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読売梁山泊の記者たち p.154-155 所轄の北沢署に保護を頼んだ

読売梁山泊の記者たち p.154-155 「殺されるかもしれないから」と、その男が恐怖を感じたように、当時のソ連の手口には底知れぬ〝恐ろしさ〟があったことは事実である。しかし、実際には私もこわかった。
読売梁山泊の記者たち p.154-155 「殺されるかもしれないから」と、その男が恐怖を感じたように、当時のソ連の手口には底知れぬ〝恐ろしさ〟があったことは事実である。しかし、実際には私もこわかった。

「殺されるかもしれないから」

彼の表情は、まったく真剣そのもので、思いつめていた。人間の恐怖の瞬間を、私は見た。

「殺されるかもしれないから」と、その男が恐怖を感じたように、当時のソ連の手口には底知れぬ〝恐ろしさ〟があったことは事実である。しかし、実際には私もこわかった。「スパイは殺される」という。所轄の北沢署に保護を頼んだり、一日中社へよりつかなかったりした。

ある夜などは、私の帰りを待ちくたびれた妻が、深夜にフト眼覚めて、用足しに階下へおりようとして、二階の踊り場から玄関を見通す階段へ一歩踏み出したところ、アッと、もう少しで叫び出して、階段から転がり落ちそうになった。

玄関のドアにはまったガラス。その上のラン間のガラスに、一条の懐中電灯の光が走っていたのだ。

その光は、標札の文字でも確かめているらしく、瞬時にして消えた。耳を澄ます妻には玄関を去ってゆく足音さえ聞こえない。背筋を冷たく氷が走って、片足は階段に踏みだしたまま、もう身動きができなかった。

その夜、私は帰宅しなかった。妻はその後、その時のことを想い出しては、「あれほど恐ろしかったことは、まずちょっとなかったわね」と、よくいった。

あの懐中電灯の光の主が、保護を頼んだ警官なのか、あるいは、何かの配達か。また〝黒い手〟の人だったのか、とうとう判らない。

幻兵団の記事に対する意外な反響は、米軍側のものだった。東京駅前の郵船ビルのCIC(米軍防諜部隊)が、私と私の記事とを疑ったのである。

「私の名前のコーサクは、耕す作ると書くのですから、多分、百姓の出身ですネ」

担当官の二世のタナカ中尉は、私の気持ちをほぐそうとするかのように、そういって笑った。私も、いっしょになって笑った。

しかし、調べは厳しかった。

「ナゼ、あの記事を書きましたか。ソ連のスパイ組織をバクロして、恐いと思わないのですか。死への恐怖を感じないのですか」

「軍隊と捕虜とで、どうせ一度は死んだものと思えば、『死』なんて、コワクはありませんよ。ことに、新聞記者が、自分の書いた大きな記事のために殺されたとすれば、それは日本語で、本懐というものじゃありませんか。私に悔いはありませんよ」

「?…。仕事のために死ぬ? コワクない、本懐だ?…信じられない…記者の功名心?」

タナカ中尉には、この「死生観」が、どうしても信じられないようであった。

じつは、彼の思考はもうひとひねりしたものだった。スパイ組織のバクロという、コワイ記事を書いて、平気でいられるのは、その記事のリアクションがないという保証があるからではないか?

保証があるということは、つまり、この男は、反ソ的な記事を書くことによって、米軍側に取り入り、ソ連のためのスパイを、効果的にしよう、としているのではないか?

読売梁山泊の記者たち p.156-157 三年も前にスクープしていた

読売梁山泊の記者たち p.156-157 昭和二十七年十二月十一日。「鹿地・三橋事件」が、国会で表面化した。「幻兵団」の第一報から、二年十一カ月目のことだ。斉藤昇・国警長官が、「ソ連に抑留され、スパイ行為をしている疑いの強い事件を捜査中である」と、言明した。
読売梁山泊の記者たち p.156-157 昭和二十七年十二月十一日。「鹿地・三橋事件」が、国会で表面化した。「幻兵団」の第一報から、二年十一カ月目のことだ。斉藤昇・国警長官が、「ソ連に抑留され、スパイ行為をしている疑いの強い事件を捜査中である」と、言明した。

だが、私は、この記事によって、〈有力なニュースソース〉を得た。陸士出身の少佐だから、五十三期ぐらい。復員官として、舞鶴で引揚援護業務にたずさわり、復員が終了してからは、厚生事務官。やがて、内閣調査室出向となり、のちに、調査官。

その氏名は、〝情報の世界〟に棲む者の礼儀として、まだ、明らかにはできない。が、私の記者としての視野を、大きく展開してくれた、優れたアドバイザーであった。ただいま現在、日常的に使われている「情報」という言葉とは、まったく意味の違う「情報」の時代だったのである。

昭和二十七年十二月十一日。「鹿地・三橋事件」というのが、国会で表面化した。「幻兵団」の第一報から、二年十一カ月目のことだ。

この日、斉藤昇・国警長官(いまの警察庁長官)が、参院外務委での答弁で、「戦後ソ連に抑留され、スパイ行為をしている疑いの強い事件を捜査中である」と、言明した。

二十七年秋から、警視庁記者クラブの「七社会」詰めとなっていた私は、その日何も知らないで、夕刻、社に上がってきた。斉藤長官の答弁の原稿が、ちょうどそのころ、社に入ってきて、原部長が目を通したばかりだった。

だいたい、出先の記者クラブ詰めの記者、ことに、警視庁クラブの記者などは、部長には、あまり、顔を合わせたがらないものだ。というのは、デスクとだけの黙認で、いろいろと、〝悪事〟を働いているのだから、部長と話をしたりすると、ツイ、露見する危険があるからである。

例えば、カラ出張やら、インチキ伝票やらで、デスクの呑み屋のツケを払ったり、取材で足をだしてしまった経費を、然るべく処理しているからである。ついでながら、つけ加えると、このような〝処理〟は、この業界での、長年にわたる習慣で、しかも、不法領得の意思がないので、〈横領罪〉には当たらない。念のため。

身についた〝習慣〟で、部長に近寄らないよう、素早く、遠い席に座ろうとしたら、顔をあげた部長と、目線(めせん)が合ってしまった。間髪を入れずに、部長が、叫んだ。

「オイ、まぼろしッ! 長い間の日陰者だったが、やっと認知されて、入籍されたゾ!」

「…?」

満面に笑みを浮かべた、ゴキゲンの良い原チンの顔は、可愛い。いま風なら、カワユーイのであるが、当の私には、その理由が分からないのだから、当惑しながらも、部長のゴキゲンに合わせて、オリエンタル・スマイルを浮かべながら、部長席に寄っていった。

「オイ、これだよ」

デスクが、朱(赤字の校正)を入れていた原稿をわたしてくれた。読み進んでいくうちに目頭が熱くなってくるのを感じていた。

一面、社会面ともトップの大ニュースを、三年も前にスクープしていた感激は、やはり終生、忘れることはできない。新聞記者のみが味わえる、このエクスタシーは、身をもって感じるしか、理解で

きないであろう。

読売梁山泊の記者たち p.158-159 日本のソ連通を総動員

読売梁山泊の記者たち p.158-159 戦前では、世界一のソ連通は日本だった。関東軍の特務機関と、満鉄の調査部のもっていた、資料と陣容こそ、対ソ情報のエキスだったのである。ソ連は真先に、これらの人や、ものを押さえてしまった。
読売梁山泊の記者たち p.158-159 戦前では、世界一のソ連通は日本だった。関東軍の特務機関と、満鉄の調査部のもっていた、資料と陣容こそ、対ソ情報のエキスだったのである。ソ連は真先に、これらの人や、ものを押さえてしまった。

一面、社会面ともトップの大ニュースを、三年も前にスクープしていた感激は、やはり終生、忘れることはできない。新聞記者のみが味わえる、このエクスタシーは、身をもって感じるしか、理解で

きないであろう。

昭和二十三年当時、吉田茂・兼任法務総裁の法務庁記者クラブに行った。その時のキャップは、ハンニャの稲ちゃんこと稲垣武雄だった。長い間の警察記者のボスであった稲ちゃんは、私を、当時の国警本部の村井順警備課長に紹介してくれた。

村井課長は、私のスパイ体験を、はじめて熱心に聞いてくれた最初の人物であり、竹内社会部長とも親しかった。竹内四郎が、私の我がままを、大きく許してくれたのには、村井順の推輓もあったのである。

六十三年一月十三日、七十八歳で亡くなり、二月五日の、晴天ながら寒い日に、青山葬祭場で、最後の別れを惜しんだが、村井順なかりせば、あるいは、稲垣武雄のような、先輩記者にめぐり合わなかったなら、「幻兵団」は、〝大人の紙芝居〟で終わったかも…。

昭和二十五年春、それこそ、四十年後の現在では、とうてい信じられないような、〈米ソ・スパイ合戦〉が、米軍占領下のトーキョーで展開されていた。首都東京のド真ン中で、当時七百万都民が、何気なく生活している時から、すでに米ソの、〝熱いスパイ戦〟がおこなわれていたのである。

ここで予備知識として、米国側の諜報機関の概略を説明しておこう。

連合軍の日本占領中、東京駅前の郵船ビルには、総司令部幕僚第二部(GⅡ)指揮下米軍CIC(防諜部隊)と、総司令官直属のCIS(対諜報部——軍の部隊ではない)とがあり、米大統領直属のC

