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正力松太郎の死の後にくるもの p.076-077 〝私憤のバクロ書〟

正力松太郎の死の後にくるもの p.076-077 『表へ出ろッ』私は、社会部のデスクにあった鉛筆けずり用の、切り出しナイフを握って原に迫った。場合によっては、片腕ぐらい刺すつもりである。景山地方部次長が飛んできた……
正力松太郎の死の後にくるもの p.076-077 『表へ出ろッ』私は、社会部のデスクにあった鉛筆けずり用の、切り出しナイフを握って原に迫った。場合によっては、片腕ぐらい刺すつもりである。景山地方部次長が飛んできた……

このような、大新聞の「広報伝達紙」化の傾向は、今後、強まるとも、決して弱まりはし な

い。いよいよ、読者に媚び、大衆に迎合してゆくのである。そうすることによって、「大量生産」の「大量配布」という、「広報伝達紙」としての実力を保持できるのであって、もはや、そこでは、〝読者がつくる、あなたの新聞〟などという、マヤカシのキャッチフレーズはいらない。〝読者不在〟であるということは、新聞が個性を放棄することである。紙面が〝個性〟を放棄する時、それを作る記者もまた、個性を放棄せざるを得ないのである。

新聞が、「社会の木鐸」でなくなったように、新聞記者もまた、「無冠の帝王」ではなくなったのである。原編集局長をして〝孤高〟と評する所以もまた、そこにある。

記者のド根性

さらにまた、いくつかのエピソードを紹介せざるを得ない。

元読売社会部記者の遠藤美佐雄が、森脇将光の森脇文庫から出版したが、事情があって、陽の目を見ずに断截されてしまった、「大人になれない事件記者」の一節である。

「どこの新聞社でもそうだと思うが、社会部には二つの流れがあり、たがいに軽蔑し、反目している。事件派と綴り方派だ。これは、武断派と文弱派に似ている。才能というより血液型の違いだろう。

原さんは、典型的な綴り方派で、国民新聞から文才を買われて、読売新聞に入った人だ。……原氏も、社会部長として、はじめから私を使う気がなかったものでもなかろう。しかし、どうも私は、血液型があわない。私は彼の命令にしばしば反抗した。(中略)

『表へ出ろッ』

私は、社会部のデスクにあった鉛筆けずり用の、切り出しナイフを握って原に迫った。場合によっては、片腕ぐらい刺すつもりである。景山地方部次長が飛んできた……」

この遠藤の本は、このような叙述で〝私憤のバクロ書〟とされており、原をはじめ、登場させられた読売幹部たちから、名誉棄損の告訴をも受けたのであるが、実際に、多くの事実の誤まりを犯している。

例えば、読売社会部が第一回菊池寛賞をうけた「東京租界」という続きものは、私と牧野拓司記者の二人が取材に当ったのだが、これで取りあげた、鮮系米人のジェイソン・リィという、ギャングの親分を、同書では「原—三田—リィの線」などと、もっともらしく書かれているなど、 誤まりが多い。

正力松太郎の死の後にくるもの p.078-079 遠藤をさえも相当に評価していた

正力松太郎の死の後にくるもの p.078-079 原が、社会部の部会へ出た時、彼はこう訓示した。「読売の社会部というのは、読売新聞の主軸なンだ。かつて、遠藤とか三田とかいう記者たちがいて、身を以て築きあげた〝伝統〟をうけついで、仕事に挺身してもらいたい」
正力松太郎の死の後にくるもの p.078-079 原が、社会部の部会へ出た時、彼はこう訓示した。「読売の社会部というのは、読売新聞の主軸なンだ。かつて、遠藤とか三田とかいう記者たちがいて、身を以て築きあげた〝伝統〟をうけついで、仕事に挺身してもらいたい」

例えば、読売社会部が第一回菊池寛賞をうけた「東京租界」という続きものは、私と牧野拓司記者の二人が取材に当ったのだが、これで取りあげた、鮮系米人のジェイソン・リィという、ギャングの親分を、同書では「原—三田—リィの線」などと、もっともらしく書かれているなど、

誤まりが多い。

話はそれたが、社会部員の遠藤は部長の原に対して、先入主の偏見を抱いて、彼を極度に嫌っていたようである。

しかし、原の方が人物は数等上であった。告訴も児玉誉士夫が調停に入って、取り下げとなったのだが、それよりも、原が出版局長から、小島の病死のあとを襲って編集局長へともどってきて、社会部の部会へ出た時、彼はこう訓示した。

「読売の社会部というのは、読売新聞の主軸なンだ。かつて、遠藤とか三田とかいう記者たちがいて、身を以て築きあげた〝伝統〟をうけついで、仕事に挺身してもらいたい」

私の名前が出てくるのが恐縮だが、自分に対して悪感情を持ち、〝切り出しナイフをもって迫って〟くるような遠藤をさえも、原は仕事への情熱という点では、相当に評価していたことが、うかがわれる。

原の訓示の趣旨は、おおむね前記のようなものであったらしいが、訓示されていた、若い社会部の記者たちには、原のこのような〝檄〟も、あまり感動を呼ばなかったようだ。私に、その話をしてくれたある記者が、「遠藤だ、三田だといっても、時代が変っているのだから、あまりピンと来なかったようだ」とつけ加えていたからである。

また、私の名前が出たついでに、原はこうもいっている。昭和四十二年八月八日付の「新聞協

会報」は、全国学校新聞指導教官講習会における、原の「私の新聞制作の態度」と題する講演の要旨を報じているのだが、「取材対象には、できるだけ近付かねばならぬが、それと同時に、最後まで相手と対立する立場を維持しなければならない」「新人記者には、徹底的な 基礎訓練が必要である」とする、その講演の中に、次のようなクダリがある。

「社会部長時代、私の部下にいた優秀な事件記者が、取材に熱心のあまり、ピストル傷害事件の犯人をかくまい、記事を独占しようとしたことがあった。彼は、取材対象にあまりにも近づこうとして、本来守るべきルールを忘れてしまったわけだ。

彼の上司であった自分にも、当然、責任があったわけで、事件のあと〝あれほどの優秀な記者が、なぜあのようなばかげたことをしてしまったのか』と、反省してみた。彼が記者として成長してきた過程をふりかえると、彼は入社したあと、記者として十分な訓練をうけないうちに、すぐ兵隊にとられ、戦地とシベリアの抑留所で、長い年月をすごした。

帰国したのち、すぐに大きな事件を担当するようになり、また、これをこなすだけの力を持っていた。われわれも、これが本当の才能と信じていたわけだが、あとになって考えてみれば、彼には記者になるための、十分な基礎訓練を受ける機会がなかったことが、大きな原因になっている、と思う」

正力松太郎の死の後にくるもの p.080-081 記者になるための十分な基礎訓練

正力松太郎の死の後にくるもの p.080-081 「彼は、十分な基礎訓練を受ける機会がなかったことが原因になっている」原は私が〝ルールを忘れ〟〝バカげた〟ことをしてしまった「原因」を、記者の基礎訓練の問題として、とらえている。これは、正しいことである。
正力松太郎の死の後にくるもの p.080-081 「彼は、十分な基礎訓練を受ける機会がなかったことが原因になっている」原は私が〝ルールを忘れ〟〝バカげた〟ことをしてしまった「原因」を、記者の基礎訓練の問題として、とらえている。これは、正しいことである。

尊敬する先輩であり、かつての、直属上司であった、原の言葉ではあるが、〝あれほどの優秀な記者〟と、過分な表現をされた私として、この講演に異議をさしはさまねばならない部分がある。

私が、昭和三十三年六月十一日の夜、銀座のビルで発生した、「横井社長殺人未遂事件」で、〝本来守るべきルールを忘れ〟てしまったことは、事実である。そのために、犯人隠避として刑事訴追を受けたことが、果して〝バカげた〟ことであったかどうかは、別の問題であろう。

本人である私は、今にしても、決してあの行為を、〝バカげて〟いたとは思えないのである。もっとも、〝バカげて〟いるというのは、原の主観であって、あの事件で社を辞めなければ、今ごろは、原編集局長のもとで、もっと〝新聞〟のために働けたであろうにという、「惜しい男をなくした」という、編集局長としての〝親心〟であろうか。その方が、三田にとっても、社にとっても、新聞界にとっても、プラスであったのに……バカげているという、それこそ身に余る言葉であろう、と考えている。

