新宿慕情・最後の事件記者」カテゴリーアーカイブ

最後の事件記者 p.376-377 租界に巣喰うボスたち

最後の事件記者 p.376-377 連合国人と第三国人とにとって、日本は地上の楽園だったのである。一番大きな特権は〝三無原則〟と呼ばれた、無税金、無統制、無取締の、経済的絶対優位であった。
最後の事件記者 p.376-377 連合国人と第三国人とにとって、日本は地上の楽園だったのである。一番大きな特権は〝三無原則〟と呼ばれた、無税金、無統制、無取締の、経済的絶対優位であった。

「あのような激しい、占領政策批判の記事を?」と、私は内心、部長の企画に眼を丸くして驚いた。しかし、この原稿は社の幹部に反対された

らしく、部長もついに諦めたらしかった。

(写真キャプション クラブ・マンダリンの国際賭博は読売の特ダネ)

夜の蝶たち

こんな部長の企画が、独立後半年も続いていた占領国人の特権猶予に対して、敢然と批判を加える、新しい企画になって、続きもの「東京租界」が実を結んだ。

その年の初夏から、警視庁の記者クラブへ行っていた私は、この企画のため、辻本次長に呼び返された。といっても、もちろん、クラブ在籍のままである。その年の春、チョットした婦人問題を起して、クサリ切っていた私を、気分一新のため警視庁クラブへ出し、そして、初仕事ともいえるのが、この「東京租界」であったのである。

当時その問題のため、三田株は暴落して、彼は再び立ち上れないだろうとまで、仲間たちからいわれていた。そうなると、人情紙風船である。私に尾を振っていた連中も、サッと見切りをつけて、素早く馬をのりかえるのであった。菊村到の送別会が開かれなかったということでも、新聞社の空気というものが、うなずかれるであろう。

私は辻本次長に、私を起用してくれたことを感謝しながらも、条件をつけたのである。

「多勢の記者とやるのなら、イヤです。私一人でやらせて下さい。ただ、英語が必要だから、牧野者(文部省留学生で、一年間オハイオ大学に留学していた)を、協力者として下さい。それにもう一つ、時間と金を、タップリ下さい、必らずいい仕事をして、思い切り働いてみせます」

私の願いは叶えられて、九月に入ると間もなく、私は自由勤務となった。私は、私が再起できないという、部内の流言に対して、仕事で来いと、張り切っていたのであった。

十月二十八日、日本独立の日から六カ月の後、ついに在留外国人たちの、一切の特権は否認された。猶予期間が終ったのである。

それまでは、連合国人と第三国人とにとって、日本は地上の楽園だったのである。一番大きな特権は〝三無原則〟と呼ばれた、無税金、無統制、無取締の、経済的絶対優位であった。

その結果、日本はバクチや麻薬、ヤミ、密輸、売春といった、植民地犯罪の巣となりはてていた。それは、読売がいみじくも名付けた、〝東京租界〟そのものであった。

九月はじめ、この企画を与えられて、まず不良外人の一般的な動静から調べ出した。内幸町の富国ビル、日比谷の三信ビル、日活国際会館という、彼らの三大基地をブラつく毎日がはじまった。伝票を切って、小遣銭はタップリある。私はそのビルのグリルやバー、レストランのパーラーで、のんびりと構えていた。

長身の私は、一見中国人風なので、富国ビルあたりから出てくると、「ハロー・ボーイさん! シューシャン!」と、クツみがきに呼びかけられるほどだった。

夜は夜で、彼らの集まるナイト・クラブ、赤坂のラテン・クオーター、麻布のゴールデン・ゲイト、銀座のクラブ・マンダリンや、ディンハオなどで、租界に巣喰うボスたちの生態をみつめていた。こんな時に一番協力してくれたのは、ホステスと呼ばれる、いわば外人用〝夜の蝶〟た

ちであった。

最後の事件記者 p.378-379 女こそニュース・ソースの大穴である

最後の事件記者 p.378-379 ホステスと呼ばれる、いわば外人用〝夜の蝶〟たちであった。彼女たちは私の率直な酔い方に興味を持って、夕方の銀座あたりで、クラブのはじまる十時ごろまでよくデートしたものである。
最後の事件記者 p.378-379 ホステスと呼ばれる、いわば外人用〝夜の蝶〟たちであった。彼女たちは私の率直な酔い方に興味を持って、夕方の銀座あたりで、クラブのはじまる十時ごろまでよくデートしたものである。

夜は夜で、彼らの集まるナイト・クラブ、赤坂のラテン・クオーター、麻布のゴールデン・ゲイト、銀座のクラブ・マンダリンや、ディンハオなどで、租界に巣喰うボスたちの生態をみつめていた。こんな時に一番協力してくれたのは、ホステスと呼ばれる、いわば外人用〝夜の蝶〟た

ちであった。

彼女たちは、やはり日本人である。決して外人たちのすべてを是認していたワケではない。あまり日本人と付合ったことのない彼女たちは、私の率直な酔い方に興味を持って、夕方の銀座あたりで、クラブのはじまる十時ごろまで、よくデートしたものである。

女に不用心なのは、全世界どこの国でも共通らしい。男には必要以上に警戒心を払っていても、男たちは、悪事に限らず、女に対しては開放的であり、全くの無警戒であった。日本人は、男女一対でいると、すぐ情事としか考えない。だが、女こそニュース・ソースの大穴である。

もっとも、女からはニュースのすべてを取ることはできない。しかし、ヒントは必ず得られるのである。役所のタイピストに、コピーを一部余計にとれとか、捨てるタイプ原紙を持ち出してこい、と命じたら、たとえ自分の彼女であっても、事は露見のもとである。タイピストたちは、挙動が不審になり、手も足もふるえて、怪しまれるに違いない。

しかし、高級役人の秘書たちから、誰がたずねてきて、何時間位話しこんでいたとか、どんなメムバーの会議だとか、取材の最初のヒントは必ず得られる。

クラブ・マンダリンのパイコワン

国際バクチの鉄火場だった、銀座のクラブ・マンダリン(今のクラウン)は、いまのように洋風で華やかなキャバレーではなく、荘重な純中国風のナイト・クラブだった。戦時中に、「東洋平和

への道」などの、日華合作映画の主演女優だったパイコワン(白光)の趣味で飾られ、小皿の一つにいたるまでの食器が、すべて香港から取りよせられるという凝り方だった。

赤い支那繻子で覆われた壁面や、金の昇り竜をあしらった柱、真紅の支那じゅうたんなど、始皇帝の後宮でも思わせるように、豪華で艶めしかった。照明は薄暗く、奥のホールでは静かにタンゴ・バンドが演奏しており、白い糊の利いた上衣のボーイたちが、あちこちに侍って立っていた。

私は、このパイコワンと親しかった。もちろん、彼女には彼女なりに、私と親しく振舞う理由があった。昼間の彼女は、切れ長の目が吊り上った支那顔で、早口の中国語で、怒鳴ってるのかと思うほどの調子でしゃべる時などは、何かオカミさんじみて幻滅だった。

だが、夜のパイコワン、ことにこのマンダリンでみる彼女は素敵だった。私はさっきから、家鴨の肉と長ネギと、酢味噌のようなものを、小麦粉を溶かして焼いた皮につつんだ料理を、彼女が手際よくまとめてくれるのをみていた。客の前に材料を揃えて、好みのサンドイッチを作って喰べるのに似ている。

その器用に動く指を、眼でたどってゆくと、この腕まで出した彼女の餅肌の白さが、ボーッと二匹の魚のように鈍く光っていた。

「美味しいでしょう?」

少し鼻にかかった甘い声で、彼女は私にいった。正面はともかく、横顔はまだ十年ほど前ごろ

のように美しい。彼女も映画のカメラ・アイで、それを承知しているらしく、話す時にはそんなポーズをとる。

最後の事件記者 p.380-381 パイコワンの伝説

最後の事件記者 p.380-381 真相は、上海郊外で宣撫工作に従事していた中尉と、田舎娘のパイコワンとの間に、いつか恋が芽生えた。だが内地帰還となった中尉は、それを打明けず姿をかくしてしまった。
最後の事件記者 p.380-381 真相は、上海郊外で宣撫工作に従事していた中尉と、田舎娘のパイコワンとの間に、いつか恋が芽生えた。だが内地帰還となった中尉は、それを打明けず姿をかくしてしまった。