IA(中央情報局)は、ほとんどメンバーもおらず、積極的な活動もしていなかった。

CICはその名の通り、軍内部で諜報を防ぐ部隊なのだが、その一部には、秘密諜報中隊があり、これが積極的にソ連の諜報網の摘発を行ない、CISがこれに協力していた。

さてこのCISは、全国の主要都市に、それぞれ要員を駐屯させていた。情報というものは、どんなに断片的で、小さなことでも、それが収集され、整理されると、そこには意外な事実さえ浮かんでくるものなのだ。

戦前では、世界一のソ連通は日本だった。関東軍の特務機関と、満鉄の調査部のもっていた、資料と陣容こそ、対ソ情報のエキスだったのである。これを押さえれば、日本の対ソ情報は真暗になる。とりもなおさず、アメリカの対ソ情報もつぶれる、というのが狙いで、ソ連は真先に、これらの人や、ものを押さえてしまった。

そこで米国側にとっては、占領下にあった日本のソ連通を総動員して、旧軍の作戦参謀や情報参謀、それに憲兵、特務機関員、特高警察官などを、CICの秘密メンバーとせざるを得なかった。

そればかりでは足りない。ソ連引揚者に眼をつけるのは当然で、彼らほど最新の知識を持ったものはいないのだ。舞鶴引揚援護局内に一棟の調べ室を作り、二世の連中が分担して、引揚者の一人一人から情報を集めた。

そのために引揚者たちは、せまい小部屋で友好的に尋問され、いい話がでると、まず〝ひかり〟(当時のタバコ)がすすめられ、話が詳しければ、果物までが出された。

どんな服装の兵隊がいた。その記号、数、兵器は。貨物列車を見た。積荷、何両? こうして兵力分布や整備、移動までが分かり、工場の煙突の数や作業内容から、軍需生産の規模が判明する。

読売梁山泊の記者たち p.160-161 二~三割の日本人が死んだ

読売梁山泊の記者たち p.160-161 こうして、死ぬ者を死なせたあとの、二十一年四月になってから、はじめて捕虜名簿を作り、かつ、炭坑や伐採、建築などと、作業の目標から、収容所の改廃、人員の移動などを行なった。
読売梁山泊の記者たち p.160-161 こうして、死ぬ者を死なせたあとの、二十一年四月になってから、はじめて捕虜名簿を作り、かつ、炭坑や伐採、建築などと、作業の目標から、収容所の改廃、人員の移動などを行なった。

どんな服装の兵隊がいた。その記号、数、兵器は。貨物列車を見た。積荷、何両? こうして兵力分布や整備、移動までが分かり、工場の煙突の数や作業内容から、軍需生産の規模が判明する。

昭和二十二年の秋、舞鶴に第一回の将校梯団が上陸してきた。ソ連側は将校は帰さないと宣伝したり、収容所では、対将校階級闘争が盛んになっていたころだったので、こうして将校ばかりが、何百名と、まとまって帰ってきたのは、珍しいことだった。

彼らも、型のごとく調べられた。すすめられた〝ひかり〟を、珍しそうに眺めながら、彼らはそれを深々と吸いこんでは、それぞれのソ連見聞記を話し出していた。

私たち、第二回目の将校梯団が、第一大拓丸で、舞鶴に上陸したのが、昭和二十二年十月三十日。ナホトカを出港する時に目撃させられた、大尉の人民裁判があったのだから、第一回の将校梯団の帰国も、十月はじめごろだったに違いない。

ソ連側は、はじめは、統制が取りやすいので、日本軍捕虜を、建制(軍隊組織)のまま収容所に入れたのだが、最初の冬、昭和二十年暮れから、二十一年春までの間に、どこの収容所でも、二~三割の日本人が死んだ。

生まれてはじめての酷寒——私たちのところでも、寒暖計で零下五十二度を記録した。しかも、風速一メートルで、体感温度は一度下がる。慢性飢餓と重労働。シラミによる発疹チフス、栄養失調と、まさに、いまにして想えば、生き地獄であった。

こうして、死ぬ者を死なせたあとの、二十一年四月になってから、はじめて捕虜名簿を作り、かつ、炭坑や伐採、建築などと、作業の目標から、収容所の改廃、人員の移動などを行なった。

この建制を崩して、捕虜をゴチャまぜにすることには、もうひとつ、目的があったようである。それが、はしなくも、第一回の将校梯団で、米国に発見された。

その中に一人、軍曹がいた。いや、はじめは少尉だといって、将校梯団の一員らしく、振る舞っていたのだが、身上調査から乙幹の軍曹だということが、バレてしまったのだった。ウソと分かってからの、その男は、全く狼狽して、ソワソワと落ちつかず、何か挙動がオカシイのだ。

報告をうけた二世のサカモト大尉は、自分で調べようと思って、その男を呼び入れた。風呂から出れば、ドテラでアグラをかくような、二世らしからぬ二世であるサカモト大尉は、日本人の気持を良く知っていたのだ。

大尉は、そのニセ少尉の心配ごとが、彼自身の予想していたようなもの、ではないかと思って、まず優しく、家族の話などから持ちかけ、その男の気持を落ちつかせてやった。

男はあたりを見回してから、泣きそうな顔で大尉に聞いた。

「国際法とかでは、日本人が外国でしてきた約束とか、日本にいる日本人が、外国の刑法で罰せられる、というようなことがあるんでしょうか?」

大尉は、密かに期待しながらいった。

「ここは日本ですよ。ボクたちは日本の味方なんです。日本をよくしようとして、お手伝いしている

んです。……どうです一本」

読売梁山泊の記者たち p.162-163 元ハルピン陸軍病院長・I少将

読売梁山泊の記者たち p.162-163 そんな頃(二十五年四月)九人の元将官が帰って来て、国民を喜ばせたり、驚かせたりした。ハバロフスク第四十五特別収容所にいた人びとである。将官は帰れないはずだったのに、これは不思議なことであった。
読売梁山泊の記者たち p.162-163 そんな頃(二十五年四月)九人の元将官が帰って来て、国民を喜ばせたり、驚かせたりした。ハバロフスク第四十五特別収容所にいた人びとである。将官は帰れないはずだったのに、これは不思議なことであった。

大尉は、密かに期待しながらいった。
「ここは日本ですよ。ボクたちは日本の味方なんです。日本をよくしようとして、お手伝いしている

んです。……どうです一本」

煙草をすすめて、自分もつけた。

「少しも恐いことはないよ。何もかも話してごらんなさい」

男はオドオドしながらも、彼の恐しい体験を語りだした。大尉は、黙ったまま深くうなずいた。

こうして舞鶴CICは、はじめて引揚者の中にソ連製のスパイがいることを知った。

「ソ連スパイが、引揚者にまぎれて、投入されつつある」——こんな重大な事実を発見した、舞鶴CIC、およびCISからは、報告書を携え、ピストルで武装した将校が、伝書使となって東京の本部へ飛んだ。

それからは、ソ連情報の収集ばかりではなく、ソ連スパイの摘発が、郵船ビルの重要な仕事となった。復員局から「復員業務について占領軍から次の通り出頭要求がありましたからお伝えします」というハガキが、日本全国の引揚者のもとに届けられた。

往復の旅費、日当、食費も日本政府から支給され、北は北海道から南は鹿児島まで、容疑者と、容疑者の情報保持者が郵船ビルに集合させられたのである。

数日で終わる者もあったが、数週間、数カ月間もかかる者がいた。試みに、郵船ビルの表口に立って見ていると、夕刻には、嬉々として現われる者と、足取りも重くうなだれて来る者とがいた。

米ソのスパイ合戦「鹿地・三橋事件」

そんな頃(二十五年四月)九人の元将官が帰って来て、国民を喜ばせたり、驚かせたりした。ハバロフスク第四十五特別収容所にいた人びとである。将官は帰れないはずだったのに、これは不思議なことであった。

その中の一人に、元ハルピン陸軍病院長をしていたI少将がいた。仔細に見れば、I少将のどこかに、緊張に引きしめられた、あるカゲが見られたであろうが、さすがのCICも、元将官には敬意を払って、多くを追及しなかった。

その元少将が引揚後のある日、何となく後ろめたさを覚えながらも、もう小一時間も、靖国神社の境内を、そぞろ歩いていた。

困惑と期待との入りまじった、不思議な感情だった。半分はウソだと思ったし、半分は行かずにいられない、脅迫感を覚えていた。

やがて、彼がちょうど境内を一回りして、また大村益次郎の銅像にもどってきた時、一人の男が彼に声をかけてきた。

——ああ、やっぱり!

