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読売梁山泊の記者たち p.280-281 小笠原ではダメだ。花田にゲタを預けなければ

読売梁山泊の記者たち p.280-281 「え? かくまえ、だって? あんたは、指名手配犯人ですよ。…刑法の犯人隠避罪になるんですよ、この私が…」今度は、小笠原が口をつぐんでしまった。気まずい沈黙の時が、しばらく流れた。——ウン、とうとう、飛びこんできたゾ!
読売梁山泊の記者たち p.280-281 「え? かくまえ、だって? あんたは、指名手配犯人ですよ。…刑法の犯人隠避罪になるんですよ、この私が…」今度は、小笠原が口をつぐんでしまった。気まずい沈黙の時が、しばらく流れた。——ウン、とうとう、飛びこんできたゾ!

金久保社会部長と、小島編集局長に対してクーデターを起こそう、という決心は、社の車で送られて、世田谷の家に帰りつくまでにもう、九分九厘まで決めていた。

翌日、やや早目に起きると、社の自動車部に電話して、家から五分ぐらいの距離にある北沢署に車を呼んだ。

たしかに、〝いい時代だった〟と思う。三十歳代の後半とはいえ、出勤には、いつも社用車が使えたのだから…。

ひる前ごろ、赤坂の奈良旅館に着いてみると、小笠原は、昨夜、「指名手配なのだから夜が明けたら、ここを立ち去って下さい」といっていたのに、まだ、旅館に居たし、私の来るのを、待っていたような感じだった。

「どうしたんです。まだ、居たんですか」と私はワザと、詰問調にいった。

「…あのう、お願いがあるんですが…」

——きたな! と、私は思った。

「ゆうべと今朝、花田とも、連絡を取ったのですが、やはり、兄キよりも先に、捕まるわけにいかないんです。それに、私の指名手配はマチガイですし…」

「……」

「…で、兄キが自首するまで、もうしばらくの間、どこかに、かくまって頂けないものでしょうか…」

「え? かくまえ、だって? あんたは、指名手配犯人ですよ。…刑法の犯人隠避罪になるんですよ、この私が…」

今度は、小笠原が口をつぐんでしまった。気まずい沈黙の時が、しばらく流れた。

——ウン、とうとう、飛びこんできたゾ!

——しかし、小笠原との〝取引〟ではダメだぞ。花田に、ゲタを預けなければ…。

ダンマリのなかで、私の心の中では、着々と、クーデター計画が煮つまっていった。

「この場では、私には返事ができない。仕事もあるので、私はでかけるけど、夕方、暗くなったら、花田さんを呼んでおきなさい。

メシは運ばせるけど、部屋から出てはダメだよ。今朝、ここを立ち去らなかったので、私は、再度、今夜には出ていくように、厳重に注意したんだよ」

事務的な口調でそういうと、司法記者クラブに出かけていった。

犯人を旭川へ、サイは投げられた

夕刊の締め切りがすぎたころ、私は、警視庁クラブに出かけていって、キャップの萩原や、捜査二課担当の子安雄一記者に、安藤への追及状況を聞いた。まだ、足取りは、まったくつかめていないようだった。

それから、シベリアで一緒に苦労した、大隊長の塚原元大尉に電話を入れ、「至急、会って相談した

いことがある」といった。

読売梁山泊の記者たち p.282-283 小笠原をオトしてやるメドがついた

読売梁山泊の記者たち p.282-283 「実は、詳しいことは、まだ話せないのですが、一人の男を、しばらく預かってくれる戦友がいないでしょうか。北海道など、遠いところがいいんですが…」塚原大尉、外川曹長とも、一切の事情は知らせなかった。
読売梁山泊の記者たち p.282-283 「実は、詳しいことは、まだ話せないのですが、一人の男を、しばらく預かってくれる戦友がいないでしょうか。北海道など、遠いところがいいんですが…」塚原大尉、外川曹長とも、一切の事情は知らせなかった。

それから、シベリアで一緒に苦労した、大隊長の塚原元大尉に電話を入れ、「至急、会って相談した

いことがある」といった。

塚原大隊長は、もともと、私の上官ではなかった。八月十三日、満州国の首都・新京で私の所属する二〇五大隊の主力は、すでに満ソ国境の白城子付近に展開していた、旅団主力に合流できず、新京防衛隊に編入されていた。そして敗戦。

やがて、南の公主嶺に撤退し、一千五百人の部隊編成が命令された。そこで、二〇五大隊を基幹として、二〇三大隊の一部を加えてジャスト一千五百名が編成された。

だが、シベリアに入ったその冬、二〇五大隊長だった星野六蔵少佐が死亡して、二〇三大隊の長だった、塚原勝太郎大尉が、後任の大隊長になった。

バイカル湖の西側、イルクーツクから、シベリア本線で二つ目の駅、チェレムホーボの炭鉱で、私たちは働かせられた。はじめは、建制(旧軍の編成)のままの作業隊だったが、のちに、将校だけの作業隊になったので、私は、塚原大尉とも、親しくなっていた。

「実は、詳しいことは、まだ話せないのですが、一人の男を、しばらく預かってくれる戦友がいないでしょうか。北海道など、遠いところがいいんですが…」

「ウン、話せない事情があるのなら、聞かないことにしよう。そうだナ。旧部下で、思い当たるのは、旭川で材木屋をやっている、外川曹長ぐらいだナ」

「あァ、外川さん。私も知っていますが、そんなことを頼めるほど、親しくないので…」

「いや、いいよ。オレが頼んでやるよ。住みこみの店員もいるし、ひとりぐらい…」

「でも、あんまり、肉体労働のできる男ではないので、寝るところとメシだけ、お願いできれば…」

「よし、分かった。頼んでやる。オレと同じ二〇三大隊育ちだから、引き受けるよ」

「スミマセン。…どんなに長くても、一カ月ぐらいですので…。ア、山口二郎という男ですが、上野を発ったら、旭川着の時間をお知らせします」

私が、王長徳から、小笠原を〝もらった〟時に彼は、山口二郎といっていたのを、思い出して、そうつけ加えた。

塚原大尉、外川曹長とも、一切の事情は知らせなかった。迷惑がかからないよう、留意したのであった。それでも、塚原大尉には、二泊三日ぐらいの、留置場体験をさせてしまった。二人の供述が、ピタリと一致したので釈放されたのだった、けれども……。

