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正力松太郎の死の後にくるもの p.088-089 立松和博記者の微笑ましいエピソード

正力松太郎の死の後にくるもの p.088-089 彼は、担当係官の顔など、ほとんど知らなかったであろう。現に、読売のスクープに、警視庁の担当係官が口惜しがったことがある。「読売は取材にも来ないで、どうして、あの事件をヌイたのだろう?」
正力松太郎の死の後にくるもの p.088-089 彼は、担当係官の顔など、ほとんど知らなかったであろう。現に、読売のスクープに、警視庁の担当係官が口惜しがったことがある。「読売は取材にも来ないで、どうして、あの事件をヌイたのだろう?」

ある社会部次長がいった。

「驚いたよ。今の若い記者には……。コロシがあったサツで、サツ廻りの奴が電話してくるンダ。『アノォ、私は日勤なもンですから、もう帰るンですけど、あとは誰に引きついだらよいの

でしょうか』だとサ。まだ、六時すぎごろのことだぜ。三鷹や下山のころには、一カ月以上もウチに帰れなかったのにナ」

また、もう一人、古手の記者がいう。

「今年の〝全舷上陸〟は中止だよ。何しろ、若い連中から、ふだんの勤務が乱れていて、十分に〝家庭サービス〟ができないのだから、せめて、新聞休刊日ぐらいは、旅行なんぞやめて、ゆっくりと家族と一緒にさせてほしい、という声が強いのでネ。……時代の流れなんだろうナ。ヤング・パワーというヤツか……」

退社してもう十一年。最近の社員名簿をみてみると、百五名におよぶ社会部員のうち、私の知っている記者は、二割程度しかいないのである。文字通りに、〝時移り、星変って〟しまっているのだった。

紙面にクビをかける

もう少し、昔話をつづけさせて頂く。

売春汚職事件にからむ大誤報事件の立松和博記者についての、微笑ましいエピソードは多い。そして、それは多くが、酒についてであった。

彼が警視庁記者クラブ詰めになって、捜査二課を担当していた当時である。もちろん、タタキ、コロシのデカたちと、付き合えはしなかった。警備、公安がダメ。保安防犯は、麻薬や売春、風紀などがあるので興味を示してはいたが、やはり、二課事件(知能犯罪担当。当時は暴力団関係もふくまれていたが、中心は、何といっても、汚職や会社犯罪であった)に集中していた。

彼は、担当係官の顔など、ほとんど知らなかったであろう。現に、読売のスクープに、警視庁の担当係官が口惜しがったことがある。

「読売は取材にも来ないで、どうして、あの事件をヌイたのだろう?」

係官の疑問も当然である。警視庁の捜査を指揮している、検察庁へ行って取材してくるから、係の顔など知らない男が、ボンボン抜きダネを書くのであった。

深夜の三時、四時。朝刊原稿の締め切りごろに、立松記者は酔って、警視庁クラブに現れる。泊り番の記者たちは各社一名宛であるが、原稿を送稿し終って、サテ、仮眠でもという時の、酔ッ払いのチン入である。

彼は、各社の記者に抱きつき、「オレ、オ前が好きなンだア」と、ホオをペロペロなめる。素面の泊り番は、カオをしかめて逃げまどう。やがて、放声高吟のあげく、彼はズボンのチャック

を下げて、クラブ中に〝放水〟を開始する。

正力松太郎の死の後にくるもの p.090-091 他社の社会部記者たちとマージャン

正力松太郎の死の後にくるもの p.090-091 私は、丸三年にも及んだ警視庁記者クラブを卒業させて頂いて、通産、農林両省クラブ詰(兼務)となった。だが、このクラブ勤務は、ほぼ一年で外される。理由は特落ちである。
正力松太郎の死の後にくるもの p.090-091 私は、丸三年にも及んだ警視庁記者クラブを卒業させて頂いて、通産、農林両省クラブ詰(兼務)となった。だが、このクラブ勤務は、ほぼ一年で外される。理由は特落ちである。

彼は、各社の記者に抱きつき、「オレ、オ前が好きなンだア」と、ホオをペロペロなめる。素面の泊り番は、カオをしかめて逃げまどう。やがて、放声高吟のあげく、彼はズボンのチャック

を下げて、クラブ中に〝放水〟を開始する。

そんなある時、数人がかりで彼を押えつけて、ホースの先端にインクを塗りつけたことがあった(注。記者のデスクには、原稿の加筆訂正用に、青、赤のインク壷と筆が備えられている)。数日後、彼は蒼白な顔色で、私に相談してきた。

「オイ。大丈夫だろうか。先の方からボロボロと、皮が剥げ落ちてくるンだ。……まさか、インクで崩れやしまいナ?」

立松記者の、あれほど真剣で、思いつめた表情は、仕事の時でも見られなかったほどである。——こんな想い出も、すでに幽明境を異にして、四十歳の若さで逝った立松記者を偲ぶよすがの一つである。

付記すれば、克城、良城の遺児両君は、靖子夫人の薫育のもとに、健やかに成長して早くも大学生になっている。

このように、立松記者に対して、読売記者はもちろんのこと、他社の記者諸君も、極めて〝寛容〟であった。

それは何故か?

新聞記者に対する評価は、すべて「紙面」で決ったからである。「紙面」とは、仕事の実績であり、才能の舞台であった。彼の昭電事件における、輝やかしい経歴と、現実のスクープ。極め

て的確、かつ大胆な予告記事、見通し記事と、その記事通りの事件の展開とが、立松記者に対して、人々を寛容にさせ、また、畏敬せしめたのだ。

だが、彼の仕事が、検察庁筋のみに限られていたことが、私の指摘する、〝変則取材〟ということであり、かつ、後年の悲劇の芽を胚胎させていたのであった。

昭和二十四年以来、あしかけ七年間も社会部長の職にあって、〝名社会部長〟の名をほしいままにした原四郎が、昭和三十年春に、編集総務に栄転し、後任に、原のサツ廻り仲間といわれる、景山が社会部長となった。

そして、私は、丸三年にも及んだ警視庁記者クラブを卒業させて頂いて、通産、農林両省クラブ詰(兼務)となった。だが、このクラブ勤務は、ほぼ一年で外される。

理由は特落ちである。多久島という農林省の役人が、何千万円という公金を使いこんで、当局に告発されるのである。その日の夕方五時ごろ、安田農林経済局長が、農政記者クラブに現れて、「只今告発いたして参りました」と発表した。

農政クラブへは、読売は、政治、経済、社会、地方の各部から記者が派遣されており、ニュースの種類によって、各部ごとに分担する。この時、地方部の記者が発表を聞いて、私を探したが見当らないので、直接社会部のデスクに、「こういう発表がありました」と、連絡した。

私は、その日、その時、ずっと通産省の虎の門記者クラブに在室していた。残念ながら、仕事

ではなかった。通産省のクラブには、経済部を主力に、やはり、政治、社会部から記者が詰めている。私は他社の社会部記者たちと、マージャンをしていたのである。

正力松太郎の死の後にくるもの p.092-093 発表モノの特オチとは

正力松太郎の死の後にくるもの p.092-093 原因調査の結果、地方部小野寺記者の通報が、その夜の当番デスク山崎次長のもとにあったのだが、山崎次長は、これを自社の特ダネと感違いして、警視庁クラブに調査を命じた。「特ダネだから隠密に」と
正力松太郎の死の後にくるもの p.092-093 原因調査の結果、地方部小野寺記者の通報が、その夜の当番デスク山崎次長のもとにあったのだが、山崎次長は、これを自社の特ダネと感違いして、警視庁クラブに調査を命じた。「特ダネだから隠密に」と

