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黒幕・政商たち p.064-065 コバケン一人がアガいても

黒幕・政商たち p.064-065 井上日召の身辺の世話をみてあげたが、私は右翼ではない、という氏が、〝黒い葉たばこ〟のウラ側の、利権政治家の名前をあげるのは何時の日か。
黒幕・政商たち p.064-065 井上日召の身辺の世話をみてあげたが、私は右翼ではない、という氏が、〝黒い葉たばこ〟のウラ側の、利権政治家の名前をあげるのは何時の日か。

「公社はコバケン一人がアガいても、米葉は政治資金につながってるからダメなのサ、といわんばかりに冷笑して。私の正論に耳をかそうとしない。だが、河野、池田らに汚された保守政治を、洗い清めてくれる保守党最後の旗手——それが佐藤なんだと、私は信じている」

戦後、井上日召の身辺の世話をみてあげたが、「だからといって、私は右翼ではない。甚だメイワク……」という氏が、〝黒い葉たばこ〟のウラ側の、利権政治家の名前をあげるのは何時の日か。

日韓をあげた佐藤政権の、次の課題は日ソといわれていた。だが、マニラにアジア開銀本店を誘致された政府は、東南ア外交を再検討せざるを得なくなった。日韓の次は、日比の声が強くなるのも当然であろう。

今まで、河野一郎、田中角栄といった実力者たちに、全世界をマタにかけた、気宇壮大な物語りに登場していただいたのであるが、ここで忘れてならないのは、インドネシヤはジャカルタのデビ夫人と、夫人が〝パパ〟と呼ぶ川島正次郎副総裁である。

川島副総裁のテコ入れで、スカルノ大統領の第三夫人デビさんという、元日本女性がアジアのファースト・レディという扱いを受けるように変った。

この〝美談製造〟の物語りは、項を改めて詳述しなければならないが、ソウルにジャカルタに、はたまた、マニラにと、黒幕やら政商やらは、まさに東奔西走の多忙ぶりである。

第4章 マイホームの夢を食う虫

昭和四十三年。十月十二日付毎日新聞朝刊=自民党の佐藤派議員は、十一日午後、東京のホテル・ニューオータニで会合し、十一月の総裁選に臨む同派の態度を協議した。十一日の会合で、田中角栄氏は「佐藤首相三選のためには」として、首相三選の体制固めの必要を強調した。

黒幕・政商たち p.066-067 佐藤の三選への執念

黒幕・政商たち p.066-067 自民党会館二階の喫茶室。記者らしい二人連れの対話に、私は耳を澄ませていた。確かに、佐藤首相の周辺には、〝黒い噂〟も情報もないのは事実だろう。
黒幕・政商たち p.066-067 自民党会館二階の喫茶室。記者らしい二人連れの対話に、私は耳を澄ませていた。確かに、佐藤首相の周辺には、〝黒い噂〟も情報もないのは事実だろう。

住宅公団の抜け穴

〝佐藤さん〟はキレイ好き

「田中角栄というのは、幹事長をはずされ、全くの無役にされても、〝広川弘禅〟にはついにならなかったネ。不思議な奴さ。…国会中には、院内の福田幹事長室あたりで駄弁っていたりして、悠容迫らずといった感じなんだ」

「ウン。彼が幹事長からおろされた時、ある大会社の重役がネ、あわてて飛んできてオレにきくんだ。検察の手がのびるでしょうかッて。彼の周辺には〝黒いムード〟がただよっていた」

「福田で想い出したが彼が怪文書を流されたことがあるネ。自動車会社から億だかをマキあげたといって。福田はカンカンに怒って、この正体不明の怪文書を警視庁に告訴した」

「そうそう。警視庁はすぐさま犯人を割り出して、広川一馬という雑誌ゴロをあげた……」

「その時、福田は、犯人があげられたのを見届けてから、名誉棄損の告訴を取下げただろう?」

「あれはたしか、去年の秋ごろかナ?」

「福田の告訴取り下げは、捜査当局の、腹を立てさせたが、世論も割り切れない後味の悪さに、批判の声をあげた……」

「ウン。一橋大の刑法の植松正など、告訴は犯人に刑事罰を求める意志表示だから、取下げなど怪しからん、といっていた」

「そのウラは、広川某の黒幕に、田中角栄側近のHが出てきたからサ。福田もあの時点で田中との正面衝突を避けたのだろう」

「しかし、あの当時、佐藤栄作は、よく田中幹事長を切ったね。オレはエライと思ったよ」

「そうだナ、佐藤の三選への執念。いうなれば七〇年安保を自分の手でやりとげるのだ、という堅い決意を物語るものだろう」

「大津正首席秘書官をおろしたのも、同じ伝だナ…。確かに、不思議なほど、佐藤の周辺には、〝黒い噂〟がないよなあ!」

永田町の自民党会館二階の喫茶室。あたりに人影の少ないのに気を許したか、記者らしい二人連れの対話に、私は耳を澄ませていた。

確かに、この話の通り、佐藤首相の周辺には、不思議と思えるほど、〝黒い噂〟も情報もないのは事実だろう。そして、池田首相夫人とは違って、佐藤寛子夫人にさえ、〝出過ぎた〟話

も出てこない——私は、これこそ、首相の執念とみる。

黒幕・政商たち p.068-069 住宅公団の宅地買収のデタラメさ

黒幕・政商たち p.068-069 千葉県を舞台にして、公団が宅地を買付けた。「坪六千円の土地が、ある業者の手を経て、公団に買収されたが、その価格が坪一万一千円。ほぼ倍の値段です」
黒幕・政商たち p.068-069 千葉県を舞台にして、公団が宅地を買付けた。「坪六千円の土地が、ある業者の手を経て、公団に買収されたが、その価格が坪一万一千円。ほぼ倍の値段です」

確かに、この話の通り、佐藤首相の周辺には、不思議と思えるほど、〝黒い噂〟も情報もないのは事実だろう。そして、池田首相夫人とは違って、佐藤寛子夫人にさえ、〝出過ぎた〟話

も出てこない——私は、これこそ、首相の執念とみる。

賞めすぎるようだが、六〇年安保をなしとげた、兄岸首相のあとをうけて、七〇年安保に政治生命をかけた、佐藤栄作の〝自覚〟が冷酷にさえ見えるその人事にうかがえる。河野一郎を閣外に追落し、返す刃で片腕ともたのむ田中角栄を党からはずす。兄弟の長年の〝忠僕〟大津秘書官さえ暇を出すという、この徹底した潔癖さは、側近の非違のために挂冠するハメにおちいることを、極度に警戒しているものであろう。

世田谷の私邸でも、一国の総理としては貧弱な家である、これほど〝身を持すること厳〟な首相ではあるが……。

幽霊会社に消える土地代金

「私も不動産業者ですから、ある時には、結構、稼がせてもらいますよ。でも住宅公団の宅地買収のデタラメさには、義憤を感ぜざるを得ませんよ」

彼はこういって言葉を切った。私は黙って、彼の口許に眼をやる。

——落ちる瞬間とはこれだな!

