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読売梁山泊の記者たち p.254-255 GHQ(占領軍総司令部)の内部対立に便乗

読売梁山泊の記者たち p.254-255 「検察は政治に屈服した」という本田が、カン違いしている。いうなれば、検察が暴走した、ということだ。〝権力の快感〟を覚えた、馬場—河井ラインの恣意、検察が政治を支配できるという、錯覚だった。
読売梁山泊の記者たち p.254-255 「検察は政治に屈服した」という本田が、カン違いしている。いうなれば、検察が暴走した、ということだ。〝権力の快感〟を覚えた、馬場—河井ラインの恣意、検察が政治を支配できるという、錯覚だった。

この、伊藤のガセネタ流しが、朝日紙上で活字になった時、本田靖春は、その紙面の末尾に、談話をのせている。

《これ(不当逮捕)を書いた時、私は問題の記事は、おそらく誤報だろう、と思っていたが、T記者のネタ元とみられた、法務省の幹部が、なぜ、ガセネタをもらしたのか、がわからなかった。しかし、今回の秋霜烈日で馬場次官の右腕だったこの幹部を、あぶり出すために、ガセネタ流しが仕組まれたことを初めて知った。仕組んだ人間は、岸本派といえぬまでも、非馬場派の立場ではないか。
検察内部にあった、権力闘争の恐ろしさを改めて、感じさせられた》

本田は司法記者の経験がないので、多分、朝日記者に、この原稿を見せられて(あるいは、話を聞かされて)、動転したのではあるまいか。また、この「秋霜烈日」を、最初から読んでいなかったのであろう。

第四回、第五回の「造船疑獄と指揮権」の項を読んでいれば、「検察内部の権力闘争の恐ろしさ」とは、捉えられないからである。彼は、朝日記者の取材に対して〝売れッ子〟らしく、当たりさわりのない「権力闘争」と答えたのであろう。

ナゼか、といえば、「不当逮捕」のなかで本田は、造船疑獄から、売春汚職に至る間の検察に対して、「検察は政治に屈服し」と、書いているからである。

つまり、「検察は政治に屈服した」という本田が、カン違いしているのであって、検察権は、行政権に属し、内閣が国会に対して、責任を負う、ということである。法務大臣、ひいては総理大臣の責任

のもとに、はじめて検察権の行使がある、ということである。

もし、法務大臣の指揮権に、検察として、検察権の行使に関して不満があるならば、検事総長は、スパッと辞任せよ。そして、次の検事総長もまた、改めて、請訓をして、これまた、指揮権を発動されたら、また辞任せよということだ。

こうして、検事総長の辞任が相次いだならば、もはや、主権者たる国民が、黙っていない、ということになる。

昭電事件から、造船疑獄にいたる六年ほどの間に、検察を代表しているかのような、河井検事の「法律家でない」ところから、いうなれば、検察が暴走した、ということだ。

それは、ひとえに、GHQ(占領軍総司令部)の内部対立に便乗して、〝権力の快感〟を覚えた、馬場—河井ラインの恣意、検察が政治を支配できるという、錯覚だった、ということである。

だからこそ、馬場、河井の影響力が、まったくなくなった時期の、ロッキード事件では田中、小佐野、児玉の三人が、いずれも、逮捕の憂き目を見ている。私は、これを、検察のバランス感覚とみている。

売春汚職では、立松が手に入れてきた、マルスミメモ(政治家の氏名の上に、済の字を丸で囲んだ印がついているメモ)と、立松が河井宅の夜討ちから帰ってきて、印をつけてきた国会議員の名前とが、まったく符号するところから、司法記者クラブ員である、滝沢と寿里が疑問を提起したのだが、「河井検事がネタ元」という一言で、クラブのキャップの私も、デスクも抗することができなかった

のである。

読売梁山泊の記者たち p.256-257 〝河井のリーク〟を確認できるといった程度のもの

読売梁山泊の記者たち p.256-257 「立松事件」で、私もまた被疑者調書を取られた。社の方針が、取材源は黙秘せよであったから、河井の名前は出さなかった。「デマ記事のニュースソースは、保護する必要はない」と主張したが、容れられなかった。
読売梁山泊の記者たち p.256-257 「立松事件」で、私もまた被疑者調書を取られた。社の方針が、取材源は黙秘せよであったから、河井の名前は出さなかった。「デマ記事のニュースソースは、保護する必要はない」と主張したが、容れられなかった。

売春汚職では、立松が手に入れてきた、マルスミメモ(政治家の氏名の上に、済の字を丸で囲んだ印がついているメモ)と、立松が河井宅の夜討ちから帰ってきて、印をつけてきた国会議員の名前とが、まったく符号するところから、司法記者クラブ員である、滝沢と寿里が疑問を提起したのだが、「河井検事がネタ元」という一言で、クラブのキャップの私も、デスクも抗することができなかった