少し鼻にかかった甘い声で、彼女は私にいった。正面はともかく、横顔はまだ十年ほど前ごろ

のように美しい。彼女も映画のカメラ・アイで、それを承知しているらしく、話す時にはそんなポーズをとる。

私が彼女の映画をみたのは、その頃だった。清純な姑娘だった彼女も、今では下腹部にも脂肪がたまり、四肢は何かヌメヌメとした感じの、濃厚な三十女になってしまった。

パイコワンといえば、今の中年以上の人には、昔懐かしい中国人の映画女優である。この数奇な運命をたどった女優には、彼女らしい伝説がある。

上海のある妓楼で働いていた、彼女の清純な美しさに魅せられた、特務機関の中佐がすっかりホレこんで、これを映画界へ送りこんだというのがその一つである。

ところが、その真相は、その中佐の部下の中尉に眉目秀麗な男がいた。上海郊外で宣撫工作に従事していた中尉と、田舎娘のパイコワンとの間に、いつか恋が芽生えた。だが、命令で内地帰還となった中尉は、彼女にそれを打明け切れずに、姿をかくしてしまった。

狂気のように中尉を求めたパイコワンが、たずねたずねて上海の機関へきた時、中佐に見染められ、だまされて女優になった。戦後、漢奸として追われた彼女は、日本へ入国するために米人と結婚し、中尉を求めて渡ってきたのだと。

また、戦時中の政略結婚で、南方の小王国の王女と結婚したさる高貴な出身の日本人がいた。戦後、王国の潰滅とともに、香港に逃れたその日本人は、そこでパイコワンとめぐり合った。二人の魂は結ばれたが、男が日本へ引揚げたあとを追って彼女もまた日本へ移り住んだともいう。

私にその物語を聞かされたパイコワンは、心持ち顔をあげて、眼をつむり、静かに話の終るのを待っていた。

「素敵なお話ね。ロマンチックだわ」

そう呟いたきり、否定も肯定もしなかった。だが、何か隠し切れない感情が動いているのを、見逃すような私ではなかった。

美しき異邦人

——何だろう?

そう思った時、私はフト、彼女にせがまれて、警視庁の公安三課へ連れていったことを思い出した。

当時、マニラ系のバクチ打ちで、テッド・ルーインの片腕といわれるモーリス・リプトンが、このマンダリン・クラブの二階で、鉄火場を開こうとしたらしい。ところが、警視庁の手が入ったので、ポリスに密告したのはお前だろうと、リプトンがパイコワンをおどかしたことがあるという。

「ヤイ、ここが東京だからカンベンしてやるが、シカゴだったら、もうとっくに〝お眠り〟だぜ!」と。

リプトンにそのことを聞くと、「ナアニ、久しぶりであったものだから、懐かしくて眼を少し 大きくムイただけでさア」と、笑いとばされてしまった。

最後の事件記者 p.382-383 パイコワンに関するこんな情報

最後の事件記者 p.382-383 中国に生れ、新しい植民都市東京に流れてきた彼女。そこには、スパイではないかと疑っている官憲が。私は抱きしめてやりたいような感じのまま、この美しい異邦人をみつめていたのだった。
最後の事件記者 p.382-383 中国に生れ、新しい植民都市東京に流れてきた彼女。そこには、スパイではないかと疑っている官憲が。私は抱きしめてやりたいような感じのまま、この美しい異邦人をみつめていたのだった。

当時、マニラ系のバクチ打ちで、テッド・ルーインの片腕といわれるモーリス・リプトンが、このマンダリン・クラブの二階で、鉄火場を開こうとしたらしい。ところが、警視庁の手が入ったので、ポリスに密告したのはお前だろうと、リプトンがパイコワンをおどかしたことがあるという。
「ヤイ、ここが東京だからカンベンしてやるが、シカゴだったら、もうとっくに〝お眠り〟だぜ!」と。
リプトンにそのことを聞くと、「ナアニ、久しぶりであったものだから、懐かしくて眼を少し

大きくムイただけでさア」と、笑いとばされてしまった。

しかし、パイコワンは、殺されそうだと騒ぎ立てた。その話をききに、〝密輸会社〟といわれるCATの航空士と住んでいた、赤坂の自宅に彼女を訪れたのが、交際のはじまりであった。

「ねえ、私、日本人にはお友達がいないのよ。どうしたらいいか、判らないのよ。相談に乗ってね」

彼女はこんな風にいった。彼女はこのクラブに共同出資で投資して、千三百万円ばかりを出しているという。しかし、警視庁の手が入ったのでコワくなり、金をとりもどして手を引こうとしていた。

「もうイヤ。早くこの問題を片付けて、また映画をとりたいわ。香港の張善根さんなどからも、誘いがきているのだけど、クラブでお金を返してくれないもの、私、食べて行けないわ」

そこで、彼女は形ばかりでも警視庁へ訴え出ようというのと、読売の租界記者と親しいことを宣伝して、クラブへの投資をとり返そうとしていたのだ。私は一日、彼女を伴って警視庁の山本公安三課長に紹介した。

「課長さんのお部屋、ずいぶん立派ですのねえ」

などと、お世辞をいわれて、さすがは課長である。即座に言い返した。

「いやあ、どうも、私の課には、あなたのことを、良く知っているものがいますよ」

と、やはり、お世辞の調子でやったところ、パイコワンの眉がピクッと動いた。課長はすぐ言い

直した。

「つまり、あなたのファンです。呼びましょうか」

ファンという言葉で、はじめて彼女は「どうぞ」と明るく笑った。その時の微妙な変化は、私の語る伝説を聞き終った時にも似て、何か考えさせられるものがあった。

当局には、パイコワンに関する、こんな情報が入っていたのである。例の何応欽将軍が日本へきた時、随員の一人に中佐がいた。この中佐が、実は中共のスパイで、国府側にもぐりこんでいたのだが、パイコワンがこの中佐としばしば会っているというのだ。つまりパイコワンにも、スパイという疑いがかかっていたのだった。

フト、音楽がやんだ。バンドの交代時間らしい。パイコワンはいった。

「私、日本人で、一人だけ好きな方がいました」

——あの表情の変化は、自分の悲しい恋を想って心動いたのかしら、それとも、中共スパイという、心のカゲがのぞいたのかしら?

中国に、中国人として生れて、上海、香港のような植民都市を好み、米人の妻となり、日本の恋人の面影を求めて、新しい植民都市東京に流れてきた彼女。そこには、スパイではないかと疑っている官憲が、その挙動をみつめている。

何かこみ上げてくるいじらしさに、私は新聞記者という職業意識も忘れて、抱きしめてやりたいような感じのまま、しばらくの間、この美しい異邦人をみつめていたのだった。

最後の事件記者 p.384-385 ゲイシャガールみたことないです

最後の事件記者 p.384-385 主役のもう一人は、ウェズリー・大山という二世だ。日活会館にあるアメリカン・ファーマシーの社長である。彼は保全のヤミドルで捕ったり、サンキスト・オレンヂのヤミで逮捕状が待っている。
最後の事件記者 p.384-385 主役のもう一人は、ウェズリー・大山という二世だ。日活会館にあるアメリカン・ファーマシーの社長である。彼は保全のヤミドルで捕ったり、サンキスト・オレンヂのヤミで逮捕状が待っている。

不良外人

このマンダリンの主役のもう一人は、ウェズリー・大山という二世だ。日活会館にあるアメリカン・ファーマシーの社長である。彼はその富国ビルの事務所に、私の訪問を受けると、小心らしくあわてた。彼は保全のヤミドルで捕ったり、そのあげくに国外へ逃げ出してしまった。帰国すると、サンキスト・オレンヂのヤミで逮捕状が待っている。