刑事のいう〝落ちる〟とは、犯人が自供をはじめることだ。私の記者生活の体験からいうと、多くの場合、事件の真相を知る人物は、実は事件の主役たちと利害の上で、相当程度に密着し

ているものである。それ故に彼が提供したその記事のもたらす影響と、彼の利害との関係位置に気を配らねばならない。それが一瞬、口をつぐませるのだった。

彼——その男は、まだ三十台の若さながら、都心に事務所を持つ有力な業者の一人だった。ある意味での、成功者のうちに数えられる彼にとっては、シャニムニ、金にさえなれば良い、といった、アクドイ商売には、批判の眼を向けざるを得ない〝ゆとり〟が生れていたのだ。

彼の話には、まだウラがとれてない。つまり、私自身の調査による、裏付け取材がしてないのだが、やはり関係者の談話なので、ここで一通りの紹介をしておこう。千葉県を舞台にして、公団が宅地を買付けたのだという。

「坪六千円の土地が、ある業者の手を経て、公団に買収されましたが、その価格がなんと、坪一万一千円。ほぼ倍の値段です。大衆にとって、宅地が高嶺の花にならないよう、宅地債券などが新らしくできましたが、この実例でみると、宅地債券など買う奴は、安い土地をわざわざ高く買う結果になっているのです」

これは、他の実例を見ても、間違いのない事実である。もう少し、彼の話を聞かねばならない。

「公団と地主の間には、ある会社がクッションになって入っています。ホテルニュー・ジャパンの中にあるその会社の社長というのは、ある金融機関の支店長だった男です。そして、彼

が、その土地を、半年でも一年でも持っていて、公団に売ったというのなら、まだよろしいでしょう。しかし彼が所有していたのは、僅かに一日間だけです。土地の広さですか? 坪六千円の土地で、総額十数億円にのぼる面積です。そして、彼はその土地のある農協から十億もの融資を受けているのです」

黒幕・政商たち p.070-071 蒸発してしまう会社が必要

黒幕・政商たち p.070-071 そして、九億ほどの金が、地主以外の連中——公団に売り付けた幽霊会社や、公団をめぐる政治家をはじめとする〝黒幕〟たちのフトコロを肥やしているのである。
黒幕・政商たち p.070-071 そして、九億ほどの金が、地主以外の連中——公団に売り付けた幽霊会社や、公団をめぐる政治家をはじめとする〝黒幕〟たちのフトコロを肥やしているのである。

「公団と地主の間には、ある会社がクッションになって入っています。ホテルニュー・ジャパンの中にあるその会社の社長というのは、ある金融機関の支店長だった男です。そして、彼

が、その土地を、半年でも一年でも持っていて、公団に売ったというのなら、まだよろしいでしょう。しかし彼が所有していたのは、僅かに一日間だけです。土地の広さですか? 坪六千円の土地で、総額十数億円にのぼる面積です。そして、彼はその土地のある農協から十億もの融資を受けているのです」

公団から地主たちに支払われた金は、彼の会社を通して、農協に預金され、そして彼は、その金を農協から融資してもらっている。

「だが、ニュー・ジャパン内のその会社は、融資をうけるやいなや、煙の如く消えてしまったのです。ホテルの交換台は、その部屋の主が、〝出発〟してしまったと告げるのです。……一体、十億という金を借り得る会社が、そんなに簡単に消減してしまうものでしょうか」

固有名詞が、公団とホテル名以外は、すべて伏せられているので、読者はこの話を、にわかには信じ難いと思うかも知れない。

しかし、公団の宅地買収に関する限りは、このようなミステリーは、日常茶飯事である。坪六千円ならば、三十万坪で十八億円。しかし、倍の値段で買上げているので、十八億では約十五万坪しか買えない。そして、九億ほどの金が、地主以外の連中——公団に売り付けた幽霊会社や、公団をめぐる政治家をはじめとする〝黒幕〟たちのフトコロを肥やしているのである。

また、農協に対しては導入預金だ。地主に渡った約九億円の金の大部分が、農協に入り、そ

の金はまた、幽霊会社へ還元されている。一体、誰がこのようなミステリーの脚本を書き、誰が演出しているのだろうか。そして、また、その金の行方は?

「私が研究した限りの税法では、このような取引は、考えられないのです。そのため、すべての〝悪〟をひっかぶって蒸発してしまう会社が必要なんです」

彼の話は、まだえんえんと続くのであるが、信じきれない読者のために、まず一つの「事実」を示さねばならない。

光明池事件のウラのウラ

ここに一通の公文書がある。昭和三十八年七月二十日付で、日本住宅公団の三人の監事の連名による、日本住宅公団総裁挾間茂にあてた、監査報告書だ。その全文を紹介しよう。

大阪支所の監事監査結果について

先般、大阪支所の監査を行いましたその結果は、別紙監査書の通りでありますので、御通知いたします。以上。

日本住宅公団監事 武井良介
         川合寿人
〔宅地部関係〕  大庭金平

黒幕・政商たち p.072-073 某監事の〝義憤〟が火を噴いた

黒幕・政商たち p.072-073 光明池地区に関して、「一年経過してこれが適地となることは、まず、常識では考えられない」「今後はかかる公団独自で解決できぬ」土地は選ぶなと、鋭く問題点を指摘している。
黒幕・政商たち p.072-073 光明池地区に関して、「一年経過してこれが適地となることは、まず、常識では考えられない」「今後はかかる公団独自で解決できぬ」土地は選ぶなと、鋭く問題点を指摘している。

1 光明池地区について

当地区の選定については、種々問題があろうが、すでに地区決定をし、用地買収費を支払済である。現在、公団としては、事業を遂行する義務が課せられたのである。水道、連絡道路、排水関係、特に光明池に対する防災工事等問題は山積している。原価試算をみると、本地区の事業費が他地区と比して、高くもなっているが、これの予算裏付け、最後に出来上り成果が需要にマッチするかというような諸点は、もちろん、成算あっての上地区決定とも思料されるが、大阪支所だけでは処理できない幾多の問題点が、内蔵されているので、本地区に関しては、支所共、関係諸機関と連絡調整の上、禍を残さぬよう事業遂行のタイミングに、充分留意されることを希む。

おって本地区は前年度において不適地としたものである。一年経過してこれが適地となることは、まず常識では考えられぬことでもあり、それだけ問題点がある。今後は、かかる公団独自では解決できぬような問題点を有する土地は、他に候補地がなければ別であるが、選ばぬような指針を立てられたい。

本地区選定の推移と、三十八年度分特分審査の問題は、二律背反の典型であり公団の性格を如実に表したものである。

2 八幡地区の地区決定等について

当地区については、三十七年十二月十四日付造成面積五十六万坪、取得予定価格、坪当り三千八百円として地区決定しているが、同地区については当初候補予定地としてあがってから、すでに数年を経過し、その間、約四倍(当初坪千円位、取得予定四千円)の土地値上りをしている。排水路の問題で今迄決定がのびていたとはいえ、当地区をやるという決断が早ければ、もっと土地が安く取得でき、その分を排水工事費に、余計予算をかけても、現在実行に踏みきるよりは、経済的ではなかろうか。光明池の地区決定、買収完了は、特殊事情により、速かったかも知れぬが、用地の取得に限らず仕事はすべて、もっと迅速にかつ慎重に処理するようされたい。(後略)

——この監査報告は、大阪支所の仕事ぶり全般にわたって、細かに、眼を配らせているが、宅地関係を抜粋すると、以上の通りである。

光明池地区に関して、「一年経過してこれが適地となることは、まず、常識では考えられない」「今後はかかる公団独自で解決できぬ」土地は選ぶなと、その背景となっている〝政治的特殊事情〟を十分に承知した上で、鋭く問題点を指摘している。

八幡地区についても、時間を浪費したための地価の四倍値上りを取りあげ、警告しているが「光明池の地区決定、買収完了は、特殊事情により速かったかもしれぬが」という数文字は、事情を知るものにとっては、某監事の〝義憤〟が火を噴いた、痛烈な皮肉と読みとれよう。

黒幕・政商たち p.074-075 何十億の金が右から左へと動く

黒幕・政商たち p.074-075 日本住宅公団大阪支所のやった、光明池問題なるもの、この〝元兇〟ともいうべき立場の人物は、今は故人となった河野一郎だというのが、関係者の通説である。
黒幕・政商たち p.074-075 日本住宅公団大阪支所のやった、光明池問題なるもの、この〝元兇〟ともいうべき立場の人物は、今は故人となった河野一郎だというのが、関係者の通説である。