のである。

それにしても、立松が、河井よりも八年後輩の伊藤などの、ペエペエ検事と親しかったとは思えない。つまり、伊藤たちが、立松の戦線復帰を知り、それならば、河井にガセネタを流せば、必ず立松がひっかかる、とまでヨンでいたということも、信じられない。

当時、地検特捜部では、〝怪文書〟扱いをされていた、マルスミメモを、法務省刑事局に報告したことを、伊藤が、ガセネタ流しと称しているのではあるまいか。

それを、河井が恣意で立松にリークし、それを読売がまた、一大スクープ扱いで書き、二人の代議士が告訴し、名前の抜けていた高検の岸本検事長が捜査して、立松を逮捕するという〝筋書き〟を、一体、だれが予測し得たであろうか。

せいぜい、伊藤らが予測し得たことは、河井に流しておけば、どこかの社が動き出すだろうから、〝河井のリーク〟を確認できる、といった程度のものであった、と思う。

決して、〈権力闘争の恐ろしさ〉では、ないのである。

だが、この「立松事件」で、私もまた、被疑者調書を取られた。社の方針が、取材源は黙秘せよであったから、とうとう、河井の名前は出さなかった。しかし、「デマ記事のニュースソースは、保護する必要はない」と、主張したが、容れられなかった。

十月二十四日夕刻に、立松は逮捕状を執行されて、丸の内署の留置場に入った。ところが、読売新

聞は、翌二十五日の朝夕刊とも、この件については、一行も記事を書いていないし、他社も同様である。

というのは、社会部長を古い仲間の景山与志雄にゆずり、編集総務になっていた原四郎が、この「現職記者の名誉毀損逮捕」という未曾有の事件を、どう扱うべきかについて、時間を稼いでいたのであった。

前にも述べたが、本田靖春は読売記者時代に、司法クラブの経験がない。だから、一知半解の部分があるのである。宇都宮代議士は私に対して、「弁護士一任だった」と、のちに語ったのだから、弁護士は、地検の「検事某」を告訴するのに、検事正、検事長、検事総長の三人をも含めたら、一体、誰が、何処が捜査するのか、という着意をもつのが、当然だろう。

従って、監督責任の追及は、直接の検事正、最高の総長に絞るのが、妥当というものである。そしてまた、岸本検事長の指揮のもとで立松の逮捕にいたったのも、決して、本田のいうように、故意でも偶然でもない。

その年の初夏、司法クラブのキャップを命ぜられて、前任者の萩原記者と二人で、挨拶まわりをしていた時の、強烈な印象を、私はまだ忘れられない。

いまは、東京第一弁護士会所属弁護士だが、検事総長秘書官だったS検事が、私の手を固く握って、熱っぽく訴えたのである。

「お願いです。検察がダメになってしまうのです。これだけは、どうしても阻止しなければなりませ

ん。それには、記者のみなさんのご協力が必要なのです。ゼヒ、ゼヒとも、お願いいたします」

読売梁山泊の記者たち p.258-259 当時の「検察の派閥対立」

読売梁山泊の記者たち p.258-259 天野特捜部長、川口主任検事、軽部、野中、岡原と、主な検事たちは、ほとんどが岸本派。読売の立松のネタモトは河井検事ということは公知の事実。そして河井は、馬場派のコロシ屋、〝ヒットマン〟であった。
読売梁山泊の記者たち p.258-259 天野特捜部長、川口主任検事、軽部、野中、岡原と、主な検事たちは、ほとんどが岸本派。読売の立松のネタモトは河井検事ということは公知の事実。そして河井は、馬場派のコロシ屋、〝ヒットマン〟であった。

いまは、東京第一弁護士会所属弁護士だが、検事総長秘書官だったS検事が、私の手を固く握って、熱っぽく訴えたのである。
「お願いです。検察がダメになってしまうのです。これだけは、どうしても阻止しなければなりませ

ん。それには、記者のみなさんのご協力が必要なのです。ゼヒ、ゼヒとも、お願いいたします」

長身で美男のせいか、若く見えるその検事は、新任の読売キャップの手を握って、しばらくは離そうともしなかった。

私には、彼のアピールの趣旨が、よくのみこめず、困惑していた。廊下に出ると、萩原は、ニヤニヤしながらいった。

「オレにもそういってたから、お前にも、伝わっていると思ったんだろ。岸本サ…」

岸本検事長が、検事総長たらんとしていることを、〝阻止に協力〟せよ、ということであった——この一事をもってしても、当時の「検察の派閥対立」の、感情的な一面を、垣間見ることができよう。