「オウ、そんなことありません。それよりも、ワタクシ、まだゲイシャ・ガールみたことないです。アナタタチ、案内して下さい」

そんな誘惑をしてくる時計の密輸屋は、日活会館に堂々と事務所を構えている。

人品いやしからぬ日本人の老紳士の訪問も受けた。アメリカのヤミ会社の顧問だというのだ。私たちの調査をやめてくれというのだ。彼はいう。

「何分ともよろしく、これは、アノ……」

ある時は金を包まれもした。相手の眼の前で、その封筒を破いて、現ナマを取り出し、一枚、二枚と数えてやる。

「ナルホド五万円。これで、あなたは、読売記者の〝良心〟を買いたいとおっしゃるのですか。残念ながら、御期待にそえませんナ」

皮肉な言葉と表情で、相手のろうばい振りをみつめているのだ。

日本の弁護士から電話がくる。何時にアメリカン・クラブで会いたいという。出かけてゆくと……。

「フーン。若いナ。君は去年あたりでも卒業したのかね。ソラ、何といったかネ、編集局長は? ウン、そうそう、小島君。彼は元気にやっとるかネ」

社の幹部を、親し気にクン付けで呼ぶ種類の人たち。このような人には、こちらもインギンブレイで答える。

誘惑と恫喝と取材の困難。

「お断りしておきますが、私はあと一カ月で、アメリカ合衆国市民の権利を獲得するということに御注意願いたい」彼は現在、無国籍の砂糖の脱税屋である。本人はシベリア生れ、妻はハルピン生れ、息子は上海生れ、という家族の系譜が、彼を物語る。

「御参考までに申上げますと、私は東京ライオンズ・クラブという、アメリカ実業人の社会慈善団体の幹部です。これをお忘れなく」彼は時計の密輸屋である。そして、彼はハルピン生れで妻は天津ときている。

二人の取材は進行した。不良外人のアクラツな手口と、経歴と、犯罪事実や不法行為のメモがつづられていった。取締当局の係官も、かげから取材に協力してくれた。

第一線刑事たちは、自分たちの手のとどかない、〝三無原則〟の特権の座を、新聞の力で、くつがえして欲しいと、願っていたのだった。そして欧米人たちは、ポリスよりもプレスを恐れて

いた。

最後の事件記者 p.386-387 比島政界の黒幕テッド・ルーイン

最後の事件記者 p.386-387 大親分ルーインが密入国しているというウワサ。ルーインはGHQから「入国拒否者」となっており、日本の外務省も彼を入国拒否者として登録。それなのに、東京を堂々と歩いているとは!
最後の事件記者 p.386-387 大親分ルーインが密入国しているというウワサ。ルーインはGHQから「入国拒否者」となっており、日本の外務省も彼を入国拒否者として登録。それなのに、東京を堂々と歩いているとは!

第一線刑事たちは、自分たちの手のとどかない、〝三無原則〟の特権の座を、新聞の力で、くつがえして欲しいと、願っていたのだった。そして欧米人たちは、ポリスよりもプレスを恐れて

いた。

国際博徒の大親分

全世界を三つのシマに分けて、てい立する国際博徒の親分。シカゴ系のジェイソン・リーは、鮮系二世の老紳士だが、アル・カポネのお墨付をもつ代貸しだ。上海系の王(ワン)親分は、上海のマンダリン・クラブの副支配人という仮面をかぶっていた、リチャード・ワンという男で、青幇(チンパン)の大親分杜月笙と組んでいて、銀座のVFWクラブにひそんでいる。マニラ系は、比島政界の黒幕テッド・ルーイン。その片腕ともいうべきモーリス・リプトンは元水交社のマソニック・ビルに陣取っていたのである。

リーやリプトンのインタヴューをつづけてゆくうちに、大親分ルーインが日本に密入国しているというウワサが耳に入った。ルーインはGHQ時代から「入国拒否者」となっており、独立と同時にそのメモランダムは外務省に引きつがれ、独立した日本の外務省も、彼を「日本にとって好ましかざる人物」の項目で、入国拒否者として登録していた。それなのに、ルーインが東京の街を、堂々と歩いているとは!

私は法務省入管局を訪れた。当時の入管は外務省の外局で、係官もほとんど外務省系の連中だった。ここが肝心要のところだ。私はアチコチで駄弁りながら、チャンスの到来を待っていた。

外国人登録カードの係官が、席を立つのを待っていたのである。そして、待つほどに、そのチ

ャンスはやってきた。私は顔見知りの係官に、フト思いついた様子で、ルーインのことをたずねたものである。

彼は気軽に立って、担当の係官を紹介しようとしたが、その係官がいない。詳しい事情を知らない彼は、氏名カードを繰ってくれたけれども、そのイニシアルの項には、ルーインのカードがない。

「おかしいナ。拒否者かナ」

彼はつぶやいて、拒否者のカードを探してみた。あった! 抜き出された一枚のカード。そこには、赤字でエクスクルージョン(入国拒否)とあったが、ルーインの入国年月日が、ハッキリと記入されていた。

十日間も東京へ滞在しているのだった。彼は担当官でないから、何の疑念もなく、また問題になるとも知らずに、私の差し出す手にカードを渡してしまう。こんな時こそ、さり気ない動作が必要である。私はチラとみて、赤字と入国の日付を覚えこむと、興味のなさそうな表情で、すぐにカードを返した。心理作戦のポイントである。ある場合には、露骨に職業意識を丸出しにし、ある時には、ハナもひっかけない無関心さ。このどちらが通用する相手かを判断するのである。

入国拒否者の入国ヤミ取引

まず第一に、警視庁の綱井防犯部長に当って確認した。バクチは後の所管である。彼はおだや

かに答えた。

最後の事件記者 p.388-389 倭島局長のヤミ取引でルーインのヤミ入国

最後の事件記者 p.388-389 倭島局長が通りすぎようとした。彼の視線に私の姿が入ったらしい。彼は立止った。クルリと振り向くと、グッと私へ憎悪の目を向けてニラミすえた。
最後の事件記者 p.388-389 倭島局長が通りすぎようとした。彼の視線に私の姿が入ったらしい。彼は立止った。クルリと振り向くと、グッと私へ憎悪の目を向けてニラミすえた。

入国拒否者の入国ヤミ取引
まず第一に、警視庁の綱井防犯部長に当って確認した。バクチは後の所管である。彼はおだや

かに答えた。

「うん。入国拒否者のルーインが、君のいう通り入国していたのは事実だ。しかし、これには、日比賠償やモンテンルンパの戦犯関係など、〝政治的〟配慮がある。君が取材してきた手腕には敬意を払うが、記事に書く時には、充分に、〝国際的〟な配慮を持ってもらいたいと思うネ」

私を良く知っていた防犯部長は、おろかなことはいわずに、率直に事実を認め、忠告してくれたのである。

私はそれから、外務省に倭島アジア局長を訪ねた。局長は驚きあわてて私に頼みこんできた。

「キミ、どこでそんなことを調べてきたンだネ。困るなア。これにはいろいろとワケがあるンだから、何とか書かないでほしいナ。頼むよ。……キミ、書いたら国際的な問題になるンだ。モンテンルンパなんだ」

私は原部長と相談して、書く時期をみることになった。外務省のヤミ取引、というか、倭島局長のマニラ在外事務所長時代のヤミ取引で、ルーインのヤミ入国という特ダネは、まだしばらく秘められることになった。

だが、書くべき時は間もなくやってきた。そして、この事実を重視した、衆院法務委員会が、社会党猪俣代議士の質問で追及した。その当日、委員会の記者席に座っていた私の前を、倭島局長が通りすぎようとした。彼は政府委員として、この事件の責任者だ。

フト、彼の視線に私の姿が入ったらしい。彼は一、二歩、通りすぎて立止った。クルリと振り

向くと、グッと私へ憎悪の目を向けてニラミすえた。そして、政府委員席へと歩き出した。猪俣委員の鋭い質問がはじまるや、局長は、新聞のコラム欄では、「取引を外交と思いこんでいる」とヤジられて、すっかり男を下げてしまったが、これが二十八年七月九日のこと。

やがて、八月になると、ルーインが局長へ手紙をよこして曰く。

「私は、貴殿が、私の入国の協力者として、恥をかかれたとお思いなら、心からお詫び申しあげます……」

この「東京租界」は、十月二十四日から十一月六日までの間、タッタ十回ではあったけれども、続きものとして連載された。まだまだ材料はあったのだが、十一月十日の立太子礼のため、打切らざるを得なかった。

これは、独立直後の日本で、占領中からの特権を、引続き行使して、その植民地支配を継続しようとした、不良外人たちに対し、敢然と下した、日本ジャーナリズムの最初の鉄槌であった。