私は、その日、その時、ずっと通産省の虎の門記者クラブに在室していた。残念ながら、仕事

ではなかった。通産省のクラブには、経済部を主力に、やはり、政治、社会部から記者が詰めている。私は他社の社会部記者たちと、マージャンをしていたのである。

負けがこんでいて、午後からずっと、ジャン台にかじりついていたのだった。そして、その日、そんな大事件が起きているとも知らず、夜の九時すぎまで、他社の記者を放さなかったのである。彼らも、国税庁や文部省の兼務はいたが、農林省兼務なのは私一人であった。

大負けした私は、そのまま社へも上らず通産省から帰宅してしまった。そして、翌朝、自宅で、朝日、毎日を見て、「多久島事件」の大々的な記事の扱いに、ガク然としたのだったが、〝発表モノ〟と判って、安心して、最後に読売をひろげた。

無い! 自社は出ていないのである。

スッと、背筋に冷たさが走った。

「そんなバカな! 発表モノなのに……」

私は、あわてて各面を繰ったが、読売だけ、一行すら載っていないではないか。

重い、苦しい気持で農政クラブに電話を入れると、地方部の記者が出た。

「私は発表を聞いて、社会部のデスクに入れておきましたよ」

不安はさらに募った。ニュースが入っているのに出ていないとは……、かつて、立松、萩原両記者と共に、法務庁クラブで、朝連解散の発表モノを、号外落ちした時よりも、重い足取りで社

へ向った——景山社会部長も蒼い顔であったし、原編集総務も、沈痛な表情であった。こんな大事件の、発表モノの特オチとは、まさに醜態の限りであったからだ。

原因調査の結果、地方部小野寺記者の通報が、その夜の当番デスク山崎次長のもとにあったのだが、山崎次長は、これを自社の特ダネと感違いして、警視庁クラブに調査を命じた。

「特ダネだから隠密に」という注意を守った、捜査二課担当記者は、庁内を当ってみたが判らないので、翌日回しということになったのであった。

いずれにせよ、農林省詰めである私の責任はまぬがれ得ない。ことに遊んでいた時の失敗だから、自責の念にかられた。

ところが、原因調査のさい、山崎次長は「農林省の事件だからと思い、警視庁へ連絡する一方、三田を探して、農林、通產両クラブに社電を入れたが、三田がいなかったので、翌日廻しになった」と、弁解したという話(注。私は以後山崎次長と口を利いていないので、確かめてない)を、部長に聞かされて、私は怒った。

「責任転嫁を部下にするなど、とんでもない野郎だ。今だからいいますが、当日、私はマージャンで通産省クラブから、一歩も外へ出なかったのです。その間、一度だって社電はなかった。他社の三人の証人もいるんです。第一、通産省クラブを呼んだという、電話交換手を明らかにして頂きたい」

正力松太郎の死の後にくるもの p.094-095 以前にも〝事件〟を起していた

正力松太郎の死の後にくるもの p.094-095 数日たって、処分の辞令が社内に掲示された。社会部長、譴責罰俸、私が罰俸一カ月とあって、処分者は二名だけであった。私は、やがて、「多久島事件」の時に、部長が腕組みをしたワケを知った。
正力松太郎の死の後にくるもの p.094-095 数日たって、処分の辞令が社内に掲示された。社会部長、譴責罰俸、私が罰俸一カ月とあって、処分者は二名だけであった。私は、やがて、「多久島事件」の時に、部長が腕組みをしたワケを知った。

私のばく論に、景山部長は黙って腕組みをしてしまった。何かを考えているようだったが、 「マ、いい。オレに考えがあるから、黙ってオレにまかせろ」と、私を制した。

数日後、私は部長に呼ばれた。

「オレも進退伺いを出すが、お前も黙って始末書を出せ」

「部長がそういうなら、私も黙っていうことをききます」

景山とは、そういう人柄の人物であった。そして、それなりに部長を理解できる部下からは、良く慕われてはいたが、ある意味では、古いタイプの〝社会部派〟の記者であった。人情に篤く、温厚な人柄ではあったが、もう一つ、記者の〝鋭さ〟〝非情さ〟に欠けていた。

数日たって、処分の辞令が社内に掲示された。社会部長、譴責罰俸、私が罰俸一カ月とあって、処分者は二名だけであった。

こうして、当然の配置転換。私は通産、農林両省詰めを解かれて、本社勤務の遊軍記者となった。遊軍になって、部長とお茶を飲んだり、ダベったりする機会が多くなって、私は、やがて、「多久島事件」の時に、部長が腕組みをしたワケを知った。

山崎次長という人は、以前にも〝事件〟を起していたのだ。日本テレビの記者座談会での、〝舌禍〟である。時の郵政大臣佐藤栄作に関する、事実無根の呑み屋談義をホントらしくしゃべってしまった。たまたまそのテレビを見た佐藤大臣の抗議から、デマを流した嘱託の記者がク

ビ、山崎次長が次長を剥奪されて平部員に降等、内外タイムスへ出向という、前歴があったのだ。景山は、人情家らしく、やっと次長に復帰してきた山崎デスクを、何とか救ってやろうとしたのである。

前の事件は、原部長時代だ。冷厳な信賞必罰—責任体制の確立こそ、新聞記者という〝責任ある職業人〟にとって、何よりも必要なことであったと思う。

私はいま、自由な立場のライターとして「立松記者事件」の背景を、冷静に眺め、検討してみると、あの大誤報の遠因は、一個人山崎を秘かに救ってやった、景山温情部長の社会部長としてのあり方、姿勢にすでに胚胎していたと考察する。

原四郎編集局長が、七年間も社会部長をつづけていられた、ということの意味の重要さは、このように、毎日、毎日の朝夕刊の「紙面」という、クビのかかった生活の連続の中で、〝名部長〟といわれこそすれ、ほとんどまったく、ミスがなかった——ということなのである。だからこそ、七年間も、「社会部長」がつづいたのだ。

原が統率の才にめぐまれていたということと、さらには、「新聞の体質」が、原という「記者の体質」と同一だったことである。

原四郎編集局長の記者としての体質が、新聞の体質と同じであったことが、彼をして、七年間もの長きにわたって、社会部長の椅子にあらしめた——と、私は書いた。

正力松太郎の死の後にくるもの p.096-097 4章トビラ

正力松太郎の死の後にくるもの p.096-097 紙面にクビをかける(つづき) 4章トビラ 4 〝務台教〟の興隆
正力松太郎の死の後にくるもの p.096-097 紙面にクビをかける(つづき) 4章トビラ 4 〝務台教〟の興隆

だが一方で、私は、昭和三十年代に、新聞は急激にその体質を変えて、「広報伝達紙」となってしまった、とも書いている。すると原の記者としての体質は、どうなってしまったのであろうか。そこが問題である。

4 〝務台教〟の興隆

正力松太郎の死の後にくるもの p.098-099 米上院外交委員会証言内容

正力松太郎の死の後にくるもの p.098-099 極めてショッキングな内容。それは他でもない。先刻御承知の「朝日、毎日はアカの巣くつで、だから、アメリカのベトナム政策が批判されるのだ」というもの。
正力松太郎の死の後にくるもの p.098-099 極めてショッキングな内容。それは他でもない。先刻御承知の「朝日、毎日はアカの巣くつで、だから、アメリカのベトナム政策が批判されるのだ」というもの。

朝・毎アカ証言の周辺

さる四十年四月二十九日の午後、アメリカの二大通信社であるAP、UPIが、そろって打電してきた記事は、日本の新聞界にとって、極めてショッキングな内容で、そのため、外電センターである共同通信社でも、その配信について、しばし思い悩んだといわれるほどのものであった。