シベリア会という、戦友会が、年一回開かれている。その席で、塚原大尉とはじめて同席した時、私は発言を求めて、改めて、謝罪したものだった。

さて、話の本筋へ戻ろう——小笠原をオトしてやるメドがついたので、夜になって、奈良旅館へ出かけていった。もう、ハラは決まっていた。

花田が来て、小笠原からではなく、花田から頼ませる形をとった。

「あくまで、安藤親分の自首までの間、ですからね。そして、安藤が自首する前、私にはインタビューさせて下さい。警視総監が首相に叱られた事件だから、多分、実情は自首であったとしても、逮捕

という形を取ることになるでしょう。

読売梁山泊の記者たち p.284-285 サイは投げられたのだった

読売梁山泊の記者たち p.284-285 駅の雑踏には、私服の刑事がウロウロしているケースも多い。小笠原の姿が、改札口の向こうで、人混みにまぎれてしまうと、肩の力が抜けた。待たせておいた車に戻り、深々と座席に身を沈めた。
読売梁山泊の記者たち p.284-285 駅の雑踏には、私服の刑事がウロウロしているケースも多い。小笠原の姿が、改札口の向こうで、人混みにまぎれてしまうと、肩の力が抜けた。待たせておいた車に戻り、深々と座席に身を沈めた。

「あくまで、安藤親分の自首までの間、ですからね。そして、安藤が自首する前、私にはインタビューさせて下さい。警視総監が首相に叱られた事件だから、多分、実情は自首であったとしても、逮捕

という形を取ることになるでしょう。

それから、上野駅までは、私が送ります。落ち着き先へ到着したら、連絡を入れますから、食費その他の経費は、そちらで賄って下さい。切符代もね。もちろん、先方では、なにも事情は、一切知らないのですから。軍隊と捕虜の〈友情〉なのです。

途中、職質で逮捕されたりしたら、私は、まったく、関知しませんから、旅館のマッチやメモ類など、持たないこと。花田さんの電話番号は、頭の中に入れて下さい」

私は、あらゆる場合を想定して、安藤の自首までの、時間稼ぎを考えていた。警視庁は安藤の足取りを、まだ、つかんでいないことは確かだった。

安藤と千葉の身柄を、捜査二課が押さえた段階で、小笠原は、自首してもらえばいいという、プログラムだった。

そして、それらの連絡は、合法面に残っている花田である。私が想定した情況は、十分に知識のある、日本共産党の九幹部潜行の実例であった。その時も、合法面には、椎野議長ひとりが残って、連絡係をしていたのだ。当時、日共担当だった私は、同じ捜査二課の捜査手法には、通じているつもりだった。

のちに、捜査四課が設けられて、暴力団担当となり、公安一、二、三課ができて、左翼、右翼、外事を、分掌したが、当時はまだ、捜査二課の一、二、三係であった。

奈良旅館に、車を呼んだ。社の自家用ではなく、雇い上げのハイヤーを指定した。

旅館の門のところで、花田は、「では、なにとぞ、宜しくお願いします」と、頭を下げて、去っていった。

少し離れて、待っていた車に、私と小笠原は乗りこんだ。私の人生で、〝夜のヤミ〟を気にしたことは、この時が最初だったろう。

赤い横線の入った、読売の社旗が、ヘッドライトの横でハタめく。

——まず、検問を受けることはない…。

それでも、車窓に流れる制服警官の姿には緊張する。上野駅に着いて、正面玄関から、一階の広場を抜けて、右手の大改札口に至る数十メートルの歩きには、あとでクタクタになるほどに、精神が張りつめていた。

むかし、サツまわりで、上野署を担当したので、駅警備の詰め所や、巡回コースなどの知識はあったが、駅の雑踏には、私服の刑事がウロウロしているケースも多い。

小笠原の姿が、改札口の向こうで、人混みにまぎれてしまうと、肩の力が抜けた。

——済んだ…。あとは連絡船の乗降だけが賭けだ!

待たせておいた車に戻り、「ウチまで送ってよ」と、運転手にいって、深々と、座席に身を沈めた。頭の中が、空ッぽのような感じだった。サイは投げられたのだった。

夜遅く、梅ヶ丘の自宅に戻った。妻も、二人の男の子たちも、もう寝静まって、家中がシーンとし

ていた。

読売梁山泊の記者たち p.286-287 一枚の紙切れが入っていた

読売梁山泊の記者たち p.286-287 刑事たちは、自由に動きまわっている副親分の花田が、潜伏中の連中と連絡をとっているからだ、と、ニラんで、花田の家宅捜索令状をとって、ガサをかけた。もちろん、身体捜検もやる。花田のカミさんの財布をあけさせた。
読売梁山泊の記者たち p.286-287 刑事たちは、自由に動きまわっている副親分の花田が、潜伏中の連中と連絡をとっているからだ、と、ニラんで、花田の家宅捜索令状をとって、ガサをかけた。もちろん、身体捜検もやる。花田のカミさんの財布をあけさせた。

夜遅く、梅ヶ丘の自宅に戻った。妻も、二人の男の子たちも、もう寝静まって、家中がシーンとし

ていた。

自分の部屋に入り、改めて、六法全書を取り出し、机上にひろげた。

第一〇三条(犯人蔵匿) 罰金以上ノ刑ニ該ル罪ヲ犯シタル者、又ハ拘禁中逃走シタル者ヲ蔵匿シ、又ハ隠避セシメタル者ハ、二年以下ノ懲役、又ハ二百円以下ノ罰金ニ処ス

カタカナ書きの、刑法の条文が、それなりの重みをもって、私の視野に、飛びこんできた。

——オレはいま、間違いなく、刑法の罪を犯した…。

——しかし、これは私利私欲ではない。公器たる新聞の、取材のためであり、報道のためなのだ!