そして、この続きものをはじめとするキャンペーン物で、読売社会部は、文芸春秋の菊池寛賞新聞部門第一回受賞の栄を担ったのであった。

最後の事件記者 p.390-391 私が幻兵団の記事を書いた時

最後の事件記者 p.390-391 三橋もまたソ連代表部員クリスタレフとレポしていたのである。そればかりではなくて、CICに摘発されるや、多数のソ連スパイが、アメリカ側に寝返っていた時代だったのである。
最後の事件記者 p.390-391 三橋もまたソ連代表部員クリスタレフとレポしていたのである。そればかりではなくて、CICに摘発されるや、多数のソ連スパイが、アメリカ側に寝返っていた時代だったのである。

スパイは殺される

三橋事件の発生

鹿地不法監禁事件がもり上ってきた。二十七年十二月十一日、斉藤国警長官は、参院外務委でこう答弁した。

「鹿地氏は現に取調べ中の事件と、直接関係を持っている疑いが濃厚である。被疑者は日本人で終戦後ソ連に抑留され、同地において、高度の諜報訓練と、無電技術とを会得した。内地に帰ってから、ある諜報網と連絡して、海外に向って無電を打っていたという疑いが強い。氏名を述べることはできないが、東京の郊外に居住していた人間である」

その日の夕方、私は何も知らないで、警視庁記者クラブから社に帰ってきた。ちょうどそのニュースが、社に入ったところだった。私の顔をみるなり、

「オイ、まぼろし! 長い間の日陰者だったが、やっと認知されて入籍されたゾ」と。

原部長の御機嫌は極めてうるわしく、私は何のことやら判らず、戸まどったような、オリエンタルスマイルを浮べた。やっと、そのニュースを聞いた時には、「何だ、そんなこと当り前じゃ

ないか」と、極めて平静を装おうとしながらも、やはり目頭がジーンとしてくるほどの感激だった。

ちょうど三年前のスクープ、大人の紙芝居と笑われた「幻兵団」が、今やっと、ナマの事件として脚光をあびてきたのだった。これが記者の味わい得る、本当の生き甲斐というものではなくて、何であろう。

私が幻兵団の記事を書いた時、すでに多数の幻兵団が働いており、この三橋もまた、上野池ノ端で、ソ連代表部員クリスタレフとレポしていたのである。そればかりではなくて、すでにCICに摘発されるや、三橋をはじめとして、多数のソ連スパイが、アメリカ側に寝返っていた時代だったのである。

従って、アメリカ側は幻兵団の記事で、自分たちの知らない幻を、さらに摘発しようと考えていたのに対し、全く何も知らない日本治安当局は、何の関心も示さなかった。日本側で知っていたのは、舞鶴CICにつながる顧問団の旧軍人グループと、援護局の関係職員ぐらいのもので、治安当局などは「あり得ることだ」程度だから、真剣に勉強しようという熱意なぞなかった。

そんな時に、当時の国警本部村井順警備課長だけは、礼をつくして「レクチュアしてくれ」といって来られた。千里の名馬が伯楽を得た感じだったので、私はさらにどんなに彼を徳としたことだろうか。

鹿地の不法監禁事件は、三橋を首の座にすえたことで、全く巧みにスリかえられて、スパイ事

件の進展と共に、鹿地はすっかりカスんでしまった。

最後の事件記者 p.392-393 三橋はスパイで自宅を新築

最後の事件記者 p.392-393 三橋事件こそ、典型的な幻兵団のケースだった。つづいて起った北海道の関三次郎事件、ラストボロフ事件、外務省官吏スパイ事件とに、生きてつながっている。
最後の事件記者 p.392-393 三橋事件こそ、典型的な幻兵団のケースだった。つづいて起った北海道の関三次郎事件、ラストボロフ事件、外務省官吏スパイ事件とに、生きてつながっている。

鹿地の不法監禁事件は、三橋を首の座にすえたことで、全く巧みにスリかえられて、スパイ事

件の進展と共に、鹿地はすっかりカスんでしまった。

三橋事件こそ、典型的な幻兵団のケースだった。つづいて起った北海道の関三次郎事件、ラストボロフ事件、外務省官吏スパイ事件とに、生きてつながっている。

満州部隊から入ソ、マルシャンスク収容所で選抜されて、モスクワのスパイ学校入り。高尾という暗号名を与えられて誓約。個人教育、帰国して合言葉の連絡——すべてが典型的な幻兵団であった。

姿を現わしたスパイ網

三橋を操縦していたのは、軍情報部系統の極東軍情報部で、ラ中佐などの内務省系ではなかった。従ってレポに現れたのは、代表部記録係のクリスタレフ。二十四年四月に、十二日間にわたって、麻布の代表部で通信教育を行った時には、海軍武官室通訳のリヤザノフ(工作責任者)、経済顧問室技師のダビドフ、政治顧問室医師(二十九年九月にエカフェ会議代表で来日)のバベルの三人が立合っている。

二十三年四月十七日に、クリスタレフとのレポに成功してからは、大体月一回の割で会い、翌年八月二十日ごろまで続いていた。二十四年四月には無電機を渡され、ソ連本国との交信八十二回。同五月からは、元大本営報道部高級部員の佐々木克己大佐がレポとなり、二十五年十一月に自殺するまでのレポは五十七回、その後にレポが鹿地に交代して、二十六年六月から十一月まで

に、十五回にわたり電文を受取った。

この間の経過は、すべて米軍側の尾行、監視にあったので、米側は全く有力な資料を得ていたことになる。電文は七十語から百二十語の五ケタ乱数だったが米軍では解読していたのだろう。

三橋のスパイ勤務は、帰国から自首まで丸五年間、ソ側から百八万四千円、米側から六十六万五千円、合計百七十四万九千円を得ていた。これを月給に直すと、二万九千円余でさほど高給でもない。しかし、五十六万八千五百円で自宅を新築したりしているから、技術者らしく冷静に割り切ったスパイだったようである。

三橋事件がまだ忘れられない、翌年の二十八年八月二日、北海道で関三次郎スパイ事件が起きた。これは幻兵団の変型である。樺太で、内務省系の国境警備隊に注目され、誓約してスパイとなり、非合法入国して、資金や乱数表などを残置してくるという任務だ。

この事件は、スパイを送りこむ船が、上陸地点を間違えたため発見されてしまったが、つづいて迎えにきたソ連船のダ捕という事件まで起きて、夏の夜の格好な話題になった。

この時、当局の中に、このソ連船を捕えるべきでなく、関が埋没した連絡文書や現金を掘り起しにくる、国内の潜伏スパイを捕えるべきだったとの意見もおきた。だが、実際問題としては、関が帰任して埋没地点を報告しなければ、国内にいる無電スパイは掘起しに現れないのだから、関のような低級な人物では、逆スパイになること(日本側に捕まり、一切を自供しているにもかかわらず、無事任務を果したように、帰任し報告する)は、不可能だったろう。

最後の事件記者 p.394-395 読売新聞が〝幻兵団〟をあばいた

最後の事件記者 p.394-395 当局では「幻兵団」の研究にとりかかった。ソ連引揚者の再調査が行われはじめた。スパイ誓約者をチェックしようというのである。遅きにすぎた憾みはあるがやむを得ない。
最後の事件記者 p.394-395 当局では「幻兵団」の研究にとりかかった。ソ連引揚者の再調査が行われはじめた。スパイ誓約者をチェックしようというのである。遅きにすぎた憾みはあるがやむを得ない。

この時、当局の中に、このソ連船を捕えるべきでなく、関が埋没した連絡文書や現金を掘り起しにくる、国内の潜伏スパイを捕えるべきだったとの意見もおきた。だが、実際問題としては、関が帰任して埋没地点を報告しなければ、国内にいる無電スパイは掘起しに現れないのだから、関のような低級な人物では、逆スパイになること(日本側に捕まり、一切を自供しているにもかかわらず、無事任務を果したように、帰任し報告する)は、不可能だったろう。

はじめ、私の「幻兵団」を、〝大人の紙芝居〟と笑っていた当局は、三橋事件につぐ関事件でようやく外事警察を再認識せざるを得なくなってきた。つまり、戦後に外事警察がなくなってからは、その経験者を失ったことで、そのような着意を忘れていたのだが、「幻兵団」の警告によって、ようやく当局は外事警察要員の教養を考え出したのである。

そのためには、ソ連は素晴らしい教官だったのである。三橋事件では、投入スパイ、連結スパイ、無電スパイの実在を教えられたし、関事件では、その他に潜伏スパイの存在を学んだのであった。