それは他でもない。先刻御承知の「朝日、毎日はアカの巣くつで、だから、アメリカのベトナム政策が批判されるのだ」というもの。米上院外交委員会が、四月七日に開いた一九六六会計年度の軍事援助に関する、秘密聴聞会での、ポール国務次官、マッカーサー国務次官補の証言内容についての記事であった。

これに対し、朝日、毎日両紙は、それこそ〝猛然〟と反ばくし、ことに毎日の反ばく記事の扱い方の大きさは、同社の受けた衝撃を物語ってあまりあった。

だが、問題はここからが始まりである。朝、毎の一面の大きな記事に対し、「三大紙」である、読売のそれは、まさに不当なほどの、小さな記事であったからである。

私は、この「三大紙」の同記事を丹念に読みながら、今日を、さらに近い将来を暗示する、極めて象徴的な事実を想い起さざるを得なかったからであった。

四月二十三日、東京中央局の消印。市販のタテ長のハトロン封筒。マジック・インキの達筆(書き馴れた)な宛書、色は黒。差出人の住所氏名なし。内容物は、白ザラ紙二枚にタイプされた檄文と、別紙の内容目次。ここに、その檄文を引用しよう。

「最近の思潮動向の御検討材料として御参考までに同封資料をお送り致します。

この『教育の森』構成草案は、毎日新聞が、『企業—の森朝刊第五面連載』の終了次第朝刊に長期間連載するものの説明であります。

その各項目をみますと、左翼偏向教育グループとして定評のある教育科学全国連絡協議会(略称・教科連・委員長勝田守一—千代田区神田錦町一の三〇平和ビル)の主張、表現をそのまま受け入れ、きわめて一方的な立場から、取材編集を進めていくことが明らかであります。

しかも、そのスタッフに名を列ねる藤田恭平、牧孝昌の両名は、共産党のフロント組織である日本ジャーナリスト会議のメンバーであり、毎日新聞学芸部内においても札つきの左翼として有名な存在であります。

また、村松喬は、さきに学芸部長時代にこれら左翼グループの接近を許し、同学芸部赤化の

原因をつくり、そのため管理能力欠除という理由で学芸部長を解任された人物です。

正力松太郎の死の後にくるもの p.100-101 米国務省政策企画委員長ロストウが来日

正力松太郎の死の後にくるもの p.100-101 ロストウの記者会見は、朝・毎だけが単独会見で、読売はその他大勢とコミの共同会見しかできなかったという、重大な事実がある。そこに、朝毎アカ証言の入電であった。
正力松太郎の死の後にくるもの p.100-101 ロストウの記者会見は、朝・毎だけが単独会見で、読売はその他大勢とコミの共同会見しかできなかったという、重大な事実がある。そこに、朝毎アカ証言の入電であった。

また、村松喬は、さきに学芸部長時代にこれら左翼グループの接近を許し、同学芸部赤化の

原因をつくり、そのため管理能力欠除という理由で学芸部長を解任された人物です。

これらのスタッフによって編集する『教育の森』がいかなる記事となって、紙面に表われてくるかは、自ずから明らかでありましょう。

このような企画のものを、わが国の代表的全国紙であり、社会の公器である毎日新聞が、左翼グループの陰謀企画にもとづき、長期に連載することは、きわめて重大な問題であります。

このような編集計画を進行したことの裏には、昭和四十五年における、日米安保条約の再改訂時を目ざす、左翼言論戦線の計画的陰謀があることは容易に察せられるところであります。

日本ジャーナリスト会議をはじめ、これら左翼言論人は、極めて巧妙に常に機会をとらえ、その編集する紙・誌・電波を利用して、彼らの『革命計画』を推進しようとしており、そのもっとも顕著な例をこの『教育の森』に見ることができるわけであります。

毎日新聞の公正を守るためにも、また、教育についての正しい世論喚起のうえからも、このような編集企画については厳しい批判と適切な対策が講ぜられるよう御期待致します。

なお当面の対策としては、この連載企画の変更、スタッフの解任などを要求すること(文書や面談によって)が考えられますが、その相手としては、次の両氏が適切と思いますので申添えます。

毎日新聞東京本社 上田常隆社長

同        田中香苗論説主幹

(参考)

『教育の森』構成草案中、とくに左翼偏向が明らかな項目、および教科連独自の表現や左翼的問題意識の明白な事例をあげると次の通りであります。              (以下略)」

差出人不明だから、いわゆる〝怪文書〟ではあるが、封筒の筆蹟、要領よくまとめられた文章、上田社長らへのアッピールなど、総会屋や新聞ゴロたちの手になる〝怪文書〟とは、全くジャンルを異にするものであることは明らかである。

そして、これが投函された二十三日という日は、前夜おそく、米国務省政策企画委員長ウォルト・W・ロストウが来日した折でもあり、ロストウは、「朝、毎アカ証言」が入電して、その反響が現れた五月二日まで滞日していたのであった。

さらにはまた、ロストウの記者会見は、朝・毎だけが単独会見で、読売はその他大勢とコミの共同会見しかできなかったという、重大な事実がある。そこに、朝毎アカ証言の入電であった。

それより数カ月も前のことである。テレビのクイズに「世界最大の発行部数を誇る新聞」というのがあった。解答者は「プラウダ」と答え、正解もまた「プラウダ」であった。正解のカネが鳴って、五分とたたないうちに、そのテレビ局の電話が鳴った。電話口では「世界最大の発行部

数を持つのは、読売新聞だ」と怒鳴っていたという。そして、不思議なことには、その番組の終りに、「プラウダは誤りで、正解は読売新聞でした」と、訂正されたという。

正力松太郎の死の後にくるもの p.102-103 もはや三大紙として認めてくれなくなった

正力松太郎の死の後にくるもの p.102-103 このような〝雰囲気〟に包まれていた昭和四十年ごろのことである。いわゆる「務台事件」が起きるのである。務台事件における現象面を追ってみよう。
正力松太郎の死の後にくるもの p.102-103 このような〝雰囲気〟に包まれていた昭和四十年ごろのことである。いわゆる「務台事件」が起きるのである。務台事件における現象面を追ってみよう。

それより数カ月も前のことである。テレビのクイズに「世界最大の発行部数を誇る新聞」というのがあった。解答者は「プラウダ」と答え、正解もまた「プラウダ」であった。正解のカネが鳴って、五分とたたないうちに、そのテレビ局の電話が鳴った。電話口では「世界最大の発行部

数を持つのは、読売新聞だ」と怒鳴っていたという。そして、不思議なことには、その番組の終りに、「プラウダは誤りで、正解は読売新聞でした」と、訂正されたという。

私が読売新聞社会部記者の出身であり、新聞を、そして読売を、こよなく愛するが故に、まず当時にさかのぼって、これだけの事実を提起するのである。

〝日本三大紙の雄〟と称し、称せられ、またそれだけの内容を持っていた、わが読売新聞は、ここ数年のうちに、内容、紙面ともに転落し、かくて、客観はもはや三大紙として認めてくれなくなったということが、ロストウの態度と、ポール、マック両氏証言でも明らかにされたのである。そして、「紙面で来い」という、記者気質と新聞の値打ちとの現実とは、アメリカ人にいわれるまでもなく、それを雄弁に物語っている。たとえ、テレビのクイズは訂正できようとも——

記事の魅力は五パーセント

さて、このような〝雰囲気〟に包まれていた昭和四十年ごろのことである。そしてこの〝雰囲気〟を背景に、いわゆる「務台事件」が起きるのである。ともかく、務台事件における現象面を

