日別アーカイブ: 2021年1月3日

正力松太郎の死の後にくるもの p.114-115 反正力派というものはない

正力松太郎の死の後にくるもの p.114-115 横須賀税務署への申告をみても、正力の私生活は、極めてつつましいものであるが、務台もまた、私財の蓄積を図り、自己の勢力を貯えようという人柄ではなかった。
正力松太郎の死の後にくるもの p.114-115 横須賀税務署への申告をみても、正力の私生活は、極めてつつましいものであるが、務台もまた、私財の蓄積を図り、自己の勢力を貯えようという人柄ではなかった。

読売には、反正力派というものはない。正力直系派と、非直系派とに分類すれば出来よう。というのは、実力で正力に対し得るのは、務台専務をおいて、他にいないからである。高橋副社長は、長い正力との友人関係からその席についていただけで、販売も広告も知らない。しかも、務台専務は、正力に拮抗しようという人柄ではないので、反正力派がないのである。

横須賀税務署への申告をみても、正力の私生活は、極めてつつましいものであるが、務台もまた、私財の蓄積を図り、自己の勢力を貯えようという人柄ではなかった。販売店主たちを支配している、〝務台教〟の伝説に、次のような話がある。まだ、米軍の占領中のこと、務台の令息が、古くなったオーバーを新調してくれと頼んだという。その時、彼は、財布から千円札を一枚出して与えた、という。

それほどに、身辺も飾らず、衣料の値段などには、さらに関心がなかったという、務台の清廉な人格を物語る話である。

組合もまた、務台支持だったのである。務台なきあと、組合は交渉の相手がなくなってしまった。交渉委を開いたが、列席の会社側には、誰一人として、経営の数字について責任ある交渉のできる重役がいなかった。経営者が不在になったのであった。

列席の重役諸公を見渡して若い城石書記長(社会部)がいった。「務台さんが大半の責任(注。務台所感の言葉)なら、みなさんは小半ですか」この痛烈な皮肉にも誰も答えなかったという。

もちろん、務台が辞めたのをチャンスとして、後を襲って自分が経営の任に当ろうという、風雲児の重役もいなかった。

組合が、残った重役諸公に「当事者能力なし」と結論してから、戦術転換がねられ、スト権確立全員投票の中止、七千五百円アップ撤回、務台復帰呼びかけを決定し、闘争委の投票に図った。その結果は、賛成二十八、反対二十二、無効一の少差で決った。反対二十二票は、印刷技術者として、人不足の折柄、引ッ張りだこの一、二階の工場委員で、賛成二十八票は、三階の編集から上のホワイトカラー組。彼らは務台なき読売の崩壊を憂えたのであった。

こうして務台復帰の花道は作られ、つづいての、社側の新賃金体系の撤回と二千円アップを呑んで、春闘は終り、務台専務は再び読売にもどってきた。この時の闘争委の票決は、賛成三十五、反対十九、工場の反対票は固く、前回の少差におびえたホワイトカラーの、闘争委員の出席率が良くなった点をみると、読売の危機は本物であり、春闘後の改選で、城石書記長が委員長になったことは、この組合の〝務台支持〟が、全社員に支持されたことである。と同時に、この二度の票決の内容は、ウデに職のある工場労働者と、ウデに職のない事務系労働者との、危機感の差を示しているともいえよう。

ここで特に断っておかねばならないのは、組合は春闘を終るに当って、すべてを無条件に呑んだのではなかった。「経営の姿勢を正せ」「新聞の公器性を守れ」の二条件を、会社に確約させ、 かつ、読売ランドの実態調査には、会社も協力するとの言質をも取ったのであった。