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読売梁山泊の記者たち p.134-135 私自身が書いた〝スパイ誓約書〟

読売梁山泊の記者たち p.134-135 だが、それにもまして、私自身が、いうなれば〝ソ連のスパイ〟であったからだ。だからこそ、引揚者の土産話を聞けば、何かピンとくるものがあったのだった。
読売梁山泊の記者たち p.134-135 だが、それにもまして、私自身が、いうなれば〝ソ連のスパイ〟であったからだ。だからこそ、引揚者の土産話を聞けば、何かピンとくるものがあったのだった。

「それで、調べ終わったら、どうするつもりだね」

「もちろん、書くのです。書き方には問題があると思いますが」

「書く? 新聞の記事に? ウン。書く自信があるか」

「ハイ。私は新聞記者です」

「ウーン。よし。危険には十分注意してやれよ」

部長は許可してくれた。それから、私とソ連スパイ網との、見えざる戦いがはじまったのであった。もっとも、すでに私の許には、相当程度のデータは集まっていたのである。何故かといえば、例の処女作品「シベリア印象記」で集まってきた投書について、消息一つない各個人の在ソ経歴を調べていたことや、「代々木詣り」一カ月のデータの中から、めぼしいものが浮かんでいたのである。そのなかには海部内閣の閣僚さえいたのである。

だが、それにもまして、私自身が、いうなれば〝ソ連のスパイ〟であったからだ。だからこそ、引揚者の土産話を聞けば、何かピンとくるものがあったのだった。

私の名は、ソ連スパイ! 私が、「このことは、内地へ帰ってからも、たとえ、肉親であっても、決して話しません」と、私自身の手で書き、署名さえした、〝スパイ誓約書〟が、今でも、ソ連国内のどこかの、秘密警察の極秘書類に残されているのだ。「…もしこの誓約を破ったならば、ソ連刑法による如何なる処罰をうけても構いません」と、死を約束した一文とともに。

「ミータ、ミータ」兵舎の入口で歩哨が、声高に私を呼んでいる。それは、昭和二十二年二月八日の夜八時ごろのことだった。去年の十二月はじめに、もう零下五十二度という、寒暖計温度を記録したほどで、二月といえば冬のさ中だった。

北緯五十四度の、八月末といえばもう初雪のチラつくこのあたりでは、来る日も来る日も、雪曇りのようなうっとうしさの中で、刺すように痛い寒風が、地下二、三メートルも凍りついた地面の上を、雪の氷粒をサァーッ、サァーッと転がし廻している。

もう一週間も続いている深夜の炭鉱作業に、疲れきった私は、二段ベッドの板の上に横になったまま、寝つかれずイライラしているところだった。

——来たな! やはり今夜もか?

今まで、もう二回も、ひそかに司令部に呼び出されて、思想係将校に取り調べをうけていた私は、直観的に今夜の呼び出しの重大さを感じとって、返事をしながら上半身を起こした。

「ダー、ダー、シト?」(オーイ、何だい?)

第一回は昨年の十月末ごろのある夜であった。この日は、ペトロフ少佐という思想係将校が、着任してからの第一回目、という意味であって、私自身に関する調査は、それ以前にも数回にわたって、怠りなく行なわれていたのである。

作業係将校のシュピツコフ少尉が、カンカンになって怒っているゾ、と、歩哨におどかされながら、収容所を出て、すぐ傍らの司令部に出頭した。ところが、行ってみると、意外にもシュピツコフ少尉

ではなくて、ペトロフ少佐と並んで、格幅の良い、見馴れぬエヌカー(秘密警察)の中佐が待っていた。