追ってみよう。

ここに数通のビラがある。読売労組教宣部で出した「組合ニュース」である。四十年の夏期手当をめぐる交渉委の経過を報じたものだが、その内容をまず、紹介せねばならない。

「交渉内容次のとおり。

組合——会社は〝ないソデはふれぬ〟の一点ばりだが、ランドの記事を見ていると、こんなところに金をつかっているではないかという、不信感がつのるばかりだ。

会社——いつもいうように、ランドには金は出ていない。しかし、ランドは新聞を伸ばすための事業であり、書くのは当り前だ。

組合——春闘のさい、会社は、新聞の公益性を守ると確約したのに、いっこう改まらないではないか。

会社——どれもこれも、新聞を伸ばすためにやっているのだ。「クジラ」がみんなの関心を集めるなら、「クジラ」を書くのも公益性に反するものではない。

組合——社の事業や宣伝も程度問題ではないか。「正力コーナー」もいぜんとしてつづいている。〝どうにかしてもらいたい〟という意見が、組合員だけではなく、読者の間からも強く

出ている。

正力松太郎の死の後にくるもの p.104-105 務台光雄が辞表を提出

正力松太郎の死の後にくるもの p.104-105 代表取締役専務務台光雄が、「所感」をもって、代表取締役副社長の高橋雄豺のもとに辞表を提出、慰留をさけるため、そのまま居所をくらましてしまうという、いわゆる「務台事件」が起った。
正力松太郎の死の後にくるもの p.104-105 代表取締役専務務台光雄が、「所感」をもって、代表取締役副社長の高橋雄豺のもとに辞表を提出、慰留をさけるため、そのまま居所をくらましてしまうという、いわゆる「務台事件」が起った。

組合——社の事業や宣伝も程度問題ではないか。「正力コーナー」もいぜんとしてつづいている。〝どうにかしてもらいたい〟という意見が、組合員だけではなく、読者の間からも強く

出ている。

会社——会社の調査では、読売の読者のうち、〝社主の魅力〟でとっているのが四十%。〝巨人軍〟でとっているのが二十%で、〝記事が良いからとっている〟というのは、わずか五%ぐらいだ。

組合——〝記事でとっているのが五%だ〟というのが、編集の最高責任者の言葉とすると、あまりにひどい。これではみんな記事を書く気も、働く気もしなくなる。

会社——社主の魅力が大きい以上、そうした記事は扱わねばならない。批判的な読者の声もほとんど聞いていない。

組合——ともかく「正力コーナー」はやめてほしい。各職場からそういう声が強く出ている。

「組合ニュース」(六月十六日付、第11号)

驚くべき発言ではないか。これが、前にも簡単に触れたが、編集局長の「五%発言」なるものの全文である。会社、組合という立場の対話で書かれているが、この部分の見出しに、「これが編集局長の言葉か」とあるからには、読売を「記事でとっている」読者が五%という発言は、対話の内容からも、小島文夫編集局長の言葉だと判断される。

この〝五%問題〟は、組合ニュースで流された結果、重大な問題へと発展してきた。

一時は、小島編集局長の引責辞職、正力亨報知社長との交代説などまでが社内に流布されるな

ど、編集ばかりか、全社的な憤激をまき起したほどであった。しかし、十三号でともかく小島局長のクビがつながるだけの、会社側のカオを立て、十四号では、「十八日の交渉委で、会社側から陳謝」ということが報じられた。

「紙面で来い!」という、サッソウたるタンカに含まれるものが、すなわち、経営の姿勢と新聞の公器性である。そのためにこそ、編集ばかりか、工務、業務のあらゆる新聞人が、誇りと自負とを持って、真剣に働いているはずである。それが、「紙面が五%」というのであっては、その意味するものが、購読理由であれ、イメージ調査であれ、いずれにせよ五十歩百歩で、組合側のいう通り、〝記事を書く気も、働く気もしなく〟なるのは当然である。

さる二月十九日付、読売労組教宣部の「闘争情報」第一号によると、組合は、七千五百円の賃上げを会社に要求し、十八日に交渉委が開かれたことを報じている。この「闘争情報」は、号を逐って七千五百円アップ一本槍を呼号し、「スト権確立のための全員投票までを決定した」。いわゆる「春闘」である。

こうして、組合の闘争気運が次第に盛り上ってきた三月十七日、代表取締役専務務台光雄が、「所感」をもって、代表取締役副社長の高橋雄豺のもとに辞表を提出、慰留をさけるため、そのまま居所をくらましてしまうという、いわゆる「務台事件」が起ったのである。所感は、極めて含蓄の多い、次のようなものであった。

正力松太郎の死の後にくるもの p.106-107 「契約金未払いに泣く巨人軍選手」

正力松太郎の死の後にくるもの p.106-107 務台辞任。この事件をキッカケに、次第に〝神秘のヴェール〟を剥がされた、大読売新聞の経営の実態は、到底、世間の人々には信じられないほどの、スサマジサであった。
正力松太郎の死の後にくるもの p.106-107 務台辞任。この事件をキッカケに、次第に〝神秘のヴェール〟を剥がされた、大読売新聞の経営の実態は、到底、世間の人々には信じられないほどの、スサマジサであった。

こうして、組合の闘争気運が次第に盛り上ってきた三月十七日、代表取締役専務務台光雄が、「所感」をもって、代表取締役副社長の高橋雄豺のもとに辞表を提出、慰留をさけるため、そのまま居所をくらましてしまうという、いわゆる「務台事件」が起ったのである。所感は、極めて含蓄の多い、次のようなものであった。

「今回行なわれた、読売労組のスト権確立の投票は、本社の経営に対する不信感の顕れであると思います。従って、その抜本的解決は、経営の責任者である私の辞任が、先決の条件と考えます。

私は、読売新聞が、社会の公器としての使命と責任を全うするために、永久に存続し発展することを希うものであります、(中略)この意味において、今回のことは 誠に遺憾でありますが、しかし、責任の大半は私にあると思います。

依って、本社百年の計を考え、その責任を明らかにするため、辞任する決意をした次第であります」

あけて翌十八日、務台辞任、居所不明のニュースは、読売全社を動揺させた。そして、この事件をキッカケに、次第に〝神秘のヴェール〟を剥がされた、大読売新聞の経営の実態は、到底、世間の人々には信じられないほどの、スサマジサであった。

読売の〝家庭の事情〟

これらの事情を伝えたものに、「契約金未払いに泣く巨人軍選手」(週刊現代 四月十五日号)という、五百崎三郎なる匿名の記事がある。

これによると、四百勝を飾って、巨人軍からプロ球界を引退した、金田をはじめとして、巨人選手たちの、契約金の未払額が約一億円ある。一方、メノコ算で計算して、入場料収入約二億五千万円。これにテレビその他を加えて三億の収入。支出は、最大の人件費一億二千万円、その他で約一億五千万円、差引一億五千万円の黒字だという。それなのに、一億も未払があるのは、読売がその金を流用しているというもので、契約金を分割にすれば浮く利子だけでも大変なものだという。

大体からして、新聞経営の基礎は、購読料収入四と、広告料収入六とに依っている。ところが、オリンピック以後の不況は、この四対六の比率を、五分五分、もしくは六対四にさえ逆転させようとしている。そのため、新聞社はどこでも苦しい。というのは、もはや新聞購読人口は頭打ちで、三社は、北海道の僅かな未開拓人口を求めて、競って進出したほどである。

その上、オリンピックの過当取材合戦で、各社とも数億にのぼる金を注ぎこんだが、広告が思ったほど集まらず、広告スペースの記事にあわてたほどであった。不況は、スポンサーの広告予算の削減を招き、少ない予算で沢山の効果となるので、自然、媒体である新聞社と紙面の撰択が厳しくならざるを得ない。

ということは、一例をあげれば、新聞社の週刊誌でいえば、朝日と毎日は、それぞれ実績と読者層を認められて、それほど広告原稿は減らないが、読売やサンケイは、出稿回数が減ったり、