——新聞は事件なのだ。事件を扱わなくなった読売新聞の、編集幹部に覚醒を促すための手段なのだ。

新聞の編集局長や各部の部長などは、そのクビを、大勢いる部下の記者たちに、預けているのも、同然である。

古くは、朝日新聞の「伊藤律架空会見記」が、そうであり、近くは、「サンゴ礁事件」がそうである。部長、局長、社長のクビを飛ばすことができる。

読売の立松事件では、記事はデマだったが、ネタモトに法務省刑事課長・河井信太郎という、レッキとした人物がいたので、部長が左遷されただけで、局長はお構いなしだ。

なんと、美辞麗句を並べようと、私の今夜の行動は、まぎれなくも、「犯人隠避」である。

——これが、「事件」になるかどうかは、私の手で、安藤以下の指名手配犯人を警視庁に自首させられるか、捜査の手が早く逮捕されてしまうか、どうか、そのスピード如何にかかっている。もし、当局

の手が早ければ、私は犯人隠避罪の、刑事被告人になることは、間違いのないところである。

そう考えると、私は、急に脱力感に襲われて、虚しくなってきた。

——いったい、新聞記者、新聞記者って、ひとりでリキみ返っているが、新聞記者って、なんなのだ?

いつも私の寝ている間に、学校へ行ってしまって、顔を合わせるチャンスの少ない、子供たちの顔が、急に見たくなってきた。

子供部屋に行って、二人の男の子の寝顔を見ていると、虚しさが、一層つのってきた。

発覚、そして辞職、逮捕、裁判へ…

そして、しばらくののちに、私のクーデターは失敗する。私は負けるのだった。それもまったくの偶然からだった。

安藤の足取りは、まったくつかめない。上からは、ヤイヤイいわれる。刑事たちは、自由に動きまわっている副親分の花田が、潜伏中の連中と連絡をとっているからだ、と、ニラんで、花田の家宅捜索令状をとって、ガサをかけた。

もちろん、身体捜検もやる。花田のカミさんの財布をあけさせた。と、一枚の紙切れが入っていた。

「北海道、旭川市……。山口二郎」

手紙の封筒のウラの、差出人の住所部分を財布に入れて、持っていたのである。刑事たちは、いぶかった。

読売梁山泊の記者たち p.288-289 偶然にも旭川署の動きを見ることになった

読売梁山泊の記者たち p.288-289 その瞬間、私の背筋を電流が走り抜けたような、衝撃に打たれた。「安藤組犯人、旭川に潜伏か?」という、見出しのついた原稿だった。——小笠原のことだ! むさぼるように、その短い原稿を、めくりはじめた。
読売梁山泊の記者たち p.288-289 その瞬間、私の背筋を電流が走り抜けたような、衝撃に打たれた。「安藤組犯人、旭川に潜伏か?」という、見出しのついた原稿だった。——小笠原のことだ! むさぼるように、その短い原稿を、めくりはじめた。

手紙の封筒のウラの、差出人の住所部分を財布に入れて、持っていたのである。刑事たちは、いぶかった。

「安藤組で、旭川市に土地カンのある奴はいない。山口二郎なんてのも、知らんな」

花田のカミさんが、刑事の質問に、どう答えたかは、私は知らない。もとより、カミさんの供述を、そのまま、ウ呑みにするハズはありはしない。私の推理では、小笠原が、花田に金でも送ってくれ、と手紙を書き、花田はカミさんにいいつけた。それで、送金のため、住所を残していた…?

北海道警察本部に手配が行き、この「山口二郎」なる人物が、何者であるかの捜査が始められた。

その日は日曜日で、私は、久し振りにくつろいで、自宅にいた。と、司法クラブの寿里記者から、電話があった。

「月曜日の朝、通産省の役人のサンズイ(汚職、汚の字がサンズイだから、こういう)で地検がガサをかけるんです。それほど、大きなヤマ(事件)ではないんですが、原稿、どうしましょう?」

「小さなサンズイなんか、どうせ、ベタ(一段の小さい記事)だろうけど、オレも晩飯を喰ったら、社へ出るから、その時に打ち合わせしよう」

久しぶりに、家族四人揃っての夕食ののち私は、車を呼んで出社した。日曜日の夜の編集局は、いつものような活気がない。ニュースが少ないからである。

寿里も、お茶を飲みに出たというので、私は、空いてるデスク(次長席)に坐ってなに気なく、机上の原稿に、目を落とした。少し前に、地方連絡が置いていった、北海道発の記事である。

その瞬間、私の背筋を電流が走り抜けたような、衝撃に打たれた。

「安藤組犯人、旭川に潜伏か?」という、見出しのついた原稿だった。

——小笠原のことだ!