左翼の国会議員も登場

ここで、読者の理解を助けるため、日本住宅公団大阪支所のやった、光明池問題なるものを解説しなければならない。この〝元兇〟ともいうべき立場の人物は、今は故人となった河野一郎だというのが、関係者の通説である。そして、筆者がこの事件を、改めて取上げる所以も、河野一郎なる公人の、政治家としての功罪を、評価すべき資料たらしめたいと、願うからでもある。

光明池問題が表面化したのは、三十九年四月二十一日の衆院決算委で、勝沢芳雄委員(社、静岡一区)が、「公団の宅地買収に不明朗な点がある」と、質したのにはじまる。その質問によると、「公団が三十八年五月十七日に、同地区を坪当り四千百円で買ったが、この土地は三十六年ごろには、坪当り千円にすぎなかった。また、公団は三十七年に団地化計画を立てて、大阪支所に調査命令を出したが、三十八年四月上旬、同支所は条件が悪いとして、計画反対の報告を出した。しかし、四月末になって、再調査命令が出され、同支所は、五月七日に土地等評価審議会を開いて、土地買収の申請をすることを決め、その後十日間のうちに、契約が成立して、買収費の十四億七千万円のうち、九〇%が一会社に支払われた」という。

そしてさらに、前述の「監査報告書」が訂正されて、不明朗な点に注意喚起した部分が、削

除されている、とまで指摘して、〝黒い霧〟ムードを糾騨した。

これに対し、挾間総裁は「四千百円は適正だ」と、型通りの〝国会答弁〟をして逃げ、大庭監事は「大阪支所の報告の内容に、事実誤認があったので訂正」とのべた。

だが、監査報告書は訂正版には、報告の・印部分「おって……公団の性格を如実に表わしたものである」の十三行が削除されているし、大庭監事の署名印は双方にあるのである。

勝沢委員の質問は、こうして、いうならばカルクイナされてしまったのであるが、問題は深く静かに潜行していたのであった。そして、被害者に選ばれたのが日本三棉の雄といわれた、東洋棉花不動産部。主役は、東棉嘱託の肩書をもつ、東洋殖産社長岡林和生(三九)と、興亜建設社長大橋富重(四二)の両名。最後には顔見世ながら、右翼の巨頭(?)といわれる児玉誉士夫氏から、日共を追われた「日本のこえ」志賀義雄氏まで登場するといった、豪華キャストである。何十億の金が、右から左へと動くのも、無理からぬことでもあろう。そして、事件は、勝沢委員の質問から、丸一年を経た四十年春すぎから、東京、大阪で軌を一にして起ってきた。

まず、大阪篇から述べよう。

大阪府警捜査四課に、四十年八月十三日、大阪で二人の雑誌発行人が捕まったのである。「パーチャス・ガイド・オブジャパン」という、英文の貿易案内誌といっても、ベヤリングを

主とした機械の業界誌であるが、この二人の同社重役は、光明池地区の宅地買収にからんで、東洋殖産岡林社長から一千万円、東棉不動産部豊田保部長から二千七百万円、合計三千七百万円をおどし取った、という容疑であった。

黒幕・政商たち p.076-077 広布産業事件のカラクリ

黒幕・政商たち p.076-077 志賀義雄が質問。「佐々木環(広布産業社長)が、大阪の東洋殖産岡林社長と、パーチャス社今西啓師社長、東棉豊田不動産部長、同青木課長の四人を告訴した事件。ある官庁、某高官が関係している」
黒幕・政商たち p.076-077 志賀義雄が質問。「佐々木環(広布産業社長)が、大阪の東洋殖産岡林社長と、パーチャス社今西啓師社長、東棉豊田不動産部長、同青木課長の四人を告訴した事件。ある官庁、某高官が関係している」

まず、大阪篇から述べよう。

大阪府警捜査四課に、四十年八月十三日、大阪で二人の雑誌発行人が捕まったのである。「パーチャス・ガイド・オブジャパン」という、英文の貿易案内誌といっても、ベヤリングを

主とした機械の業界誌であるが、この二人の同社重役は、光明池地区の宅地買収にからんで、東洋殖産岡林社長から一千万円、東棉不動産部豊田保部長から二千七百万円、合計三千七百万円をおどし取った、という容疑であった。

ところが、この恐かつ事件から、英文誌の重役の一人、柴山英二(四三)が、公団大阪支所用地課長勝又国善(四〇)に、贈賄した旨を自供したため、同十月二十七日、公団東京本所労務課長に転勤していた勝又が府警捜査二課に逮捕されるにいたった。

さらに府警二課は、翌十一月二十二日、勝又の自供から、当時の東棉不動産部長で、事件の責任から東京支社化学品石油本部長に転じていた豊田保取締役(五一)を任意で調べ、岡林は胃の手術のため入院してしまうという進展を見せた。

一方、東京では、別の角度から、事件になっていたのである。

吹原事件が森脇将光逮捕という、ドンデン返しを見せていた最中の、五月十一日、衆院法務委で志賀義雄氏が、「四十年一月十五日付で、佐々木護氏から東京地検あてに上申書が出ている。それによると、護氏の兄の環氏(広布産業社長)が、大阪の東洋殖産岡林社長と、パ社(前出英文誌)今西啓師社長、それに東棉豊田不動産部長、同青木課長の四人を告訴した事件を、早く調べてくれといっている。土地代金の手付金五千万円と、現金四千五百万円を詐取されたそうだが、ある官庁が舞台になり、某高官が関係しているというので、調べてもらいた

い」と、法務当局に質問したのである。

パクリ屋、国会で活躍

広布産業事件のカラクリ

佐々木環なる人物は、大映の手形を外国銀行で割引いてやるといって、大映経理部長からパクった、その筋では有名なパクリ屋で、このような人物の話を、志賀氏が国会に持出すのは、不思議なことなのであるが、こうしてハッパをかけられた法務省は、「上申書や告訴状が出ている事実はあるが、内容は控えたい」と答弁した。

これが、いわゆる「広布産業事件」なのであるが、佐々木告訴状によると、「茨城県東海村付近の土地約三十四万坪を、近い将来に防衛庁が、演習場として十三、四億円で買い上げるから、その前に七億五千万円で買い取らないか、と持ちかけられ、その手付金五千万円と、防衛庁井原岸高政務次官らへの、政治献金四千五百万円とを、岡林らに詐取された」というものである。この東西で起きた二つの事件は、いずれも東棉不動産部にからむ、広大な土地の問題で、両方共に岡林が登場しているので、同一事件である。

黒幕・政商たち p.078-079 全部日本電建の名儀となった

黒幕・政商たち p.078-079 「井原政務次官は、私の前で、田中角栄前蔵相(注。日本電建の前社長である)に電話をかけ土地買上げの予算措置まで頼んでくれたほどで、井原、田中議員らへの、政治献金も信じられた」
黒幕・政商たち p.078-079 「井原政務次官は、私の前で、田中角栄前蔵相(注。日本電建の前社長である)に電話をかけ土地買上げの予算措置まで頼んでくれたほどで、井原、田中議員らへの、政治献金も信じられた」

そしてまた、この佐々木環は、四十二年夏の、東京相互銀行からの、一億円詐取事件をおこし、さらに、朝日新聞の「板橋署六人の刑事」問題のタネとなった人物であることは、いうまでもないことであろう。一億円詐取は大映手形パクリ事件の、保釈金返済のため、迫られて起した事件であり、こうして常習犯罪者の犯罪は、金額の面からも次第にエスカレートしてゆくものなのである。

岡林の犯罪歴は、二十七年一月に商品詐欺で西宮署(起訴猶予)、二十九年一月に業務上横領で生田署(不起訴)、三十六年十一月に土地詐欺で兵庫署(起訴猶予)の三回。いずれも、法のスレスレを歩いているとみえて、起訴をまぬかれている。