全く停止されたりするということだ。

正力松太郎の死の後にくるもの p.108-109 苦境にプラスする〝家庭の事情〟

正力松太郎の死の後にくるもの p.108-109 川崎市外の「読売ランド」。読売新聞の金を、正力がみなランドに注ぎこんでしまうので、巨人軍の金も、粉飾決算の日本テレビの金もゴッチャになり、金繰りが苦しいというのである。
正力松太郎の死の後にくるもの p.108-109 川崎市外の「読売ランド」。読売新聞の金を、正力がみなランドに注ぎこんでしまうので、巨人軍の金も、粉飾決算の日本テレビの金もゴッチャになり、金繰りが苦しいというのである。

ということは、一例をあげれば、新聞社の週刊誌でいえば、朝日と毎日は、それぞれ実績と読者層を認められて、それほど広告原稿は減らないが、読売やサンケイは、出稿回数が減ったり、

全く停止されたりするということだ。

ところが雑誌社の週刊誌では、新潮などは、「週刊新潮」だけの入り広告料(同誌に掲載される他社の広告)だけで、全新潮社の出し広告料(他紙誌への出稿広告)を上廻るという、掲載申込を捌き切れないほどの、跛行現象が起きてくる。つまり一流だけは影響がなく、二、三流が苦しいということだ。

広告頁がすいていれば、ついにはダンピングにまでなる。これは、新聞とて同じで、各社の経営は、広告料の減収、購読料の頭打ち、オリンピック投資の負担と、大変な苦境に追いこまれている。

東京新聞が事実上倒産し、中日新聞に買収され、記者たちは、東京新聞社員と中日東京支社員の二枚看板となった。内幸町の土地社屋が二十一億円で売り払われ、田町駅の裏側(畜殺場側)に新社屋を建てて引越したが、それでオツリがきて、そのオツリを資金にせざるを得ないほどである。一時、都内有代部数二十万とまで噂され、メイン・バンクの三和銀行への利子さえ払えないといわれた毎日も、有楽町を売り渡して九段へ引越すという実情である。

ところが、読売には、そのような新聞全般の苦境にプラスする、〝家庭の事情〟があったのである。それが、先程の〝ランド〟という、つまり、川崎市外の「読売ランド」のことである。読売新聞の金を、正力がみなランドに注ぎこんでしまうので、巨人軍の金も、粉飾決算の日本テレ

ビの金も、なにもかも、ゴッチャになり、余計、金繰りが苦しいというのである。

当時の読売新聞の一部当りコストは、朝夕刊セットで、約七百円とされている。ところが、購読料金は四百五十円であるから、月間、一部当り二百五十円の赤字となる。東京本社三百二十万余の発行部数の中、朝夕刊セットを二百四十万部と概算すると、この赤字は六億になるが、広告料収入を七、八億とみて、差引すると、東京本社における限りでは、月間ほぼ二億近い黒字となっている、というのがメノコ算ながらも、ほぼ実情に近い数字であろう。

ところが、大阪はまず独立出来たとしても、東京が背負わねばならない赤字は、西部本社の七千万円、北海道、北陸支社の各二、三千万円、合計一億二千万円ほどのものがある。さらに、金利七千万円、ボーナス借入金月賦返済分(ボーナスは毎期約六、七億円)約一億円がある。これらを総計すると、月間三億円の支出があるので、二億円の黒字は吹っ飛んで、毎月一億円宛、赤字が累積されてゆく計算である。

これらの赤字も、金繰りがつく限りでは、それほど大したものではあるまい。しかし、一方では、東京の本館増築、別館新築をはじめとして、各地の読売会館の建設が、ここ数年の間に急激に行なわれた上、百二十億の金を注ぎこんだ(週刊文春四月十九日号、正力・大宅対談)といわれる、「読売ランド」の大建設が進められているのである。

ランドは株式会社関東レース俱楽部(注。現在は株式会社よみうりランドに合併)の所有である。

正力松太郎の死の後にくるもの p.110-111 読売新聞の〝信用〟にかかっている

正力松太郎の死の後にくるもの p.110-111 新聞が毎月二億の黒字に、ノウノウとしている時ならまだしも、赤字にアエいでいるところなのだから、新聞の〝信用の枠〟を、ランドに使われてしまったあとでは、今度は新聞自体が危うくなってくる。
正力松太郎の死の後にくるもの p.110-111 新聞が毎月二億の黒字に、ノウノウとしている時ならまだしも、赤字にアエいでいるところなのだから、新聞の〝信用の枠〟を、ランドに使われてしまったあとでは、今度は新聞自体が危うくなってくる。

ランドは株式会社関東レース俱楽部(注。現在は株式会社よみうりランドに合併)の所有である。

しかも、例の吹原産業の五反田ボーリング場と同様に、レジャー産業であるから、銀行の融資対象にはならないので、この百二十億の金の金繰りは、あげて読売新聞の〝信用〟にかかってきているのである。新聞ならば金を借りられるが、ランドでは金を借りられないのである。

ところが、新聞が毎月二億の黒字に、ノウノウとしている時ならまだしも、赤字にアエいでいるところなのだから、新聞の〝信用の枠〟を、ランドに使われてしまったあとでは、今度は新聞自体が危うくなってくる。角をためて牛を殺そうというところだ。

春闘のさい、七千五百円アップの要求を出した組合は、会社側の〝赤字〟〝財源がない〟という拒否に対して、ランドへの融資問題を取上げて攻撃してきた。三月二十六日付「闘争情報」によると、

会社は未払い金の方ばかりいっているが、未収益金や、よそに貸している分はいくらあるか。会社はよそに金は貸していないというが、大蔵省の監修で出している、政府刊行物の有価証券報告書によると、関東レース倶楽部の決算報告には、読売からの短期借入金が毎期とも計上されている。これはいずれも当期末残高という形で出されているので、その途中ではいくらになっているかわからない。三十七年九月期・十一億五千万円。三十八年三月期・十一億七千万円。三十八年九月期・五億円。三十九年三月期・六億円。

組合がいままでにも、「金繰りが苦しいのは、ランドに銀行から金を借りてやっているからで

はないか」と質問しても、「そんなことは絶対にない」と答えていた。

この、証拠をつきつけての、組合の攻撃には、会社も参ったらしい。「同情報」によると、会社側の返事は、「決算の仕方でこういう表現になったのだろう。読売の名を使えば信用もつくので、絶対に読売は出していないが、関東レースがどうしているのか調べる」という、白を黒という答え方で、良くもまあヌケヌケとの、感がしよう。

この時の会社側に、務台が加わっていたことはいうまでもない。だが、この日に、組合は、「スト権確立のための全員投票、開票日は二十五日」を決定している。証拠物件を出されての追及も、苦しい否定でしか答えられない、読売の〝家庭の事情〟に加えて、もう一つ、務台専務に辞任の決意をもたらさしめた事件があったという。

務台あっての〝正力の読売〟

「正力の読売」として、零細企業から中小企業へ、そして、今日の大企業へと育ってきた読売には、いわゆるメイン・バンクがない。前年の暮、正力から三十億の金作りを頼まれた務台は、腹

案として三井、住友、勧銀などの主取引銀行で半分の十五億、これに成功すれば、残り十五億は、群小銀行の協調融資団的なものをつくって……と、考えていたらしい。

正力松太郎の死の後にくるもの p.112-113 山特鋼の倒産時以上の規模

正力松太郎の死の後にくるもの p.112-113 週刊読売の小説、挿絵の稿料も未払いというのだから、あらゆるところの金を動員していたといってよかろう。累積赤字百二十九億円、社外での噂は、二百五十億とまで称された。
正力松太郎の死の後にくるもの p.112-113 週刊読売の小説、挿絵の稿料も未払いというのだから、あらゆるところの金を動員していたといってよかろう。累積赤字百二十九億円、社外での噂は、二百五十億とまで称された。