「あれは立松君だろう」と、滝沢の顔を見るなり、こうぶっつけてきた天野特捜部長。そして、川口主任検事、軽部、野中、岡原と、当時の東京高検の主な検事たちは、ほとんどが岸本検事長の〝親分肌〟の人柄に魅せられて、いうなれば岸本派と呼ばれる人たちであった。そして、昭電事件以来、読売の立松のネタモトは河井検事だということは、もはや公知の事実だったのである。

そして、河井は、馬場派のコロシ屋、いまようにいえば、〝ヒットマン〟であった。

井本台吉総長、福田赳夫幹事長、池田正之輔代議士の三者が、新橋の「花蝶」で会談した、いわゆる「総長会食事件」(昭和四十三年)で、私が、「東京地検、検事某」を、国家公務員法百条違反で告発した時も、東京高検に告発状を出したのである。

この時のネタモトは、井本総長の失脚を狙った、河井検事であったと、判断されたが、告発状では、「検事某」とした。だから、宇都宮、福田両代議士の「検事某」も、東京高検が捜査を担当するのは、当然である。

天野特捜部長が、滝沢に一パツかませて、立松—河井ラインは、すでに明らかであったから、岸本派の天野が、のちに、二人揃って最高裁入りをした、岡原次席に連絡したぐらいは、容易に考えられよう。

川口は出張先から呼び戻されて、主任検事になる。まずは、キャップである私が、川口に被疑者調書を取られた。

「川口さん。この告訴されている『検事某』ですがね。この検事、ニュースソースとして実在し、立松に情報を出した、と仮定しますよネ。もし、私が、その検事の名前を知っていて、私の調書に、その名前が記載されたとしますと、高検は、どうするんですか?」

「もちろん、その検事を取り調べます」

「パクるんですか」

「供述如何で、任意でやるか、パクるかは、状況次第、ですよ」

「その検事が、相当な地位にあるとしたら」

「犯罪の容疑の有無であって、地位や身分は関係ないですよ」

「フーン…」

読売梁山泊の記者たち p.260-261 「立松君のネタモト知っているんでしょう」

読売梁山泊の記者たち p.260-261 河井検事だと供述したあとに、どんな〝事件の展開〟があることかと考えると、話したい〝誘惑〟にかられた。河井は高検に調べられ、辞職を迫られる。馬場義続も、辞任に追いこまれる。〈歴史〉が私の一言で変わる
読売梁山泊の記者たち p.260-261 河井検事だと供述したあとに、どんな〝事件の展開〟があることかと考えると、話したい〝誘惑〟にかられた。河井は高検に調べられ、辞職を迫られる。馬場義続も、辞任に追いこまれる。〈歴史〉が私の一言で変わる

川口は出張先から呼び戻されて、主任検事になる。まずは、キャップである私が、川口に被疑者調書を取られた。
「川口さん。この告訴されている『検事某』ですがね。この検事、ニュースソースとして実在し、立松に情報を出した、と仮定しますよネ。もし、私が、その検事の名前を知っていて、私の調書に、その名前が記載されたとしますと、高検は、どうするんですか?」
「もちろん、その検事を取り調べます」
「パクるんですか」
「供述如何で、任意でやるか、パクるかは、状況次第、ですよ」
「その検事が、相当な地位にあるとしたら」
「犯罪の容疑の有無であって、地位や身分は関係ないですよ」
「フーン…」

「立松君のネタモト、知っているんでしょう」

「知ってますよ。でも、ニュースソースは秘匿せよという社命だから、いえません」

「話してくれないと、困るんだよなあ…」

そんなヤリトリのあと、私が質問したのは前述したように、高検が、その検事の名前をつかんだあとの、対応であった。「犯罪容疑の有無であって、地位や身分は関係なし」という、川口の表情は、私の眼を直視して、毅然としていた。

私は、「フーン」といいながら、河井検事だと供述したあとに、どんなにか、ドラマティックな〝事件の展開〟があることかと、考えると、話したい〝誘惑〟にかられた。

土井たか子発言ではないが、それこそ〝山が動く〟のである。河井検事は高検に調べられ、辞職を迫られるであろう。当時の馬場義続・法務事務次官も、辞任に追いこまれるかも知れない。岸本は総長になり、〈歴史〉が私の一言で変わるのである——この〝誘惑〟は、まさに、私の人生をも、一変させるようなものであった。

「その検事が、馬場派の検事だったら、川口さんにパクられて、もう、総崩れだネ。高検のメンバーが、このまま、最高検だ。ハハハおもしろいねぇ」

私は、川口の追求を、こんな与太を飛ばして、辛くも、振り切った。

やはり、竹内四郎、原四郎と、二人の対照的な性格の社会部長に、教えられ、育てられた、〈新聞記者・魂〉が、しっかりと根付いていたのだった。

世論形成のため、時間稼ぎをしていた原四郎が、各社と連帯して、高検の不当逮捕を非難する、ゴウゴウたるキャンペーンを捲き起こし、立松は、拘留がつかずに、二十七日午後、釈放された。