「彼は、記者になるための、十分な基礎訓練を受ける機会がなかったことが、大きな原因になっている、と思う」——原は私が〝ルールを忘れ〟〝バカげた〟ことをしてしまった「原因」を、記者の基礎訓練の問題として、とらえている。

これは、正しいことである。

私は刑事訴追を受け、有罪となったが、公判を通じて明らかになったことは、安藤組という暴力団とは、過去に全く関係がなかったこと、金銭その他の利をもって誘われたものでも、脅迫などの強制的なものでもなく、全く「五人の指名手配犯人逮捕の記事独占」のためであった、ということである。

そのため、社歴十五年の記者経歴を棒に振り、刑事訴追されて有罪となる——となると、やはり、客観的には〝バカげて〟いるし、原因としては、〝記者としての基礎訓練不十分〟としか、判断しようもないのが事実であろう。

私自身の主張はさておき、だから、原のいうことが、正しいというのだ。では一体、〝十分な基礎訓練〟とは、何を指していうのであろうか。

私たちの時代は、小山栄三の「新聞学」であったが、そのうん奥をきわめることなのだろうか。否である。新聞学の学究が、〝完成された記者〟でないことは、明らかである。

刑事は〝現場百遍〟という。犯罪の手がかりは、すべて現場にあるということだが、これも「読書百遍、意義おのずから通ず」からきたものだ。事件記者の完成は、デカになることではない。

「新聞記者は、疑うことではじまる」

この言葉は、読売の先輩、「昭和史の天皇」をまとめている辻本芳雄記者に、私が教えられた

言葉である。批判の眼を持つことである。抵抗の精神である。

〝記者として十分な基礎訓練〟とは、私は、この批判の眼、抵抗の精神を、徹底的に、自分自身に叩きこむこと、だと思う。

正力松太郎の死の後にくるもの p.082-083 自分自身を批判する自分自身の〝眼〟

正力松太郎の死の後にくるもの p.082-083 私がルールを忘れたのは、実にこの点にあったのである。法を犯して記事を独占しようとしている、三田記者の行動を批判する〝三田記者自身の眼〟が、その時は〝見て見ぬフリ〟をしたのであった。
正力松太郎の死の後にくるもの p.082-083 私がルールを忘れたのは、実にこの点にあったのである。法を犯して記事を独占しようとしている、三田記者の行動を批判する〝三田記者自身の眼〟が、その時は〝見て見ぬフリ〟をしたのであった。

「新聞記者は、疑うことではじまる」

この言葉は、読売の先輩、「昭和史の天皇」をまとめている辻本芳雄記者に、私が教えられた

言葉である。批判の眼を持つことである。抵抗の精神である。

〝記者として十分な基礎訓練〟とは、私は、この批判の眼、抵抗の精神を、徹底的に、自分自身に叩きこむこと、だと思う。

まず第一に、自分自身を批判する、自分自身の〝眼〟が、つねに、記者活動を監視している状態——自分に抵抗する精神がなくて、何で〝新聞記者〟と呼ばれようか。

私がルールを忘れたのは、実にこの点にあったのである。法を犯して記事を独占しようとしている、三田記者の行動を批判する〝三田記者自身の眼〟が、その時は〝見て見ぬフリ〟をしたのであった。

五人の犯人を生け捕り、毎日一人宛、捜査当局に逮捕させて、五日間の連続大スクープと、事件の解決功労者——この恍惚たる〝成果〟に陶酔しようとする、三田記者に対して、まず、〝三田記者自身が抵抗〟せねばならなかったのである。原局長をはじめとする先輩諸氏の訓育も、この〝記者冥利に尽きる成果〟の前には空しく、まず抵抗の精神が、マヒしてしまった。つまりルールを忘れたのであった。

この〝記者のド根性〟が、十分に叩きこまれているかどうかが、基礎訓練の度合いを示すものだと考える。批判の眼は、常に清潔でなければならないのだ。不正を憎み、不義に憤らねば、その眼は濁ってくる。抵抗の精神は、まず己れに厳しくあらねばならない。自分に抵抗することな

くして、何の〝抵抗〟であろうか。

私が、自分自身の〝事件〟を通じ、学んだことは、否、学び直したことは、やはり、このような〝記者のド根性〟であった。

しかし、〝記者のド根性〟が必要とされるのは、やはり、記者が「無冠の帝王」であり、新聞が「社会の木鐸」である時代であったようである。原の訓示が、若い記者たちに身ぶるいを起こさせ、共感の嘆声を発せしめ得なかったということは、そこに、局長と、局長以下との間に、「断層」があるということであろう。

私の経験をもってしても、「社会部長」というのは、大変にエライ人であった。昭和二十四年ごろ、団体等規制令という法律で、朝連(朝鮮人連盟)が解散を命じられたのだが、夕刊のない時代のことで、当時の法務庁記者クラブ詰めであった私ら三人の記者が、朝の早出をサボって、その事件を号外落ちしてしまったことがある。

恐る恐る社に上ってきた私らを、竹内四郎部長は、編集局入口付近で認めるや、はるかかなたの部長席から、大音声で怒鳴りあげたものであった。

「このバカヤローッ!」と。

ワン・フロア、仕切りなしの編集局で、この罵声であるから、局内の視線がすべて私らに集まったことはいうまでもない。

正力松太郎の死の後にくるもの p.084-085 カラ出張しようという悪企み

正力松太郎の死の後にくるもの p.084-085 すべての次長の顔が揃った時、原は、部長席で立ちあがるや、遊軍席を見渡しながら、大声で怒鳴った。「いいか。これから、三田の野郎は、箱根から西へは、出張させるナッ!」
正力松太郎の死の後にくるもの p.084-085 すべての次長の顔が揃った時、原は、部長席で立ちあがるや、遊軍席を見渡しながら、大声で怒鳴った。「いいか。これから、三田の野郎は、箱根から西へは、出張させるナッ!」

原部長の時代になってからのことである。同好の士数名が集まって、酒をくみかわすうちに、興のおもむくままに、さる花街にくり込むハメとなった。いよいよ意気さかんな一行も、やがて来るべき〝オ勘定〟が気になり出してきた。鳩首協議の結果、朝刊デスクで深夜でも社にいた次長を仲間に引きずりこみ、カラ出張しようという悪企みとなり、その次長を花街に招いた。

H次長が〝勇躍〟して共犯となったことはいうまでもない。酒好きでは人後に落ちない人物、であったからである。そして、翌日、私がその次長の承認印で、鹿児島に取材出張をしたのであった。約一週間の休暇ののちに、出社した私に対し、原部長は根掘り葉掘りに、出張の取材状況を質問するのである。いつもの例ならば、私が出張報告で「アア、あれはダメです。シロでした」といえば、それで「ウン、そうか」と、済ませていた部長とは違って、何か様子がオカシイ。

かくて、私のカラ出張と、そのカラクリが一切露見することとなる。その翌日の夕刻、夕刊デスク、朝刊デスクの交代時で、すべての次長の顔が揃った時、原は、部長席で立ちあがるや、遊軍席を見渡しながら、大声で怒鳴った。

「いいか。これから、三田の野郎は、箱根から西へは、出張させるナッ!」

私の仲間の一人であった立松記者は、取材費の精算のために、「何某氏宅訪問、ウイスキー一本、いくら」を羅列した伝票を出したが、「このドロボーの、✕✕人の、パチンコ屋の手伝い野

郎メッ!」と、やはり怒鳴られた。取材費精算の内容が、あまり正確でないことは〝習慣〟として黙認されていたのであったけれども、これではあまりにもデタラメすぎるということであった。

おのれの収入で養う女房子供がいて、それなりに社会人として通用している、三十歳もの男をつかまえて、「バカヤロー、ドロボー」呼ばわりなのである。

事実、遠藤が切り出しナイフを握って、部長に「表へ出ろッ」と迫ったように、写真部長と社会部次長とが、電話器を投げつけて、殴りあうように、見通しのきく編集局内部では、「よりよい新聞をつくる」という、仕事の上での意見の衝突や対立からの、ケンカ出入りが、日常茶飯事のように行なわれていた。