「正力の読売」として、零細企業から中小企業へ、そして、今日の大企業へと育ってきた読売には、いわゆるメイン・バンクがない。前年の暮、正力から三十億の金作りを頼まれた務台は、腹

案として三井、住友、勧銀などの主取引銀行で半分の十五億、これに成功すれば、残り十五億は、群小銀行の協調融資団的なものをつくって……と、考えていたらしい。

ところが、実際に動いてみると、前記三行の返事が合計三億。目標の一割にしか達しなかったという。それどころか、読売はオリンピックで借りた五億は別と思っていたが、銀行側はオリンピックだろうが、ボーナスだろうが、出た額は額というつれない返事で、暮のボーナス資金六億の借入れさえ危うかったということが、社主と組合の板ばさみになる務台に、つくづくと考えこませたといわれる。

もう一つ、〝真相〟なるものも流布されている。それは、「正力亨を副社長として読売に入れる」という、正力の案に、務台が反対したのだというものだが、私としてはこれはとらない。やはり、金繰りの問題で、読売本社をも危うくするほどの、資金のランド流出をうれえたとみるべきだろう。

そこへ、スト権確立の全員投票である。ここで読売がストに突入すれば、最後の信用を失ってもう金繰りは全くストップして、瓦壊への道を走るだけ、と判断したようである。その衷情は、辞表の「所感」中にある、「(読売が)永久に存続し発展することを希う」「本社百年の計を考え」という、切々の言葉にもうかがえよう。

このような情況下で、本紙はもとより、週刊読売の小説、挿絵の稿料も、前年十一月より未払

い(務台事件当時)というのだから、あらゆるところの金を動員していたといってよかろう。金田の契約金も分割にならざるを得ない。その結果、累積赤字百二十九億円(組合調べ)、社外での噂は、二百五十億とまで称された。

サンケイが前田久吉から水野成夫に交替した時の、累積赤字は社内説で三十六億、社外説で七十億といわれたものであるから、読売の現状は、山特鋼の倒産時以上の規模である。このような赤字の累増の一つの原因に、正力が蓄財しないので、大株主でありながら、増資に応ずる能力がないという、特異な点がある。設備投資の資金などは、普通、借入金ではなく増資で賄うものだからである。

組合が、七千五百円アップを固執した理由の一つに、新聞が儲かっているという事実がある。それが、正力個人の各事業に散らされている点を衝いているのだ。

務台専務は、このように各方面に手を拡げすぎた経営と金融操作とに、ついに辞表を出して去った。が、これが、〝踏絵〟的効果をもたらしてしまった、という意外な事実が起きてしまった。

というのは、〝正力の読売〟は、その前置詞として、〝務台あっての〟〝正力の読売〟であることが、務台の辞任によって、明らかにされたのであった。まず、組合が戦略戦術の転換をはじめた。その根拠は、〝務台あっての読売〟という、正力の名前を外した論理である。役員会は「絶対に辞めさせぬ」と狼狽し、販売店は「務台復帰」を唱えて、その旗印を明らかにした。

正力松太郎の死の後にくるもの p.114-115 反正力派というものはない

正力松太郎の死の後にくるもの p.114-115 横須賀税務署への申告をみても、正力の私生活は、極めてつつましいものであるが、務台もまた、私財の蓄積を図り、自己の勢力を貯えようという人柄ではなかった。
正力松太郎の死の後にくるもの p.114-115 横須賀税務署への申告をみても、正力の私生活は、極めてつつましいものであるが、務台もまた、私財の蓄積を図り、自己の勢力を貯えようという人柄ではなかった。

読売には、反正力派というものはない。正力直系派と、非直系派とに分類すれば出来よう。というのは、実力で正力に対し得るのは、務台専務をおいて、他にいないからである。高橋副社長は、長い正力との友人関係からその席についていただけで、販売も広告も知らない。しかも、務台専務は、正力に拮抗しようという人柄ではないので、反正力派がないのである。

横須賀税務署への申告をみても、正力の私生活は、極めてつつましいものであるが、務台もまた、私財の蓄積を図り、自己の勢力を貯えようという人柄ではなかった。販売店主たちを支配している、〝務台教〟の伝説に、次のような話がある。まだ、米軍の占領中のこと、務台の令息が、古くなったオーバーを新調してくれと頼んだという。その時、彼は、財布から千円札を一枚出して与えた、という。

それほどに、身辺も飾らず、衣料の値段などには、さらに関心がなかったという、務台の清廉な人格を物語る話である。

組合もまた、務台支持だったのである。務台なきあと、組合は交渉の相手がなくなってしまった。交渉委を開いたが、列席の会社側には、誰一人として、経営の数字について責任ある交渉のできる重役がいなかった。経営者が不在になったのであった。

列席の重役諸公を見渡して若い城石書記長(社会部)がいった。「務台さんが大半の責任(注。務台所感の言葉)なら、みなさんは小半ですか」この痛烈な皮肉にも誰も答えなかったという。

もちろん、務台が辞めたのをチャンスとして、後を襲って自分が経営の任に当ろうという、風雲児の重役もいなかった。

組合が、残った重役諸公に「当事者能力なし」と結論してから、戦術転換がねられ、スト権確立全員投票の中止、七千五百円アップ撤回、務台復帰呼びかけを決定し、闘争委の投票に図った。その結果は、賛成二十八、反対二十二、無効一の少差で決った。反対二十二票は、印刷技術者として、人不足の折柄、引ッ張りだこの一、二階の工場委員で、賛成二十八票は、三階の編集から上のホワイトカラー組。彼らは務台なき読売の崩壊を憂えたのであった。

こうして務台復帰の花道は作られ、つづいての、社側の新賃金体系の撤回と二千円アップを呑んで、春闘は終り、務台専務は再び読売にもどってきた。この時の闘争委の票決は、賛成三十五、反対十九、工場の反対票は固く、前回の少差におびえたホワイトカラーの、闘争委員の出席率が良くなった点をみると、読売の危機は本物であり、春闘後の改選で、城石書記長が委員長になったことは、この組合の〝務台支持〟が、全社員に支持されたことである。と同時に、この二度の票決の内容は、ウデに職のある工場労働者と、ウデに職のない事務系労働者との、危機感の差を示しているともいえよう。

ここで特に断っておかねばならないのは、組合は春闘を終るに当って、すべてを無条件に呑んだのではなかった。「経営の姿勢を正せ」「新聞の公器性を守れ」の二条件を、会社に確約させ、 かつ、読売ランドの実態調査には、会社も協力するとの言質をも取ったのであった。

正力松太郎の死の後にくるもの p.116-117 正力はつねに読売においては絶対者

正力松太郎の死の後にくるもの p.116-117 私の入社当時、編集局の中央に起ったまま、叱咤激励する正力の姿は、若さと情熱にあふれ、その魅力が若い読売を象徴していた。しかし、戦後の正力は、日本テレビで終った。
正力松太郎の死の後にくるもの p.116-117 私の入社当時、編集局の中央に起ったまま、叱咤激励する正力の姿は、若さと情熱にあふれ、その魅力が若い読売を象徴していた。しかし、戦後の正力は、日本テレビで終った。

ここで特に断っておかねばならないのは、組合は春闘を終るに当って、すべてを無条件に呑んだのではなかった。「経営の姿勢を正せ」「新聞の公器性を守れ」の二条件を、会社に確約させ、

かつ、読売ランドの実態調査には、会社も協力するとの言質をも取ったのであった。この二点こそ、「ランド」と「正力コーナー」なのであるし、かつ、ここに現在の大新聞がもっている、古いタイプの新聞の残滓が、集約的に現れてきているのである。