事件の後始末、スター記者時代の終わり

それ以後、舞台は、国会の法務委員会に移った。と同時に、読売にとっては、ニュースソースは検察筋と答えた小島編集局長の、法務委への証人喚問という、新しい展開を見せてきた。

国会の証人喚問となれば、証言拒否ができなくなる。被疑者には黙秘権があるが、証人には、黙秘権はない。しかも、そんなヤリトリに慣れていない、小島編集局長が喚問されたら、どんなことになるか。

実際のところ、マルスミメモによって、九名もの代議士に、〝容疑あり〟の記事を書いたのだから、これらの議員が、入れ換えで法務委員に登録してくると、局長の喚問が実現する可能性は、十分にある。

その報告をした時の、小島局長の周章狼狽ぶりは、見ていて、情ない思いであった。これが、読売新聞の編集局長か、と、呆れざるを得ない、ほどであった。

——そこに、正力松太郎代議士が登場する。

原四郎の〝努力〟で、立松記者は釈放された。と同時に、読売新聞あげての、高検・岸本検事長叩きが開始されたのだった。

読売梁山泊の記者たち p.262-263 読売の〝劣勢〟は覆うべくもなかった

読売梁山泊の記者たち p.262-263 司法記者クラブの三人のメンバーである三田、滝沢、寿里の意見は、立松が、河井検事にハメられた、ということで一致していた。立松が、河井に確認した、国会議員の名簿は、マルスミ・メモ以外のなにものでもなかった
読売梁山泊の記者たち p.262-263 司法記者クラブの三人のメンバーである三田、滝沢、寿里の意見は、立松が、河井検事にハメられた、ということで一致していた。立松が、河井に確認した、国会議員の名簿は、マルスミ・メモ以外のなにものでもなかった

原四郎の〝努力〟で、立松記者は釈放された。と同時に、読売新聞あげての、高検・岸本検事長叩きが開始されたのだった。

だが、それは、問題の根本的な解決には、なにものをも、もたらすものではなかったのである。司法記者クラブの三人のメンバーである三田、滝沢、寿里の意見は、立松が、河井検事にハメられた、ということで一致していた。

立松が、河井に確認した、国会議員の名簿は、マルスミ・メモ以外のなにものでも、なかったから、読売の〝劣勢〟は、覆うべくもなかった。

舞台は、すでに、衆院法務委員会に移っており、検事総長は、「両氏には、容疑はないし、検察庁からは、絶対に洩れていない」と委員会で言明した。

そこで、「検察筋」と、両代議士に答えた小島文夫・読売編集局長の、証人喚問へと動き出していた。

本田著「不当逮捕」はこう描いている。

《…。だが、そうはいっても、立松が、司法記者クラブ詰めのキャップである三田に、仕事上のことであるにせよ、迷惑をかけている事実は動かせない。前日来、東京高検と社のあいだを、何度も往復している彼の立場を立松は考えた。

それにもうひとつ、この日の午後二時から後輩である滝沢が、東京高検の事情聴取を受けている、と聞かされたことも、立松には気に掛かるところであった。

ここは、自分が出て行かないことには、収まらないだろう。出頭要請には、いぜんとして、引っ掛かるものがあるが、立松は、そう肝を決めた。

「よし、久し振りに顔見せと行くか」

三田の膝を叩いて立ち上がったときは、かつての、司法記者としての自信が、蘇っていた。 「ともかく出頭して、まず滝沢君を帰してもらいます」

部長席に近づいて、三田との話し合いの結論を告げると、景山はいった。

「滝沢君のことだけど、君こそ病み上がりなんだから、早く帰ってこいよ」

次いで、原編集総務に挨拶すると、ねぎらいを口にした景山とは、打って変わったきびしい表情で、いきなり問いを発した。

「新聞記者の最後のモラルは、何だか知っているか」

その権高(けんだか)な物言いに、立松の胸の中で、むらむらとこみ上げるものがあった。竹内四郎の後を受けた原四郎は、「両四郎」と並び称されて、前任者を上回る名社会部長ぶりを謳われ、整理部長兼編集局総務に昇進したが、現役時代の彼は、文章派に属していた。

同じ四郎でも、司法記者の先輩である竹内のほうに、心を残す立松は、事件も知らずに何が社会部長か、と内心では、原を多少軽んじていた。そうした感情が、頭ごなしの原の問いかけに触発されて、あたまをもたげたのである。