むさぼるように、その短い原稿を、めくりはじめた。

偶然にも、日曜日の夜、翌朝の、地検のガサ入れの打ち合わせに出社して、私は旭川署の動きを報じてきた、旭川支局発の原稿を見ることになってしまった。

手短かに、寿里記者との打ち合わせを済ましたのち、婦人部長の長谷川実雄(のち巨人軍代表)を訪ねて、経過を報告し、「警視庁は逮捕すると思うので、即刻、辞職したいと考えている」と、打ちあけた。

もちろん、前夜のうちに、塚原大尉にも電話して、事情を説明し、「警視庁から呼び出しがくるでしょうから、なにもかも、洗いざらい、ホントのことを話して下さい。下手すると、一泊か二泊、させられるかもしれませんけども、それ以上のことはないでしょう」と、話しておいた。

昭和三十三年七月二十一日の月曜日、私は朝早く、金久保通雄・社会部長の自宅を訪ね事情を説明して、前夜に用意した辞表を出した。部長は、警視庁の話も聞いてみよう、と一緒に刑事部長を訪ねた。当時の警視庁刑事部長は昭和十二年採用の新井裕であった。

その時、この修羅場をくぐったこともないエリート官僚は、塚原大尉に対する、私の説明を聞いて、こういい放った。

「そんなバカな! ヤクザじゃあるまいし、カタギの人間が、ワケも聞かないで、小笠原を預かった

りするもンか!」

読売梁山泊の記者たち p.290-291 務臺さんの「また社に戻ってきたまえ」

読売梁山泊の記者たち p.290-291 その時、在社していた役員は、務臺さんだけだった。「キミ、話は聞いたよ。記者として、商売熱心だったんだから、仕様がないさ。記者の向こう疵さ。…すっかり事件が片付いたら、また社に戻ってきたまえ」
読売梁山泊の記者たち p.290-291 その時、在社していた役員は、務臺さんだけだった。「キミ、話は聞いたよ。記者として、商売熱心だったんだから、仕様がないさ。記者の向こう疵さ。…すっかり事件が片付いたら、また社に戻ってきたまえ」

「そんなバカな! ヤクザじゃあるまいし、カタギの人間が、ワケも聞かないで、小笠原を預かった

りするもンか!」

警察取材が長く、親しい警察官も、警察官僚にも友人が多くいるのだが、この言葉には激怒を覚えたものだった。

新井裕もまた、「幻兵団」の調べ官、二世のタナカ中尉と同じように、「記者の功名心? …信じられない…」と、いった。その心は、安藤組との深いつながりや、金の関係などを、疑っているようだった。

同席していた、捜査二課長は平瀬敏夫。若い彼は、一言も発せずに、私と新井裕とのヤリトリを聞いていた。

この新井は、のちに、警察庁長官にまで進む。が、私は彼を糾弾する。昭和五十年六月四日付の「正論新聞」一面のトップ記事である。

「大林組〝夜の社長〟と元警察庁長官」という大見出しである。大林組に寄生して、女の世話までしながら、同社の全資材からマージンを取っていた、福島県出身の代議士の息子がいた。菅家(かんけ)というこの男は、福島民報の記者だったが、当時の県警本部長の新井と親しかった。

多分、新井は、そのころ、日本航空顧問だったと思う。大林組が青山に落成させたばかりのマンションに、この菅家と新井とが、隣りあわせで入居していたのだった。つまり、菅家と新井のゆ着である。全国に作業所を持つ大手土建は、それぞれ、各地で事故を起こしたりするので、モミ消しには警察庁長官を利用していたのだろう。

刑事部長への経過説明のうちに、二課担当の子安記者が入ってきて、「二課ではビラを請求しました」と、耳打ちしてくれた。逮捕状のことである。

「新井さん。当然、強制捜査をされるんでしょうが、私としては、今朝、社会部長に辞表を出しました。これが、今日、受理されて、〝元読売記者〟になってから、逮捕されたいのです。いくらなんでも、現役記者のままでの逮捕では、社に迷惑をかけすぎます。…立松の場合とは、違うんですから、それぐらいの時間を下さい。こうして、自分から出頭してきているんですから」

交渉の末、社会部長が預かる形で、明日の火曜日正午に出頭する、ということで、決着がついた。

——明日の正午まで、丸二十四時間しか、自由の時間がないのだ。

社にもどる。辞表は持ちまわり役員会にかけられ、夕方には受理、発令された。仲間の萩原キャップが、「オイ、中村信敏弁護士を社でつけてやるからナ」と、気を配ってくれたのに、感謝した。

しかし、人間、落ち目の時にこそ、まわりの人の〈人間〉が目に見えてくる。

さて、翌二十二日、正午の出頭を控えて四階の務臺専務のもとに、挨拶にいった。その時、在社していた役員は、務臺さんだけだったのだ。

「キミ、話は聞いたよ。記者として、商売熱心だったんだから、仕様がないさ。記者の向こう疵さ。…すっかり事件が片付いたら、また社に戻ってきたまえ」

ニコニコ笑いながら、こういわれて、私はすっかり感激した。なにしろ、前夜、小島文夫・編集局

長に、電話で報告しようとしたら、その第一声が「キミ、金は取ってないだろうナ、金を!」という、情ない言葉だったのだから、務臺さんの「また、社に戻ってきたまえ」には、ジーンときたのだった。

読売梁山泊の記者たち p.292-293 私の腕時計はフロムムタイと刻まれたオメガ

読売梁山泊の記者たち p.292-293 こうして、私は、〝社外での務臺さんの一の子分〟を、自称するようになった。中途退社したから、私は、社友ではないし社報も送られてこないし、名簿ももらえないのだが、務臺さんに認められている、ということが、私の〝勲章〟である。
読売梁山泊の記者たち p.292-293 こうして、私は、〝社外での務臺さんの一の子分〟を、自称するようになった。中途退社したから、私は、社友ではないし社報も送られてこないし、名簿ももらえないのだが、務臺さんに認められている、ということが、私の〝勲章〟である。