この岡林が、二十六年九月に、神戸市兵庫区湊町の自宅に、自分の片腕としていたグレン隊大江某を社長に、自分は監査役となって設立したのが、神港建設である。これを三十八年三月に解散し(光明池の売買の税金を背負わせたためか=冒頭の話の実例)、同年八月、大阪市西区江戸堀北通に、東洋殖産を設立した。茨城県のケースは、この東洋殖産でやるつもりであったらしい。今度は、自分の銀行取引停止期間が満了していたためだろうか、自ら社長となり、専務には日本電建大阪支店用地係長だった村木典男を据え、監査役には内妻中村君子を配した。

愛媛出身の自民党井原岸高代議士と同郷で、秘書と称するほど同氏に可愛がられていたが、

これが、茨城県の土地の防衛庁買上げやら、政治献金やらに利用されるキッカケとなった。告訴人の佐々木にいわせると、「井原政務次官は、私の前で、田中角栄前蔵相(注。光明池地区転売と、東洋殖産村木専務に関係のある日本電建の前社長である)に電話をかけ土地買上げの予算措置まで頼んでくれたほどで、井原、田中議員らへの、政治献金も信じられた」というのに対し、井原代議士は、「トンでもない。三十八年十月ごろ、岡林に連れられて次官室へきたので、一分足らず会っただけ」と、全くアベコベで、真相はさだかではない。

だが、この岡林の逮捕歴と、光明池団地の宅地の所有権移転、茨城県の広布産業事件と、時間的に彼の行動を追ってみると、内容が明らかになってくる。二十六年神港建設創立、二十七年商品詐欺、二十九年業務上横領、三十六年一月光明池A地区買収(坪二百二十円程度)、同年二月東棉へ売却、同年三月同F地区買収、同年四月東棉へ売却、同年八月、A、E地区を日本電建へ売却(東棉嘱託)、同年十一月土地詐欺、同十二月B地区買収、三十七年一月B地区を日本電建へ売却、同年七月、B、C地区買収、いずれも直後に日本電建へ売却、同年八月F地区買収、同年九月日本電建へ売却。こうして、光明池地区三十八万坪は、三十七年九月八日現在で、全部日本電建の名儀となった。そして、その時期に公団本所から、大阪支所へ光明池団地の調査命令が出たのだから、田中角栄代議士と日本電建、公団という、三者の関係を想起させるに十分であろう。その間、東棉不動産部は、わずかに、A、E地区に介在したにすぎない。ま た、勝又用地課長の収賄は、この時期から三十八年春にかけてのことである。

黒幕・政商たち p.080-081 児玉誉士夫一派の幹部吉田の子分

黒幕・政商たち p.080-081 日本電建から東棉へ、すべてが売られた時期、岡林は神港建設を解散させた。〝蒸発〟させたのである。税法上の問題は、すべて「神港建設」にかぶせた。そして、「東洋殖産」を設立して、茨城県に取りかかった
黒幕・政商たち p.080-081 日本電建から東棉へ、すべてが売られた時期、岡林は神港建設を解散させた。〝蒸発〟させたのである。税法上の問題は、すべて「神港建設」にかぶせた。そして、「東洋殖産」を設立して、茨城県に取りかかった

田中角栄代議士と日本電建、公団という、三者の関係を想起させるに十分であろう。その間、東棉不動産部は、わずかに、A、E地区に介在したにすぎない。ま

た、勝又用地課長の収賄は、この時期から三十八年春にかけてのことである。

大映手形パクリ事件の主役は?

三十八年四月一日、この三十八万坪は日本電建から東棉へと、すべて売却された。その登記が同月二十六日、週日後の五月一日には、東棉から大橋富重の興亜建設へ売却されて、六日に登記された。眼を公団側の動きに転ずると、同八日に大阪支所支部長会議で、光明池開発を決め、買収価格の承認申請を、本所にすることになった。同十三日、本所理事会はこれを承認したが、十五日には東棉と興亜建設とは、五月一日の売買契約を解除して東棉に所有権をもどしたが、同じ日のうちに、再び売買契約を結ぶという不明朗極まりないことをしている。十五日の合意契約解除を、翌十六日に登記したのち、十五日の再契約は十七日に登記した。

というのは、十六日には、公団と興亜建設との間で、公団希望の三十八万坪を興亜が世話するという協定書が調印されて、十七日には三十一万坪の、売買契約が行なわれていたからである。そして、二十日に公団名登記、二十四日には九割に当る十一億五千二百万円が支払われるという、スピード振りである。

三十八年四月一日、日本電建から東棉へ、すべてが売られた時期、岡林は神港建設を解散させてしまった。〝蒸発〟させたのである。多分、税法上のいろいろの問題は、すべてこの「神

港建設」にかぶせたのであろう。そして、八月に「東洋殖産」を設立して、茨城県に取りかかったようだ。

そのころ、今西(前出英文誌社長)の紹介で、佐々木と知り合い、十月には防衛庁政務次官室へ伴い、二十五日に契約、十一月五日登記という段取りであったが、公団と違って、相手も海千山千のしたたか者、筋書き通りに運ばなかったようだ。三十年二月、地元民から四億八千万円で買いあげ、七億五千万円で佐々木に売りつけようとしたのが失敗、それどころか詐欺で告訴され、志賀代議士に国会で問題化されるという、すべて裏目に出てしまった。

この三十四万坪も、しかるべき政界要路の人物を動かして、公団に売りつけようとしたか、公団の情報を取っていたかだったのだろうが、そうそう柳の下にドジョウがおらず、佐々木をえらんだのだろう。志賀質問でビックリしたのが、岡林本人はもちろん、東棉側である。

早速、この話を内緒にせねば、光明池の痛いハラも探られては叶わんというので岡林、佐々木会談が開かれ、告訴取下げという条件で、話が進められた。その時、佐々木の大映手形パクリ事件のさいに、その保釈金二百万円を立替えたということで、佐々木の代理人と称する、白垣某が登場してきた。児玉誉士夫一派の幹部吉田裕彦氏の子分である。

そればかりではない。港会の親分波木量次郎氏も、この広布産業事件を書きたてるオ色気専門の日刊観光との仲介にと乗り出してきた。サア事は大変になってきた。こういう事態になっ

てくれば、金を出して「ヨロシク」と、頭を下げて廻る役廻りは、〝伝統ある綜合商社〟東洋棉花以外の誰でもない。

黒幕・政商たち p.082-083 必ず顔を見せる右翼の先生方

黒幕・政商たち p.082-083 赤坂の料亭「金竜」で、児玉誉士夫、吉田裕彦が立ち会い、一派の永光伝、大橋富重らが、居る中で、東棉代理人岡林から、今西、柴山へ一千万円が手渡され
黒幕・政商たち p.082-083 赤坂の料亭「金竜」で、児玉誉士夫、吉田裕彦が立ち会い、一派の永光伝、大橋富重らが、居る中で、東棉代理人岡林から、今西、柴山へ一千万円が手渡され

早速、この話を内緒にせねば、光明池の痛いハラも探られては叶わんというので岡林、佐々木会談が開かれ、告訴取下げという条件で、話が進められた。その時、佐々木の大映手形パクリ事件のさいに、その保釈金二百万円を立替えたということで、佐々木の代理人と称する、白垣某が登場してきた。児玉誉士夫一派の幹部吉田裕彦氏の子分である。

そればかりではない。港会の親分波木量次郎氏も、この広布産業事件を書きたてるオ色気専門の日刊観光との仲介にと乗り出してきた。サア事は大変になってきた。こういう事態になっ

てくれば、金を出して「ヨロシク」と、頭を下げて廻る役廻りは、〝伝統ある綜合商社〟東洋棉花以外の誰でもない。

一方、光明池で、用地課長に贈賄して〝事務的処理〟の促進を図った柴山は、日本電建—東棉—興亜—東棉—興亜—公団と、コトがうまく運んだにもかかわらず、彼への「手数料」が来なかったので社長の今西と共に「岡林から一千万円をおどし取った」ことにされた。本人はもちろん、〝手数料を正規に請求〟したにすぎないという。