これがふだんなら、持前のヤユで軽くかわすところだが、時と場合をわきまえて、神妙に受け答えした。

「ニュース・ソースのことでしたら、十分、心得ています」

読売梁山泊の記者たち p.264-265 立松は我がままで甘えん坊

読売梁山泊の記者たち p.264-265 本田は、個人的に立松と親しい。いや、私淑していた、といったほうが、正しいかも知れない。そうして、この「不当逮捕」は、立松に好意を持ちすぎるあまりに、冷静な客観の立場を忘れて、ひいきの引き倒しになっている部分が、かなり多い。
読売梁山泊の記者たち p.264-265 本田は、個人的に立松と親しい。いや、私淑していた、といったほうが、正しいかも知れない。そうして、この「不当逮捕」は、立松に好意を持ちすぎるあまりに、冷静な客観の立場を忘れて、ひいきの引き倒しになっている部分が、かなり多い。

「ニュース・ソースのことでしたら、十分、心得ています」

原は、立松の胸中も知らず、端正な顔に似合わない、時代がかった台詞を口にした。

「そうだ。要するに、お前の意地と根性の問題だな」

午後四時、立松は、東京高検の正面で、三田と一緒に乗ってきた車を降り、三階の公安検事室に川口主任検事を訪ねた。

「こんにちわ」

かつての調子で、気軽に扉を押して入ると、川口と差し向かいで坐っていた滝沢が、にわかに取り乱した態度を見せた。

「立松さん、ひどいんですよ。川口さんはこの僕から調書をとるんだから。いま、この記事の説明を、しつこく求められているところなんです」

滝沢は、机の上の新聞を指しながら、表情ばかりか、声までもひきつらせている。

何といっても、まだ場数が足らない。それに神経質な面のある滝沢である。予期しない事態に、動てんしているのだろう。立松は、その程度にしか、受け止めなかった。

しかし、滝沢は川口の容赦ない取り調べぶりから、東京高検の上層部が、自分をオトリに立松を釣り出して、強硬な態度でのぞもうとしているらしい気配を察知し、それを何とか彼に伝えて、入口で引き返させよう、としたのである。》

本田は、個人的に立松と親しい。いや、私淑していた、といったほうが、正しいかも知れない。滝

沢もまた、個人的に親しかったが、社歴では、本田より古かったから、立松を批判できる距離にあった。

そうして、この「不当逮捕」は、立松に好意を持ちすぎるあまりに、冷静な客観の立場を忘れて、ひいきの引き倒しになっている部分が、かなり多い。

立松は、いうなれば〝金持ちのお坊ッちゃん〟であったから、我がままで、甘えん坊でもあった。だが、頭はいいので、自分を大切にしてくれる人に対しては、自分もへりくだり、決して粗末にしなかった。

一方で、自分を粗末に扱う人には、激しい敵意を抱いた。それは、本田も指摘しているように、「クラブに加入して二年、記者歴を通算しても、たかだか三年の若輩」(「不当逮捕」39ページ)で、〝大スター記者〟になってしまったが、記者としての基礎訓練はまったくなく、かつ、原稿も決してウマクない、という、コンプレックスで裏打ちされたものであったろう。

立松は、月給のすべてを小遣いにして、さらに、「取材費伝票」で、経費を取っては、これまた、小遣いにしていた。だが、取材費は清算せねばならない。当時、社会部記者のほとんどが、そうであったように、銀座の松屋に出かけては、落ちているレシートを拾ってきて、その額面金額に合わせて、もっともらしい「項目」を書いていた。

立松もまた、そうしていた。ところが、彼のは、「○○検事にウイスキー」「××検事に果物」など、すべて、検事宅への夜討ちの手土産として、ズラリ列記しているのだ。

読売梁山泊の記者たち p.266-267 「小島局長に証言拒否ができるか」どうかのご高説を

読売梁山泊の記者たち p.266-267 当時、東大名誉教授で法務省特別顧問であった、小野清一郎弁護士をつけることになった。小野は、私の母方の従兄でもあったので、私も大賛成であった。小野弁護士は「そうですね。ウチの助教授たちに、研究させてみましょう」
読売梁山泊の記者たち p.266-267 当時、東大名誉教授で法務省特別顧問であった、小野清一郎弁護士をつけることになった。小野は、私の母方の従兄でもあったので、私も大賛成であった。小野弁護士は「そうですね。ウチの助教授たちに、研究させてみましょう」

立松もまた、そうしていた。ところが、彼のは、「○○検事にウイスキー」「××検事に果物」など、すべて、検事宅への夜討ちの手土産として、ズラリ列記しているのだ。

その大雑把さに、経理部が、レシート番号から、売り場を調べてみたら、婦人下着売り場など、伝票面とツジツマが合わない。そこで、社会部の伝票の〝一大検証作戦〟が行なわれて、原社会部長は、総務局長に文句をいわれたらしい。

社会部長席に戻ってきた原は、部員席を見渡して、たまたま、目についた立松を呼びつけた。私も、そこに居合わせたので、原の怒声を、ハッキリと聞いている。

「立松! このドロボーの、パチンコ屋の手伝い野郎メ!」

それから、立松の提出していた、取材費清算伝票を、彼に叩きつけた——この事件が、立松を深く傷つけたことは、事実である。前任の竹内四郎が、立松を可愛がっていたことはすでに述べた。多分、この伝票事件以来、立松は原に対して、敵意を抱いていたに違いない。