「正力松太郎氏は、すでに八十一歳。さすが、足腰に衰えが見える。……それと、いくらかことばが聞きとりにくい」(週刊文春四月十九日号)

それでも正力はつねに、読売においては絶対者である。だから、〝猫の首に鈴〟をつけに行く者がいない。都議会汚職の時、最後まで都会議員の辞表を出さなかった八十歳の老人と同じように、老いの一徹と信念とが、ないまざって、いよいよ絶対者として君臨する。

「思えば読売の重役商売ほどあほらしい立場はなく、労組からは突き上げられ、正力からは〝何をしているか〟と叱られ、全くたまったものでないらしい。御意に召さない忠言をすれば〝君、辞め給え〟と二言目にはクビをいい渡されるらしい。従って保身術上、何事も忍従と心得、ひたすら御機嫌伺いをしているのが、役員諸公の内務令となっている」(三月二十日付「新聞情報紙」)ほどである。

だが、「務台光雄だけは別格であったらしい。務台はただ一筋に読売の発展を祈念し、滅私奉公を信条として忠勤を励んできた。……しかし、正力は務台のただ者ならざる器を見抜きかつ恐れ、仲々枢機に参画させなかった時期もあった」(前出同紙)という。

務台専務は復帰したが、だからといって、好転の材料がある訳ではない。ただ、眼前の崩壊の危機を喰い止めただけである。事業は金繰りである。金融能力のない重役をズラリと並べて、組合に「当事者能力なし」と断定されるような経営陣に、一体、何を期待できるといえよう。

昭和十八年の私の入社当時、編集局の中央に起ったまま、叱咤激励する正力の姿は、五十九歳、若さと情熱にあふれ、その魅力が若い読売を象徴していた。しかし、戦後の正力は、日本テレビで終った。

国会議員に打って出、原子力大臣になり、勲一等を飾った正力は、読売の発展にすべてを使い果したヌケガラで、〝死に欲〟のミイラ同然になってしまったのである。

時代が変り、社会構造が変り、人心が変り、すべてが、正力の連戦連勝時代と変っているのに、昔の、成功の記憶だけで、事業ができるものではないことを、判断するだけのセンスも、カンも、そして体力も衰えてしまったのである。「正力タワー」がそれを象徴する。

中小企業のオヤジは、オヤジが先頭に立って働き、走りまわらねばならないし、その魅力で人も集まり、育ってゆく。しかし、大企業はそうではない。組織であり、その組織への信頼が融資につながる。融資が組織をすべらし、事業が成り立ってゆくのである。

読売に組織がないことは、すでに述べたことで明らかである。務台の辞任で、後継者がいない烏合の衆と化したではないか。

正力松太郎の死の後にくるもの p.118-119 販売店を掌握した務台の金融手腕

正力松太郎の死の後にくるもの p.118-119 倒産の危機読売も、務台が復帰してくるや、たちまち〝不死鳥〟のように起き上った。分割支給で妥結したボーナスを一括支給に、タナ上げ退職金の支給開始までやる——務台の金融能力の実力を、まざまざと見せつけられた。
正力松太郎の死の後にくるもの p.118-119 倒産の危機読売も、たちまち〝不死鳥〟のように起き上った。分割支給で妥結したボーナスを一括支給に、タナ上げ退職金の支給開始までやる——務台の金融能力の実力を、まざまざと見せつけられた。

販売の神サマ復社す

だが、務台復帰後の読売の〝復興〟は目覚ましかった。その年の暮のボーナスは、組合との妥結条件で、三回の分割支払い、第一回だけを年内、残りは越年して、一、二月に支給するという、キビシイものだったが、会社側は、全額を年内に支給し終ってしまった。

そればかりではない。私が街角で出会った停年退職者の一人は、「話があるから、お茶でものもう」と、誘うのである。聞いてみると、タナ上げになっていた退職金が、一部支給されたのだという。「イヤア、あんたの記事のおかげで、退職金まで出たよ。ありがとう」

キツネにつままれた感じだったが、その前年の秋、私は読売の現状を心配して、月刊「現代の眼」誌九月号に〝正力さんへの直訴〟の形で、「読売新聞の内幕」八十枚を発表していたのだが、それが、彼のいう〝あんたの記事〟だったのである。

つまり、それこそ、倒産の危機にまで追いこまれていた読売も、前述したような経緯ののち、務台が復帰してくるや、たちまち〝不死鳥〟のように起き上ったのである。組合もまた、完全に務台ペースにひきずりこまれ、しかも、分割支給で妥結したボーナスを、一括支給にするなどの

スタンド・プレーから、タナ上げ退職金の支給開始までやるという、何も彼も、結構ずくめのことばかり——今更のように、務台の金融能力の実力を、まざまざと見せつけられたのである。

正力と務台との出会いは、今から四十年前の昭和四年、当時、全盛の報知新聞の市内課長であった務台を販売部長として迎えたのに始まる。こうして務台専務は、正力社主の女房として、販売一本槍で歩んできたが、今日の読売の大をなした正力も、務台あってのことであった。これら正力の各種の事業の成功のカゲには、読売新聞の信用と、販売店を掌握した務台の金融手腕があったればこそであろう。

その務台が、復社してから四年、あれほどの危機の中から読売は毎日を押えて、朝日と覇を競うにいたるのだが、その概況をみてみよう。

昨年秋のABCレポート(注。新聞雑誌販売部数考査機関。スポンサー、代理店、媒体側ともに会員となり、会費で運営され、広告料金の科学的適正を期するもの。オゥディット・ビューロー・オブ・サーキュレーションの略)の数字で、朝日との実数差四十万部という大まかな表現をとってきたが、その数字は改訂しなければならない。数字は44・1~4のABC部数であるが、これらの〝戦況〟を、業界紙「新聞展望」紙の記事によってみよう。

「前号で『朝日—東京—の下向き表情』を所報し、発行部数の落ちを伝えた原因として、読売に

反撃されたことを、第一原因とした。では、具体的にどのように、朝日と読売の部数がシノギを削っているかを、つぎに示すとしよう。〈太郎坊〉

正力松太郎の死の後にくるもの p.120-121 全朝日・全読売 部数比較表

正力松太郎の死の後にくるもの p.120-121 全朝日新聞対全読売新聞 部数比較表(44・7・4付「新聞展望」紙)(別表Ⅰ)
正力松太郎の死の後にくるもの p.120-121 全朝日新聞対全読売新聞 部数比較表(44・7・4付「新聞展望」紙)(別表Ⅰ)
正力松太郎の死の後にくるもの p.120 全朝日新聞対全読売新聞 部数比較表(44・7・4付「新聞展望」紙)(別表Ⅰ)
正力松太郎の死の後にくるもの p.120 全朝日新聞対全読売新聞 部数比較表(44・7・4付「新聞展望」紙)(別表Ⅰ)
正力松太郎の死の後にくるもの p.121 全朝日新聞対全読売新聞 部数比較表(44・7・4付「新聞展望」紙)(別表Ⅰ)
正力松太郎の死の後にくるもの p.121 全朝日新聞対全読売新聞 部数比較表(44・7・4付「新聞展望」紙)(別表Ⅰ)

正力松太郎の死の後にくるもの p.122-123 朝日と読売がシノギを削っている

正力松太郎の死の後にくるもの p.122-123 この記事の見出しは、「著しい読売の伸び、朝日との差加速的」とあり、六百万の大台競争に、読売が激しく迫っていることを物語っている。
正力松太郎の死の後にくるもの p.122-123 この記事の見出しは、「著しい読売の伸び、朝日との差加速的」とあり、六百万の大台競争に、読売が激しく迫っていることを物語っている。