さて、翌二十二日、正午の出頭を控えて四階の務臺専務のもとに、挨拶にいった。その時、在社していた役員は、務臺さんだけだったのだ。
「キミ、話は聞いたよ。記者として、商売熱心だったんだから、仕様がないさ。記者の向こう疵さ。…すっかり事件が片付いたら、また社に戻ってきたまえ」
ニコニコ笑いながら、こういわれて、私はすっかり感激した。なにしろ、前夜、小島文夫・編集局

長に、電話で報告しようとしたら、その第一声が「キミ、金は取ってないだろうナ、金を!」という、情ない言葉だったのだから、務臺さんの「また、社に戻ってきたまえ」には、ジーンときたのだった。

そして、それから一年ほども経っただろうか。読売本社へ顔を出したところ、バッタリと、深見和夫・広告局長に出会った。

「オイ、三田。この間、務臺さんと同じ車に乗った時、『三田は、どうしているンだ』と心配されていたぞ。社に来た時は、挨拶に顔ぐらい出してこいよ」

こうして、私は、〝社外での務臺さんの一の子分〟を、自称するようになった。正論新聞の十周年では、多忙のなかを割いて、帝国ホテルのパーティで、鏡割りをしていただいたほどである。

そして、私の腕時計は、45・7・21ツー・ミタ・フロム・ムタイと、裏に刻みこまれたオメガ。もうすでに、二十年を越えているが、ほとんど狂わない。務臺さんの読売社長就任の時、記念に下さったものである。

中途退社したから、私は、社友ではないし社報も送られてこないし、名簿ももらえないのだが、務臺さんに認められている、ということが、私の〝勲章〟である。

こうして、私は、中村弁護士と萩原とにつきそわれて、警視庁に出頭した。捜査二課の石村勘三郎警部補係で、調べ室に入った。

夕方になったころ、石村主任はニヤニヤしながら、「ブン屋をしていたって、見たことのないものを見せてやるよ」と、一枚の紙片をさし出した。

「フーン。逮捕状か。アレ? オレの名前が書いてあるよ!」

「ドレ、ドレ。アーホントだ。じゃ、オメェさんを逮捕しなくッちゃ!」

調べ室の中の千代部長刑事も、二人の若い刑事も、みんな、大笑いした。その日は形式的な調べだけ。十名近い雑居房で、監房長官は、暴力団右翼のボス。私は〝安藤のために、読売記者を棒に振った英雄〟として、その客分扱い。

雑居房の上席は、入り口に近い所から、奥の便器の側へと、下がってゆく。私は、ボスの次の場所で、日曜、月曜と二日つづきの寝不足に、グッスリと眠った。

石村主任は、おもしろい男だ。藤井丙午・八幡製鉄副社長を逮捕しようとして、令状請求書を持って、朝、課長室に入る。所轄署なら、令状警部と呼ばれる警部で、裁判所に逮捕状を請求できる。しかし、警視庁では、課長の決裁が必要である。業務上横領の容疑であった。

「……」

課長は、ジロリと石村を見て、黙ったまま横を向いてしまう。デスクの正面には、石村も黙ったまま、直立している。手には、令状請求書を持っている。

課長は、横を向いて、サイドテーブルで仕事をすることになる。上のほうから、待てという指令がでているからだ。…こうした日が何日もつづいた、ということだ。

そして、ある日。彼は、推せん枠で警部に昇進させられ、制服を着て、方面本部の刑事官として、捜査の現場から外されてしまう。のちに、警視で退官し、平和相互銀行に入り常務にまで栄進した。

読売梁山泊の記者たち p.294-295 「ハハン。すると安藤もパクられたのか」

読売梁山泊の記者たち p.294-295 「今朝、運動の時に、『読売!』と、声をかけてきた男がいた。アレ、誰だい?」「もう、読売でもないのに、気易く声をかけるな、ッて、いってやれ。オメエのために読売でなくなったって、な…」 「ハハン。すると、安藤もパクられたのか」
読売梁山泊の記者たち p.294-295 「今朝、運動の時に、『読売!』と、声をかけてきた男がいた。アレ、誰だい?」「もう、読売でもないのに、気易く声をかけるな、ッて、いってやれ。オメエのために読売でなくなったって、な…」

逮捕の翌日朝、運動に出る時、「読売!」と、声をかけてきた男がいた。まだ、メガネの使用許可がとれず、遠いので、誰であるか分からない。

「今朝、運動の時に、『読売!』と、声をかけてきた男がいた。アレ、誰だい?」

「もう、読売でもないのに、気易く声をかけるな、ッて、いってやれ。オメエのために読売でなくなったって、な…」

「ハハン。すると、安藤もパクられたのか。小笠原も、旭川から護送されたんだろう。それにしちゃ、顔を見ないネ」

「オメエ、ほんとに声をかけた男、知らねえ男かい?」

「そういってるダロ、元山と王の関係で、小笠原を紹介されただけで、安藤組なンか、だれも知らないよ」

「フーン…」

この時から、石村主任の態度が変わった。いままでは、まだ、疑っていたのだった。私がほんとうのことを供述していない、と。

萩原の配慮で、中食には、大増の弁当がさし入れられた。子安が、石村の部屋まで届けてくれる。もう、調べは終わってしまい、私は、朝から石村部屋で、ダベりながら、時間をツブしていた。

「しかし、なあ。捕まえたオレが、牛乳とパンを喰っているのに、捕まったオメエサンが、豪華な弁当を喰っているッてのは、少し、オカシイんじゃないか」

部屋持ち主任の石村以下、デカ長一、デカ二の合計四名と、私とが、みんなで揃って中食を取る。そんな冗談も出てくるフンイキだった。いわゆる〝石村学校〟と呼ばれ、石村式捜査が、若い刑事たちに叩きこまれていくという、〝捜査の職人〟だった。