その、立松の「原四郎・観」を、本田は、無批判に、文章にしている。私とて、例外ではない。原に怒鳴られたことは、数多くあるが、救いは、それがその場限りで、アトをひかないことである。

本田のように、「原の権威主義的な統率」というのは、誤りである。彼が、私生活を社に持ちこまず、かつ、部下にも見せなかったように、「原は仕事第一の統率」であった。いい仕事をやる記者は、どんどん、重用していって、励みを与えてくれたのだった。

小島編集局長の、衆院法務委への、証人喚問という動きに対して、読売は、対策を講ぜざるを得ない。

というのは、立松のネタ元が、河井検事、当時は、法務省刑事課長であったことは、すでに、編集幹部はみな知っていた。その、河井検事がタイコ判を押した、宇都宮徳馬、福田篤泰両代議士の収賄容疑が、検事総長の花井忠によって、否定されてしまったから、である。

小島局長、原総務、景山部長、長谷川次長に、前任者の萩原記者、キャップの私を加えての、対策会議がしばしば開かれた。立松逮捕当時には、立松家に木内曽益(注=馬場法務事務次官の兄貴分)、立松記者に中村信敏、柏木博の三弁護士を、萩原、三田の相談でつけたが、立松が釈放になって、局長の喚問という、事態になったのだから、この三人では、適任ではない。

また、二人で相談して、当時、東大名誉教授で法務省特別顧問であった、小野清一郎弁護士をつけることになった。小野は、私の母方の従兄でもあったので、私も大賛成であった。

そうして、小野清一郎と、同じ事務所の名川保男、竹内誠の三弁護士を招いて、同じ顔触れの会議が持たれた。といっても、萩原と私とが、交代で、三弁護士に、経過説明をしたのだ。そして、「小島局長に証言拒否ができるか」どうかの、ご高説を拝聴しよう、というものであった。

ウン、ウンとうなずきながら、話を聞いていた、小野弁護士は、締めくくるように、いった。

「そうですね。ウチの助教授たちに、研究させてみましょう」

この一言を引き出すまでに、すでに二時間ほどが経っていた。そして、このあとはもう、小野発言が出てこない。その日の結論と判断した長谷川次長が、「食事のご案内を…」と、私にいう。

近くのレストランで、全員が会食して、お開きである。食事中の話題には、立松事件はまったく無

し。自動車部から車を呼んで、お送りする。

読売梁山泊の記者たち p.268-269 小野弁護士への謝礼をいくらにするか

読売梁山泊の記者たち p.268-269 私と萩原は、東奔西走の日々を送る。なにしろ、「弁護士選任を前提」として、会議に出席を願ったが、発言は「ウチの助教授たちに、研究させてみる」の一言だけ。「小野清一郎への謝礼の適正金額」を、多くの人に相談してみた
読売梁山泊の記者たち p.268-269 私と萩原は、東奔西走の日々を送る。なにしろ、「弁護士選任を前提」として、会議に出席を願ったが、発言は「ウチの助教授たちに、研究させてみる」の一言だけ。「小野清一郎への謝礼の適正金額」を、多くの人に相談してみた

近くのレストランで、全員が会食して、お開きである。食事中の話題には、立松事件はまったく無

し。自動車部から車を呼んで、お送りする。

この、小野弁護士に関して、後日譚があるのである——正力社主の登場で、一件落着して、証人喚問対策会議は、あとにも先にも、この一回だけであった。だが、それからというものは、小野弁護士への謝礼を、いくらにするかということで、私と萩原は、東奔西走の日々を送ることになった。

なにしろ、読売側から、「弁護士選任を前提」として、会議に出席を願ったものだ。だが、発言は、「ウチの助教授たちに、研究させてみる」の一言だけ。

二人で手分けして、「小野清一郎への謝礼の適正金額」を、多くの人に相談してみたが一向にラチがあかない。私が、遠縁に当たることを奇貨として、法務省特別顧問室に二人で訪ねて、直か当たりすることになった。

ところが、これまた一言だ。

「私が、日本で一流の刑事弁護士だ、ということを、お忘れなければ、いかほどでも、結構です」

とうとう、困り果てた二人が、出した結論は、五十万円。奉書に包み、水引きをかけて届けに行ったら、小野弁護士は、ウラを返して数字をみて、「結構です」と、受け取ってくれたので、ホッとしたことを覚えている。

ところが、五十万円の伝票を持って、小島編集局長のハンコをもらうべく、机上に置いた時、局長は、あの〝周章狼狽〟を忘れたように、「エッ? あの一言だけで、五十万円もするのか?」と、卑しい発言をした。それを納得させるのに、またまた一苦労であった。