新聞休刊日に、〝全舷上陸〟と称して、社会部員数十名(百名に近い)が、近郊の温泉地に出かける時には、上下にニラミの利く古手記者の「幹事長」のもとに、「輸送、会計、宴会、酒、勝負事」などの幹事のほか、「ケンカ係幹事」までがあって、旅行間におきるケンカの当事者の顔触れから判断して、「あれはやらせておけ」「これは止めろ」と、指導監督をする時代だったのである。

そのような時代には、部下を怒鳴りつけ、上司、先輩に反抗して「批判」と「抵抗」の精神が培かわれていったのであった。これをもって、原は、「新人記者の徹底的基礎訓練」と、いったのであろう。

正力松太郎の死の後にくるもの p.086-087 想像もできないであろう〝素顔〟

正力松太郎の死の後にくるもの p.086-087 原が社会部長になった当時、われわれ警視庁詰め記者たちが、部長歓迎会に、シロクロ、花電車の鑑賞というコースを準備した時のことである。
正力松太郎の死の後にくるもの p.086-087 原が社会部長になった当時、われわれ警視庁詰め記者たちが、部長歓迎会に、シロクロ、花電車の鑑賞というコースを準備した時のことである。

このような時代に、原は順風満帆の記者生活を歩んできた。長身にジャージィの上衣を着こなし、アミダに冠ったソフトから、横ビンの白髪をのぞかせ、有楽橋(今のフードセンターがある堀にかかっていた)を渡りながら、社の玄関に歩んでくる姿は、それこそ、〝新聞記者を絵に描いた〟感じであった。映画のブンヤの、ハンティングに胸ポケットの鉛筆といった、下品なタネ取り時代のイメージから、A級の知識人という社会的評価に高められた新聞記者を、文化部長から社会部長というコースを歩んでいた原が、身をもって示していたのである。

そうかといって、そんな〝キザ〟な〝気取った〟スタイルばかりではない。原が社会部長になった当時、われわれ警視庁詰め記者たちが、部長歓迎会に、シロクロ、花電車の鑑賞というコースを準備した時のことである。本庁の保安で調べて、浅草のとあるウラ露地の旅館が、その会場となった。

われわれの呼んだタレントが到着する前、待たされていた部屋に、妖しい声がきこえてくる。原は、われわれと一緒になって、ツバをつけてあけたフスマの穴から、その部屋をノゾキこんだのであった。

さらにまた、花電車がはじまり、バナナ切りのあとで、ユデ玉子飛ばしの段となったとき、スポンと三メートルほども玉子が飛んだ瞬間、原はアッと小さく叫んでホオを押えた。なんと、バナナ切りの時に、内部に残っていたバナナのスジが、玉子にくっついてハネ飛び、原に命中した

のであった。若い記者諸君には、今の原四郎編集局長からは、想像もできないであろう、〝素顔〟なのである。

仕事と、仕事以外の部分との、チャンネルの切り替えは、極めて画然としていた。取材費がバーのツケに廻るのを承知していても、黙ってハンコを押した。呑んだくれようと、バクチにふけろうと、女におぼれようと、仕事ができればよかった。しかも、「新聞記者の評価は結果論で決まる」という態度であった。彼の人事をみていると、最近はともかくとして、かつてはオベンチャラも、クソ真面目も、共に効果はなかったようである。

部下に対する信頼も、〝赤心をおして人の腹中におく〟態のものであった。前述した、「東京租界」の企画のスタートに当って、部長として私に与えた言葉はただ一つ——「名誉棄損の告訴が、何十本と舞いこんでも、ビクともしないような取材をしろよ」であった。この言葉に、感奮興起しないような「新聞記者」がいるだろうか。

しかし、このような実力と経歴とからくる原の「自信」が、いよいよ、局長と局長以下との間の「断層」をきわだたせる。

ある社会部次長がいった。

「驚いたよ。今の若い記者には……。コロシがあったサツで、サツ廻りの奴が電話してくるンダ。『アノォ、私は日勤なもンですから、もう帰るンですけど、あとは誰に引きついだらよいの

でしょうか』だとサ。まだ、六時すぎごろのことだぜ。三鷹や下山のころには、一カ月以上もウチに帰れなかったのにナ」

正力松太郎の死の後にくるもの p.088-089 立松和博記者の微笑ましいエピソード

正力松太郎の死の後にくるもの p.088-089 彼は、担当係官の顔など、ほとんど知らなかったであろう。現に、読売のスクープに、警視庁の担当係官が口惜しがったことがある。「読売は取材にも来ないで、どうして、あの事件をヌイたのだろう?」
正力松太郎の死の後にくるもの p.088-089 彼は、担当係官の顔など、ほとんど知らなかったであろう。現に、読売のスクープに、警視庁の担当係官が口惜しがったことがある。「読売は取材にも来ないで、どうして、あの事件をヌイたのだろう?」

ある社会部次長がいった。

「驚いたよ。今の若い記者には……。コロシがあったサツで、サツ廻りの奴が電話してくるンダ。『アノォ、私は日勤なもンですから、もう帰るンですけど、あとは誰に引きついだらよいの

でしょうか』だとサ。まだ、六時すぎごろのことだぜ。三鷹や下山のころには、一カ月以上もウチに帰れなかったのにナ」

また、もう一人、古手の記者がいう。

「今年の〝全舷上陸〟は中止だよ。何しろ、若い連中から、ふだんの勤務が乱れていて、十分に〝家庭サービス〟ができないのだから、せめて、新聞休刊日ぐらいは、旅行なんぞやめて、ゆっくりと家族と一緒にさせてほしい、という声が強いのでネ。……時代の流れなんだろうナ。ヤング・パワーというヤツか……」

退社してもう十一年。最近の社員名簿をみてみると、百五名におよぶ社会部員のうち、私の知っている記者は、二割程度しかいないのである。文字通りに、〝時移り、星変って〟しまっているのだった。

紙面にクビをかける

もう少し、昔話をつづけさせて頂く。

売春汚職事件にからむ大誤報事件の立松和博記者についての、微笑ましいエピソードは多い。そして、それは多くが、酒についてであった。

彼が警視庁記者クラブ詰めになって、捜査二課を担当していた当時である。もちろん、タタキ、コロシのデカたちと、付き合えはしなかった。警備、公安がダメ。保安防犯は、麻薬や売春、風紀などがあるので興味を示してはいたが、やはり、二課事件(知能犯罪担当。当時は暴力団関係もふくまれていたが、中心は、何といっても、汚職や会社犯罪であった)に集中していた。

彼は、担当係官の顔など、ほとんど知らなかったであろう。現に、読売のスクープに、警視庁の担当係官が口惜しがったことがある。

「読売は取材にも来ないで、どうして、あの事件をヌイたのだろう?」

係官の疑問も当然である。警視庁の捜査を指揮している、検察庁へ行って取材してくるから、係の顔など知らない男が、ボンボン抜きダネを書くのであった。

深夜の三時、四時。朝刊原稿の締め切りごろに、立松記者は酔って、警視庁クラブに現れる。泊り番の記者たちは各社一名宛であるが、原稿を送稿し終って、サテ、仮眠でもという時の、酔ッ払いのチン入である。

彼は、各社の記者に抱きつき、「オレ、オ前が好きなンだア」と、ホオをペロペロなめる。素面の泊り番は、カオをしかめて逃げまどう。やがて、放声高吟のあげく、彼はズボンのチャック

を下げて、クラブ中に〝放水〟を開始する。

正力松太郎の死の後にくるもの p.090-091 他社の社会部記者たちとマージャン

正力松太郎の死の後にくるもの p.090-091 私は、丸三年にも及んだ警視庁記者クラブを卒業させて頂いて、通産、農林両省クラブ詰(兼務)となった。だが、このクラブ勤務は、ほぼ一年で外される。理由は特落ちである。
正力松太郎の死の後にくるもの p.090-091 私は、丸三年にも及んだ警視庁記者クラブを卒業させて頂いて、通産、農林両省クラブ詰(兼務)となった。だが、このクラブ勤務は、ほぼ一年で外される。理由は特落ちである。