やがて、満期日がきて、私は起訴された。その翌日、高検次席だった中村弁護士は、自分で書類を持ち歩いて、保釈の手続きを素早く済ませてしまった。やはり、ベテランの刑事弁護士であった。

だが、ベテランの刑事弁護士では、あまり収入にはならない。人柄もまた、商売向きではないので、友人たちが仕事をまわしてくれる。やがて、彼は、児玉誉士夫の顧問弁護士になった。やはり、友人の好意からだ。

当時、すでに児玉批判を強めて、そんな雑誌原稿を書いていた私のことを、彼は、よく知っていた。ある日、銀座の中村事務所に、ヒョイと立ち寄ってみた。

「オイ、三田クン。いままでは、読売以来の仲で、親しくしていたけれど、これからは、そうはイカンぞ。…なにしろ、オレは、児玉の弁護士になったんだから、キミとの付き合いにも、一線を画するからな」

ニコニコとして、そういっていた中村弁護士だったが、早逝されてしまった。 裁判についても、書いておかねばならないだろう。一審は、中村主任弁護人、風間弁護人がついた。母方の従兄弟である、小野清一郎・法務省特別顧問・弁護士に、相談にいったところ、明解な見通しを示された。

読売梁山泊の記者たち p.296-297 半年ほどで控訴を取り下げてしまった

読売梁山泊の記者たち p.296-297 当時、すでにミタコンという名の、マスコミ・コンサルタント業を開業していたので、私は多忙を極めていた。 小野弁護士ほどの、大物弁護士となると、依頼人のほうが大変だ。アポを取って、法務省の特別顧 問室に伺って、公判の打ち合わせがある。
読売梁山泊の記者たち p.296-297 当時、すでにミタコンという名の、マスコミ・コンサルタント業を開業していたので、私は多忙を極めていた。 小野弁護士ほどの、大物弁護士となると、依頼人のほうが大変だ。アポを取って、法務省の特別顧 問室に伺って、公判の打ち合わせがある。

裁判についても、書いておかねばならないだろう。一審は、中村主任弁護人、風間弁護人がついた。母方の従兄弟である、小野清一郎・法務省特別顧問・弁護士に、相談にいったところ、明解な見通しを示された。

「一審は、有罪。懲役六カ月、猶予二年というところかな。二審でついてあげるから、一審は中村先生におまかせしなさい。拳銃不法所持の訴因について、争う余地があるから。でも、一審の裁判官は、冒険を試みはしないから、やはり有罪だよ」

私の、小笠原の指名手配犯人という認識は、横井英樹を射った拳銃の、不法所持犯人という認識であった。

ところが、小笠原が奈良旅館で語ったように、実際の射撃犯は千葉で、小笠原は誤手配であったことが、明らかになっていた。検察は、その時点で、小笠原の供述のなかに、むかし、拳銃の入ったボストンバッグを、東宝撮影所のロッカーに隠した、とあるのを取り上げて、私が小笠原を知る以前の、拳銃不法所持犯人と、訴因を変更していた。

——バカらしい。オレは、横井事件が発生してから、小笠原を紹介され、その時点で、横井を射った拳銃の不法所持犯人という認識はあった。それが、誤りだったとなれば、犯人という認識が崩れたのだから、無罪だ!

何年も前の、違う拳銃の不法所持犯人という認識など、まったく無かったのである。小野弁護士は、そのことを指して、「争う余地がある」と、いわれたのだった。

東京高裁で二審が始まった。小野主任弁護人で、審理が進んだ。当時、すでにミタコンという名の、マスコミ・コンサルタント業を開業していたので、私は多忙を極めていた。

小野弁護士ほどの、大物弁護士となると、依頼人のほうが大変だ。アポを取って、法務省の特別顧

問室に伺って、公判の打ち合わせがある。公判当日は、車で本郷の私邸にお迎えに行き、車でお送りする。次回の打ち合わせ、次回の準備と、私は、すっかりくたびれてしまい、控訴審が始まって、半年ほどで、控訴を取り下げてしまった。一審判決が確定した。懲役六月、執行猶予二年の刑であった。そして、猶予期間の二年間を、無事に、なにごともなく、満了したのだった——。

それと同時に、イヤ、それよりも早く、私は保釈出所すると同時に、文芸春秋本誌に、「我が名は悪徳記者・事件記者と犯罪の間」という、長文の原稿を書いていた。これは、その年、昭和三十三年十月号に掲載され、その年度の、文春読者賞にランクされるほどの評判で、これで、精神的な決着をつけ、控訴取下げ、判決確定、猶予期間満了で、物理的な決着をも、つけていたのだった。

いま「新聞記者のド根性」はいずこへ

この、私の安藤組事件の期間、原四郎は出版局長として、新聞から離れていた。だからこの〝事件〟に関しては、原のアクションはなかった。そして、この年の秋、新聞週間で講師になった原出版局長は、こういった。

「週刊誌ブームというのも、ラジオが思わぬ発達をとげたために、起こったものだが、新聞がしっかりしていれば、週刊誌など作る必要はなかったはずだ。新聞が増ページして、週刊誌など、つぶしてしまわねばならないと思う」

この言葉は、裏返せば、新聞がしっかりしていない、ということだ。週刊誌を発行している、出版

局長の言葉である。

読売梁山泊の記者たち p.298-299 あれほどの優秀な記者があのようなばかげたことを

読売梁山泊の記者たち p.298-299 「取材対象には、できるだけ近付かねばならぬが、それと同時に、最後まで相手と対立する立場を維持しなければならない」「新人記者には、徹底的な基礎訓練が必要である」とするその講演の中に、次のようなクダリがある。
読売梁山泊の記者たち p.298-299 「取材対象には、できるだけ近付かねばならぬが、それと同時に、最後まで相手と対立する立場を維持しなければならない」「新人記者には、徹底的な基礎訓練が必要である」とするその講演の中に、次のようなクダリがある。

