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正力松太郎の死の後にくるもの p.134-135 左傾—読売新聞は最も急進的

正力松太郎の死の後にくるもの p.134-135 同志と共に左右何れにも偏しない、厳正中立な新聞社を創るべく極秘裡に計画を進めておったのであります。先ず最高幹部に新聞界のベストメンバーを迎え、高速度輪転機二台を確保し、資金の見透しもつき
正力松太郎の死の後にくるもの p.134-135 同志と共に左右何れにも偏しない、厳正中立な新聞社を創るべく極秘裡に計画を進めておったのであります。新聞界のベストメンバーを迎え、高速度輪転機二台を確保し、資金の見透しもつき

「前略、暑さ酷しい折柄ますますご清祥のこととお慶び申し上げます。降て小生儀、大正七年早大を卒業後、富士瓦斯紡績、郡山紡績を経て大正十二年から数年間、当時の報知新聞社で新聞の勉強をさせて頂き、昭和四年、正力社長のご好意により、読売新聞社に入社して今日に至っております。その間五十余年、公私、内外に亘り、いろいろのことがありましたが、日本にとり一番

大きな事件は第二次大戦と日本の敗戦であることは申すまでもありません。そして読売新聞と正力さんにとっても、これは最大の事件で敗戦直後の昭和二十年の十月に朝日、毎日に次いで読売にも共産党との連絡のあった戦争責任追及の争議が起り、正力社長がその解決に努力中、戦犯の指名を受け、更に十二月十一日に巣鴨に収容されることが発表されましたが、その前日、正力さんの堅い決意と体を張っての徹夜の交渉により、経営権と人事権を会社に確保し、馬場さんを後任社長に推薦し、これを決めた後巣鴨に行かれたことはご承知の通りであります。私は争議の起る前の十月五日に、終戦後に新らしく生れた日本新聞連盟の理事長に推薦され就任しておりましたが、正力社長の辞任と共に、本社の取締役は辞任し、連盟の仕事に専念しておりました。

しかし当時の新聞は敗戦の事実とソ連を含めた連合軍司令部の政策の影響を受けて、殆どの新聞が左傾し、中でも読売新聞はその指導的立場に立って最も急進的でありました。従ってこれをこのまま放置するときは、やがて日本の独立にも悪影響を及ぼし、その復興と再建に大きな支障を来すこと必至と考え、同志と共に左右何れにも偏しない、厳正中立な新聞社を創るべく極秘裡に計画を進めておったのであります。先ず最高幹部に新聞界のベストメンバーを迎えることに成功し、高速度輪転機二台を確保し、資金の見透しもつき新聞用紙の配給については、相当量につき(第一回分五十万部、以後成績に応じて増量することに)総司令部首脳の諒解を得て創刊直前にあったのであります。

しかしこのことが偶々読売の最高主脳部に伝わり、その後先方の要請により、私と馬場社長の意を受けた、武藤常務と会見、懇談の結果

一、読売新聞を正常化して、日本の再建と復興に努力すること。

二、その実現には両者が(馬場、武藤と務台)全面的に協力してこれに当ること。

三、務台は創刊準備中の新聞の発行を止めて、これに要する努力を読売の正常化と再建のために尽すこと。

このように両者の意見が一致いたしましたので、新設新聞の関係者と協力者には、卒直に事情を説明して、中止につき諒解を求めましたところ、何れも読売が正常化すれば、われわれの目的は達せられるからといって諒承して頂きました。

そこで武藤氏と会見の上、その他具体的の方策についても種々協議し、その準備にとりかかったのであります。

斯くて昭和二十一年の春から夏にかけて、世間の注目を浴びた読売の極左分子追放、主導権確立の、第二次争議は、幹部の努力と社員、販売店の協力により、小生またその責任を果して、計画通り赤化社員の退社と共に解決され、久しぶりに読売本来の姿にかえったのであります。

ところで争議の解決後小生は前の話し合いにもとづき、専務として当然読売に復帰する筈でありましたが、実際にはそれが実現せず——その後幾多の紆余曲折を経て二十五年の二月に——平

取締役として入社することになったのであります。