こうして、読売新聞が〝幻兵団〟という、幻想的な呼び名をつけて、その編成や組織の一端をあばいたソ連の対日スパイ網は、逐次、事件となってその姿を現わしはじめた。まぼろしのヴェールをずり落したのだった。実に、具体的ケースに先立つこと三年である。

当局では改めて「幻兵団」の研究にとりかかった。ソ連引揚者の再調査が行われはじめた。スパイ誓約者をチェックしようというのである。遅きにすぎた憾みはあるが、当局の体制が整っていなかったのだし、担当係官たちに、先見の明がなかったのだからやむを得ない。「幻兵団」の記事が、スパイの暗い運命に悩む人たちを、ヒューマニズムの見地から救おう、という、〝気晴らしの報告書〟の体裁をとったため、文中にかくれた警告的な意義を読みとれなかったのであろう。

(写真キャプション スパイ事件は自分の体験を生かしてベテランに)

三橋事件の取材競争

三橋事件の取材競争は、斉藤国警長官の発言から、各社同時にはじまった。氏名を伏せて、 東京郊外に住んでいるというだけだから、いわば、雲をつかむような話だが、どうにか、保谷の三橋正雄とだけは判った。この名前割り出しは、三橋某で朝日、読売、毎日の順序。フルネームが判ったのが、朝日がトップで、読売と毎日が同時であった。

次は保谷の住所である。これは日経、読売、毎日の順、ともかく十三日付朝刊の都内版には各紙いずれも同じ歩調で出揃ったのである。十二日夜の保谷、田無一帯は、一社二、三台の車計二、三十台の車が、三橋の家を探しもとめて東奔西走。そのヘッド・ライトが交錯して、大変美しい夜景だったというから、如何に凄まじ

い競争だったか判るだろう。

最後の事件記者 p.396-397 本紙がほとんど独走の形である

最後の事件記者 p.396-397 もう全く私の独走だった。自供内容を全部スクープしてしまった。それは五年間も調べつづけて、ほとんど完全にデータを持っているものと、そうでないものとの違いである。
最後の事件記者 p.396-397 もう全く私の独走だった。自供内容を全部スクープしてしまった。それは五年間も調べつづけて、ほとんど完全にデータを持っているものと、そうでないものとの違いである。

次は保谷の住所である。これは日経、読売、毎日の順、ともかく十三日付朝刊の都内版には各紙いずれも同じ歩調で出揃ったのである。十二日夜の保谷、田無一帯は、一社二、三台の車計二、三十台の車が、三橋の家を探しもとめて東奔西走。そのヘッド・ライトが交錯して、大変美しい夜景だったというから、如何に凄まじ

い競争だったか判るだろう。

その後は、原稿を送る電話の争奪戦、さらに今度は留置されている警察の探しッくら。毛布を冠せて横顔すら見せない、三橋の写真の撮り競べと、オモチャ箱を引繰り返したような騒ぎだった。

だが、こうして基礎取材競争が終ってからというものは「幻兵団」のデータが揃っているだけに、もう全く私の独走だった。十三日の夕刊で早くも自供内容を全部スクープしてしまった。それは五年間も調べつづけて、ほとんど完全にデータを持っているものと、そうでないものとの違いである。

ここに、同じ〝事件〟であっても、刑事部の捜査一課事件の、殺人(コロシ)強盗(タタキ)などの、偶発的非組織事件と、計画的、組織的事件との違いがある。同じ刑事部事件でも、捜査二課となると、やはりこのコロシ、タタキとは違って、記者の平常の勉強が問題になってくる。

この三橋事件当時の、記事審査日報、つまり社内の批評家の意見をひろってみると、「三橋の取調べの状況については、各紙マチマチで、毎日は(鹿地氏との関係はまだ取調べが進まず……)とし、朝日は(当面鹿地との関連性について確証をつかむことに躍起になっている)と一段の小記事を扱っているにすぎないが、これに反し本紙は、三橋スパイを自供す、と彼が行ってきたスパイ行為の大部分の自供内容を抜き、特に問題の中心人物鹿地が藤沢で米軍に逮捕された時も、三橋とレポの鹿地が会うところを捕えられたのだと、重要な自供も入っているのは大特報だ」と、圧倒的なホメ

方である。

これが十三日付夕刊の批評で、十四日朝刊は、「朝毎とも、三橋の自供内容は、本紙の昨夕刊特報のものを、断片的に追いはじめている」とのべ、さらに夕刊では、「昨夕刊やこの日の朝刊で、朝毎が本紙十三日夕刊の記事をほとんどそのまま追い、本紙もまたこの夕刊で、現在までに取調べで明らかになった点、として改めて本紙既報のスクープを確認している。こうして三橋がアメリカに利用されている逆スパイであることが、確認されてみると、十三日夕刊の特ダネは、大スクープであったことが裏付けされたわけで、特賞ものである」と、手放しである。

十五日には「朝毎は相変らず、本紙十三日夕刊の記事を裏付ける材料ばかりだ」十六日になると、「本紙は今日もまた三橋関係で、第二の三橋正雄登場と、二度目の大ヒットを放ち、第一の三橋が紙面でまだハッキリと固まらず、何かモヤモヤを感じさせている際であるから、この特報はまたまた非常に注目された。本紙のこの特報で、いよいよナゾが深まり、問題はますますスリルと興味のあるものとなった」十八日には「三橋の第一の家は本紙の独自もので、大小にかかわらず、本紙がほとんど独走の形であるのは称賛に値する」と、私の独走ぶりを、完全に認めてくれている。

古ハガキ紛失事件

年があけて、三橋は電波法違反で起訴になり、その第一回公判が六日後に迫った。二十八年二

月一日、記者のカンから探り出した大スクープが、この三橋事件でのサヨナラ・ホーマーとなった。鹿地証拠の古ハガキ紛失事件がそれである。

最後の事件記者 p.398-399 国警都本部のやっている重要犯罪?

最後の事件記者 p.398-399 心やすだてにザックバラン調だ。「じゃ、今すぐ探してくれよ」 「フフフ、モノになったら御挨拶をしなきゃダメよ」「ウン。今日のお茶はボクがオゴるよ」 「それでお終いじゃなくッてよ」
最後の事件記者 p.398-399 心やすだてにザックバラン調だ。「じゃ、今すぐ探してくれよ」 「フフフ、モノになったら御挨拶をしなきゃダメよ」「ウン。今日のお茶はボクがオゴるよ」 「それでお終いじゃなくッてよ」

古ハガキ紛失事件
年があけて、三橋は電波法違反で起訴になり、その第一回公判が六日後に迫った。二十八年二

月一日、記者のカンから探り出した大スクープが、この三橋事件でのサヨナラ・ホーマーとなった。鹿地証拠の古ハガキ紛失事件がそれである。

その日のひるころ、今のそごうのところにあった診療所へ寄って、外へ出てきたところを、バッタリとラジオ東京報道部員の、真島夫人に出会った。彼女は時事新報の政治部記者だったが、読売の社会部真島記者と、国会で顔を合せているうちに〝白亜の恋〟に結ばれて結婚、KRに入社した人だった。

ヤアというわけで、喫茶店に入ってダベっているうちに、フト、彼女が国警から放送依頼があったということを話した。都本部の仙洞田刑事部長が、何かの紛失モノを探すための放送依頼を直々に頼みにきたという。

なんということのない座談の一つであったけれども、私には刑事部長が自身できたという点がピンときた。放送依頼などというのは、やはり捜査主任の仕事である。警察官としての判断によれば、主任クラスが行ったのでは、放送局が軽くみるのではないか、やはり部長が頼みに行くべきだ、とみたのであろうが、それは、ゼヒ放送してほしいという客観情勢、つまり大事件だということである。

「その書類があるかい?」

私も国会で彼女には顔なじみ、どころか、二人を最初に紹介したのが私だから、奥様ではあるが、心やすだてにザックバラン調だ。

「エエ、私が放送原稿を書いて、アナウンサーに渡したから、まだキットあるでしょ」

「じゃ、今すぐ探してくれよ」

「フフフ、モノになったら御挨拶をしなきゃダメよ」

「ウン。今日のお茶はボクがオゴるよ」

「それでお終いじゃなくッてよ」

二人はすぐ向いのKRへとって返した。書類はすぐみつかった。刑事部長の職印がおしてあり、面会した鈴木報道部長に確かめてみると、依頼にきたのは間違いなく仙洞田部長その人である。

さて、依頼の文面は「一月十七日午後七時ごろ、国電日暮里駅常磐線下りホーム、または電車内におちていた、古ハガキ一枚在中の白角封筒を拾った方は至急もよりの交番に届けてほしい。これは重要犯罪捜査上、ぜひ必要なものです」とある。

KRでは、一月二十日に頼まれ、翌二十一日午後一時二十五分の、「生活新聞」の時間に放送している。

——国警都本部のやっている重要犯罪?