彼は、各社の記者に抱きつき、「オレ、オ前が好きなンだア」と、ホオをペロペロなめる。素面の泊り番は、カオをしかめて逃げまどう。やがて、放声高吟のあげく、彼はズボンのチャック

を下げて、クラブ中に〝放水〟を開始する。

そんなある時、数人がかりで彼を押えつけて、ホースの先端にインクを塗りつけたことがあった(注。記者のデスクには、原稿の加筆訂正用に、青、赤のインク壷と筆が備えられている)。数日後、彼は蒼白な顔色で、私に相談してきた。

「オイ。大丈夫だろうか。先の方からボロボロと、皮が剥げ落ちてくるンだ。……まさか、インクで崩れやしまいナ?」

立松記者の、あれほど真剣で、思いつめた表情は、仕事の時でも見られなかったほどである。——こんな想い出も、すでに幽明境を異にして、四十歳の若さで逝った立松記者を偲ぶよすがの一つである。

付記すれば、克城、良城の遺児両君は、靖子夫人の薫育のもとに、健やかに成長して早くも大学生になっている。

このように、立松記者に対して、読売記者はもちろんのこと、他社の記者諸君も、極めて〝寛容〟であった。

それは何故か?

新聞記者に対する評価は、すべて「紙面」で決ったからである。「紙面」とは、仕事の実績であり、才能の舞台であった。彼の昭電事件における、輝やかしい経歴と、現実のスクープ。極め

て的確、かつ大胆な予告記事、見通し記事と、その記事通りの事件の展開とが、立松記者に対して、人々を寛容にさせ、また、畏敬せしめたのだ。

だが、彼の仕事が、検察庁筋のみに限られていたことが、私の指摘する、〝変則取材〟ということであり、かつ、後年の悲劇の芽を胚胎させていたのであった。

昭和二十四年以来、あしかけ七年間も社会部長の職にあって、〝名社会部長〟の名をほしいままにした原四郎が、昭和三十年春に、編集総務に栄転し、後任に、原のサツ廻り仲間といわれる、景山が社会部長となった。

そして、私は、丸三年にも及んだ警視庁記者クラブを卒業させて頂いて、通産、農林両省クラブ詰(兼務)となった。だが、このクラブ勤務は、ほぼ一年で外される。

理由は特落ちである。多久島という農林省の役人が、何千万円という公金を使いこんで、当局に告発されるのである。その日の夕方五時ごろ、安田農林経済局長が、農政記者クラブに現れて、「只今告発いたして参りました」と発表した。

農政クラブへは、読売は、政治、経済、社会、地方の各部から記者が派遣されており、ニュースの種類によって、各部ごとに分担する。この時、地方部の記者が発表を聞いて、私を探したが見当らないので、直接社会部のデスクに、「こういう発表がありました」と、連絡した。

私は、その日、その時、ずっと通産省の虎の門記者クラブに在室していた。残念ながら、仕事

ではなかった。通産省のクラブには、経済部を主力に、やはり、政治、社会部から記者が詰めている。私は他社の社会部記者たちと、マージャンをしていたのである。

正力松太郎の死の後にくるもの p.092-093 発表モノの特オチとは

正力松太郎の死の後にくるもの p.092-093 原因調査の結果、地方部小野寺記者の通報が、その夜の当番デスク山崎次長のもとにあったのだが、山崎次長は、これを自社の特ダネと感違いして、警視庁クラブに調査を命じた。「特ダネだから隠密に」と
正力松太郎の死の後にくるもの p.092-093 原因調査の結果、地方部小野寺記者の通報が、その夜の当番デスク山崎次長のもとにあったのだが、山崎次長は、これを自社の特ダネと感違いして、警視庁クラブに調査を命じた。「特ダネだから隠密に」と

私は、その日、その時、ずっと通産省の虎の門記者クラブに在室していた。残念ながら、仕事

ではなかった。通産省のクラブには、経済部を主力に、やはり、政治、社会部から記者が詰めている。私は他社の社会部記者たちと、マージャンをしていたのである。

負けがこんでいて、午後からずっと、ジャン台にかじりついていたのだった。そして、その日、そんな大事件が起きているとも知らず、夜の九時すぎまで、他社の記者を放さなかったのである。彼らも、国税庁や文部省の兼務はいたが、農林省兼務なのは私一人であった。

大負けした私は、そのまま社へも上らず通産省から帰宅してしまった。そして、翌朝、自宅で、朝日、毎日を見て、「多久島事件」の大々的な記事の扱いに、ガク然としたのだったが、〝発表モノ〟と判って、安心して、最後に読売をひろげた。

無い! 自社は出ていないのである。

スッと、背筋に冷たさが走った。

「そんなバカな! 発表モノなのに……」

私は、あわてて各面を繰ったが、読売だけ、一行すら載っていないではないか。

重い、苦しい気持で農政クラブに電話を入れると、地方部の記者が出た。

「私は発表を聞いて、社会部のデスクに入れておきましたよ」

不安はさらに募った。ニュースが入っているのに出ていないとは……、かつて、立松、萩原両記者と共に、法務庁クラブで、朝連解散の発表モノを、号外落ちした時よりも、重い足取りで社

へ向った——景山社会部長も蒼い顔であったし、原編集総務も、沈痛な表情であった。こんな大事件の、発表モノの特オチとは、まさに醜態の限りであったからだ。

原因調査の結果、地方部小野寺記者の通報が、その夜の当番デスク山崎次長のもとにあったのだが、山崎次長は、これを自社の特ダネと感違いして、警視庁クラブに調査を命じた。

「特ダネだから隠密に」という注意を守った、捜査二課担当記者は、庁内を当ってみたが判らないので、翌日回しということになったのであった。

いずれにせよ、農林省詰めである私の責任はまぬがれ得ない。ことに遊んでいた時の失敗だから、自責の念にかられた。

ところが、原因調査のさい、山崎次長は「農林省の事件だからと思い、警視庁へ連絡する一方、三田を探して、農林、通產両クラブに社電を入れたが、三田がいなかったので、翌日廻しになった」と、弁解したという話(注。私は以後山崎次長と口を利いていないので、確かめてない)を、部長に聞かされて、私は怒った。

「責任転嫁を部下にするなど、とんでもない野郎だ。今だからいいますが、当日、私はマージャンで通産省クラブから、一歩も外へ出なかったのです。その間、一度だって社電はなかった。他社の三人の証人もいるんです。第一、通産省クラブを呼んだという、電話交換手を明らかにして頂きたい」

正力松太郎の死の後にくるもの p.094-095 以前にも〝事件〟を起していた

正力松太郎の死の後にくるもの p.094-095 数日たって、処分の辞令が社内に掲示された。社会部長、譴責罰俸、私が罰俸一カ月とあって、処分者は二名だけであった。私は、やがて、「多久島事件」の時に、部長が腕組みをしたワケを知った。
正力松太郎の死の後にくるもの p.094-095 数日たって、処分の辞令が社内に掲示された。社会部長、譴責罰俸、私が罰俸一カ月とあって、処分者は二名だけであった。私は、やがて、「多久島事件」の時に、部長が腕組みをしたワケを知った。

私のばく論に、景山部長は黙って腕組みをしてしまった。何かを考えているようだったが、 「マ、いい。オレに考えがあるから、黙ってオレにまかせろ」と、私を制した。

数日後、私は部長に呼ばれた。

「オレも進退伺いを出すが、お前も黙って始末書を出せ」

「部長がそういうなら、私も黙っていうことをききます」

景山とは、そういう人柄の人物であった。そして、それなりに部長を理解できる部下からは、良く慕われてはいたが、ある意味では、古いタイプの〝社会部派〟の記者であった。人情に篤く、温厚な人柄ではあったが、もう一つ、記者の〝鋭さ〟〝非情さ〟に欠けていた。

数日たって、処分の辞令が社内に掲示された。社会部長、譴責罰俸、私が罰俸一カ月とあって、処分者は二名だけであった。

こうして、当然の配置転換。私は通産、農林両省詰めを解かれて、本社勤務の遊軍記者となった。遊軍になって、部長とお茶を飲んだり、ダベったりする機会が多くなって、私は、やがて、「多久島事件」の時に、部長が腕組みをしたワケを知った。