そう思った瞬間、I元少将は、思わず声とも叫びともつかない音をあげてしまった。

その男はSといい、ソ連代表部雇員という肩書の男だった。肩書は〝市民雇員〟であったが、もち

ろんれっきとした軍人である。ちょうど、シベリアで、日本新聞の指導をしていたコワレンコ中佐が、タス通信記者という肩書で、代表部にいたように、各収容所付の将校たちが、入れかわり立ちかわり、背広姿で日本にやってきて、重要な〝幻兵団〟に、合言葉をささやくのであった。

読売梁山泊の記者たち p.164-165 理解を絶するようなことが起こっていた

読売梁山泊の記者たち p.164-165 ソ連で書いた一枚の誓約書におののきながら、祖国と、わが魂を、外国に売り渡した日本人が、甘受する運命は何であろうか。佐々木克己・元大佐が、遺書もなく自殺を遂げ、鹿地亘もまた〝人さらい〟にさらわれる——
読売梁山泊の記者たち p.164-165 ソ連で書いた一枚の誓約書におののきながら、祖国と、わが魂を、外国に売り渡した日本人が、甘受する運命は何であろうか。佐々木克己・元大佐が、遺書もなく自殺を遂げ、鹿地亘もまた〝人さらい〟にさらわれる——

その男はSといい、ソ連代表部雇員という肩書の男だった。肩書は〝市民雇員〟であったが、もち

ろんれっきとした軍人である。ちょうど、シベリアで、日本新聞の指導をしていたコワレンコ中佐が、タス通信記者という肩書で、代表部にいたように、各収容所付の将校たちが、入れかわり立ちかわり、背広姿で日本にやってきて、重要な〝幻兵団〟に、合言葉をささやくのであった。

I元少将が命ぜられた任務は、在日米軍のバクテリア研究所の実体調査である。当時、日本の細菌研究は、世界的に優れており、その指導者である石井中将を、満州において取り逃がしたことは、ソ連にとって痛恨事であった。その石井中将直接の指導の下に、在日米軍が、ソ連ウクライナの穀倉地帯の、食物に対する細菌戦を準備しているから、その情況を調査せよ、というのが、I元少将の任務であった。

こうしたレポのために、ソ連代表部の〝市民雇員〟は、夜な夜な、東京都内を徘徊するのであった。

ちなみに、夜の七時から九時までの間、三十分おきに、ソ連代表部から出る自動車の行先をみてみよう。歌舞伎座、日比谷公会堂、アーニーパイル劇場(東宝劇場)、帝国劇場、明治座、日劇、そんな賑やかな所を、グルグル廻ってから、目的地へ辿りつくのだ。

昼間なら、赤坂の虎屋、靖国神社、地下鉄赤坂見付駅、日本橋の高島屋、渋谷郵便局、上野公園、皇居前の楠公像、大宮公園、井の頭公園などに行く。

レポには、決して特定の店は使わない。必ず直接である。報酬は月額三—五万円のクラスと、六—十万円のクラスとがある。

こうして、ソ連で書いた一枚の誓約書におののきながら、祖国と、わが魂を、外国に売り渡した日

本人が、甘受する運命は何であろうか。

佐々木克己・元大佐という軍人が、遺書もなく自殺を遂げ、鹿地亘という作家もまた、なにやら、〝人さらい〟にさらわれる——実に、米軍の占領下では、いまの、平和な日本に生まれ、育った人たちには、とうてい、理解を絶するようなことが、相次いで起こっていたのである。

太平洋戦争後の、米ソの冷戦。これもまたいまのゴルバチョフ・ペレストロイカのもとでは、さながら、フィクションそのもの、といえるだろう。

こんなこともあった。私たちは、シベリア捕虜として、炭坑などの重労働を強いられたが、そこで見た、ボーリング機械も、パワー・ショベル・カーも、ほとんどの機械は、米国製であり、食糧援助の粉末鶏卵など、戦争中のソ連の窮状ぶりが良く分かった。それこそ、丸抱えのように、米国製品が、ソ連に満ちあふれていた。そして、米国製機械のイミテーションのソ連製はすぐ故障して、使えなかった。

満ソ国境で、戦闘してきたソ連軍は、さすがに、大都市には入れなかった。ソ軍の幹部も、その殺気立った部隊を都市に入れたら、どんな混乱を生ずるか、良く分かっていたのだろう。

降伏した日本軍は、武装解除されたが、将校だけは、勲章をつけ、軍刀を帯びていることが許された。兵舎内に起居し、塀の外に、ソ軍の歩哨が立つ生活が、一カ月もつづいただろうか。

映画「ラスト・エンペラー」を、殊のほか興味深く見たのも、一つの国家が、ガラガラと音をたて

て、崩れてゆく瞬間を、目撃したからだった。大日本帝国のカイライ・満州帝国、建国十年の崩壊である。

読売梁山泊の記者たち p.166-167 ソ連女性たちが物見高く集まって

読売梁山泊の記者たち p.166-167 内科医の軍医少尉が、口ひげの唇を緊張させながら、ささやいた。「キミィ! あれは(女たちを目で指して)〝去勢〟(キンヌキの意)の順番を決めているのじゃないか?」
読売梁山泊の記者たち p.166-167 内科医の軍医少尉が、口ひげの唇を緊張させながら、ささやいた。「キミィ! あれは(女たちを目で指して)〝去勢〟(キンヌキの意)の順番を決めているのじゃないか?」

映画「ラスト・エンペラー」を、殊のほか興味深く見たのも、一つの国家が、ガラガラと音をたて

て、崩れてゆく瞬間を、目撃したからだった。大日本帝国のカイライ・満州帝国、建国十年の崩壊である。

そして、シベリアに列車が入ってゆくと、ハダシの子供たち、新品の軍服をほしがる男たち、布地を求めて集る母親——どちらが、戦勝国なのか、錯覚に陥るほどであった。

日本が敗戦国で、自分たちは軍事俘虜である、ということを痛感させられたシーンが、いまでも、思い起こされる。

長い貨物列車の旅が終わり、バイカル湖の西岸のチェレムホーボ収容所に着いた時のこと。将校だけ集められて、門外に長く待たされていた。まわりには、ソ連女性たちが、物見高く集まってきていた。

何の指示も命令もなく、何時間も待たされていた時、応召の内科医の軍医少尉が、口ひげの唇を緊張させながら、ささやいた。

「キミィ! あれは(女たちを目で指して)〝去勢〟(キンヌキの意)の順番を決めているのじゃないか?」

「エッ?」

敗戦の日から、もう二カ月ほどが経ち、それこそ、落着いて物事を考えるゆとりなど、まったくなかったが、公主嶺の貨物廠から持ってきた、旧日本軍の備蓄糧秣のおかげで、三食白米の日本食だか

ら、健康そのもの、体調も良く、〝女〟などは考えも及ばなかった。が、〝去勢〟となると、人生の〝重大問題〟である。捕虜に対して、そんなことがあっていいものか、と、軍医の言葉だっただけに、ガク然としたものだった。

ずっとあとで分かったことだが、あの時の女たちが、私たちの誰、彼を指差していたのは、それぞれの好みで、「私はあの男が…」「イヤ、私ならアッチの男がいいわ」と、性的対象として、品定めをしていたのだった。

さて、「幻兵団」の裏付けとして、国警長官が国会で明らかにした、一連のソ連製スパイ事件を「鹿地(かじ)・三橋事件」と呼ぶ。つまり、鹿地亘に米ソの二重スパイを強要していた、米軍情報機関は、昭和二十七年九月二十四日付の「国際新聞」などに、英文の怪文書が掲載されたので、鹿地を釈放せざるを得なくなり、同年十二月七日、鹿地は新宿・上落合の自宅に帰ってきた。

外国の官憲が、日本国民を恣意に逮捕したり、監禁したりというのだから、人権問題はいまほどではなくとも、「反米感情」は高まる。そこで、米軍機関は、鹿地問題の〝火消し役〟に、かねてから〝二重スパイ〟として利用していた三橋を、国警(国家地方警察。自治体がもっている自治体警察の、所轄以外の部分をカバーする警察。現在は、この分類が廃止され、警視庁以外はすべて警察庁の所管)本部に自首させたのである。

同十二月九日、帝国電波株式会社技術課長三橋正雄(当時39)は、「私は、米軍による鹿地氏逮捕の

真相を、明らかにするために、自首してきたものだ」と、第一声をこういい放った。

読売梁山泊の記者たち p.168-169 ソ連のスパイである一人の男を逮捕

読売梁山泊の記者たち p.168-169 鹿地はなぜ、このような失踪をせねばならなかったのだろうか。それを一言にしていえば、彼は、米ソの二重スパイであった、ということだ。それには、鹿地の過去の、複雑な経歴を知る必要がある。
読売梁山泊の記者たち p.168-169 鹿地はなぜ、このような失踪をせねばならなかったのだろうか。それを一言にしていえば、彼は、米ソの二重スパイであった、ということだ。それには、鹿地の過去の、複雑な経歴を知る必要がある。

同十二月九日、帝国電波株式会社技術課長三橋正雄(当時39)は、「私は、米軍による鹿地氏逮捕の

真相を、明らかにするために、自首してきたものだ」と、第一声をこういい放った。

七日、鹿地が帰宅するや、すぐさま、社会党の猪俣浩三代議士らが動き、衆院法務委員会が、調査を開始した。その第一回が、十二月八日(帰宅の翌日)、第二回が同十日、第三回が同十一日、第四回が同二十三日と、第七回までつづく。これらの、法務委での、鹿地証人の証言から、その人物像を浮かび上がらせてみよう。

明治三十六年五月一日生まれ。昭和二年三月、東京帝大文学部国文学科を卒業。プロレタリア作家として活動。昭和九年の春、治安維持法によって逮捕され、翌十年末、懲役二年執行猶予五年の判決を受けた。

昭和十一年一月、中国文学研究のため、上海の中国文学者として著名な、魯迅のもとに行く。日本軍部の戦争政策に反対して、中国人とともに、反戦運動に入り、国民党政府の軍事委員会顧問として、漢口市で、日本兵捕虜の洗脳教育を担当していた。戦後の二十二年五月、中国から帰国。帰国後は、結核に冒されて、療養生活に入っていた。