この言葉は、裏返せば、新聞がしっかりしていない、ということだ。週刊誌を発行している、出版

局長の言葉である。

そしてまた、原が出版局長から、小島の病死のあとを襲って編集局長へもどってきて、社会部の部会へ出た時、彼はこう訓示した。

「読売の社会部というのは、読売新聞の主軸なンだ。かつて、遠藤とか三田とかいう記者たちがいて、身を以て築きあげた〝伝統〟をうけついで、仕事に挺身してもらいたい」

私の名前が出て来るのが恐縮だが、自分に対して悪感情を持ち〝切り出しナイフをもって迫って〟くるような遠藤をさえも、原は仕事への情熱という点では、相当に評価していたことが、うかがわれる。

原の訓示の趣旨は、おおむね前記のようなものであったらしいが、訓示されていた、若い社会部の記者たちには、原のこのような〝檄〟も、あまり感動を呼ばなかったようだ。私に、その話をしてくれたある記者が、「遠藤だ、三田だといっても、時代が変わっているのだから、あまりピンと来なかったようだ」とつけ加えていたからである。

また、私の名前が出たついでに、原はこうもいっている。昭和四十二年八月八日付の「新聞協会報」は、全国学校新聞指導教官講習会における、原の「私の新聞制作の態度」と題する講演の要旨を報じているのだが、「取材対象には、できるだけ近付かねばならぬが、それと同時に、最後まで相手と対立する立場を維持しなければならない」「新人記者には、徹底的な基礎訓練が必要である」とする、その講演の中に、次のようなクダリがある。

「社会部長時代、私の部下にいた優秀な事件記者が、取材に熱心のあまり、ピストル傷害事件の犯人をかくまい、記事を独占しようとしたことがあった。彼は、取材対象にあまりにも近づこうとして、本来守るべきルールを忘れてしまったわけだ。

彼の上司であった自分にも、当然、責任があったわけで、事件のあと『あれほどの優秀な記者が、なぜあのようなばかげたことをしてしまったのか』と、反省してみた。彼が記者として成長してきた過程をふりかえると、彼は入社したあと、記者として十分な訓練をうけないうちに、すぐ兵隊にとられ、戦地とシベリアの抑留所で、長い年月をすごした。

帰国したのち、すぐに大きな事件を担当するようになり、また、これをこなすだけの力を持っていた。われわれも、これが本当の才能と信じていたわけだが、あとになって考えてみれば、彼には記者になるための、十分な基礎訓練を受ける機会がなかったことが、大きな原因になっている、と思う」

尊敬する先輩であり、かつての、直属上司であった、原の言葉ではあるが、〝あれほどの優秀な記者〟と、過分な表現をされた私として、この講演に異議をさしはさまねばならない部分がある。

私が、昭和三十三年六月十一日の夜、銀座のビルで発生した、「横井社長殺害未遂事件」で、〝本来守るべきルールを忘れ〟てしまったことは、事実である。そのために、犯人隠避として刑事訴追を受けたことが、果たして〝バカげた〟ことであったかどうかは、別の問題であろう。

本人である私は、今にしても、決してあの行為を、〝バカげて〟いたとは思えないのである。もっとも、〝バカげて〟いるというのは原の主観であって、あの事件で社を辞めなければ、今ごろは、原編集

局長のもとで、もっと〝新聞〟のために働けたであろうにという、「惜しい男をなくした」という、編集局長としての〝親心〟であろうか。そのほうが、三田にとっても社にとっても、新聞界にとっても、プラスであったのに……バカげているという、それこそ身に余る言葉であると考えている。

読売梁山泊の記者たち p.300-301 「新聞記者は疑うことではじまる」

読売梁山泊の記者たち p.300-301 自分自身を批判する自分自身の〝眼〟が、つねに、記者活動を監視している状態——自分に抵抗する精神がなくて、何で〝新聞記者〟と呼ばれようか。批判の眼は、常に清潔でなければならないのだ。
読売梁山泊の記者たち p.300-301 自分自身を批判する自分自身の〝眼〟が、つねに、記者活動を監視している状態——自分に抵抗する精神がなくて、何で〝新聞記者〟と呼ばれようか。批判の眼は、常に清潔でなければならないのだ。

本人である私は、今にしても、決してあの行為を、〝バカげて〟いたとは思えないのである。もっとも、〝バカげて〟いるというのは原の主観であって、あの事件で社を辞めなければ、今ごろは、原編集

局長のもとで、もっと〝新聞〟のために働けたであろうにという、「惜しい男をなくした」という、編集局長としての〝親心〟であろうか。そのほうが、三田にとっても社にとっても、新聞界にとっても、プラスであったのに……バカげているという、それこそ身に余る言葉であると考えている。

《彼には、記者になるための、十分な基礎訓練を受ける機会がなかったことが、大きな原因になっている、と思う》——原は私が〝ルールを忘れ〟〝バカげた〟ことをしてしまった「原因」を、記者の基礎訓練の問題として、とらえている。

これは、正しいことである。

私は刑事訴追を受け、有罪となったが、公判を通じて明らかになったことは、安藤組という暴力団とは、過去に全く関係がなかったこと、金銭その他の利をもって誘われたものでもなく、全く「五人の指名手配犯人逮捕の記事独占」のためであった、ということである。

そのため、社歴十五年の記者経歴を棒に振り、刑事訴追されて有罪となる——となると、やはり客観的には〝バカげて〟いるし、原因としては、〝記者としての基礎訓練不充分〟としか、判断しようもないのが事実であろう。