この時も、赤坂の料亭「金竜」で、児玉誉士夫、吉田裕彦が立ち会い、一派の永光伝(大元産業社長、児玉の片腕吉田の直系)、大橋富重らが、キラ星の如く居流れる中で、東棉代理人岡林から、今西、柴山へ一千万円が手渡され、それも東京勢四百万、大阪勢六百万と分割されて、大阪勢は、今西、柴山は各二百万、他の一人が二百万と分配されたそうだ。

さて、こうして眺めてみると、一体、この事件で誰が稼いだのか、というバランス・シートを作ってみたいものだ。損をしたのは間違いなく東棉。イヤ、〝損な役廻り〟というべきか。馴れない不動産部門を作って、岡林の素性も調べず、ハンコ一切を預けて、嘱託の肩書を認めたのだから、豊田の責任が追及されるのも当然。さらに府警の調べから、実弟が金融業をしていることも判り、地価吊りあげの共犯から、私腹を肥やした疑いまでかけられている。だから、戦前からの東棉マンたちは、金の得失にかえられない、社名のドロを嘆いている。

会社のモメ事には、必らず顔を見せる右翼の先生方は別としても、左翼の志賀先生まで登場するのだから、この事件のスケールが判ろうというもの。

関係者の誰れ彼れにたずねても、バランス・シートの人名表は出してくれないが、最後に、当時、公団宅地担当理事であって、光明池に反対した滝野好暁氏をたずねた。公団の総務部長、監事、理事と進んだ、消防庁出身の生え抜きで、現在は社保連常務理事にある人。氏が公団を去ったあと、理事には河野人事で、ラジオ関東から弘田竜之進が入った。

「私もまだこんな団体の役員でいるから、そのことは話したくない。しかしですね、河野一郎という人は、大キライですナ、私を呼びつけて、大勢の人がいる前で、バカヤロー呼ばわりで、クビにするゾと怒鳴りつけたですよ。かりにも、住宅公団の理事をですよ。そんな態度をとるというのは、人間として認めていないことです。何で呼びつけられ、何でクビにするぞといわれたか、それは、まだ、話す機会ではありませんな」

滝野氏には、数年前の〝暗い想い出〟がまだよみがえるのだろうか、暗たんとした表情がよぎった。〝力は正義〟なのだろうか。検察が解明できないというのであれば、与論だけしか期待できないのだろうか!

黒幕・政商たち p.084-085 福田蔵相の名を使い不渡り手形

黒幕・政商たち p.084-085 昭和四十年。八月十一日付毎日新聞朝刊=福田蔵相の名を使い、不渡り手形を出したゆうれい会社事件を国会で 追及
黒幕・政商たち p.084-085 昭和四十年。八月十一日付毎日新聞朝刊=福田蔵相の名を使い、不渡り手形を出したゆうれい会社事件を国会で 追及

第5章 怪談「流通機構社」のその後

昭和四十年。八月十一日付毎日新聞朝刊=福田蔵相の名を使い、不渡り手形を出したゆうれい会社事件を国会で追及、十日の衆院商工委員会で、民社党の麻生委員は、全日本流通機構会社にまつわる疑惑などについて、大蔵、通産両省、中商企業庁当局の責任を追及した。

黒幕・政商たち p.086-087 福田一元通産相の息子の福田弘

黒幕・政商たち p.086-087 会長福田赳夫、顧問、湊日興証券社長、星野東京ヒルトン副社長、飯塚国学院大学教授、相談役、神谷トヨタ自動車販売社長、社長は、福田一元通産相の息子。ところが、その手形は、全部不渡り。
黒幕・政商たち p.086-087 会長福田赳夫、顧問、湊日興証券社長、星野東京ヒルトン副社長、飯塚国学院大学教授、相談役、神谷トヨタ自動車販売社長。社長は、福田一元通産相の息子。ところが、その手形は、全部不渡り。

会長が大蔵大臣の会社

詐欺を働いても安全?

衆議院議員麻生良方。民社党所属で東京一区選出の知性派である。まず、この人の話から紹介しよう。この麻生議員の言葉が信じられないことはあるまい。

「私は、全日本流通機構株式会社の件を、衆院商工委で質問するに当って、関係者である福田赳夫蔵相や福田一元通産相に質問の連絡をしました。すると、御両人とも、本人じきじきに、幾度か私のもとに連絡をされてきました。これでも、事件の内容というものが推察されるではありませんか。そして福田一議員などは、『イヤ、いろいろとユスられて困っているんだ』と、述懐されていたほどです……」

つまり、麻生委員の質問は、同社のパンフレットを印刷した「さとう印刷」という会社は、そのパンフレットに、「会長福田赳夫、顧問、湊守篤(日興証券KK社長)、星野直樹(東京ヒルトンホテル副社長)、飯塚重威(国学院大学教授)、相談役、神谷正太郎(トヨタ自動車販売KK社長)」と、現役大蔵大臣をはじめとして、知名人の名が記入されており、社長は、福

田一元通産相の息子ときいたので、すっかり信用して、手形払いの条件で仕事を引受けた。ところが、その代金四十四万円の手形は、全部不渡り。こんなことがあってよいものか、蔵相は承知しているのか、といったものである。

これに対し、福田蔵相は出席せず、大蔵省の村上官房長が代って答弁に立ち、「結論からいうと、承諾を与えたことはない。三十九年春知人が青年を連れてきて『最近の流通機構の近代化について、話を聞かせてほしい』といい、大臣は『準備なり資金がととのわないと……』と説明した。ところが、四十年の一月に会社ができ、名前が使われているというので、誤解を招くといけないと知人を呼び、大臣が語気強くパンフレットの回収と名前の削除を命じた。電光石火のようにものを買って姿をくらましたため、誠に申しわけない。大臣に就任してから、会社の役員などは全部やめている」と、弁明した。(毎日紙)

さて、これで、大体前後の事情はのみこんで頂けたことであろう。つまり、福田一元通産相の息子の福田弘なる人物が、代表取締役になって、本人の許可もなく、会長に福田赳夫の名前を使い、さらに、顧問、相談役などに一流財界人の名前を並べて、取込み詐欺同様のマネをして、会社は〝蒸発〟し、社長はノウノウとしている、といった事件なのであるが、不思議なことには、これが、いわゆる事件化しないのである。つまり、刑事事件として、十分な要件を揃えておりながら、何故か〝不発〟なのである。

黒幕・政商たち p.088-089 福田一はユスられて困っている

黒幕・政商たち p.088-089 この金を渡す時、福田一議員はクドイほど「これは不渡り手形の買戻し代金ではない。あくまで、親として息子の不始末への寸志です」と、念を押した
黒幕・政商たち p.088-089 この金を渡す時、福田一議員はクドイほど「これは不渡り手形の買戻し代金ではない。あくまで、親として息子の不始末への寸志です」と、念を押した

そこで、冒頭の、麻生議員のいう「福田一さんは、ユスられて困っていると、述懐していた」という言葉を、思い起して頂きたい。何故、福田一議員がユスられねばならないのだろうか。

なお、この麻生質問のあとで、福田一議員から、麻生議員へ申し入れがあったのだ。つまり、息子の不行跡によって、迷惑をかけた相手に対して、親としての誠意を見せたいというのである。そして若干の金が、福田一議員からさとう印刷社長に対して贈られた。その金額は、関係者が明らかにしないので不明だが、この金を渡す時、福田一議員はクドイほど「これは不渡り手形の買戻し代金ではないですよ。あくまで、親として息子の不始末への寸志ですよ」と、麻生議員に念を押したという。