怪文書事件に衝撃をうけた、池田幸子夫人は、二十七年十一月九日に、夫君の捜索願を藤沢市署に提出し、市署では、家出人としての捜索をはじめ、ここではじめて、日刊紙の報道するところとなった。それから一カ月近く経った十二月七日、鹿地が、突然自宅に姿を現わして、大騒ぎとなったわけである。

では、鹿地はなぜ、このような失踪をせねばならなかったのだろうか。それを一言にしていえば、

彼は、米ソの二重スパイであった、ということだ。それには、鹿地の過去の、複雑な経歴を知る必要がある。

第一の時期は、日本軍閥に反抗して中国に渡り、当時の国共合作時代の重慶(国府)、延安(中共)と、これを後援していた米国の三者側についた。

それがのちに二つに割れ、中共をソ連が応援しだすと、まず延安側についた。左翼作家だった鹿地としては、当然のことである。

ところが、次の時期には、重慶側についたのである。日本の敗戦時には重慶におり、マ元帥顧問だ、と自称して、得意満面のうちに帰国してきたのだ。

この米・国府側対ソ・中共側との間の往復回数は、さらに多かったかもしれない。しかし、戦後帰国したさいには、重慶で米国のOSS(戦略本部)や、OWI(戦時情報局)に、働いていたほどだったから、当然、米国側について、重慶時代と同じように、諜報や謀略の仕事を、していたに違いない。

一方、米国側では、前に述べたように、〝幻兵団〟の存在を探知して、これの摘発に懸命に努力していたのである。そして、その一味である「三橋正雄」なる人物を摘発、これを逆スパイとして、利用していた。

その結果、米国側では、三橋の密告によりそのレポとして、ソ連のスパイである一人の男を逮捕した。調べてみると、意外なことには、この男は、米側のスパイであるはずの、鹿地だということが、 判ったから大変だ。

読売梁山泊の記者たち p.170-171 NKの政治部将校が同行

読売梁山泊の記者たち p.170-171 亡くなった綜合警備保障の村井順が、まだ国警本部警備課長だったころ、ソ連から代表団が来日した。米側にとっては、情報入手の好機でもある。村井課長は、米国製の優れた盗聴器を渡され、ホテルでの盗聴を、米占領軍から命令された。
読売梁山泊の記者たち p.170-171 亡くなった綜合警備保障の村井順が、まだ国警本部警備課長だったころ、ソ連から代表団が来日した。米側にとっては、情報入手の好機でもある。村井課長は、米国製の優れた盗聴器を渡され、ホテルでの盗聴を、米占領軍から命令された。

その結果、米国側では、三橋の密告によりそのレポとして、ソ連のスパイである一人の男を逮捕した。調べてみると、意外なことには、この男は、米側のスパイであるはずの、鹿地だということが、

判ったから大変だ。

米国側が怒ったのも無理はない。飼犬に手をかまれていたのだ。それから、鹿地証言にあるような拷問が行なわれた?

ソ連のスパイをやっていたが、逆スパイになれというだけなら、こんな拷問をせずもっと賢明な方法がある位のことは、いくらなんでも、米国諜報員が知っているはずである。米国側には、鹿地が米国スパイとして、働いた記録があるそうだから、やはり裏切者への怒りが、爆発したのであろう。

その頃には、米国側では、鹿地を殺すべく計画していた、かも知れない。そして鹿地はその米国側の企図を察知したか、または他の理由で自殺(狂言?)を図った。

折よく、肺病が再発したので各所を転々、殺すか、釈放するかを打ち合せ中、〝謀略のマーフィー〟といわれる、マーフィー大使が着任、さらに利用価値があるかも知れない、というので、たらい廻しのまま時が経ってしまった。

またソ連側では、鹿地が消息を絶ったので、調べてみると、米側に逮捕されたと分かった。そこで日本の世論をわかして、鹿地を釈放させ、さらにこれを、反米感情をたかめるのに、利用したのではあるまいか。それを証拠だてる有力な資料が、怪文書である。この文書なるものが、左翼系から流されたであろうことは、明らかであるが、なぜか、「アカハタ」(現・赤旗)には、この好個のニュースが一言半句も掲載されなかった。とすれば、鹿地逮捕を知ったソ連側が鹿地に行なわれた虐待を、反米感情をかき立てる材料として、ヘタクソな英文に託して、怪文書なるものを作成させ、バラまかせ

たことが、容易に推測できる。これは、「敵の手で敵をたおす」という、諜報謀略の原則からも、うなずける推理であろう。

三橋は、アメリカ側の逆スパイとして、働くようになった。その三橋が、はしなくも、ここに無電スパイとして、けんらんたるお目見得をすることになった。それは、鹿地事件における、日本世論の硬化に驚いて、鹿地を釈放せざるを得なかった米国側の鹿地問題処理策でもある。

自らの不手際のため、鹿地問題でその虚をつかれた米国側としては、釈放に当たって、鹿地から、「私はソ連スパイだった、この事件で米国に対しては賠償要求などしない」と、一札をとってはおいたけれど、すでに、鹿地を反米闘争の英雄として祭り上げるお膳立てができているところへ放すのだから、鹿地事件をつぶす準備だけは忘れなかった。

亡くなった綜合警備保障の村井順が、まだ国警本部警備課長だったころ、ソ連から代表団が来日して、品川のホテルに宿泊した。

ソ連の海外派遣団というのは、スポーツであれ、文化であれ、必ず、NKの政治部将校が、マネージャーとか、随員とか、つまらぬ肩書で同行してくる。もちろん、亡命の阻止と同時に、アメリカのスパイに接触されぬよう、防諜上の任務を持つ。

それはまた、米側にとっては、情報入手の好機でもある。村井課長は、米国製の優れた盗聴器を渡され、ホテルでの盗聴を、米占領軍から命令された。

コンクリート壁をも通す、その性能にビックリした課長は、重大な決心をした。その機器を電機メ

―カーに渡し、分解して、同じ性能のコピーを造るよう、依頼したのである。

読売梁山泊の記者たち p.172-173 常に戦争の残滓を背負い

読売梁山泊の記者たち p.172-173 今村一郎——国学院大学を出て、兵隊で満州へ送られ、甲種幹部候補生から、ハルビンの露語教育隊に入り、少尉任官。ハルビン特務機関に所属する、陸軍中尉であった。つまり、第一線の対ソ・スパイのひとりだった。
読売梁山泊の記者たち p.172-173 今村一郎——国学院大学を出て、兵隊で満州へ送られ、甲種幹部候補生から、ハルビンの露語教育隊に入り、少尉任官。ハルビン特務機関に所属する、陸軍中尉であった。つまり、第一線の対ソ・スパイのひとりだった。

コンクリート壁をも通す、その性能にビックリした課長は、重大な決心をした。その機器を電機メ

ーカーに渡し、分解して、同じ性能のコピーを造るよう、依頼したのである。

数日間の日程を終えて、その代表団が離日した後、村井課長は、「担当員が操作を誤って失敗した」と、米側に頭を下げ、ナニ食わぬ顔で、コピー済みの盗聴器を返した。それ以後、日本警察の盗聴術は、格段の進歩をしたのだった。

近代諜報戦が変えたスパイの概念

時代の流れは、公安・外事が主流になるべく、動き出していた。それは人事面でも、土田国保、富田朝彦、山本鎮彦といった人材たちを、登用してゆく方向からも、裏付けられている。いずれも、公安・外事に眼を見開いていた連中である。

警視庁七社会(読、朝、毎、東、日経、共同、時事新報の七社の、記者クラブ)での、私の相棒は、北海道新聞から移ってきた、深江靖であった。彼は、東京外語のロシア語科の出身だった。

さる平成元年十二月八日、私のデスクの上に置かれた郵便物のなかに、一通の黒枠のハガキがあった。「今村由紀子」という差出人の名前に、ハテナ、と首を傾げた。それから、視線を本文に走らせて、アッと声をのんだ。

「平成元年十一月二十一日(七十二歳)の誕生日に、夫一郎が心のう血腫で急逝致しました。兼ねてからの遺志により、通夜及び葬儀は、近親者のみにて相済ませました。

常に戦争の残滓を背負い、厳しく自己を律して、その信念のままに、最後の日まで仕事に励み、潔

い生涯であったと思います。

故人に生前賜わりました御芳情に対し、厚く御礼申し上げここに御通知申し上げます」と、あった。想えば、その日は、〝常に戦争の残滓を背負い、とある、太平洋戦争勃発の日であった。

今村一郎——国学院大学を出て、兵隊で満州へ送られ、甲種幹部候補生から、ハルビンの露語教育隊に入り、少尉任官。ハルビン特務機関に所属する、陸軍中尉であった。つまり、第一線の対ソ・スパイのひとりだった。

そして、彼と私との出会いは、昭和二十五年一月十三日付の「幻兵団第二報」に、今村が、〝鈴木〟という仮名ながら、横顔の写真入りで登場しているので、多分、前年の十二月ごろのことであろう。

晩年の今村は、端正な顔立ちに、やや白髪を交えこそしたが、背筋を伸ばし、胸を張った姿勢で、待ち合わせの喫茶店に現われた。気取った挙手の敬礼をして、「ズドラースチェ(今日は)」といった。