山崎次長という人は、以前にも〝事件〟を起していたのだ。日本テレビの記者座談会での、〝舌禍〟である。時の郵政大臣佐藤栄作に関する、事実無根の呑み屋談義をホントらしくしゃべってしまった。たまたまそのテレビを見た佐藤大臣の抗議から、デマを流した嘱託の記者がク

ビ、山崎次長が次長を剥奪されて平部員に降等、内外タイムスへ出向という、前歴があったのだ。景山は、人情家らしく、やっと次長に復帰してきた山崎デスクを、何とか救ってやろうとしたのである。

前の事件は、原部長時代だ。冷厳な信賞必罰—責任体制の確立こそ、新聞記者という〝責任ある職業人〟にとって、何よりも必要なことであったと思う。

私はいま、自由な立場のライターとして「立松記者事件」の背景を、冷静に眺め、検討してみると、あの大誤報の遠因は、一個人山崎を秘かに救ってやった、景山温情部長の社会部長としてのあり方、姿勢にすでに胚胎していたと考察する。

原四郎編集局長が、七年間も社会部長をつづけていられた、ということの意味の重要さは、このように、毎日、毎日の朝夕刊の「紙面」という、クビのかかった生活の連続の中で、〝名部長〟といわれこそすれ、ほとんどまったく、ミスがなかった——ということなのである。だからこそ、七年間も、「社会部長」がつづいたのだ。

原が統率の才にめぐまれていたということと、さらには、「新聞の体質」が、原という「記者の体質」と同一だったことである。

原四郎編集局長の記者としての体質が、新聞の体質と同じであったことが、彼をして、七年間もの長きにわたって、社会部長の椅子にあらしめた——と、私は書いた。

正力松太郎の死の後にくるもの p.096-097 4章トビラ

正力松太郎の死の後にくるもの p.096-097 紙面にクビをかける(つづき) 4章トビラ 4 〝務台教〟の興隆
正力松太郎の死の後にくるもの p.096-097 紙面にクビをかける(つづき) 4章トビラ 4 〝務台教〟の興隆

だが一方で、私は、昭和三十年代に、新聞は急激にその体質を変えて、「広報伝達紙」となってしまった、とも書いている。すると原の記者としての体質は、どうなってしまったのであろうか。そこが問題である。

4 〝務台教〟の興隆

正力松太郎の死の後にくるもの p.098-099 米上院外交委員会証言内容

正力松太郎の死の後にくるもの p.098-099 極めてショッキングな内容。それは他でもない。先刻御承知の「朝日、毎日はアカの巣くつで、だから、アメリカのベトナム政策が批判されるのだ」というもの。
正力松太郎の死の後にくるもの p.098-099 極めてショッキングな内容。それは他でもない。先刻御承知の「朝日、毎日はアカの巣くつで、だから、アメリカのベトナム政策が批判されるのだ」というもの。

朝・毎アカ証言の周辺

さる四十年四月二十九日の午後、アメリカの二大通信社であるAP、UPIが、そろって打電してきた記事は、日本の新聞界にとって、極めてショッキングな内容で、そのため、外電センターである共同通信社でも、その配信について、しばし思い悩んだといわれるほどのものであった。

それは他でもない。先刻御承知の「朝日、毎日はアカの巣くつで、だから、アメリカのベトナム政策が批判されるのだ」というもの。米上院外交委員会が、四月七日に開いた一九六六会計年度の軍事援助に関する、秘密聴聞会での、ポール国務次官、マッカーサー国務次官補の証言内容についての記事であった。

これに対し、朝日、毎日両紙は、それこそ〝猛然〟と反ばくし、ことに毎日の反ばく記事の扱い方の大きさは、同社の受けた衝撃を物語ってあまりあった。

だが、問題はここからが始まりである。朝、毎の一面の大きな記事に対し、「三大紙」である、読売のそれは、まさに不当なほどの、小さな記事であったからである。

私は、この「三大紙」の同記事を丹念に読みながら、今日を、さらに近い将来を暗示する、極めて象徴的な事実を想い起さざるを得なかったからであった。

四月二十三日、東京中央局の消印。市販のタテ長のハトロン封筒。マジック・インキの達筆(書き馴れた)な宛書、色は黒。差出人の住所氏名なし。内容物は、白ザラ紙二枚にタイプされた檄文と、別紙の内容目次。ここに、その檄文を引用しよう。

「最近の思潮動向の御検討材料として御参考までに同封資料をお送り致します。

この『教育の森』構成草案は、毎日新聞が、『企業—の森朝刊第五面連載』の終了次第朝刊に長期間連載するものの説明であります。

その各項目をみますと、左翼偏向教育グループとして定評のある教育科学全国連絡協議会(略称・教科連・委員長勝田守一—千代田区神田錦町一の三〇平和ビル)の主張、表現をそのまま受け入れ、きわめて一方的な立場から、取材編集を進めていくことが明らかであります。

しかも、そのスタッフに名を列ねる藤田恭平、牧孝昌の両名は、共産党のフロント組織である日本ジャーナリスト会議のメンバーであり、毎日新聞学芸部内においても札つきの左翼として有名な存在であります。

また、村松喬は、さきに学芸部長時代にこれら左翼グループの接近を許し、同学芸部赤化の

原因をつくり、そのため管理能力欠除という理由で学芸部長を解任された人物です。

正力松太郎の死の後にくるもの p.100-101 米国務省政策企画委員長ロストウが来日

正力松太郎の死の後にくるもの p.100-101 ロストウの記者会見は、朝・毎だけが単独会見で、読売はその他大勢とコミの共同会見しかできなかったという、重大な事実がある。そこに、朝毎アカ証言の入電であった。
正力松太郎の死の後にくるもの p.100-101 ロストウの記者会見は、朝・毎だけが単独会見で、読売はその他大勢とコミの共同会見しかできなかったという、重大な事実がある。そこに、朝毎アカ証言の入電であった。

また、村松喬は、さきに学芸部長時代にこれら左翼グループの接近を許し、同学芸部赤化の

原因をつくり、そのため管理能力欠除という理由で学芸部長を解任された人物です。

これらのスタッフによって編集する『教育の森』がいかなる記事となって、紙面に表われてくるかは、自ずから明らかでありましょう。

このような企画のものを、わが国の代表的全国紙であり、社会の公器である毎日新聞が、左翼グループの陰謀企画にもとづき、長期に連載することは、きわめて重大な問題であります。

このような編集計画を進行したことの裏には、昭和四十五年における、日米安保条約の再改訂時を目ざす、左翼言論戦線の計画的陰謀があることは容易に察せられるところであります。

日本ジャーナリスト会議をはじめ、これら左翼言論人は、極めて巧妙に常に機会をとらえ、その編集する紙・誌・電波を利用して、彼らの『革命計画』を推進しようとしており、そのもっとも顕著な例をこの『教育の森』に見ることができるわけであります。

毎日新聞の公正を守るためにも、また、教育についての正しい世論喚起のうえからも、このような編集企画については厳しい批判と適切な対策が講ぜられるよう御期待致します。

なお当面の対策としては、この連載企画の変更、スタッフの解任などを要求すること(文書や面談によって)が考えられますが、その相手としては、次の両氏が適切と思いますので申添えます。

毎日新聞東京本社 上田常隆社長

同        田中香苗論説主幹

(参考)

『教育の森』構成草案中、とくに左翼偏向が明らかな項目、および教科連独自の表現や左翼的問題意識の明白な事例をあげると次の通りであります。              (以下略)」

差出人不明だから、いわゆる〝怪文書〟ではあるが、封筒の筆蹟、要領よくまとめられた文章、上田社長らへのアッピールなど、総会屋や新聞ゴロたちの手になる〝怪文書〟とは、全くジャンルを異にするものであることは明らかである。

そして、これが投函された二十三日という日は、前夜おそく、米国務省政策企画委員長ウォルト・W・ロストウが来日した折でもあり、ロストウは、「朝、毎アカ証言」が入電して、その反響が現れた五月二日まで滞日していたのであった。

