姉妹紙であるとみられる、報知新聞でさえ、今や、〝嫁にいった妹〟のような存在で、読売育ちの竹内四郎社長が急逝し、正力亨社長になってからは、組合の勢力拡張めざましく、竹内が懸命に試みた読売との人事交流、読売の〝植民地化〟は崩壊してしまった。大阪のよみうりテレビで六人、NTVにいたっては、タッタの二人という出向社員数が、電波との関係を物語っていよう。また、「読売広告社」なる会社は、これこそ、全くのアカの他人で、正力すら関係がないと
いう会社である。
問題の「ランド」、株式会社関東レース倶楽部(注。現在は株式会社よみうりランドに一本化された)もまた、同様に〝家族〟ではない。いわば、親父のメカケのようなもので、読売新聞としては、家財を持ち出してまで、生活の面倒をみる義理はないはずである。ただ、ここでは、正力社主が堂々と代表権をもって、代取会長である。新聞と同じく社長空席のまま、立教出の後楽園系、代取副社長高橋雄二が続く。平取には、川島正次郎、永田雅一らに伍して、新聞の高橋雄豺副社長 正力亨取締役、清水与七郎監査役の三氏が列っている。
関東レースは、もともと正力が追放中のウサ晴らしに始めた会社で、京浜、京成、五島慶太、川島正次郎、永野護らの応援を得て、川崎と船橋の競馬場、船橋のオートレース場を持ち、それを賃貸している、大家業であった。その限りでは、家主だから安定した黒字会社で、別にどうということがなかったから、社員二十名ほどの小会社で、常勤幹部も、それに見合った人材で充分だったのである。
ところが、戦後のゴルフ・ブームに着眼した正力が、プロ野球、テレビの大衆化の故智にならって、読売パブリック・コースを造ろうと計画したことから、ランドの〝死の行進〟が始まったのであった。
東京読売カントリークラブというメンバー・コース、続いては遊園地のランドとなり、七十万
坪の大計画となってしまった。これが、いわゆる「正力コーナー」問題化の始まりである。「正力コーナー」というのは、読売新聞の紙面に、連日のように登場する、正力社主の写真入り宣伝記事のことを、社内でそう呼んでいるのだ。
全社員二十名ばかりの小会社関東レースは、こうして、正力の〝畢生の事業〟とも、〝私の悲願〟とも称する、「読売ランド」によって、従来の、川崎、船橋の営業所の他に、二つ のゴルフ場と、遊園地とを直営する、傭人とも六○○名ほどの大会社にふくれ上ったが、読売の出向社員二名と、定年退職者一名は、単なる一遊戯場の支配人に過ぎず、課長よりも低い地位に置かれている。
読売ランドもまた、組織がない。その乱派ぶりは、急激にふくれただけにひどすぎる。ランド内のモノレールビル二階にある、関東レース倶楽部の本社は、総務、経理、営業、管理の四部制だが、各営業所に責任者がいるわけではない。船橋オートレースは総務部、ランドとゴルフ場は営業部、競馬場は管理部と、経理部を除いた三部が縄張りを持ち、自己勢力の拡張争いをしている。かつて、市営川崎球場の田辺重役が、読売安田編集局長(故人)に、「一回で良いから巨人を川崎に出してくれ」と頼みにきたことがあった。理由を聞いてみると、「巨人が出場すれば、売店は入場者五千人で七〇万、一万人で百四十万以上の利益をあげられる。すると一回で一カ月の維持費が出るから」という。