それこそ、将校服と正帽の似合いそうな男だったが、彼は、陸軍中尉の軍服を着用したことはなかった、だろう。

それなのに、ナゼ、「常に戦争の残滓を背負い…」と、夫人をして、書かしめたのだろうか。どうしても、今村一郎について、語らねばならない。戦後の四十年、東欧貿易の商社員という名刺こそ持ってはいたが、公然たる定職もなく逝ってしまった男の、これは墓碑銘である。

哈爾浜(ハルビン)、小上海と呼ばれる、エキゾチックな街である。ロシア革命以後、亡命した白系

露人が多く住んでいた。そして、黒竜江をはさんで、中国側が愛輝、ソ連領がブラゴベシチェンスク、とある。愛輝とは、黒河という町で、地図にも、カッコつきで、示されている。

読売梁山泊の記者たち p.174-175 「対ソ情報」プロフェッショナル・バカ

読売梁山泊の記者たち p.174-175 ロシア語の教育を、軍隊で受けた今村は、本来ならば、国学院大なのだから、どこかの神主にでも納まるべき人物。それが、戦前は日本の仮想敵ソ連の諜報、戦後は、米国と日本治安当局のためのアナリスト…。
読売梁山泊の記者たち p.174-175 ロシア語の教育を、軍隊で受けた今村は、本来ならば、国学院大なのだから、どこかの神主にでも納まるべき人物。それが、戦前は日本の仮想敵ソ連の諜報、戦後は、米国と日本治安当局のためのアナリスト…。

哈爾浜(ハルビン)、小上海と呼ばれる、エキゾチックな街である。ロシア革命以後、亡命した白系

露人が多く住んでいた。そして、黒竜江をはさんで、中国側が愛輝、ソ連領がブラゴベシチェンスク、とある。愛輝とは、黒河という町で、地図にも、カッコつきで、示されている。

この黒河こそ、対ソ諜報の最前線で、対岸のブラゴベシチェンスクとの、奇妙な往来の基地だった。今村は、ハルビン特務機関からこの黒河に派遣されていた。

スパイというのは、世界各国ともに、おおむね三段階に分かれている。つまり、最先端にいるのが、インベスチゲーション(捜査)である。それを、操縦(指揮)するのが、インタルゲーション(情報収集)で、そこに集められた情報は、アナリスト(解析)の許で総合判断されるのである。

黒河の町の西のはずれに、神社がある。そのそばに、「工作家屋」と呼ばれる建物があった。人相、年齢、氏名を、対岸のブラゴベシチェンスクのエヌカーに通告した、満人の諜者(インベスチゲーション)が、二、三名は、常に待機している。

彼らは、定期的に、定められたコースで、対岸のブラゴエに渡り、ソ連側の工作家屋に行く。そこで、携行してきた、日本側の情報を渡し、さらにまた、こちらの要求する、ソ連側の情報をもらってくるのが、役目だ。

その次には、同じような、ソ連側の諜者が舟を出して、黒河の東のはずれ、海蘭公園のあたりに上陸する。

そこから、河岸沿いに町を横切り、西郊の工作家屋にやってくる。同様に、情報を提供し、かつ、要求する。

この組織は、定められた諜者と、定められたコースにだけ、憲兵と国境警備隊とが、たがいに、治外法権を認め合っている。

相手方に対する質問の仕方と、その質問に対する返事の仕方によって情報を得る——もちろん、それは相手方の諜者も我が方の諜者も、同様である。

そこが、双方のインタルゲーション(工作主任)の、チエと頭脳の闘いなのである。つまり、諜者は、堂々とブラゴエの町を歩き、ソ連人の生活を目撃して、それを、記憶として持ち帰ってきている。

それを、インタルゲーションは、必要なものを、記憶の中から引き出すのである。今村は、この仕事をやっていた。そして、工作主任として得た情報、ブラゴエで見聞してきたもののうち、日本という国家が必要としているものを、彼自身の頭脳というフィルターを通して、ハルビン特機に送る。

ハルビンでは、それらを集めて、アナリストが、解析し、判断する。「敵の手で敵を斃す」というのが、諜報謀略の原則である。

ロシア語の教育を、軍隊で受けた今村は、本来ならば、国学院大なのだから、どこかの神主にでも納まるべき人物。それが、戦前は日本の仮想敵ソ連の諜報、戦後は、米国と日本治安当局のためのアナリスト…。

戦争が、今村の運命を大きく変えてしまったのである。彼は、もはや〝不具者〟であった。「対ソ情報」以外では、常識的な社会人としては、通用しなくなっていたのだ。プロフェッショナル・バカだったのだ。

読売梁山泊の記者たち p.176-177 山本鎮彦公安三課長に〝御進講〟

読売梁山泊の記者たち p.176-177 山本鎮彦公安三課長、通称ヤマチンの課長時代に、例のラストボロフの、亡命事件が起きたのだから、今村が、「きょう、桜田商事(警視庁)で、ナニナニの話をしてきた」と洩らせば、それだけで、私は取材活動に入れたのであった。
読売梁山泊の記者たち p.176-177 山本鎮彦公安三課長、通称ヤマチンの課長時代に、例のラストボロフの、亡命事件が起きたのだから、今村が、「きょう、桜田商事(警視庁)で、ナニナニの話をしてきた」と洩らせば、それだけで、私は取材活動に入れたのであった。

しかし、私の「幻兵団」の取材には、多大の貢献をしてくれた。ある時には、警察庁や警視庁の、外事・公安などの動きについてもサジェッションを与えてくれた。

なにしろ、私が、警視庁七社会で、外事を担当していた時の、山本鎮彦公安三課長(外事特高とも呼ばれた)、通称ヤマチンは、のちに、警察庁長官へと進み、さらに、ベルギー駐在の大使にも、転出できた人物。そのヤマチンに、アナリストとして〝御進講〟申し上げることも、しばしばだった今村なのである。

ヤマチンの課長時代に、例のラストボロフ二等書記官(政治部中佐)の、亡命事件が起きたのだから、今村が、「きょう、桜田商事(警視庁)で、ナニナニの話をしてきた」と洩らせば、それだけで、私は取材活動に入れたのであった。

だが、今村が、私にレクチュアしてくれた「諜報学入門」は、なかなか、示唆に富んだものであった。

鹿地亘を鵠沼海岸で襲った怪自動車は、間違いなく、アメリカのキャノン機関の仕事であった。これほど強引で、デタラメな、ギャング振りを発揮できるのは、キャノン機関以外にはない。

キャノン機関の所属するCIAの前身は、戦時中、重慶にあったOSSである。この第二次大戦中の、各国の秘密機関は、それぞれに特色を持っていた。OSSの得意とするのは、謀略と逆スパイ工作である、といわれている。

逆スパイと、スパイの逆用とは、まったく違うことである。常識的に使われる、二重スパイという

言葉も、厳密にいうと、まちがっている。三橋正雄が二重スパイ、というのが誤りで、彼は、幻兵団(ソ連のスパイ)だったのが、逆用されて、アメリカのスパイになったのである。

二重スパイというのは、二つの陣営に、まったく同じ比重で、接触しているものをいうのだが、第一次大戦以後の、各国の秘密機関は、諜報、防諜両面で、飛躍的進歩を遂げたため、スパイというのは、その末端で、必ず敵側と接触を持っていなければならなくなった。

つまり、大時代的な個人プレイだけでは、なにもスパイできなくなり、組織の力が大きくなったのである。深夜、敵側の大使館に忍びこんで、金庫を開けて、書類を盗む、といったスパイのイメージは、もはや、完全に幻と化してしまった。

そのため、各国の諜報線は、必ずどこかでクロスしており、七割与えて十割奪う、という形態をとるようになってきた。いいかえれば、すべてがいわゆる、二重スパイなのである。今村が、黒河の工作家屋でやっていた、インベスチゲーションをインタルゲーションが使う、というあの形である。

ただ、二重スパイといわれても、その力関係が、どちらの陣営に大きいか、どちらの陣営に、より多く奉仕しているか、ということで、そのスパイは、「比重の大なる陣営のスパイ」と、いわれるのである。

だから、三橋正雄の場合は、アメリカのスパイであり(逆用された)、鹿地亘もまた、アメリカのスパイである。

正確にいえば、逆スパイとは、スパイをスパイしてくるスパイ、のことである。複スパイとは、ス パイを監察するスパイだ。逆スパイと、スパイの逆用との違いは、その取扱法の上で、ハッキリと現われてくる。

読売梁山泊の記者たち p.178-179 今村の読売記事への登場

読売梁山泊の記者たち p.178-179 私、三田記者の取材は、今村こそホンモノの幻兵団、と質問がつづく。それを、彼は、懸命にかわしながらも、大本営参謀の朝枝繁春中佐のことなど、私が、息をのむような〝新事実〟を、次々と、明らかにしてくれるのだった。
読売梁山泊の記者たち p.178-179 私、三田記者の取材は、今村こそホンモノの幻兵団、と質問がつづく。それを、彼は、懸命にかわしながらも、大本営参謀の朝枝繁春中佐のことなど、私が、息をのむような〝新事実〟を、次々と、明らかにしてくれるのだった。