この辺のところが、私がこれから語ろうとする〝怪談〟の、ナゾ解きのヒントなのである。

さて、毎日新聞の記事を読んで、これは何かがありそうだと感じた私は、これを切り抜いてスクラップした。それから数カ月後に、Yというイニシアルの男が元流通機構の社員で、事情に詳しいという話を聞いたのであった。

あるミシン会社の社員になっているという、そのYを探すため、まず各社の人事部を調べたが、本社員に該当者はいない。次は、各支店ごとに持っている、セールスマンの名簿だ。これを丹念に調べていって、ついにYの居所をつきとめたのである。そして、Yは私の会見申込に

応じて、都心の喫茶店に現われた。

おそまつな〝ごあいさつ〟

問題の全日本流通機構株式会社は、登記とう本によると、代表取締役に福田弘(福井県大野市亀山二二八)=注。福田一議員の選挙区=金沢政男(大阪市住吉区中加賀町四ノ六一)の両人がなっており、福田蔵相の名前はない。資本金二千五百万円で、四十年一月十二日設立。

「全国唯一の全国組織をもつ、共同仕入供給の代行機構です」と謳う、会社概況によると、営業種目は多様である。乾物嗜好品、乳製品、調味料、菓子、缶詰等の食料品。外衣、肌着、寝具等の衣料。化粧品、日用雑貨、薬品、酒類、時計、家具等の消費財。前記商品の販売業務と輸出、輸入及び製造と加工。

陳列用ケース、レジスター、計量器、車両等の営業用什器、備品類、包装品等の営業用消耗品。運送及び倉庫業務。旅行あっせん、共同店舗の経営、広告宣伝の請負及び代理業務。生命保険及び損害保険の代理業——。これだけ、列記されているのであるが、この営業種目と、前記キャッチ・フレーズとの間に、何かチグハグな印象が生れないだろうか。

これが〝会長〟福田赳夫以下の連名による、第一頁の「ごあいさつ」になると、さらに意味が判らなくなる。その「ごあいさつ」を紹介する。

迎えにきたジープ p.060-061 仕事は情報です。拒否すれば

迎えにきたジープ p.060-061 "You are a effective person for Japan. Similarly, for the Soviet Union too. So, in the future, after returning to Japan, would you like to cooperate for the Soviet Union?"
迎えにきたジープ p.060-061 ”You are a effective person for Japan. Similarly, for the Soviet Union too. So, in the future, after returning to Japan, would you like to cooperate for the Soviet Union?”

話は日本の天皇制に進んで峠に辿りついた感があった。私は、天皇制がロシヤのツァー制とは類似点はあるが本質的に異なること、ツァーはロシヤ人にとって圧制の張本人であり怨嗟の的であったが、天皇は日本人ことに私たち軍人にとっては慈愛の化身であること、共産主義者がその最高のモラルとしている「献身」ということが終戦時の天皇にはっきりした言動として示されたこと、などを説明して、以上の点から戦後ソ連が天皇を戦犯に擬したり「日本新聞」で天皇制だけでなく天皇個人をも非難するのは堪えがたい不満を覚えると答えた。

『それはあなた個人の意見ですか?』

『そうです。だが旧日本将校ならば恐らく同様だと思います』

『それでは将来もし日本で革命が起ったときにあなたはどうしますか?』

『私はもちろん日本人の最大多数の意志にしたがいます。しかし、天皇をどうこうということは日本では起らないと思いますし、万が一そんなことになったら私は断然天皇のため銃をとります』

通訳がこの「銃をとります」を現在形に訳したため、大佐は一寸眉をひそめたが、また仮定の形に改めたので納得したようであった。この日は、このほかに日本軍隊の生活や太平洋戦争などについて雑談をかわしてタ方私はバラックに帰った。この間、大佐はただ聞くばかりで自分の意見は全然はさまず、通訳の中尉も時々用語のメモを取るだけであった。

翌日、私は再び大佐に呼ばれた。今度は私の家庭の事情を細かくきいて、私の妻が終戦時北鮮に疎

開していたことを知ると、かれは私に呼びよせてやろうと、いいだした。

『いや結構です、もう日本に帰っているでしょうから……』

冗談じゃないと、私はあわてて断った。正午近くなって突然、大佐は、真面目な面持でこう切りだした。

『そこで、私はあなたにお願いがあるのだが……』

『どんなことでしょうか』

『あなたは日本にとってと同様にソ連にとっても有能なんです。それで将来帰国後ソ連に協力してもらえないでしょうか』

『……』

『仕事はもう多分あなたもおわかりのように情報です。強いてやれとはいいませんが、これを拒否すればあなたの前歴から見ていつ帰国できるかわからないし、帰国できないかもしれません』

『……』

『すぐにとはいいませんから、午後の三時にここに来て返事してください。よい返事をお待ちしています』

私は、してやられたという感じを抱いて、黙々としてバラックに帰り、寝棚の上にひっくり返って、屋根裏の斜桁を睨みながら考えた。私が許諾しさえすればまず帰国はできる。帰ればこの暗い国に囚 われている同胞をなんとか救い出すことも出来そうだ。

迎えにきたジープ p.062-063 早く帰って妻や母に会いたい

迎えにきたジープ p.062-063 "I will cooperate." The next day, I signed a pledge and a statement prepared by Colonel and Lieutenant, and agreed on my address after return to Japan and a secret word for contact.
迎えにきたジープ p.062-063 ”I will cooperate.” The next day, I signed a pledge and a statement prepared by Colonel and Lieutenant, and agreed on my address after return to Japan and a secret word for contact.

私は、してやられたという感じを抱いて、黙々としてバラックに帰り、寝棚の上にひっくり返って、屋根裏の斜桁を睨みながら考えた。私が許諾しさえすればまず帰国はできる。帰ればこの暗い国に囚

われている同胞をなんとか救い出すことも出来そうだ。だがそのためにはソ連の「スパイ」にならなければならない。自分だけ先に帰ってしかも「スパイ」の誓約を果さないという手もあるが、それは、なにをされるかわからないし、また私の性分としてそんな卑怯な真似はできそうもない。といって帰りたくないのか、いや帰りたい。早く帰って妻や母に会いたいし、新しい生活を築きたい。それじゃ、あっさり帰ったらいいじゃないか。

私の考えが堂々廻りしているうちに、食堂の壁に取りつけられた手廻し時計はもう三時になってしまった。よし当ってみよう、道は開けるだろう、と私は協力の腹を決めて大佐の室をノックした。

『協力します』

『そうですか、それはよかった。改めて感謝します』

これで私の運命は半分ばかり開けそうになった。大佐はあからさまに喜びの色を顔にあらわして、明朝また来るように私に告げた。

次の日、私は大佐と中尉が準備した誓約書と声明書に署名し、帰国後の予定住所、連絡上の合言葉などを協定した。いずれもきわめて形式的なものであったが、ただこの日の通訳が例の語学生の一人であったため、かれが『学』のあるところを示そうとして、

憶良らはいまはまからむ子泣くらむ
そのかの母も吾をまつらむぞ

という万葉の古歌を合言葉に選んだのには、私も苦笑せざるを得なかった。

その日の午後は、大佐から私に今後とも「民主運動」に近づかないことなどの注意があった後、私は大佐の小宴に招かれた。

大佐にすすめられるままに強烈なヴォッカやコニャックをしたたか飲んで、酔歩蹣跚の態で私がバラックに戻ったら、仲間の中隊長が不審顔で私にたずねた。

『あやしいぞ、いいことしたな』

私は、これこそ緻密なようで尻尾の出るソ連式の「間抜け」だと苦笑しながら毛布を頭からかぶって寝てしまった。

六 細菌研究所を探れ!