私はその原文をもらいうけて、KRを出ながら考えてみた。当時、都本部では、マンホール殺人事件(のちにカービン銃ギャング大津の犯行と判った)と、青梅線の列車妨害事件の二つだけしかなかった。

——どちらも、刑事部長が頼みにくるほどの事件じゃないし、第一、ここ数日動きがないのだし

二十日の依頼だから、動いていればもう表面化するはずだ。

最後の事件記者 p.400-401 ヘッ! おとぼけはよそうョ

最後の事件記者 p.400-401 これほどの大騒ぎをするとすれば、その結びつきを立証するもの、ハガキで結びつきを立証するとすれば、鹿地の直筆で、三橋へあてたレポのハガキということになる。
最後の事件記者 p.400-401 これほどの大騒ぎをするとすれば、その結びつきを立証するもの、ハガキで結びつきを立証するとすれば、鹿地の直筆で、三橋へあてたレポのハガキということになる。

国誉カブトを脱ぐ
当時、三橋の身柄は起訴されてから一カ月もたつというのに、まだ八王子地区署におかれてあった。支局でずっと三橋の動静をみている記者に聞いて、調べ官の異動の有無を調べると、あった、あった、ドンピシャリだ。

二十日の放送依頼日から、事件発生以来、三橋を手がけていた永井警部に代って、佐藤警部が担当官となり、永井警部は全く事件から手を引いてしまったという。

私はこおどりしてよろこんだ。事件はやはり三橋だったのである。そこで私は、これまでつか

んだ事実から、推理を組み立てる。

紛失物は古ハガキ。なくした人は永井警部一人。他に処分者がいないからだ。すると紛失時の状況は彼一人ということだ。捜査に出かける時は、刑事は必ず二人一組になるから、捜査ではない。

紛失時間が夜の七時。彼の家が常磐沿線だから、これは帰宅の途中。しかも翌日は日曜日だから、迫ってきた公判の準備に、自宅で調べものをしようと、書類を持ちだして、駅のホームで、雑誌か何かをカバンから取り出した時に、一しょにとび出して落したものだ。

三橋事件の古ハガキで重要なもの、三橋の焦点は鹿地との結びつきだから、これほどの大騒ぎをするとすれば、その結びつきを立証するもの、ハガキで結びつきを立証するとすれば、鹿地の直筆で、三橋へあてたレポのハガキということになる。

こう結論を出した私は、はやる心を抑えてその日の取材を終った。翌二日、まず仙洞田部長へ当ってみる。この取材が〝御用聞き取材〟ではないということだ。

「部長、マンホールや列車妨害なぞの小事件で、部長が直々に放送を頼みにいって、ペコペコしたら貫禄が下がるよ」

「なんだい? ヤブから棒に放送なんて」

「ヘッ! おとぼけはよそうョ。だって、重要犯罪の捜査のために、なくした古ハガキを探して下さいって、頭を下げたろうが……。大刑事部長の高い頭をサ」

彼の眼に、チラと走るものがある。

最後の事件記者 p.402-403 スパイ操縦者だったラストボロフ

最後の事件記者 p.402-403 ソ連代表部二等書記官、ユーリ・A・ラストボロフが、大雪の中に姿を消した。ラ中佐は、在日ソ連スパイ網について供述した。失踪が明らかになると、志位正二元少佐は保護を求めて出頭してきた。
最後の事件記者 p.402-403 ソ連代表部二等書記官、ユーリ・A・ラストボロフが、大雪の中に姿を消した。ラ中佐は、在日ソ連スパイ網について供述した。失踪が明らかになると、志位正二元少佐は保護を求めて出頭してきた。

「部長、マンホールや列車妨害なぞの小事件で、部長が直々に放送を頼みにいって、ペコペコしたら貫禄が下がるよ」
「なんだい? ヤブから棒に放送なんて」
「ヘッ! おとぼけはよそうョ。だって、重要犯罪の捜査のために、なくした古ハガキを探して下さいって、頭を下げたろうが……。大刑事部長の高い頭をサ」

彼の眼に、チラと走るものがある。

「都本部が、この上、三橋以上の重要犯罪をやりだしたら、こちらがもたないよ。エ? 三橋以上の大事件をサ!」

三橋といって、表情をみる、人の良さそうなニヤリが浮ぶ。KRから借りてきた書類を突きつける。またニヤリが浮ぶ。

「いずれにせよ、私は知らないよ」

この答弁をホン訳すると、「そうです。三橋事件ですが、私は、詳しいことを知りません」ということだ。反応は十分だ。もうここまでくれば、上の者にいわせねばならない。

次は片岡隊長だ。彼は殉職警官のお葬式にでかけていたので、これ幸いと電話をかけて呼び出す。

「隊長! 例の紛失モノはどうしました」

「エ? 何だって?」

「ホラ、ラジオ東京に頼んだ、三橋事件の証拠品のハガキは、出てきましたか?」

「ア、それは警備部長の後藤君に聞いてくれよ」

ズバリ切りこまれて、隊長は本音をはいてしまった。——こうして、当局は否定したけれども、翌三日のトップで出ると、ついに国警本部の山口警備部長が認めた。

その日の審査日報も引用しておこう。「紛失した鹿地証拠は、誠にスッキリとした鮮やかなス

クープで、最近の大ヒットである。国警にウンといわせ得なかったのは残念だが、放送依頼書の複写がそれを補っている。関係者の談話も揃って、全体に記事もよくまとまっている」夕刊「鹿地証拠紛失はついに国響もカブトを脱いで、その事実を認めた」

ラストボロフ事件

三橋事件の余波が、いつか静まってきた、二十九年一月二十四日、帰国命令をうけていたソ連代表部二等書記官、ユーリ・A・ラストボロフが、大雪の中に姿を消してしまったという、ラ事件が起きた。ラ書記官の失踪はソ連代表部から警視庁へ捜索願いが出たことから表面化したのだが、その外交官は、実は内務省の政治部中佐で、スパイ操縦者だったというばかりか、失踪と同時に、米国へ亡命してしまったということが明らかになった。

この事件ほど、当局にとって、大きなショックだったことはあるまい。米側の手に入ったラ中佐は、直ちに日本を脱出、在日ソ連スパイ網について供述した。その間、日本側が知り得たことは、ラ中佐の失踪を知って、警視庁へ出頭してきた、志位正二元少佐のケースだけである。

一月二十七日、代表部から捜索願いが出されて、二十四日の失踪が明らかになると、志位元少佐は保護を求めて、二月五日に出頭してきた。二等書記官が実は政治部の中佐、そして、ソ連引揚者で、米軍や外務省に勤めた元少佐参謀。この組合せに、当局は異常な緊張を覚えたが、肝心のラ中佐の身柄が、日本に無断のまま不法出国して、米本国にあるのだから話にならない。

最後の事件記者 p.404-405 形は自殺であっても〝殺された〟のである

最後の事件記者 p.404-405 この事件は、つづいて日暮事務官の自殺となって、事件に一層の深刻さを加えた。日幕、庄司両氏は、「新日本会」というソ側への協力団体のメムバーだった。
最後の事件記者 p.404-405 この事件は、つづいて日暮事務官の自殺となって、事件に一層の深刻さを加えた。日幕、庄司両氏は、「新日本会」というソ側への協力団体のメムバーだった。

一月二十七日、代表部から捜索願いが出されて、二十四日の失踪が明らかになると、志位元少佐は保護を求めて、二月五日に出頭してきた。二等書記官が実は政治部の中佐、そして、ソ連引揚者で、米軍や外務省に勤めた元少佐参謀。この組合せに、当局は異常な緊張を覚えたが、肝心のラ中佐の身柄が、日本に無断のまま不法出国して、米本国にあるのだから話にならない。