どうして、正力松太郎社主・衆議院議員が登場してきたのか、その経緯については、私には、まったく情報がない。

当時、正力社主に、対等に口を利ける政治家としては、賀屋興宣と岸信介ぐらいしかいない。このふたりの、どちらかが、読売にも宇都宮、福田両代議士にも、キズをつけないような、調停案を出したものであろう。

【図版キャプション】昭和32年12月18日(左)と同年10月18日(右)の朝刊紙面

読売の社会面トップ。昭和三十二年十月十八日付の、「収賄の容疑濃くなる」という、五段抜きの見出しと同じ号数で、「事件には全く無関係」という、同じ行数の打ち消し記事を掲載する、ということで、和解する。名誉毀損の告訴は取り下げる、という、調停案の内容が、私と萩原に伝えられた。

こうして、丸二カ月後の十二月十八日の朝刊に掲載された。和解ののち、あとは社内の処分が発表されただけだ。

景山社会部長は、一等部長から降格されて、三等部長

である「少年新聞部長」に左遷された。立松記者は、停職一週間。ともに、減俸がついていたような気がする。処分は、このふたりだけであった。

読売梁山泊の記者たち p.270-271 第六章トビラ 安藤組事件・最後の事件記者

読売梁山泊の記者たち p.270-271 だが、景山の後任として、教育部長だった金久保通雄が、社会部長となるに及んで、人事問題の余波が、社会部に吹き荒れた。 第六章トビラ 安藤組事件・最後の事件記者
読売梁山泊の記者たち p.270-271 だが、景山の後任として、教育部長だった金久保通雄が、社会部長となるに及んで、人事問題の余波が、社会部に吹き荒れた。 第六章トビラ 安藤組事件・最後の事件記者

景山社会部長は、一等部長から降格されて、三等部長

である「少年新聞部長」に左遷された。立松記者は、停職一週間。ともに、減俸がついていたような気がする。処分は、このふたりだけであった。

司法記者クラブでのキャップではあったけれども、立松が、社会部長直轄だったので、私は責任を問われることはなかった。

だが、景山の後任として、教育部長だった金久保通雄が、社会部長となるに及んで、人事問題の余波が、社会部に吹き荒れた。

第六章 安藤組事件・最後の事件記者

読売梁山泊の記者たち p.272-273 かねて顔見知りの元山富雄から電話があった

読売梁山泊の記者たち p.272-273 六月に入ると、横井英樹・殺害未遂事件という、ドラマチックな事件がボッ発した。渋谷の不良、安藤組が拳銃で横井を射ったのである。いまでこそ、横井の〝正体〟はバレていて…
読売梁山泊の記者たち p.272-273 六月に入ると、横井英樹・殺害未遂事件という、ドラマチックな事件がボッ発した。渋谷の不良、安藤組が拳銃で横井を射ったのである。いまでこそ、横井の〝正体〟はバレていて…だが当時は、「東洋郵船社長」という実業家として通っていた

ころがり込んできた指名手配犯人

「危険な記者は、社会部の現場からトバす」というのが、新任の金久保社会部長の方針のようであった。

部長のこの方針は、とりも直さず、国会の法務委員会に、証人喚問されそうになって、震え上がってしまった、小島編集局長の方針でもあったのだろう。

この時期、原四郎は、編集総務から出版局長になって、新聞制作からは、遠ざけられていた。〝遠ざけられ〟たといっては、語弊があろう。立松事件の後遺症に苦しむ、社会部記者たちとは、隔離されていたのだった。

金久保部長に対する、私の反抗的な言動が、部長に伝わったのだろう。大阪の次長、週刊読売の次長といった、配置転換の話が、私にきたのは、昭和三十三年春ごろのことだったろう。

この二つの人事異動を拒否したのだから、この次には、もっと悪いポストの話がくるだろう、と思っていた。例えば、厚生部の次長とか、編集以外の部門に出されるナ、と感じていた。

——編集局以外へ左遷されたら、サッサと辞めてやる!

心中秘かに、そう決心をしていたものであった。まだ、三十歳代なのだから、転進するぐらいはヘッチャラさ、と、思っていた。

そして、六月に入ると、横井英樹・殺害未遂事件という、ドラマチックな事件がボッ発した。渋谷

の不良、安藤組が拳銃で横井を射ったのである。

久しぶりの、事件らしい事件に、警視庁クラブは沸き立っていた。司法クラブ前任キャップの萩原が、警視庁のキャップになっていたので、私も、道路一本を隔てた警視庁に出かけて、記者会見のやりとりを聞いていたりしたのだった。

ところが、安藤組の親分、安藤昇は逃亡していて、所在がつかめない。組事務所には、花田という副親分ひとりが残っていて、主な組員は、みな、地下に潜伏してしまった。

いまでこそ、毎日のように、殺人事件が起きていて、コロシが社会面のトップになるようなことはない。だが、そのころには、まだ殺人事件というのは、月に一件か二件だったから、コロシは、やはり社会面の花だった。