また、CICが舞鶴で摘発した二人の幻兵団員が当局へ提出した答申書(原文のまま)をみてみよう。

▽斎藤氏の場合

一九四五年十月三十日、私の大隊はチェレムホーボ第31の2(マカリオ)収容所に到着、爾来独逸より輸送し来れる、人造石油装置部分品の卸下作業に従事中、当年は異状なし。

一九四六年一月初め頃、或る日ソ連軍一将校(少尉)私達の部屋に来り、エンヂニャーは居ないかと聞けり。部隊長(光延克郎中佐)は一人居る、それはこの斎藤である、と答えられたり。このことありてより四、五日後、収容所付のMVD(少尉)より彼の部屋(二重扉にて錠あり)に出頭を命ぜられ、次の事項に亘り訊問調査を受けたり。

迎えにきたジープ p.064-065 訊問事項次の如し。

迎えにきたジープ p.064-065 If I incur their displeasure, I cannot return to my homeland Japan for a lifetime. I was caught in deep loneliness and fear and answered everything as they liked.
迎えにきたジープ p.064-065 If I incur their displeasure, I cannot return to my homeland Japan for a lifetime. I was caught in deep loneliness and fear and answered everything as they liked.

このことありてより四、五日後、収容所付のMVD(少尉)より彼の部屋(二重扉にて錠あり)に出頭を命ぜられ、次の事項に亘り訊問調査を受けたり。

1、氏名 斎藤卓郎 年 月 日 生 三二歳

本籍 鹿児島県日置郡——

父母 健在 弟妹五名健在

父の職業 役場員 母 農業

2、出身学校 鹿児島県立中学校、第七高等学校、九大工学部

3、就職先 ——造船所

4、入隊の状況(略)、少尉任官は一九四三年十二月一日

5、部隊の任務(略)

6、航空発動機、軍艦、旋盤の断面略図、之はMVDは何れも知らざる為、極く簡単にスケッチにてごま化せり。

以上にて第一回目は終りたり。それから又暫くして一九四六年二月の半ば頃、又も上記MVDに例の彼の室に呼び出され、上記事項のスケッチ不十分なる点を更に書く様強要せられたり。

以後当地マカリオを出発に至る迄異状なし。

私は玆に於ては倉庫の建築作業に指揮官として(ソ連側監督より指名)従事せり。

一九四六年十一月十八日私達の大隊は帰還の為集結地マルタに向い出発せり。(約一〇〇〇名の中八五〇名)残り一五〇名は其の後の情報によればチェレムホーボ第31の1(炭坑作業)に移動せる模様なり。

一九四六年十一月十九日マルタ第三八二の2収容所に到着。当収容所の修理等雑作業に従事中異状なし

一九四七年二月の或る日(夕方)、MVDより呼び出され、訊問調査を受けたり。この時のMVDは大尉一、通訳(見習士官)一にして「マカリオ」に於ける調書を見つつ訊問せり。

二月末頃、部下一〇〇名を連れべリーの製材工場に出張、三月二十日頃二十三時過ぎ所長の命により歩哨来り、直ちに之と同行、翌四時三十分頃マルタに到着。

収容所門にて歩哨次の如く言えり『八時になったら所長の所へ行け』と。八時に所長の所へ行きし所、暫く待てとのことで待つこと約三十分ばかり、例のMVDの通訳来り私を彼等の例の場所に連行す。この日は上記大尉、通訳の外に中佐居り、主としてこの中佐が訊問せり。

訊問事項次の如し。

1 過日大尉が調べし調書により同様の事を調査せり。

2 作業の状況

『皆元気で百%以上毎日遂行しあるも食糧は二食分にて少く、段々弱りつつあり』と答えたり。

マカリオで二回、又此のマルタへ来て二回目。私は何が故に斯様に取調べを受けるのだろうと不思議でたまらなかった。〝エンジニャー〟なる為なのか? 若し彼等の気に触れる様なことがあったら一生涯なつかしの祖国日本へは帰れない。炭坑作業手として送られ、遂にシベリヤの土と化せねばならないか? と私は深コクなる寂莫感と恐怖心に包まれ、彼等に都合の良い様にすべてを答え

たり。

迎えにきたジープ p.066-067 私はソ連に味方するであろう

迎えにきたジープ p.066-067 Colonel arrogantly ordered me to sign the following: "When I return to Japan, I promise to provide information in the fields of politics, transportation, economics, mainly my specialized heavy industry."
迎えにきたジープ p.066-067 Colonel arrogantly ordered me to sign the following: “When I return to Japan, I promise to provide information in the fields of politics, transportation, economics, mainly my specialized heavy industry.”

と私は深コクなる寂莫感と恐怖心に包まれ、彼等に都合の良い様にすべてを答え

たり。

3 日本には壁新聞があるか。壁新聞をどう思うか?

日本には斯様なものはない。然し学校に於ても会社に於ても、之と同じ様な雑誌を発行して各人に配布している。

意見の発表として又宣伝用として、或は啓蒙の為、壁新聞は良いと思う。

4 日本は何故に敗北したか?

イ、日本の科学がおくれていた。

ロ、日本の社会機構が悪かった。

ハ、戦争の目的が間違っていた。

5 ソ連の参戦をどう思うか。

正しかった。戦争に苦しみある世界人民の解放戦であった。

6 ソ連の国家社会制度を如何に思うか?

良ろしい、ソ連は理想的国家である。

7 ウン、そうである。日本も将来斯様な国家にならねばいけない。然るに日本の資本家、財閥は米国の資本家財閥と手を握り、ソ連に対峙している。将来米ソ戦が起るかも知れないが、若しも米ソ戦が勃発したら、お前は何れに援助するか?

私はソ連に味方するであろう、と言わざるを得なかった。

これ等の事は総べて白紙に問、答とも私に筆記署名せしめたり。

尚、大尉は通訳を通じて露語にて書き、之にも私の署名強要せり。

8 私が『ソ連に味方するであろう』と答うるや、中佐は傲然と威猛高に次の事を署名せよと命じたり

イ、私の偽名を川とす。

ロ、私は日本へ帰ったら政治、交通、経済、主として私の専門たる重工業の分野に於て、情報を提供することを約束する。

一九四七年三月—日                署 名

茲で中佐は私に何か質問はないかと云へり。私は茫然として放心状態にあり、一刻も早く此のノロハシキ部屋を出たかったので別にないと答へたり。中佐は又次の如く私に筆記署名せしめ、暗記を強要せり(書面を見ずに五—六回も云はせたり)

9 あなたは何時企業をやるつもりですか?

私は金がある時に。

一九四七年三月—日                署 名

そして次の様に説明せり。

『あなたは何時企業をやるつもりですか?』と問はれたら、『私は金がある時に』と答へればよ

ろしい。

迎えにきたジープ p.068-069 早まった事をしてはいけない

迎えにきたジープ p.068-069 I was hurried to go outside without a cap, and I was photographed by a man called his friend. (no cap, military uniform for officer, and close-cropped head) I thought I had failed, but it was too late.
迎えにきたジープ p.068-069 I was hurried to go outside without a cap, and I was photographed by a man called his friend. (no cap, military uniform for officer, and close-cropped head) I thought I had failed, but it was too late.