ヤキモキしているうちに、米側から本人を直接調べさせるという連絡があり、七月中旬になって、公安調査庁柏村第一部長、警視庁山本公安三課長の両氏が渡米して、ラ自供書をとった。

両氏は八月一日帰国して裏付け捜査を行い、日暮、庄司、高毛礼三外務事務官の検挙となったのだ。もっとも五月には、米側の取調べ結果が公安調査庁には連絡された。同庁では柏村第一部長直接指揮で、外事担当の本庁第二部員をさけ、関東公安調査局員を使って、前記三名の尾行、張り込みをやり、大体事実関係を固めてから、これを警視庁へ移管している。

この事件は、つづいて日暮事務官の自殺となって、事件に一層の深刻さを加えた。東京外語ロシア語科出身、通訳生の出身、高文組でないだけに、一流のソ連通でありながら、課長補佐以上に出世できない同氏の自殺は、一連の汚職事件の自殺者と共通するものがあった。現役外務省官吏の自殺、これは上司への波及をおそれる、事件の拡大防止のための犠牲と判断されよう。そして犠牲者の出る事実は、本格的スパイ事件の証拠である。

スパイは殺される

ソ連の秘密機関は大きく二つの系統に分れていた。政治諜報をやる内務省系のMVDと、軍事諜報の赤軍系のGRUである。三橋のケースはGRU、ラ中佐はMVDであった。第二次大戦当時、ソ連の機関に「スメルシ」というのがあった。これはロシア語で、〝スパイに死を!〟という言葉の、イニシアルをつづったものだ。

だから、〝スパイは殺される〟という。このラ事件の日暮事務官、三橋事件の佐々木元大佐など、いずれも形は自殺であっても、この不文律で、〝殺された〟のである。日暮事務官はなぜ死んだか? もちろん、東京地検で、取調べ中の飛び降り自殺だから、遺書などあり得ようはずがない。

高毛礼元事務官の一審判決は、「懲役一年、罰金百五十万円」である。彼は報酬として四千ドル(百四十四万円)をソ連からもらっているので、この罰金がついたのである。納められなければ一日五千円に換算して、労役場へ留置する、とあるから、これが三百日になる。合計して一年十カ月の刑である。日暮と同じ程度の刑だから、なぜ妻子を残して死なねばならないのだろうか。

終戦時の在モスクワ日本大使館。そこでは佐藤尚武大使以下、在留日本人までが館内に軟禁されていた。そして、この軟禁につけこんで、ソ連側ではスパイ獲得工作の魔手をのばしてきた。「幻兵団」と同じである。

これは、ラストボロフの自供した、ソ連代表部のスパイ一覧表をみれば明らかだ。ラ中佐の亡命時に、狸穴の代表部直結のスパイは四十八名いた。これを所属別に分類すれば、MVD四十三名、GRU三名、海軍二名、人種別では、日本人三十五名、白系ロシヤ人七名、その他の外国人六名となっている。

三十五名の日本人をさらに分類すると、戦後ソ連抑留者二十名(幻兵団)のほか、外務省官吏、新聞記者、旧将校らとなっている。日幕、庄司両氏は、終戦時にモスクワにいたばかりではなく

「新日本会」というソ側への協力団体のメムバーだった。ことに日暮は佐藤大使の秘書的な立場にいたので、逮捕された三人のうちでは一番重要な人物と目されていた。

最後の事件記者 p.406-407 朝日が日暮、庄司の逮捕をスクープ

最後の事件記者 p.406-407 彼らが逮捕された時の、みじめな私を忘れることができない。私は朝日をひろげてみて、胸をつかれた。不覚の涙がハラハラと紙面に落ちてニジンだ。
最後の事件記者 p.406-407 彼らが逮捕された時の、みじめな私を忘れることができない。私は朝日をひろげてみて、胸をつかれた。不覚の涙がハラハラと紙面に落ちてニジンだ。

三十五名の日本人をさらに分類すると、戦後ソ連抑留者二十名(幻兵団)のほか、外務省官吏、新聞記者、旧将校らとなっている。日幕、庄司両氏は、終戦時にモスクワにいたばかりではなく

「新日本会」というソ側への協力団体のメムバーだった。ことに日暮は佐藤大使の秘書的な立場にいたので、逮捕された三人のうちでは一番重要な人物と目されていた。

彼らが逮捕された時の、みじめな私を忘れることができない。八月十四日の公安三課のラ事件のその後の経過発表も、私の公休日という悲運だった。しかも、その時には、すでに日暮、庄司両氏を逮捕していたのである。私は休日出勤してきて、かねて準備していた、志位元少佐の記事を書いた。これはスクープではなかったが、読売が一番詳細、正確な記事だった。

不覚の涙

だが、そのあとがいけない。感じとしては誰かを逮捕しているようなのだが全くつかめない。私用を抱えていた私は、公休日でもあったので、取材をいいかげんで投げ出してしまった。そして、出かけようとした時、一人の親しいニュース・ソースに出会った。

「お忙しそうにどちらへ?」

「イヤ、ちょっと、なに……」

「アア、目黒ですか」

彼は一人で納得してうなずいた。いつもの私なら、ここで「エ? 目黒?」と、ピンとくるはずだったが、それを聞き流してしまったのである。

翌十五日の日曜日朝、私は朝日をひろげてみて、胸をつかれた。不覚の涙がハラハラと紙面に

落ちてニジンだ。朝日のスクープは、一面で日暮、庄司の現役公務員の逮捕を報じているではないか。

しかも、読売は、どうであろうか。「政府高官逮捕説を、警視庁が否定」と、なくもがなの断り書を、小さな記事ではあるが、出しているのである。昨夜、電話で、「警視庁は誰も逮捕していないと、否定していますよ」とデスクに断ったのが、記事になっている。確かに、平事務官なのだから、〝政府高官〟ではないかもしれない。しかし、朝日が逮捕をスクープして、読売が否定しているのでは、あまりの醜態であった。デスクが、「じゃ断り書を記事にしておこう」といった時、私は「そんなのは、デスクの責任逃れだ」と思っただけで、あえて反対しなかったのも、痛恨の限りであった。

調べてみると、この両名の逮捕は、警視庁が極秘にしていたのを、この事件を防諜法制定の道具に使おうと思っていた緒方副総理が、朝日の政治部記者へ洩らしたのだ、といわれている。その上、「目黒へ」といった係官から聞けば、彼は私が急いでいたので、ちょうどまだガサ(家宅捜索)をやっていた、目黒の庄司宅へ行くのだと思ったという。つまり、私がすでに庄司、日暮の逮捕を知っているものだと極めこんでいたのであった。

私は泣いた。これほどの醜態はなかった。取材源が警視庁だろうが、内閣だろうが、新聞記者には、「紙面で来い」というタンカがある。取材源や取材の経過などは、それほど問題ではないということだ。「紙面に現れた結果」で、勝負を争う実力の世界である。

最後の事件記者 p.408-409 刻一刻、血が流出—死ぬのかな!

最後の事件記者 p.408-409 帰宅したのは午前四時、くずれるように眠りこんだが、母に叩き起された。血まみれの胎児はまだ臍帯をつけたまま、何かボロ屑のように投げ出されて、産婆さんが狼狽しきっている。
最後の事件記者 p.408-409 帰宅したのは午前四時、くずれるように眠りこんだが、母に叩き起された。血まみれの胎児はまだ臍帯をつけたまま、何かボロ屑のように投げ出されて、産婆さんが狼狽しきっている。

私は泣いた。これほどの醜態はなかった。取材源が警視庁だろうが、内閣だろうが、新聞記者には、「紙面で来い」というタンカがある。取材源や取材の経過などは、それほど問題ではないということだ。「紙面に現れた結果」で、勝負を争う実力の世界である。

私は特ダネ記者といわれた。それがこのていたらくであった。もちろん、私の記録の中にも、輝かしいものばかりではない。失敗のみじめな歴史も多い、だが、この時ほどに、ニガイ思い出はない。

横井事件の犯人隠避も、惨敗の記録ではある。しかし、これは爽快な敗け戦である。思いかえしてみて、いささかも恥じない、快い記憶である。「紙面で来い!」と、タンカをきりそこねたのである。しかも、私の先手を警察に奪われて、警察の先手を、また奪い返したからである。

スパイ事件は私のお家芸であったのだ。それで、あの三橋事件の勝利も、自信をもって戦えたからである。それなのに、最後の「目黒へ?」という言葉も、聞き流してしまうとは!