正確にいえば、逆スパイとは、スパイをスパイしてくるスパイ、のことである。複スパイとは、ス

パイを監察するスパイだ。逆スパイと、スパイの逆用との違いは、その取扱法の上で、ハッキリと現われてくる。

普通、スパイは次のような過程を経る。要員の発見→獲得→教育→投入→操縦→撤収。従って、任務で分類するならば、正常スパイ、複スパイ、逆スパイなどは、この取扱法を受ける。二重スパイというのは、二次的な情況だから、もちろん例外である。

奇道である敵スパイ逆用の場合は、次のようになる。要員の発見→接触→獲得→操縦→処置。つまりこれで見ても分かる通り、獲得前に接触が必要であり、獲得ののちは、教育も投入も必要なく、操縦することのみで、最後は、撤収するのではなく、処置(殺す)することである。

正常なるスパイは、自然な流れ作業によって、育てられてゆくのであるし、確固たる精神的根拠、もしくは、それに物質的欲望がプラスされているのだから、そこには、同志的結合も生じてくる。

逆用工作では、要員の発見は、我が陣営に協力し得る、各種の条件のうちの、どれかを持った敵スパイを見つけ出し、それを懐柔、または威嚇で獲得するのであるから、同志的結合などは、まったくないし、操縦者は常に一線を画して、警戒を怠らない。

これが、アメリカの秘密機関の、常道になっているのだから、彼らは、常に猜疑心が深く、ギャング化するのである。ところが、ラストボロフと、志位正二元少佐との関係をみてみると、そこには、人間的な交情さえ見出されるのである。

正常スパイでは、任務が終われば、味方であり同志であるから、最後に、これを撤収しなければな

らない。逆用スパイの場合は、撤収とはいわずに処置、という。つまり、殺すなり、金をやるなり、外国へ逃がすなり、なんらかの処置をしなければならない。鹿地事件の発端は、この処置に失敗したことである。

今村の、読売記事への登場は、なかなかキビシイものであった。紹介には、「元関東軍特務機関員だったが、昭和二十三年暮引き揚げた。特機員なのに、早く引き揚げられたのはオカシイ、として、『彼はスパイだ』という風説もある人だ」とある。

「私は、黒河で終戦になり、直ちにソ軍の取調べを受けたが、人事書類はハルビンにあり黒河にはなにもなかった。それに、通訳の白系露人が好意的だったため、釈放されて、一般の将校の部に編入された。私は、スパイ誓約書は書いていないが、良く知っている」

つまり、私、三田記者の取材は、今村こそホンモノの幻兵団、と思いこんでの質問がつづくのである。それを、彼は、懸命にかわしながらも、大本営参謀の朝枝繁春中佐のことなど、私が、息をのむような〝新事実〟を、次々と、明らかにしてくれるのだった。

こうして、私は、昭和二十五年、原四郎が社会部長になってくる前あたりから、早くもアメリカの秘密機関であったキャノン機関や、ソ連代表部のだれそれが、政治部将校といった、国際的ウラ街道に通じはじめていた。

米占領軍の、日本政府に対するコントロールには、背広を着た二世やら、ニセの二世やらが登場してくる実態。さらには、日本政府に対する、GHQの〝朝令暮改〟が、実は、ウィロビー少将のGⅡ

(幕僚第二部=情報)と、マーカットのGS(民政局)との、根本的な対立にあることなどを、一番、敏感な司法記者クラブ、さらに、国会記者クラブなどで、肌に感じていた。

と同時に、〝消耗品〟の下級将校ではあったが、軍隊体験があったこと。シベリア捕虜に、知ソ派の陸大出の、佐官級将校がいたりした。また当時は、GHQのカゲの勢力であった、旧職業軍人たちの動向にも通じていた。つまり、当時の〈ニュースの中心〉に、私は位置していたのである。

読売梁山泊の記者たち p.180-181 第四章トビラ

読売梁山泊の記者たち p.180-181 近代諜報戦が変えたスパイの概念(おわり部分) 第四章トビラ 第四章 シカゴ、マニラ、上海のギャングたち
読売梁山泊の記者たち p.180-181 近代諜報戦が変えたスパイの概念(おわり部分) 第四章トビラ 第四章 シカゴ、マニラ、上海のギャングたち

米占領軍の、日本政府に対するコントロールには、背広を着た二世やら、ニセの二世やらが登場してくる実態。さらには、日本政府に対する、GHQの〝朝令暮改〟が、実は、ウィロビー少将のGⅡ

(幕僚第二部=情報)と、マーカットのGS(民政局)との、根本的な対立にあることなどを、一番、敏感な司法記者クラブ、さらに、国会記者クラブなどで、肌に感じていた。

と同時に、〝消耗品〟の下級将校ではあったが、軍隊体験があったこと。シベリア捕虜に、知ソ派の陸大出の、佐官級将校がいたりした。また当時は、GHQのカゲの勢力であった、旧職業軍人たちの動向にも通じていた。つまり、当時の〈ニュースの中心〉に、私は位置していたのである。

第四章 シカゴ、マニラ、上海のギャングたち

読売梁山泊の記者たち p.182-183 まさに無法状態の中で資産を形成

読売梁山泊の記者たち p.182-183 小佐野賢治は、警視庁に逮捕された時、占領軍の古タイヤの払下げ入札の期日が迫っていた。国際興業の今日の基礎は、この時の古タイヤだった。箔付けのために、小佐野は、旧華族の娘と結婚する。名も門地もなく、金だけの男が選ぶ道である。
読売梁山泊の記者たち p.182-183 小佐野賢治は、警視庁に逮捕された時、占領軍の古タイヤの払下げ入札の期日が迫っていた。国際興業の今日の基礎は、この時の古タイヤだった。箔付けのために、小佐野は、旧華族の娘と結婚する。名も門地もなく、金だけの男が選ぶ道である。

第四章 シカゴ、マニラ、上海のギャングたち

不良外人が闊歩する「東京租界」

日本の、朝鮮半島や台湾の併合は、それこそ、武力を背景にした強引なものだった。そうした植民地化は、当然の結果として、民族差別を生む。

だから、いまの中年以上の日本人、少なくとも、敗戦までに小学校教育を受けていた人たちには、抜き難いほどの、朝鮮民族や中国人に対しての蔑視感が残っている。

それは、戦時中の教育だけではなく、日本の敗戦によって独立を得た、朝鮮、台湾民族らの、それこそ〝一斉蜂起〟ともいうべき、強圧からの解放感の、然らしめるところもあった。

東京でも、新橋や新宿では、〝暴動〟に近い騒ぎが頻発していた。当時「第三国人」と呼ばれた彼らは、三無原則(無統制、無税金、無取締)によって、経済的優位を確保して、日本中を闊歩していた。

「第三国人」はさらに、「占領国人」や「占領軍」とも組んで、まさに無法状態の中で資産を形成していった。

当時の財テクは、彼らと組むのが一番の近道であった。例えば、国際興業・小佐野賢治は、経済違反で警視庁に逮捕され、送検された時、係の検事が、独学で中年過ぎに司法試験に合格した男と、知った。

検事では、絶対に出世しない立場である。小佐野は、彼を口説いて、「処分保留」の形で釈放させた。占領軍の古タイヤの払下げ入札の期日が、迫っていたのである。そして、検事を退官して弁護士にな

ったその男は同社の顧問弁護士に就任する。国際興業の今日の基礎は、この時の古タイヤだった。

さらに、箔付けのために、小佐野は、旧華族の娘と結婚する。名も門地もなく、金だけの男が選ぶ道である。

同じように、占領軍の将校たち——金力の代わりに権力を持った男たちも、旧華族の女性たちに憧れた。だが、権力だけでは女は養えない。金の必要を感じた連中が、第三国人や、被占領国の日本人と組んで、〝悪事〟を働く。

それが、七年間もつづいた。

その結果、日本は、バクチや麻薬、ヤミ、密輸、売春といった、植民地犯罪の巣となり果てていた。昭和二十七年四月二十八日、日本は独立国となり、占領は終わった。だが、第三国人や占領国人の「経済特権」には、さらに六カ月間の猶予期間が与えられ、半占領の状態が続いた。

「畜生メ、これじゃ、まるで租界だ!」

原四郎は、デスク会議で呟いた。

「租界」という言葉を、「新潮国語辞典」でひいてみると、こうある。

《居留地。特に中国で、第二次大戦前、条約により、外国人が土地を借り、永久的居住をなし得た地域。現在は消滅》

香港でさえ、一九九七年には中国に返還される。「租界」とは、すでに死語なのである。

日本が、はじめて経験した〝植民地〟状況が、原四郎をして、こういわしめたのだ。初代マニラ支

局長、東亜部次長という経歴の彼には、米軍占領下の東京は、どう見ても〝トーキョー租界〟であった。

読売梁山泊の記者たち p.184-185 名誉毀損の告訴状が何十本と

読売梁山泊の記者たち p.184-185 東京租界のプラン会議は、原部長、辻本デスク、三田、牧野拓司の四人で持たれた。まず、日本の独立後、占領国人や第三国人に与えられていた三無原則(無統制、無税金、無取締)の横行について、私のレクチュアから始まった。
読売梁山泊の記者たち p.184-185 東京租界のプラン会議は、原部長、辻本デスク、三田、牧野拓司の四人で持たれた。まず、日本の独立後、占領国人や第三国人に与えられていた三無原則(無統制、無税金、無取締)の横行について、私のレクチュアから始まった。