そして次の様に説明せり。

『あなたは何時企業をやるつもりですか?』と問はれたら、『私は金がある時に』と答へればよ

ろしい。

10 それから、日本に帰ったら、お前は何処に住むか、如何なる職業につくか、と強硬に訊間せり。私は次の如く答へたり。

現在日本は極度の就職難にあり、自分は日本に帰って就職出来るや否やは分らない、と。

然るに中佐はどうしても之に答へなければ、一向に私を解放しそうになかったので、入隊前の会社名と、住所を其の場のがれに告げたり。

会社名 某造船所

住 所 某市

以上にて筆記、署名は終り、次のごとき注意事項を考へつつ云へり。

イ、お前が今日玆に呼ばれたことを友達が聞いたら、自動車故障の為に之が修理に呼ばれて、今迄此の作業をやっていた。

ロ、決して他人に言ってはならない。

ハ、日本に帰って、人々からソ連の状況に就いて聞かれたら、私は森林で木材の伐採ばかりやっていたので、ソ連の状況については全然知らない。

ニ、共産主義に関する書物等は絶対手にしてはいけない。

ホ、ソ連大使館には絶対に行ってはいけない。

大体以上で、後は通訳がソ連新聞プラウダの日本欄(確か経済上の情報なりしと記憶す)を通訳して聞かせたり。そして私は遂にこのノロワシキ部屋より放り出された。

私は自分の署名した事の重大さに今更の如く驚き煩悶した。如何にするか? トボトボと出張先に向い、歩きながら考えた。

私には責任がある。部下を全部元気で内地に帰す迄は、如何なることがあっても早まった事をしてはいけない。又日本へ帰ったら直ちに届け出たら何とかなるであろうと。

それから出張先に帰って作業に従事中三月二十五日、又もマルタより歩哨来れり。又かと思っているとき『お前達は近く四月の初め日本へ帰る』早速マルタに帰り、出港の日を待つ間三月二十九日頃、事務所迄来い、との通知で行きし所部屋には例の通訳ありたり。そして愈々日本へお帰りになることになりましたね、お目出度う。一寸外へ出ましょうといって、彼は急いで外へ出た。私もその為に急いで帽子をかぶらずに外へ出た所を、彼の友人と称する奴に写真を写されてしまった。(服装は脱帽、将校服、坊主頭である)失敗った、と思ったが既に遅かった。通訳は左様ならと言い、握手を求めて去っていった。

一九四七年四月八日、私達はマルタを出発、四月十七日ナホトカに到着した。私の大隊は五月十二日の船で帰還した。私達旧将校は如何なる理由か残された。——私の大隊で一部の将校は帰還したが——。そして第六中隊という勤務中隊に編入され、毎日パン工場、軍酒保その他雑作業手として作業に従事した。その後日本新聞社高山氏から私達の残された理由について次のような話を聞いた。

迎えにきたジープ p.070-071 日本新聞社より反動と見なされ

迎えにきたジープ p.070-071 There were only two ways. Suicide, or report to the police as soon as I return. I chose this second option and immediately gave myself up to the police.
迎えにきたジープ p.070-071 There were only two ways. Suicide, or report to the police as soon as I return. I chose this second option and immediately gave myself up to the police.

当時(四月)ナホトカは内地帰還の同胞で入る幕舎もなく、屋外に数日も寝なければならない状況であった。これを整理する為には帰還部隊の中より人員を選り出し、出張作業に出すことになり、私達はその指揮官要員としてであった。そして一部の将校は指揮官となり出張作業に出て行き、私達は残された。そして一日千秋の思いで内地帰還の日を待った。私達は何かにつけて日本新聞社より反動と見なされた。そして私達は到底帰れそうにもなかった。

六月の中旬、私達はスーチャンの将校収容所に送られた。しかし如何なる理由なりしか同所では私達を受取ってくれなかった。それで又ナホトカに帰り今日に至ったのである。そして九月二十日突如内地帰還の命に接したわけである。ナホトカに於ても又帰還の船に於ても、私はかのノロワシキ悪夢の如き件につき幾度か煩悶した。道には二つしかなかった。自決するか、それとも上陸したら直ちに警察に届け出るか——かの命令を毛頭履行する意思のない私には——そして私はこの第二の手段をとり直ちに自首した次第である。

▽山根氏の場合

一九四五年十一月三日私の大隊はイルクーツク第32の12収容所に到着、山中の伐採作業を行い過度の労働と粗悪なる給養の下で全員の約三分の二が倒れた。その為全員は伐採作業に対しては極めて恐怖の念を持っていた。

一九四六年夏第10収容所である肉工場作業に転用されたので、やっとホッとし健康も逐次に回復した。

私は今迄大隊付であったが、一九四六年十一月五日大隊長を命ぜられた。そして十二月十日帰還の為、中間集結地であるマルタ収容所に集合した。

一九四七年一月二十六日深夜、地区司令官の呼出しであると称し、六一六号家屋に連行せられた。そこにはシュザイエル大尉と通訳二名がいて身上調査を受けた。そしてそれは今迄にない微に入り、細に入ったものであった。

氏名 山根乙彦 二九才

家庭の事情 父の職業 大学教授

父母の友人の氏名、住所

本人の友人の氏名、住所

軍歴 某旅団司令部 獣医大尉

以上の様な調査は更に四回にわたり夜十一時より午前二時頃迄行われた。

二月四日再び呼び出され調査を受く。そのときには中佐がいて前回と同様訊問し、次の如き事項を誓約せしめんとした。

1 収容所内に於ける軍国主義者の摘出。

2 内地帰還後に於てソ連代表者に対する情報の提供。

私は日本人として出来ないと断言して席を立たんとした。すると中佐は次の如く脅迫した。

迎えにきたジープ p.072-073 次の情報を提供することを誓約

迎えにきたジープ p.072-073 By March 15, I was called twice and was forced to sign, but did not respond. However, seeing my subordinates fall down one after another due to extreme overwork, I finally signed the spy pledge on March 16th.
迎えにきたジープ p.072-073 By March 15, I was called twice and was forced to sign, but did not respond. However, seeing my subordinates fall down one after another due to extreme overwork, I finally signed the spy pledge on March 16th.

二月四日再び呼び出され調査を受く。そのときには中佐がいて前回と同様訊問し、次の如き事項を誓約せしめんとした。

1 収容所内に於ける軍国主義者の摘出。
2 内地帰還後に於てソ連代表者に対する情報の提供。

私は日本人として出来ないと断言して席を立たんとした。すると中佐は次の如く脅迫した。

1 お前は重労働五十年の刑に処せられる。

2 お前の大隊は直ちに伐採に出す、人事権は私が掌握している。

3 お前の大隊は一番遅れて内地に帰す。

しかし私は室を出た。二月十一日夜突然私の大隊は伐採作業の命を受けた。

三月十五日迄に前後二回呼出され、署名を強要されたが応じなかった。しかし極度の過労の為つぎつぎと部下は倒れて行くのを見て、私は遂に三月十六日署名した。

1 私の偽名を丸太波乗と云う。

2 『私はクレムペラーを持って来ることが出来ませんでした』と云って来る者(それは如何なる国の人であるか判らない)に次の情報を提供することを誓約する。

イ 内地に於ける細菌研究所の位置、内容、研究主任者氏名。

ロ 内地に於ける軍需工場の位置、内容、主任者氏名。

一九四七年三月十六日      署名

その後で中佐に、もし私が内地に帰還後情報を提供しなかったら如何になるかと問うた所『アナタの御想像にまかせます』と答えた。

注意事項として次の事項を云われた。

1 ソ連大使館に積極的に近づいてはならない。

2 舞鶴で米軍の調査を受けても、山の中で何も知らないと答えよ。

三月十七日私の大隊は伐採作業の中止を命ぜられた。

四月二日マルタ収容所で例の通訳と写真機(小型ライカ)を持った地方人に、写真撮影されようとしたが、目的を示さないので拒否した所、日本新聞にのせると称して半身脱帽(将校服、坊主頭姿)で三枚写された。

八月十五日ナホトカで突然例の通訳が来て『元気ですか、それでは願います』と云われた。

九月二十五日ナホトカ出港、二十七日舞鶴港に到着した。私の落着先は鳥取市内某方であるが、本年末又は明春には札幌市内某方(父の友人)に行く予定である。私の様に任務を命ぜられた者は、マルタ収容所だけでも二十名を下らない。

招かれざるハレモノの客

一 七変化の〝狸穴〟御殿

三十年一月二十五日、鳩山首相は元駐日ソ連代表部ドムニツキー首席の訪問を受けて、ソ連政府の日ソ国交調整に関する意志表示の文書を受取った。そして、それ以来日ソ国交調整の動きは二十九年末以来の潜在的動きとは打って変って、日々眼ま

ぐるしく進みつつある。