昨年秋のABCレポート(注。新聞雑誌販売部数考査機関。スポンサー、代理店、媒体側ともに会員となり、会費で運営され、広告料金の科学的適正を期するもの。オゥディット・ビューロー・オブ・サーキュレーションの略)の数字で、朝日との実数差四十万部という大まかな表現をとってきたが、その数字は改訂しなければならない。数字は44・1~4のABC部数であるが、これらの〝戦況〟を、業界紙「新聞展望」紙の記事によってみよう。

「前号で『朝日—東京—の下向き表情』を所報し、発行部数の落ちを伝えた原因として、読売に

反撃されたことを、第一原因とした。では、具体的にどのように、朝日と読売の部数がシノギを削っているかを、つぎに示すとしよう。〈太郎坊〉

本号では、オール朝日新聞とオール読売新聞のABC報告部数を比較して、別表を調整してみた。この表を見れば、両社の勢力分野が一目瞭然であるばかりか、全国制覇を争う宿命の明日が推測される。

一月度は朝日が読売より56万7千57部の優位にあったのが、二月、三月で大きく水がちぢまり、四月にはわずかに、15万2千9百89部という数字を示してきた。

しかも、名古屋に朝日は36万4千4百57部という部数を持っているのに対して、読売は発行していない。その数字を別にしての差であるから、読売の実質的底力が実証されるというもの。特に新聞の販売部数は、上昇線をたどっている社と、下降線をたどっている社とは、その格差が違ってくる。上げ潮の勢いはいうまでもない」(44・7・4付「新聞展望」紙)(別表Ⅰ)

同紙はさらに、朝日、読売両紙の東京管内の部数を続報している。

「全国制覇にシノギを削る朝日対読売の部数が、わずかに15万部の差となったことを、具体的数字で示したが、本号では東日本での実態を、同じようにABC部数で比較してみた。もちろん、東日本では読売が朝日を圧してたが、朝日は読売陣営に対して大々的な攻撃を加えて、44・1・15日部数を、全朝日で5百83万9千4百88部という記録を発表した。

その一月度部数を東京本社管内にみると、朝日は4万3百90部多い。二月になると、逆に読売が3万3千17部多くなった。読売が逆にまきかえしたというより、朝日の背伸びが原因したとみられる。

三月度は、9万5千2百75部となり、さらに四月度は、14万9千66部と、月を追って水は開く一方である。ここまでくると、急坂を転倒する、ひとくれの〝石ころ〟が加速度を加えるように、朝日の落差が著しくなってくる。

四月度の比較表によると、各県の実態が明瞭であるが、これからも業界の両雄は、随所に激烈な競争を展開して、覇を争うことであろう。(この表で、富山と石川は、朝日は大阪管内であるが、部数は僅かである)〈太郎坊〉(44・7・1日付「新聞展望」紙)(別表Ⅱ)

この記事の見出しは、「著しい読売の伸び、朝日との差加速的」とあり、六百万の大台競争に、読売が激しく迫っていることを物語っている。さて、このような読売の部数の伸びという事実を前に、もう一度業務の務台——編集の原という、読売の実力者コンビを検討しなければならない。

さきに、原の「記者としての体質」はどうなったか、という疑問の提起をしておいた。実はそ

こに〝一犬実に吠えて、万犬虚を伝う〟と、評した所以があるのであって、新聞の体質が変ったにもかかわらず、記者としての体質は、古き良き時代そのままに変っていない、と私は考えている。原ばかりではない。

正力松太郎の死の後にくるもの p.124-125 朝日・読売(東京) 部数比較表

正力松太郎の死の後にくるもの p.124-125 朝日(東京)対読売(東京)部数比較表(44・7・1日付「新聞展望」紙)(別表Ⅱ)
正力松太郎の死の後にくるもの p.124-125 朝日(東京)対読売(東京)部数比較表(44・7・1日付「新聞展望」紙)(別表Ⅱ)
正力松太郎の死の後にくるもの p.124 朝日(東京)対読売(東京)部数比較表(44・7・1日付「新聞展望」紙)(別表Ⅱ)
正力松太郎の死の後にくるもの p.124 朝日(東京)対読売(東京)部数比較表(44・7・1日付「新聞展望」紙)(別表Ⅱ)
正力松太郎の死の後にくるもの p.125 朝日(東京)対読売(東京)部数比較表(44・7・1日付「新聞展望」紙)(別表Ⅱ)
正力松太郎の死の後にくるもの p.125 朝日(東京)対読売(東京)部数比較表(44・7・1日付「新聞展望」紙)(別表Ⅱ)

正力松太郎の死の後にくるもの p.126-127 根ッからの新聞人〝新聞屋〟の姿

正力松太郎の死の後にくるもの p.126-127 その一語一語にこもる闘魂、気魄は、とても、七十三歳の〝老副社長〟のイメージではない。ましてや、あの〝務台教〟伝説の、円満洒脱さなど、その片鱗すらうかがえなかった。
正力松太郎の死の後にくるもの p.126-127 その一語一語にこもる闘魂、気魄は、とても、七十三歳の〝老副社長〟のイメージではない。ましてや、あの〝務台教〟伝説の、円満洒脱さなど、その片鱗すらうかがえなかった。

さきに、原の「記者としての体質」はどうなったか、という疑問の提起をしておいた。実はそ

こに〝一犬実に吠えて、万犬虚を伝う〟と、評した所以があるのであって、新聞の体質が変ったにもかかわらず、記者としての体質は、古き良き時代そのままに変っていない、と私は考えている。原ばかりではない。

〝販売と業務の神様〟務台もまた、古き良き時代の〝神サマ〟であり、その〝神格〟はさらに上昇して、今や、〝務台教〟の御本尊として本堂の奥深く鎮座ましまして、販売の現況を知らないとまで、販売店主に指弾されているのである。これは、読売の一販売店主からの切々の訴えで、私もまた、はじめて知らされたことであった。

現場から〝遊離〟したといわれる、務台—原ラインによって、なおかつ、読売は着々と部数を伸ばし、〝日本一の発行部数の新聞〟という、正力社主の悲願へのコースを突っ走っている——この矛盾を何と説明できようか。

七十三歳の〝ブンヤ副社長〟

私はまず、務台代表を訪ねた。この小柄で柔和な、七十三歳の老副社長も、談「新聞論」に及

ぶと、一変して闘志みなぎる〝青年〟と化した。忙しく応接とデスクを往来しては、資料を示していう。

「確かに、もはや私は販売店を〝歩いて〟いないから、〝現場〟を知らないかも知れない。しかし、〝販売〟の何たるかは、今でも知っている」

若い。決然たる言葉であった。私は、次の言葉を待った——務台副社長の、激しく力強い言葉に、私は一瞬、我れと我が耳を疑ったのであった。

卒直にいって、私が読売記者であったころの務台専務と、「新聞論」やら、「販売政策論」などを、話題とすることは絶無であったし、面談の機会があったとしても、それは、本社モノ取材の指示か儀礼的会話にすぎなかったのである。今、こうして、「新聞論」を話題として会見してみると、その一語一語にこもる闘魂、気魄は、とても、七十三歳の〝老副社長〟のイメージではない。ましてや、あの〝務台教〟伝説の、円満洒脱さなど、その片鱗すらうかがえなかった。

そこにあるのは、根ッからの新聞人、いうなれば〝新聞屋〟の姿であった。

「六百万の大台? 馬鹿も休み休みいいなさい。読売だって、朝日だって、それどころではない。読売にとっては、打倒朝日の、朝日を追い越すという、ただそれだけの、大きな目標ですよ。朝日だって、死にもの狂いで、読売を寄せつけまいとする。両者共に、苦闘死闘の真最中だ。……六百万の大台競争などとは、まだ、遠い話だ」