批判は、都民の間に沸き立っていた。占領期間に引きつづいての二選、そして三度目の出馬である。

都庁の腐敗は、警視庁も手が出せない、と記者クラブで噂されるほどで、私が、昭和二十七年から三十年までの、三年半ほどの、警視庁記者クラブ詰だった間に、「都庁汚職」として摘発された事件は、ただ一度だった。

それも、三十年春、都の結核療養所の建設をめぐる、小さな贈収賄事件である。

「警視庁がやれないなら、地検でやる」

正義感に燃えた若手検事が、そう意気込んでみても、「都庁汚職」は一つとして、伸びなかった。

「官庁バス路線買い上げ事件」というのがあった。これを担当した検事たちに、二通りの声があった。この事件には〝メモ〟があって、献金一覧表ができていた。

これに対し、「メモが事実だとしても、時効サ」と、こともなげに諦らめ顔の検事と、「いい筋なのに、惜しいネ」と、未練気な若手検事——。事件は不発に終わった。

前警視総監田中栄一派の選挙違反がのびてきて、安井謙参院議員まできた時、やはり、ストップがかかったといわれる。実兄の安井都知事が、「一回だけは、安井謙議員の調べを認めるが、都知事選を目前に控えて、都庁にだけは、手をつけないでもらいたい」と、某筋へ要求した、といわれたほどであった。

警視庁どころか、東京地検でさえ、都庁、すなわち、安井兄弟の身辺には、手をつけられないほどであった。

ナゼだろうか。

社会党が、安井三選阻止を唱えて、元外相有田八郎を擁した、昭和三十年の都知事選での、安井、有田の得票差は、僅か十万票であった。つまり、プラスマイナスすれば、あと五万票で、有田は勝てたのである。

この都民の審判が、自民党首脳をガク然とさせた。次回で雪辱を期して、孜々営々と、日常活動をつづける有田派の実力は、悔りがたいものがあった。

だからこその、安井都知事の衆院選出馬声明であった。安井派が三十年の選挙で準備した金が、一億円といわれているが、それであの少差である。次回三十四年には、何億にハネ上がるか? それなら、衆院選のほうがラクである、という計算もあっただろう。

では、次回に、有田と闘うのは誰か。その時点から、候補探しが始まった。首都の知事を革新陣営には渡せないという、至上命令があるのだ。

当時、浮かんでは消えた人名を、列挙してみよう。第一に、中山伊知郎、松下正寿らの学者グループ。松下などは、「選挙費用が五千万円」と聞いて、乗り気だったのが、一度に〝その気〟をなくした、という。

藤山愛一郎、一万田尚登、高碕達之助、鮎川義介、渋沢敬三、河合良成らの財界人。つづいて、吉

田茂、鳩山一郎、石橋湛山の元、前首相ら。鳩山の場合など、本人がダメなら大蔵官僚の長男威一郎、薫子夫人の名前まで出たが、都議団に笑い飛ばされて、消えてしまったほど。