香港でさえ、一九九七年には中国に返還される。「租界」とは、すでに死語なのである。
日本が、はじめて経験した〝植民地〟状況が、原四郎をして、こういわしめたのだ。初代マニラ支

局長、東亜部次長という経歴の彼には、米軍占領下の東京は、どう見ても〝トーキョー租界〟であった。

そして、十月二十八日の特権消滅の日に「東京租界」キャンペーンを打とう、というプランが生まれたのであった。

東京租界のプラン会議は、原部長、辻本デスク、三田、牧野拓司の四人で持たれた。まず、日本の独立後、占領国人や第三国人に与えられていた、六カ月の猶予期間が終了する昭和二十七年十月二十八日以降の、三無原則(無統制、無税金、無取締)の横行について、私のレクチュアから始まった。

通訳である牧野は、雰囲気を理解するために、オブザーバーとして出ていた。

私のレクチュアは、その時までに、私に蓄えられていた、占領国人たちの、アンダーグラウンドの実情についてであった。バクチ、麻薬、ヤミ、密輸、売春から、それらを資金源とする、諜報の世界について、部長やデスクからの質問が、矢継早に浴びせられた。

こうした会議が数回もたれて、さらに、部長とデスクとの打ち合わせもつづいた。大体の構成がまとまってきて、取材のGOサインが出された。

「イイカ、三田! 奴らから、名誉毀損の告訴状が、何十本と舞いこんできても、ビクともしない、堂々たる取材をやれ!」

原四郎は、それだけいうと、会議の席を立った。

新聞記事の場合、取材が正確で真実の証明ができれば、刑事は免責されるから、原四郎は、それを

「堂々たる取材」といったのだった。

取材記者にとって、こんな嬉しい言葉はない。ウダウダと細かい注意などせずに、一言だけ、「お前を信頼しているゾ」と、そういわれたのである。

九月はじめ、この企画を与えられて、まず不良外人の一般的な動静から調べ出した。内幸町の富国ビル、日比谷の三信ビル、日活国際会館(現・日比谷パークビル)という、彼らの三大基地をブラつく毎日がはじまった。取材費伝票を切って、小遣銭はタップリある。私は、そのビルのグリルやバー、レストランやパーラーで、のんびりと構えていた。

長身の私は、一見中国人風なので、取材を終えて富国ビルあたりから出てくると、「ハロー・ボーイさん! シューシャン!」と、靴磨きの少年(いまの豊かな日本では、ホントに信じられないことだが、戦災孤児たちが進駐軍の靴を磨いていた)が、声をかけた。

毎日、米人や中国人の商社まわりをしているうちに、私も、バタ臭くなったのだろうか。ニヤリと笑って、私は、少年に十円札(米国とデザインされている、といわれた十円札があった)を、チップでやった。

〝外事特高のヤマチン〟こと山本鎮彦・公安三課長に、意見具申をしたことがある。

「ネ、課長。三課のデカたちの靴、なんとかしてやんなさいョ。背広もそうだけど、自警会の売店の月賦にでもして、新調させねば…尾行や張りこみで、ホテルのロビーにいたらデカのカンバン出しているようなモンだよ」

読売梁山泊の記者たち p.186-187 夜のパイコワンは素敵だった

読売梁山泊の記者たち p.186-187 銀座のクラブ・マンダリン。「東洋平和の道」などの日華合作映画の主演女優だった、パイコワン(白光)の趣味で飾られ、始皇帝の後宮でも思わせるように、豪華で艶めかしかった。私は、このパイコワンと親しかった。
読売梁山泊の記者たち p.186-187 銀座のクラブ・マンダリン。「東洋平和の道」などの日華合作映画の主演女優だった、パイコワン(白光)の趣味で飾られ、始皇帝の後宮でも思わせるように、豪華で艶めかしかった。私は、このパイコワンと親しかった。

木幡計・一係長が、然るべく手配したのか、やがて外事警察のデカたちは、相当にスマートになってきた。外で逢ったら、三課のデカとは思えぬほどの若手がふえてきた。——こんなふうにして、〈東京租界〉の取材は進み出していた。

夜は夜で、彼らの集まるナイト・クラブ、赤坂のラテン・クオーター、麻布のゴールデン・ゲイト、銀座のクラブ・マンダリンや、デインハオなどで、租界に巣喰うボスたちの生態をみつめていた。

国際バクチの鉄火場だった、銀座のクラブ・マンダリン(のちのクラウン)事件は、あとで触れるが、のちのように洋風で、華やかなキャバレーではなく、荘重な純中国風のナイトクラブだった。戦時中、「東洋平和の道」などの、日華合作映画の、主演女優だった、パイコワン(白光)の趣味で飾られ、食器は小皿の一つにいたるまで、すべて香港から取りよせられる、という凝り様だった。

赤い中国繻子で覆われた壁面や、金の昇り竜をあしらった柱、真紅の中国じゅうたんなど、始皇帝の後宮でも思わせるように、豪華で艶めかしかった。照明は薄暗く、奥のホールでは、静かにタンゴ・バンドが演奏しており、白い糊の利いた上衣のボーイたちが、あちこちに侍って、立っていた。

私は、このパイコワンと親しかった。もちろん、彼女には彼女なりに、私と親しく振る舞う理由があった。昼間の彼女は、切れ長の目が吊り上がった中国顔で、早口の中国語で、怒鳴っているのかと、思えるほどの調子でしゃべる時などは、何かオカミさんじみて幻滅だった。

だが、夜のパイコワン、ことに、このマンダリンでみる彼女は素敵だった。私は、北京ダックと長

ネギと、甘酢味噌のようなものを、小麦粉を溶かして焼いた薄皮に包む料理を、彼女が手際よく、まとめてくれるのを見ていた。客の前に材料を揃えて、好みのサンドウィッチを、作って喰べるのに似ている。

その器用に動く指を、眼でたどってゆくと二の腕まで出した彼女の餅肌の白さが、ボーッと、二匹の魚のように、鈍く光っていた。

「美味しいでしょ?」

少し鼻にかかった甘い声で、彼女は私にいった。正面はともかく、横顔はまだ、十年ほど前ごろのように美しい。彼女も、映画のカメラ・アイで、それを承知しているらしく、話す時にはそんなポーズをとる。

私が、彼女の映画をみたのも、その頃だった。清純な姑娘だった彼女も、下腹部にも脂肪がたまり、何かヌメヌメとした感じの、濃厚な三十女になってしまった。

パイコワンといえば、今の中高年以上の人には、昔懐かしい中国人の映画女優である。この数奇な運命をたどった女優には、彼女らしい〝伝説〟がある。

上海の妓楼で働いていた彼女の、清純な美しさに魅せられた日本の特務機関の中佐が、すっかりホレこんで、これを映画界へ送りこんだ、というのがそのひとつである。

ところが、その真相は、その中佐の部下の中尉に、眉目秀麗な男がいた。上海郊外で宣撫工作に従

事していた中尉と、田舎娘のパイコワンとの間に、いつか、恋が芽生えた。だが、命令で内地帰還となった中尉は、彼女にそれを打明けずに、姿を隠してしまった。

読売梁山泊の記者たち p.188-189 「素敵なお話ね。ロマンチックだわ」

読売梁山泊の記者たち p.188-189 パイコワンはいった。「私、日本人で、一人だけ好きな方がいました」——あの表情の変化は、自分の悲しい恋を想って、心動いたのか。それとも、中共スパイという、心のカゲがのぞいたのか?
読売梁山泊の記者たち p.188-189 パイコワンはいった。「私、日本人で、一人だけ好きな方がいました」——あの表情の変化は、自分の悲しい恋を想って、心動いたのか。それとも、中共スパイという、心のカゲがのぞいたのか?

上海の妓楼で働いていた彼女の、清純な美しさに魅せられた日本の特務機関の中佐が、すっかりホレこんで、これを映画界へ送りこんだ、というのがそのひとつである。
ところが、その真相は、その中佐の部下の中尉に、眉目秀麗な男がいた。上海郊外で宣撫工作に従

事していた中尉と、田舎娘のパイコワンとの間に、いつか、恋が芽生えた。だが、命令で内地帰還となった中尉は、彼女にそれを打明けずに、姿を隠してしまった。

狂気のように、中尉を求めたパイコワンがたずねたずねて、上海の機関本部へきた時、中佐に見染められ、だまされて女優になった。戦後、漢奸(売国奴の意)として、中国を追われた彼女は、日本へ入国するために、米人と結婚し、中尉を求めてきたのだ、と。

また、戦時中の政略結婚で、南方の小王国の王女と結婚した、さる高貴な出身の日本人がいた。戦後、王国の潰滅とともに、香港に逃れたその日本人は、そこでパイコワンとめぐり合った。二人の魂は結ばれたが、男が日本へ引揚げたあとを追って、彼女もまた、日本へ移り住んだ、ともいう。

私に、その物語を聞かされたパイコワンは、心持ち顔をあげて、眼をつむり、静かに話の終わるのを待っていた。

「素敵なお話ね。ロマンチックだわ」

そう呟いたきり、否定も肯定も、しなかった。だが、何か隠し切れない感情が、動いているのを、私は見逃さなかった。

フト、音楽がやんだ。バンドの交代時間らしい。パイコワンはいった。

「私、日本人で、一人だけ好きな方がいました」

——あの表情の変化は、自分の悲しい恋を想って、心動いたのか。それとも、中共スパイという、心

のカゲがのぞいたのか?