私自身の主張はさておき、だから、原のいうことが正しいというのだ。では一体、〝十分な基礎訓練〟とは、何を指していうのであろうか。

私たちの時代は、小山栄三の「新聞学」であったが、そのうん奥をきわめることなのだろうか。否である。新聞学の学究が、〝完成された記者〟でないことは、明らかである。

刑事は〝現場百遍〟という。犯罪の手がかりは、すべて現場にあるということだが、これも「読書百遍、意義おのずから通ず」からきたものだ。事件記者の完成は、デカになることではない。

「新聞記者は、疑うことではじまる」

この言葉は、読売の先輩「昭和史の天皇」をまとめていた辻本芳雄記者に、私が教えられた言葉である。批判の眼を持つことである。抵抗の精神である。

〝記者として十分な基礎訓練〟とは、私は、この批判の眼、抵抗の精神を、徹底的に、自分自身に叩きこむこと、だと思う。

まず第一に、自分自身を批判する、自分自身の〝眼〟が、つねに、記者活動を監視している状態——自分に抵抗する精神がなくて、何で〝新聞記者〟と呼ばれようか。

私がルールを忘れたのは、実にこの点にあったのである。法を犯して記事を独占しようとしている、三田記者の行動を批判する〝三田記者自身の眼〟が、その時は、〝見て見ぬフリ〟をしたのであった。

五人の犯人を生け捕り、毎日一人宛、捜査当局に逮捕させて、五日間の連続大スクープと、事件の解決功労者——この恍惚たる〝成果〟に陶酔しようとする、三田記者に対して、まず〝三田記者自身が抵抗〟せねばならなかったのである。原局長をはじめとする先輩諸氏の訓育も、この〝記者冥利に尽きる成果〟の前には、まず抵抗の精神が、空しくマヒしてしまった、つまりルールを忘れたのであった。

この〝記者のド根性〟が、十分に叩きこまれているかどうかが、基礎訓練の度合いを示すものだと

考える。批判の眼は、常に清潔でなければならないのだ。不正を憎み、不義に憤らねば、その眼は濁ってくる。抵抗の精神は、まず己れに厳しくあらねばならない。自分に抵抗することなくして、何の〝抵抗〟であろうか。

読売梁山泊の記者たち p.302-303 「原四郎の時代」は終わった

読売梁山泊の記者たち p.302-303 正力松太郎の企画力と実行力が、三流紙の読売を大きく飛躍させ、〝販売の神様〟務臺が、宅配制度を守り抜いて、原四郎の社会部を主軸とした〝事件の読売〟という目玉が、ついに日本一の新聞という地位に就かしめた。
読売梁山泊の記者たち p.302-303 正力松太郎の企画力と実行力が、三流紙の読売を大きく飛躍させ、〝販売の神様〟務臺が、宅配制度を守り抜いて、原四郎の社会部を主軸とした〝事件の読売〟という目玉が、ついに日本一の新聞という地位に就かしめた。

この〝記者のド根性〟が、十分に叩きこまれているかどうかが、基礎訓練の度合いを示すものだと

考える。批判の眼は、常に清潔でなければならないのだ。不正を憎み、不義に憤らねば、その眼は濁ってくる。抵抗の精神は、まず己れに厳しくあらねばならない。自分に抵抗することなくして、何の〝抵抗〟であろうか。

私が、自分自身の〝事件〟を通じ、学んだことは、否、学び直したことは、やはり、このような〝記者のド根性〟であった。

しかし、〝記者のド根性〟が必要とされるのは、やはり、記者が「無冠の帝王」であり、新聞が「社会の木鐸」である時代であったようである。原の訓示が、若い記者たちに身ぶるいを起こさせ、共感の嘆声を発せしめ得なかったということは、そこに、局長と、局長以下との間に、「断層」があるということであろう。

そのような時代には、部下を怒鳴りつけ、上司、先輩に反抗して「批判」と「抵抗」の精神が培われていったのであった。これをもって、原は、「新人記者の徹底的基礎訓練」といったのであろう。

部下に対する信頼も〝赤心をおして人の腹中におく〟態のものであった。前述した、「東京租界」の企画のスタートに当たって、部長として私に与えた言葉はただ一つ——「名誉棄損の告訴が、何十本と舞いこんでも、ビクともしないような取材をしろよ」であった。この言葉に、感奮興起しないような「新聞記者」がいるだろうか。

しかし、このような実力と経歴とからくる原の「自信」が、いよいよ、局長と局長以下との間の「断層」をきわだたせる。

そして、もうひとり——原の良き理解者であった務臺光雄がいる。

務臺が逝ったのが、平成三年四月三十日。その一月から六月までの、平均ABC調査部数は、読売をトップとして、九百七十六万五千部弱の数字をあげている。

実に、一千万部を目前にして、務臺は逝ったのであった。その胸中たるや、無念の一語に尽きるであろう。

正力松太郎の、当時としては、斬新極まりない企画力と実行力が、三流紙の読売を大きく飛躍させた。もちろん、〝販売の神様〟務臺が、宅配制度を守り抜いて、それをバックアップしたからである。

加うるに、原四郎の紙面作り。社会部を主軸とした、〝事件の読売〟という目玉が、ついに、日本一の新聞という地位に就かしめたのだった。

昭和二十三年の発言ではあるが、「週刊誌などは、新聞が増ページしてツブせ!」という原の見通しは、〈新聞がしっかりしない〉こともあって、現実からは、乖離した結果となっている。

そして、務臺が苦労しつづけた宅配制度もまた、崩壊に瀕している。労働力が足りない——これは、合売制への転換を示唆している。

この秋、読売の築き上げた、一千万部近い部数は、どうなってゆくのであろうか。「原四郎の時代」は、確実に終わったのだ。

正力松太郎、務臺光雄、原四郎という、昭和の新聞史に、その名を刻する三人の、鎮魂の想いをこめて、この稿を終わる——。