さらにはまた、ロストウの記者会見は、朝・毎だけが単独会見で、読売はその他大勢とコミの共同会見しかできなかったという、重大な事実がある。そこに、朝毎アカ証言の入電であった。

それより数カ月も前のことである。テレビのクイズに「世界最大の発行部数を誇る新聞」というのがあった。解答者は「プラウダ」と答え、正解もまた「プラウダ」であった。正解のカネが鳴って、五分とたたないうちに、そのテレビ局の電話が鳴った。電話口では「世界最大の発行部

数を持つのは、読売新聞だ」と怒鳴っていたという。そして、不思議なことには、その番組の終りに、「プラウダは誤りで、正解は読売新聞でした」と、訂正されたという。

正力松太郎の死の後にくるもの p.102-103 もはや三大紙として認めてくれなくなった

正力松太郎の死の後にくるもの p.102-103 このような〝雰囲気〟に包まれていた昭和四十年ごろのことである。いわゆる「務台事件」が起きるのである。務台事件における現象面を追ってみよう。
正力松太郎の死の後にくるもの p.102-103 このような〝雰囲気〟に包まれていた昭和四十年ごろのことである。いわゆる「務台事件」が起きるのである。務台事件における現象面を追ってみよう。

それより数カ月も前のことである。テレビのクイズに「世界最大の発行部数を誇る新聞」というのがあった。解答者は「プラウダ」と答え、正解もまた「プラウダ」であった。正解のカネが鳴って、五分とたたないうちに、そのテレビ局の電話が鳴った。電話口では「世界最大の発行部

数を持つのは、読売新聞だ」と怒鳴っていたという。そして、不思議なことには、その番組の終りに、「プラウダは誤りで、正解は読売新聞でした」と、訂正されたという。

私が読売新聞社会部記者の出身であり、新聞を、そして読売を、こよなく愛するが故に、まず当時にさかのぼって、これだけの事実を提起するのである。

〝日本三大紙の雄〟と称し、称せられ、またそれだけの内容を持っていた、わが読売新聞は、ここ数年のうちに、内容、紙面ともに転落し、かくて、客観はもはや三大紙として認めてくれなくなったということが、ロストウの態度と、ポール、マック両氏証言でも明らかにされたのである。そして、「紙面で来い」という、記者気質と新聞の値打ちとの現実とは、アメリカ人にいわれるまでもなく、それを雄弁に物語っている。たとえ、テレビのクイズは訂正できようとも——

記事の魅力は五パーセント

さて、このような〝雰囲気〟に包まれていた昭和四十年ごろのことである。そしてこの〝雰囲気〟を背景に、いわゆる「務台事件」が起きるのである。ともかく、務台事件における現象面を

追ってみよう。

ここに数通のビラがある。読売労組教宣部で出した「組合ニュース」である。四十年の夏期手当をめぐる交渉委の経過を報じたものだが、その内容をまず、紹介せねばならない。

「交渉内容次のとおり。

組合——会社は〝ないソデはふれぬ〟の一点ばりだが、ランドの記事を見ていると、こんなところに金をつかっているではないかという、不信感がつのるばかりだ。

会社——いつもいうように、ランドには金は出ていない。しかし、ランドは新聞を伸ばすための事業であり、書くのは当り前だ。

組合——春闘のさい、会社は、新聞の公益性を守ると確約したのに、いっこう改まらないではないか。

会社——どれもこれも、新聞を伸ばすためにやっているのだ。「クジラ」がみんなの関心を集めるなら、「クジラ」を書くのも公益性に反するものではない。

組合——社の事業や宣伝も程度問題ではないか。「正力コーナー」もいぜんとしてつづいている。〝どうにかしてもらいたい〟という意見が、組合員だけではなく、読者の間からも強く

出ている。

正力松太郎の死の後にくるもの p.104-105 務台光雄が辞表を提出

正力松太郎の死の後にくるもの p.104-105 代表取締役専務務台光雄が、「所感」をもって、代表取締役副社長の高橋雄豺のもとに辞表を提出、慰留をさけるため、そのまま居所をくらましてしまうという、いわゆる「務台事件」が起った。
正力松太郎の死の後にくるもの p.104-105 代表取締役専務務台光雄が、「所感」をもって、代表取締役副社長の高橋雄豺のもとに辞表を提出、慰留をさけるため、そのまま居所をくらましてしまうという、いわゆる「務台事件」が起った。

組合——社の事業や宣伝も程度問題ではないか。「正力コーナー」もいぜんとしてつづいている。〝どうにかしてもらいたい〟という意見が、組合員だけではなく、読者の間からも強く

出ている。

会社——会社の調査では、読売の読者のうち、〝社主の魅力〟でとっているのが四十%。〝巨人軍〟でとっているのが二十%で、〝記事が良いからとっている〟というのは、わずか五%ぐらいだ。

組合——〝記事でとっているのが五%だ〟というのが、編集の最高責任者の言葉とすると、あまりにひどい。これではみんな記事を書く気も、働く気もしなくなる。

会社——社主の魅力が大きい以上、そうした記事は扱わねばならない。批判的な読者の声もほとんど聞いていない。

組合——ともかく「正力コーナー」はやめてほしい。各職場からそういう声が強く出ている。

「組合ニュース」(六月十六日付、第11号)

驚くべき発言ではないか。これが、前にも簡単に触れたが、編集局長の「五%発言」なるものの全文である。会社、組合という立場の対話で書かれているが、この部分の見出しに、「これが編集局長の言葉か」とあるからには、読売を「記事でとっている」読者が五%という発言は、対話の内容からも、小島文夫編集局長の言葉だと判断される。

この〝五%問題〟は、組合ニュースで流された結果、重大な問題へと発展してきた。

一時は、小島編集局長の引責辞職、正力亨報知社長との交代説などまでが社内に流布されるな

ど、編集ばかりか、全社的な憤激をまき起したほどであった。しかし、十三号でともかく小島局長のクビがつながるだけの、会社側のカオを立て、十四号では、「十八日の交渉委で、会社側から陳謝」ということが報じられた。

「紙面で来い!」という、サッソウたるタンカに含まれるものが、すなわち、経営の姿勢と新聞の公器性である。そのためにこそ、編集ばかりか、工務、業務のあらゆる新聞人が、誇りと自負とを持って、真剣に働いているはずである。それが、「紙面が五%」というのであっては、その意味するものが、購読理由であれ、イメージ調査であれ、いずれにせよ五十歩百歩で、組合側のいう通り、〝記事を書く気も、働く気もしなく〟なるのは当然である。

さる二月十九日付、読売労組教宣部の「闘争情報」第一号によると、組合は、七千五百円の賃上げを会社に要求し、十八日に交渉委が開かれたことを報じている。この「闘争情報」は、号を逐って七千五百円アップ一本槍を呼号し、「スト権確立のための全員投票までを決定した」。いわゆる「春闘」である。

こうして、組合の闘争気運が次第に盛り上ってきた三月十七日、代表取締役専務務台光雄が、「所感」をもって、代表取締役副社長の高橋雄豺のもとに辞表を提出、慰留をさけるため、そのまま居所をくらましてしまうという、いわゆる「務台事件」が起ったのである。所感は、極めて含蓄の多い、次のようなものであった。

正力松太郎の死の後にくるもの p.106-107 「契約金未払いに泣く巨人軍選手」

正力松太郎の死の後にくるもの p.106-107 務台辞任。この事件をキッカケに、次第に〝神秘のヴェール〟を剥がされた、大読売新聞の経営の実態は、到底、世間の人々には信じられないほどの、スサマジサであった。
正力松太郎の死の後にくるもの p.106-107 務台辞任。この事件をキッカケに、次第に〝神秘のヴェール〟を剥がされた、大読売新聞の経営の実態は、到底、世間の人々には信じられないほどの、スサマジサであった。

こうして、組合の闘争気運が次第に盛り上ってきた三月十七日、代表取締役専務務台光雄が、「所感」をもって、代表取締役副社長の高橋雄豺のもとに辞表を提出、慰留をさけるため、そのまま居所をくらましてしまうという、いわゆる「務台事件」が起ったのである。所感は、極めて含蓄の多い、次のようなものであった。