中国に、中国人として生まれて、上海、香港のような植民都市を好み、米人の妻となり日本の恋人の、面影を求めて、新しい植民都市・東京に流れてきた彼女。そこには、スパイではないかと、疑っている官憲が、その挙動を見つめている。

何かこみ上げてくるいじらしさに、私は、新聞記者という立場も忘れて、抱きしめてやりたいような感じのまま、しばらくの間、この美しい異邦人を、見つめていたのだった。

このマンダリンの主役のもう一人は、ウエズリー・大山という二世だ。日活会館にあるアメリカン・ファーマシーの社長である。彼は、その富国ビルの事務所に、私の訪問を受けると、小心らしくあわてた。彼は保全経済会のヤミドルで捕まったり、そのあげくに、国外へ逃げ出してしまった。帰国すると、サンキスト・オレンジのヤミで、逮捕状が待っている。

「オウ、そんなことありません。それよりもワタクシ、まだ、ゲイシャ・ガールみたことないです。アナタたち、案内して下さい」

そんな誘惑をしてくる時計の密輸屋は、日活会館に、堂々と事務所を構えている。

〝租界を彩る人たち〟は、無国籍の白人ばかりではない。それに協力する日本人たちもいるのである。

M・千里(ちさと)という、若い美人の弁護士もいた。銀座の教文館ビルに、事務所を構えた人物のところで、イソ弁(居候弁護士の略で、自分の独立事務所を持っていない)をしていた。独身であ った。

読売梁山泊の記者たち p.190-191 人品いやしからぬ日本人の老紳士

読売梁山泊の記者たち p.190-191 相手の目の前で、その封筒を破いて、現ナマを取り出し、一枚、二枚と数えてやる。「ナルホド五万円。これで、あなたは、読売記者の〝良心〟を買いたい、とおっしゃるのですか。残念ながら御期待にそえませんナ」
読売梁山泊の記者たち p.190-191 相手の目の前で、その封筒を破いて、現ナマを取り出し、一枚、二枚と数えてやる。「ナルホド五万円。これで、あなたは、読売記者の〝良心〟を買いたい、とおっしゃるのですか。残念念ながら御期待にそえませんナ」

M・千里(ちさと)という、若い美人の弁護士もいた。銀座の教文館ビルに、事務所を構えた人物のところで、イソ弁(居候弁護士の略で、自分の独立事務所を持っていない)をしていた。独身であ

った。

彼女の〝客〟のほとんどが、〝東京租界〟人であった。そして、私の有力な情報源であった。もちろん、彼女は、自分の担当事件の話を洩らすのではない。

すでに、司法記者クラブ一年の経験を持っていた私の質問は、弁護士法スレスレの角度から、彼女に向かって放たれていた。やはり租界の実情に通じているだけに、被占領国人としての義憤を感じていた彼女は、私に、多くのサゼッションを与えてくれた。もはや、女性弁護士と新聞記者の関係から、親しい友人であった。

…その彼女は、サヨナラも告げずに、私の前から姿を消した。弁護士会を退会して、彼女の依頼人だった、近く米国籍を取れる無国籍人と結婚し、海外へ旅立っていった。長身で美貌なだけに、打ちひしがれた日本人には、伴侶を見出せなかった、のかも知れない。

人品いやしからぬ、日本人の老紳士の訪問も受けた。アメリカのヤミ会社の顧問だ、というのだ。調査をやめてくれという。

「何分ともよろしく。これは、アノ……」

さし出したその封筒には、現金が入っている。相手の目の前で、その封筒を破いて、現ナマを取り出し、一枚、二枚と数えてやる。

「ナルホド五万円。これで、あなたは、読売記者の〝良心〟を買いたい、とおっしゃるのですか。残

念ながら御期待にそえませんナ」

皮肉な言葉と表情で、相手のろうばい振りを見つめてやるのだ。

日本の弁護士から電話がくる。何時にアメリカン・クラブで会いたいという。出かけてゆくと……。

「フーン。若いナ。君は去年あたりの卒業生かね。ソラ、何といったかネ、編集局長は? ウン、そうそう、小島君。彼は元気にやっとるかネ」

社の幹部を、親し気にクン付けで呼ぶ種類の人たち。このような人には、こちらもインギンブレイで答える。誘惑と恫喝と取材の困難。

「お断わりしておきますが、私はあと一カ月で、アメリカ合衆国市民の権利を、獲得するということに御注意を願いたい」

彼は、無国籍の砂糖の脱税屋である。本人はシベリア生まれ、妻はハルビン生まれ、息子は上海生まれという、家族の系譜が、彼を物語る。

「御参考までに、申し上げますが、私は東京ライオンズ・クラブという、アメリカ実業人の社会慈善団体の幹部です。これをお忘れなく」

彼は時計の密輸屋である。そして、彼もハルビン生まれで、妻は天津ときている。

私と牧野拓司とのコンビで、取材は進行した。不良外人のアクラツな手口と、経歴と、犯罪事実や

不法行為のメモが、つづられていた。取締当局の係官も、かげから取材に協力してくれた。

読売梁山泊の記者たち p.192-193 独立間もない日本の首都に魔手を

読売梁山泊の記者たち p.192-193 銀座のド真中の国際的な賭博場レストラン「クラブ・マンダリン」の実態については、警視庁保安課で十八日、責任者岩橋勝一郎氏の出頭を求めて本格的調査に乗り出したが、まだ実相は、ナゾのヴェールに包まれたままである。
読売梁山泊の記者たち p.192-193 銀座のド真中の国際的な賭博場レストラン「クラブ・マンダリン」の実態については、警視庁保安課で十八日、責任者岩橋勝一郎氏の出頭を求めて本格的調査に乗り出したが、まだ実相は、ナゾのヴェールに包まれたままである。

私と牧野拓司とのコンビで、取材は進行した。不良外人のアクラツな手口と、経歴と、犯罪事実や

不法行為のメモが、つづられていた。取締当局の係官も、かげから取材に協力してくれた。

第一線刑事たちは、自分たちの手のとどかない、〝三無原則〟の特権の座を、新聞の力で、くつがえして欲しいと、願っていたのだった。そして欧米人たちは、ポリスよりもプレスを恐れていた。

国際ギャングによる日本のナワ張り争い

昭和二十七年六月十九日付読売朝刊は、匿名の外人記者のレポートを、トップで掲載した。おもしろいものなので、再録してみよう。

《銀座のド真中の国際的な賭博場レストラン「クラブ・マンダリン」の実態については、警視庁保安課で十八日、責任者岩橋勝一郎氏の出頭を求めて本格的調査に乗り出したが、まだ外人を主体としたクラブ組織というだけで、複雑な治外法権然とした実相は、ナゾのヴェールに包まれたままである。

この事件は、外人記者間でも注視を浴び、事件前早くも取材が続けられていたものだが、その一人(特に名を秘す)は、十八日、本社に、次のような、驚くべきリポートを寄せた。

これによると、同賭博場は、フィリピンから流れてきた、世界的博徒によって作られたことが、明らかになったが、このほか東京には、かつてのアメリカの有名なギャング、アル・カポネの残党と、上海から乗りこんだ中国きっての博徒が三巴の縄張り争いを続け、国際的なスケールで、独立間もない日本の首都に、魔手をのばしている、といわれる。

膨大な金力を背景とする、これら企業家たちは、「犯罪の植民地」化のために、いかに東京を狙って

いるか、以下はその秘密情報…

こんどのマンダリンの秘密賭博クラブに対する、警視庁保安課の早急な解答がなければ東京はやがて、本拠を戦前の上海、戦後アメリカ治下のマニラ、アメリカの賭博連盟本部シカゴの三都市におく、国際賭博団の凶手におちてしまうだろう。

国際商社にとって、対日投資が有利だ、というニュースが伝わると、彼らはすぐやってきた。投資に有利なところは、賭博に好都合に違いないからだが、着くとさっそく、賭博場の設立許可をうるために、東京の官憲諸方面に、わたりをつけにかかった。

ある博徒が記者にいった。「どいつにも握らせてあるから、大丈夫さ。外務省に至るまでね」

これはあとになって、本当でないとわかったが、これら国際博徒たちが、いかにえげつない方法をとるかがわかる。読売新聞の記事で、クラブ・マンダリンが閉鎖された当夜、親分モーリス・リプトンは、閉鎖の理由を聞かれて、「なに、明日の晩には開いてみせるよ」と、答えた。これは彼個人の単なる誤解だが、日本の警察としても、「私有クラブ」を、妨害するわけにはいかない。

リプトンは、日本における拳闘、その他娯楽の世話役だが、テッド・ルーインと協同して、クラブ・マンダリンを賭博場として開設した。ルーインはフィリピン賭博界の重要人物で、六月はじめ、東京「私有クラブ」の特殊賭博機械を仕入れるため、サンフランシスコに赴いたところを、逮捕された。

リプトン、ルーインの博徒に対抗する勢力に、ジェィソン・リー(李)という、ニューヨーク生れ

の朝鮮人二世がいる。リーは「ワシントン秘密情報」で有名な、レイト、モーティマー共著の、「シカゴ秘密情報」にも登場している、シカゴの東洋人地区の賭博の総元締で、カポネ一味に一定の貢物を納め、賭博場開設の指令を仰いでは、各地に出張する男である。