考えてみれば、きょうこのごろは、何でもないことで、すぐ、人を殺す。少なくとも、三十年前ごろには、殺人の件数が非常に少なかったのだから、イヤな世相に変わった、ともいえるだろう。

安藤親分は、依然として捕まらない。「これは社会不安である」として、当時の岸首相は、田中栄一警視総監を呼びつけて、叱りつけた。異例中の異例であった。

いまでこそ、横井の〝正体〟はバレていて、横井が射たれたといったところで、首相が総監を叱るなどとは、考えられもしないことだ。だが、当時は、横井は「東洋郵船社長」という、レッキとした実業家として、通っていたからであろう。

と、そこに、かねて顔見知りの元山富雄から、私に電話があった。元山とは、さきごろの国際航業

事件で、十二億円の〝闇対策費〟を受け取ったのち、急死してしまったことで有名な人物である。

読売梁山泊の記者たち p.274-275 「殺すんじゃない。左肩でもブチ抜いてやれ!」

読売梁山泊の記者たち p.274-275 横井は、白木屋の乗ッ取りをかけたことがある。その時動員したなかに、安藤がいた。いまは、渋谷の安藤組親分になっていた安藤を見て、横井は、「ナンダ、白木屋の時のチンピラか」と、小馬鹿にした。
読売梁山泊の記者たち p.274-275 横井は、白木屋の乗ッ取りをかけたことがある。その時動員したなかに、安藤がいた。いまは、渋谷の安藤組親分になっていた安藤を見て、横井は、「ナンダ、白木屋の時のチンピラか」と、小馬鹿にした。

いまでこそ、横井の〝正体〟はバレていて、横井が射たれたといったところで、首相が総監を叱るなどとは、考えられもしないことだ。だが、当時は、横井は「東洋郵船社長」という、レッキとした実業家として、通っていたからであろう。
と、そこに、かねて顔見知りの元山富雄から、私に電話があった。元山とは、さきごろの国際航業

事件で、十二億円の〝闇対策費〟を受け取ったのち、急死してしまったことで有名な人物である。

「安藤組事件のこと、知ってるかい?」というのだから、私は、欣喜雀躍して会いに出かけていった。

簡単に、事件のことを述べよう。横井が、蜂須賀侯爵家から、当時の金で二、三千万だかを借りて、返そうとしない。蜂須賀家では裁判を起こし、勝訴して差し押さえをかけたら、豪邸から家財道具までのほとんどが、他人名義のため、三万五千円の応接セットしか差し押さえできなかった。

その話を聞きこんだのが、元山である。元山は、安藤に話し、「法律で解決できないワルなら、オレたちが裁く」ということで、横井に掛け合いに行った。

横井は、それ以前に、東洋製糖の秋山社長問題から、白木屋の乗ッ取りをかけたことがある。白木屋というのは、いまの東急デパート日本橋店のことで、名門デパートだった。その時に、横井側で動員した不良少年のなかに、安藤がいたものだった。

いまは、渋谷の安藤組親分になっていた安藤を見て、横井は、「ナンダ、白木屋の時のチンピラか」と、小馬鹿にしたものである。

怒った安藤は、蜂須賀問題どころではなくて、渋谷の事務所に取って返すと、子分の千葉に命じた。

「横井をコラシめてこい。殺すんじゃない。左肩でも、ブチ抜いてやれ!」

千葉は、射撃の名手といわれ、銀座の東洋郵船社長室にのりこんで、命令通りに左肩を射ってきた、ものである。

一方、病床の横井に、警視庁の係官が、安藤組の顔写真を見せると、「コレだ!」と、犯人の顔を見つけた。これは、横井の見誤りで、事件に関係のない小笠原だったが、警視庁は、小笠原を全国に指名手配した。

そしてそのころ、これまた、旧知の王長徳という、怪中国人がいた。「東京租界」のころ、取材で知り合った男だ。この王から電話があって、彼の許に出かけていった。

この王が経営している、碑文谷あたりのマーケットの事務所にいるというので、そちらへまわって見ると、大声で怒鳴っている。

「なんだ、ホンの二、三日だというから、かくまってやったのに、もう一週間にもなる。一体、どうする気だ」

「ハ、ハイ。でも、まだ、組のほうから、何もいってこないので…」

安藤組の若い衆らしい男が、困り切った様子で、頭を下げている。

「ナニが、どうしたんだい?」

「イヤね、安藤組の男を預かったんだけど、指名手配だというから、出ていってくれ、といってるところだ」

「面白そうだネ。その男に会わしてくれよ」

「ヨシ、アンタにやるよ」

「わかった、オレがもらった!」