「今回行なわれた、読売労組のスト権確立の投票は、本社の経営に対する不信感の顕れであると思います。従って、その抜本的解決は、経営の責任者である私の辞任が、先決の条件と考えます。

私は、読売新聞が、社会の公器としての使命と責任を全うするために、永久に存続し発展することを希うものであります、(中略)この意味において、今回のことは 誠に遺憾でありますが、しかし、責任の大半は私にあると思います。

依って、本社百年の計を考え、その責任を明らかにするため、辞任する決意をした次第であります」

あけて翌十八日、務台辞任、居所不明のニュースは、読売全社を動揺させた。そして、この事件をキッカケに、次第に〝神秘のヴェール〟を剥がされた、大読売新聞の経営の実態は、到底、世間の人々には信じられないほどの、スサマジサであった。

読売の〝家庭の事情〟

これらの事情を伝えたものに、「契約金未払いに泣く巨人軍選手」(週刊現代 四月十五日号)という、五百崎三郎なる匿名の記事がある。

これによると、四百勝を飾って、巨人軍からプロ球界を引退した、金田をはじめとして、巨人選手たちの、契約金の未払額が約一億円ある。一方、メノコ算で計算して、入場料収入約二億五千万円。これにテレビその他を加えて三億の収入。支出は、最大の人件費一億二千万円、その他で約一億五千万円、差引一億五千万円の黒字だという。それなのに、一億も未払があるのは、読売がその金を流用しているというもので、契約金を分割にすれば浮く利子だけでも大変なものだという。

大体からして、新聞経営の基礎は、購読料収入四と、広告料収入六とに依っている。ところが、オリンピック以後の不況は、この四対六の比率を、五分五分、もしくは六対四にさえ逆転させようとしている。そのため、新聞社はどこでも苦しい。というのは、もはや新聞購読人口は頭打ちで、三社は、北海道の僅かな未開拓人口を求めて、競って進出したほどである。

その上、オリンピックの過当取材合戦で、各社とも数億にのぼる金を注ぎこんだが、広告が思ったほど集まらず、広告スペースの記事にあわてたほどであった。不況は、スポンサーの広告予算の削減を招き、少ない予算で沢山の効果となるので、自然、媒体である新聞社と紙面の撰択が厳しくならざるを得ない。

ということは、一例をあげれば、新聞社の週刊誌でいえば、朝日と毎日は、それぞれ実績と読者層を認められて、それほど広告原稿は減らないが、読売やサンケイは、出稿回数が減ったり、

全く停止されたりするということだ。

正力松太郎の死の後にくるもの p.108-109 苦境にプラスする〝家庭の事情〟

正力松太郎の死の後にくるもの p.108-109 川崎市外の「読売ランド」。読売新聞の金を、正力がみなランドに注ぎこんでしまうので、巨人軍の金も、粉飾決算の日本テレビの金もゴッチャになり、金繰りが苦しいというのである。
正力松太郎の死の後にくるもの p.108-109 川崎市外の「読売ランド」。読売新聞の金を、正力がみなランドに注ぎこんでしまうので、巨人軍の金も、粉飾決算の日本テレビの金もゴッチャになり、金繰りが苦しいというのである。

ということは、一例をあげれば、新聞社の週刊誌でいえば、朝日と毎日は、それぞれ実績と読者層を認められて、それほど広告原稿は減らないが、読売やサンケイは、出稿回数が減ったり、

全く停止されたりするということだ。

ところが雑誌社の週刊誌では、新潮などは、「週刊新潮」だけの入り広告料(同誌に掲載される他社の広告)だけで、全新潮社の出し広告料(他紙誌への出稿広告)を上廻るという、掲載申込を捌き切れないほどの、跛行現象が起きてくる。つまり一流だけは影響がなく、二、三流が苦しいということだ。

広告頁がすいていれば、ついにはダンピングにまでなる。これは、新聞とて同じで、各社の経営は、広告料の減収、購読料の頭打ち、オリンピック投資の負担と、大変な苦境に追いこまれている。

東京新聞が事実上倒産し、中日新聞に買収され、記者たちは、東京新聞社員と中日東京支社員の二枚看板となった。内幸町の土地社屋が二十一億円で売り払われ、田町駅の裏側(畜殺場側)に新社屋を建てて引越したが、それでオツリがきて、そのオツリを資金にせざるを得ないほどである。一時、都内有代部数二十万とまで噂され、メイン・バンクの三和銀行への利子さえ払えないといわれた毎日も、有楽町を売り渡して九段へ引越すという実情である。

ところが、読売には、そのような新聞全般の苦境にプラスする、〝家庭の事情〟があったのである。それが、先程の〝ランド〟という、つまり、川崎市外の「読売ランド」のことである。読売新聞の金を、正力がみなランドに注ぎこんでしまうので、巨人軍の金も、粉飾決算の日本テレ

ビの金も、なにもかも、ゴッチャになり、余計、金繰りが苦しいというのである。

当時の読売新聞の一部当りコストは、朝夕刊セットで、約七百円とされている。ところが、購読料金は四百五十円であるから、月間、一部当り二百五十円の赤字となる。東京本社三百二十万余の発行部数の中、朝夕刊セットを二百四十万部と概算すると、この赤字は六億になるが、広告料収入を七、八億とみて、差引すると、東京本社における限りでは、月間ほぼ二億近い黒字となっている、というのがメノコ算ながらも、ほぼ実情に近い数字であろう。

ところが、大阪はまず独立出来たとしても、東京が背負わねばならない赤字は、西部本社の七千万円、北海道、北陸支社の各二、三千万円、合計一億二千万円ほどのものがある。さらに、金利七千万円、ボーナス借入金月賦返済分(ボーナスは毎期約六、七億円)約一億円がある。これらを総計すると、月間三億円の支出があるので、二億円の黒字は吹っ飛んで、毎月一億円宛、赤字が累積されてゆく計算である。

これらの赤字も、金繰りがつく限りでは、それほど大したものではあるまい。しかし、一方では、東京の本館増築、別館新築をはじめとして、各地の読売会館の建設が、ここ数年の間に急激に行なわれた上、百二十億の金を注ぎこんだ(週刊文春四月十九日号、正力・大宅対談)といわれる、「読売ランド」の大建設が進められているのである。

ランドは株式会社関東レース俱楽部(注。現在は株式会社よみうりランドに合併)の所有である。

正力松太郎の死の後にくるもの p.110-111 読売新聞の〝信用〟にかかっている

正力松太郎の死の後にくるもの p.110-111 新聞が毎月二億の黒字に、ノウノウとしている時ならまだしも、赤字にアエいでいるところなのだから、新聞の〝信用の枠〟を、ランドに使われてしまったあとでは、今度は新聞自体が危うくなってくる。
正力松太郎の死の後にくるもの p.110-111 新聞が毎月二億の黒字に、ノウノウとしている時ならまだしも、赤字にアエいでいるところなのだから、新聞の〝信用の枠〟を、ランドに使われてしまったあとでは、今度は新聞自体が危うくなってくる。

ランドは株式会社関東レース俱楽部(注。現在は株式会社よみうりランドに合併)の所有である。

しかも、例の吹原産業の五反田ボーリング場と同様に、レジャー産業であるから、銀行の融資対象にはならないので、この百二十億の金の金繰りは、あげて読売新聞の〝信用〟にかかってきているのである。新聞ならば金を借りられるが、ランドでは金を借りられないのである。

ところが、新聞が毎月二億の黒字に、ノウノウとしている時ならまだしも、赤字にアエいでいるところなのだから、新聞の〝信用の枠〟を、ランドに使われてしまったあとでは、今度は新聞自体が危うくなってくる。角をためて牛を殺そうというところだ。

春闘のさい、七千五百円アップの要求を出した組合は、会社側の〝赤字〟〝財源がない〟という拒否に対して、ランドへの融資問題を取上げて攻撃してきた。三月二十六日付「闘争情報」によると、

会社は未払い金の方ばかりいっているが、未収益金や、よそに貸している分はいくらあるか。会社はよそに金は貸していないというが、大蔵省の監修で出している、政府刊行物の有価証券報告書によると、関東レース倶楽部の決算報告には、読売からの短期借入金が毎期とも計上されている。これはいずれも当期末残高という形で出されているので、その途中ではいくらになっているかわからない。三十七年九月期・十一億五千万円。三十八年三月期・十一億七千万円。三十八年九月期・五億円。三十九年三月期・六億円。

組合がいままでにも、「金繰りが苦しいのは、ランドに銀行から金を借りてやっているからで

はないか」と質問しても、「そんなことは絶対にない」と答えていた。

この、証拠をつきつけての、組合の攻撃には、会社も参ったらしい。「同情報」によると、会社側の返事は、「決算の仕方でこういう表現になったのだろう。読売の名を使えば信用もつくので、絶対に読売は出していないが、関東レースがどうしているのか調べる」という、白を黒という答え方で、良くもまあヌケヌケとの、感がしよう。

この時の会社側に、務台が加わっていたことはいうまでもない。だが、この日に、組合は、「スト権確立のための全員投票、開票日は二十五日」を決定している。証拠物件を出されての追及も、苦しい否定でしか答えられない、読売の〝家庭の事情〟に加えて、もう一つ、務台専務に辞任の決意をもたらさしめた事件があったという。

務台あっての〝正力の読売〟

「正力の読売」として、零細企業から中小企業へ、そして、今日の大企業へと育ってきた読売には、いわゆるメイン・バンクがない。前年の暮、正力から三十億の金作りを頼まれた務台は、腹

案として三井、住友、勧銀などの主取引銀行で半分の十五億、これに成功すれば、残り十五億は、群小銀行の協調融資団的なものをつくって……と、考えていたらしい。

読売梁山泊の記者たち p.088-089 なんかコンタンがあるンだナ

読売梁山泊の記者たち p.088-089 羽中田誠次長は、読売切っての名文家、と謳われていた。愛称ナカさん。酒好きだ。私たちは、手を打ってよろこんだ。部員のだれからも愛されていた。
読売梁山泊の記者たち p.088-089 羽中田誠次長は、読売切っての名文家、と謳われていた。愛称ナカさん。酒好きだ。私たちは、手を打ってよろこんだ。部員のだれからも愛されていた。

その点、前の社会部長の竹内四郎の、いわゆる親分肌とは、対照的であった。竹内は、正月はもちろんのこと、日曜日など休日には自宅に部下を集め、豪勢な料理を振る舞い、ともに酒を呑み、麻雀卓を囲んで、徹夜することも、辞さなかった。

来る者は、誰でも拒まないし、一視同仁であった。

カラ出張とねやの中の新聞社論

こんなこともあった——ある日の、ある夜のこと。どうして、そうなったのかは、もう記憶にないが、向島の待合で「君福」という店がある。

私の、すぐ上の兄が、慶応の経済を出て、カネボウに入社し、墨田工場の庶務係長をしていた。当時、イトヘン景気の最中で、この待合を良く使っていたようだ。私も、お相伴で、何回か行き、女将を良く知っていた。もう兄は工場にいなかったが、若い記者たち十名ぐらいが、この店でワイワイと、酒を呑むことになってしまった。

さて、夜も更けてくると、首謀者のひとりである私は、店の支払いのことが、気になり出していた。その夜、その席に、だれとだれがいたのか、定かではないが、二、三人と相談して、私がカラ出張をしよう、ということになった。

このカラ出張の伝票に、ハンコを押してくれるデスクが必要である。もう、十二時ごろだったろうか。社に電話して、朝刊担当のデスクをきくと、ナカさんだ、という。

羽中田誠次長は、読売切っての名文家、と謳われていた。愛称ナカさん。酒好きだ。私たちは、手を打ってよろこんだ。

山本五十六元師の国葬の記事で、読者の涙を誘った、という〝伝説〟の主で、部員のだれからも愛されていた。

「向島の料亭で、みんなで飲んでいるのですが、朝刊のメドがついたら、来ませんか。芸妓はいないけど」

「ウン、なんか、コンタンがあるンだナ」

「ハア、伝票を、ひとつ…」

「ウン、分かった。あと一時間ぐらいだ」

なにしろ、原部長の筆頭次長である。夜中でも、編集庶務からは、すぐ現金が出る。私は、車を飛ばして社へ上がった。「九州出張・○○取材調査のため」という伝票に、五万円と書きこみ、ナカさんのハンコを押した。

宿直で寝ていた庶務を起こし、現金を握って向島へ帰ってきた。全員、ワッと歓声をあげて、とうとう、ナカさんを囲んで、朝まで呑んでしまった。

サテ、それから一週間。私の苦しい生活が始まった。待合の支払いが、それで足りたのか、足りなかったか、その記憶はない。だがともかく、私は社へ顔を出せないのだ。

当時、編集局には、夕方になると、菓子やすし、タバコなどを背負ったオバさんが現われて、編集

庶務に店を開く。それがツケだ。タバコは洋モクで、私は、ラッキー・ストライクだけだった。

読売梁山泊の記者たち p.090-091 〝剛腹なる社会部長〟

読売梁山泊の記者たち p.090-091 幸い、部長は、もう私などに目もくれない。たしかに、冷たい刺すような視線であった。その日のデスク会議で、原は開口一番、こういったそうだ。「三田の野郎は、当分、箱根から西へは、出張させるナ!」
読売梁山泊の記者たち p.090-091 幸い、部長は、もう私などに目もくれない。たしかに、冷たい刺すような視線であった。その日のデスク会議で、原は開口一番、こういったそうだ。「三田の野郎は、当分、箱根から西へは、出張させるナ!」

当時、編集局には、夕方になると、菓子やすし、タバコなどを背負ったオバさんが現われて、編集

庶務に店を開く。それがツケだ。タバコは洋モクで、私は、ラッキー・ストライクだけだった。

食事は、中華の楽天というのがあり、これもツケ。つまり、私の生活の根拠地は、読売編集局であり、勤務の宿直以外なら、赤坂に社の指定旅館で「奈良」というのがあって、そこにも泊まれるのだが、出張中だから、社に寄りつけない。タバコも食事も、ツケが利かないのだから、生活に窮してしまう。

ようやく、一週間がすぎて、私は、社に上がっていった。原の性格が分かっているのだから、報告はカンタンでいい。

「部長、九州は…」

ハラチンは、私を見て、終わりまでいわせずに、こういった。

「ダメだった、のだろう?」

私は、二の句がつげなかった。ハアと、間の抜けた返事をしただけ。幸い、部長は、もう私などに目もくれない。たしかに、冷たい刺すような視線であった。

その日のデスク会議で、原は開口一番、こういったそうだ。

「三田の野郎は、当分、箱根から西へは、出張させるナ!」

これは、羽中田から聞かされた。

「バレていたんですネ。で、ナカさんには、なにかオトガメがありましたか」

「イヤ、おれには、なにもいわないけど、すっかりバレているようだナ」

カラ出張でのドンチャン騒ぎが、すっかりケツが割れてしまっても、原の対応は、こんな調子だった。そして、二カ月ぐらいの間、私は、まったく無視されて、部長から、一回も声がかからなかった。

なかなかどうして、原四郎は〝文弱の徒〟ではなかった。〝剛腹なる社会部長〟と、評するべきであった。

〝剛腹〟といえば、ナカさんも、ナカナカの人物であった。その酒好きの故に、筆頭次長でありながら、当番デスクの時、泥酔していて仕事にならないことも、間々あった。だがポカをしないし、必ず、だれかが、助っ人を買ってくれるのである。

「三田、あの件の打ち合わせをしよう」

夕刊デスクは、締め切りが過ぎると、中番デスク(夜になって出てくる、朝刊デスクとのつなぎデスク)に、あとを頼んで、私を誘って外へ出る。

喫茶店にでも入って、打ち合わせするのかと思うと、オット、ドッコイ。三河屋酒店の立ち呑みで、夕方の四時ごろから始まる。

もちろん、ほんとうに、〝仕事の打ち合わせ〟なのだから、兵隊のこっちは、逃げるわけにもいかない。

向島のカラ出張がバレてから、一カ月ぐらい過ぎたころだったろうか。

「三田クン、伝票切って、すぐ福島へ行ってくれ。あの件だ」

「…でも、ナカさん。私は、出張禁止中の身ですから…」