朝日をみつめながら、私のホオはまだ涙でぬれていた。

記者は悲し

八月二十八日、日暮事務官が飛び降り自殺をした。この日も私は公休日であった。前夜から、雑誌原稿を徹夜で書き続けていたが、ラジオは入れっぱなしだ。やがて正午のニュースが、自殺事件を伝えた。

——迎えが来るナ。

もう数枚で原稿は終るところだ。そう感じていると、ちょうど書きあげた時、迎えの自動車がきた。

妻は二度目のお産で、もう予定日だった。二度目だから自宅で生むという。そのため、この八月へ入ってから、何かと雑用の多い毎日だったのである。日暮事務官の自殺とあれば、事件はいよいよ深刻化しよう。もしかすると、今夜は帰れないかもしれない。私は、妻の手を握って、その旨を話し、無事にお産を済ませるようにと、激励した。一睡もしないまま、社へ出た。

それから丸一日、取材のため駈けずり廻って、社会面の全面を埋める、「ラストボロフ事件の真相」という原稿を、数人の記者たちとまとめた。三部作である。

第一部が、志位自供書、第二部、捜査経過、第三部の解説——最終版の校正刷りを見終って、帰宅したのは午前四時、くずれるように眠りこんだが、約一時間ほどで母に叩き起された。

「アト産が出ないので、出血が止らないのよ。すぐお医者さんを呼んできて……」

隣の部屋に入ってみると、血まみれの胎児は、まだ臍帯をつけたまま、何かボロ屑のように投げ出されて、産婆さんが狼狽しきっている。妻は、もう顔面が蒼白、力ない表情で私をみる。

暁の町を走って、医者を叩き起した。ドンドン叩いても、返事のないいらだたしさ。事情を話して往診をたのみ、自宅へかけもどってきた。

「オイ、確りしろよ。いま、お医者さんが来るから」

励ましの言葉をかけても、もう妻には答える気力もない。剥離しない胎盤のため、刻一刻、血が流出しているのだ。

——死ぬのかな!

最後の事件記者 p.410-411 妻の死に目と仕事のどちらをとる

最後の事件記者 p.410-411 私は二日間の完全な徹夜で疲れ切っていた。「子供が生れたそうじゃないか。お祝いだナ」ハシゴで飲み歩いて泥酔した。玄関のドアの外で、私はグッスリとねむりこんでいた。三日目の朝である。
最後の事件記者 p.410-411 私は二日間の完全な徹夜で疲れ切っていた。「子供が生れたそうじゃないか。お祝いだナ」ハシゴで飲み歩いて泥酔した。玄関のドアの外で、私はグッスリとねむりこんでいた。三日目の朝である。

励ましの言葉をかけても、もう妻には答える気力もない。剥離しない胎盤のため、刻一刻、血が流出しているのだ。
——死ぬのかな!

不吉な予感が走る。もし、今夜の仕事が、張り込みにでもなっていたら、どうだったろうか。私は妻の死に目にもあえない!

私は考えた。妻の死に目と、仕事のどちらをとるであろうか、と。

——私は仕事をとるだろう。新聞記者という仕事だから……。

——フン、その場に直面しない、仮説だからそんなことがいえるのだろう。

——バカな、オレは仕事をとるさ。現に今夜だって、もし取材が終らなければ、帰宅しなかっただろう。そうすれば、妻の死に目に会えないじゃないか。仮説じゃないさ。

——そうか。それもよかろう。〝仕事の鬼〟ってところだな。そんなに、仕事が大切なものなら世の常の夫のように、妻のみとりもできないのなら、何故、結婚なンかしたんだ? 妻子が可哀想じゃないか。

——そりゃ、オレだって、家庭がほしいさ。第一、オレは子供を幸福にしてやりたかったんだ。

——フン、御都合主義だナ。それで、仕事と妻の死とでは、仕事をとるというのか。

——新聞記者だもの、仕方がないよ。

——記者、記者っていうけど、新聞記者の仕事って、そんな大切なものなのかい。一体、何なのだね。

——エ?

私は二日間の完全な徹夜で、疲れ切っていた。流血死に近づいてゆく妻のまくらもとで、そん

な自問自答を続けていたが、フト、新聞記者という職業についての、疑問が湧き起ってきた。

抜いた、スクープだ、といって、一体それがなんであろう。抜かれたといって、何であろう。新聞記者という奴は、何者なのだろうか。

医者がきた。血は止った。妻はコンコンと眠りに落ちた。死の影は遠のいた。新生児は産声をあげ、血を洗い流してもらって、安らかに眠っている。もう正午すぎである。

KRからの、ニュース解説の依頼がきて、録音に出かけた。六千円ばかりの謝礼をもらって社へ帰ると、「子供が生れたそうじゃないか。お祝いだナ」と、同僚たちがよってきた。ハシゴで飲み歩いて泥酔した。「新聞記者って何だろ」と考え続けていたようだ。その翌朝、玄関のドアの外で、私はグッスリとねむりこんでいた。三日目の朝である。

立正佼成会潜入記

立正佼成会へスパイ

警察の主任になったり、旅館の番頭などと、芝居心をたのしませながら仕事をしているうちに三十一年になるとまもなく、警視庁クラブを中心とした、立正佼成会とのキャンペーンがはじま

ってきた。

最後の事件記者 p.412-413 防衛庁と通産省があいているのだが

最後の事件記者 p.412-413 「お前のようなズボラを、一人のクラブへ出すのは、虎を野に放つのと同じだという意見もあるんだ。チャンと出勤しろよ。」
最後の事件記者 p.412-413 「お前のようなズボラを、一人のクラブへ出すのは、虎を野に放つのと同じだという意見もあるんだ。チャンと出勤しろよ。」

立正佼成会へスパイ
警察の主任になったり、旅館の番頭などと、芝居心をたのしませながら仕事をしているうちに三十一年になるとまもなく、警視庁クラブを中心とした、立正佼成会とのキャンペーンがはじま

ってきた。

その前年の夏に、警視庁に丸三年にもなったので、そろそろ卒業させてもらって、防衛庁へ行きたいなと考えていた。「生きかえる参謀本部」と、「朝目が覚めたらこうなっていた——武装地帯」という、二つの再軍備をテーマにした続きものを、警視庁クラブにいながらやったので、どうもこれからは防衛庁へ行って、軍事評論でもやったら面白そうだと思いはじめたのであった。

そのころ、名社会部長の名をほしいままにした原部長が、編集総務になって、景山部長が新任された。それに伴って人事異動があるというので、チャンスと思っていると、一日部長に呼ばれた。アキの口は防衛庁と通産省しかない。病気上りででてきていた先輩のO記者が、通産省へ行きたがっていたので、これはウマイと考えた。

「防衛庁と通産省があいているのだが、警視庁は卒業させてやるから、どちらがいい」

という部長の話だった。えらばせてくれるなどとは、何と民主的な部長だと、感激しながら答えた。

「通産省は希望者もいることですから、ボクは防衛庁に……」

といいかけたら、とたんに、

「何いってるンだ。通産省ほど社会部ダネの多い役所はないのに、今までの奴らは、保養のつもりで書きやがらねえ。お前がいって、書けるということをみせてやれ」

と、全く話が変になってしまった。そればかりではない。

「お前のようなズボラを、一人のクラブへ出すのは、虎を野に放つのと同じだという意見もあるんだ。チャンと出勤しろよ。従来の奴が書けないクラブで、お前に書かせようというのだから」

とオマケまでついてしまった。こうして三十年の夏から、通産、農林両省のカケ持ちをやっていたところに、キャンペーンに召集がかかってきた。ヒマで困っていたので、よろこび勇んで、はせ参ずると、ニセ信者になって、佼成会に潜入して来いというのだ。

立正佼成会のアクドイ金取り主義をつかむのには、その内部の事情を知らねばならない。当然事前に潜入して調べておいてから、キャンペーンをはじめるべきなのに、戦いがはじまってしまってから、スパイに行けというのだから、チョット重荷だった。だが、面白そうである。

共産党だって、フリーの党員というのはないのだから、佼成会も、入会を紹介してくれる導き親がなければならない。ことに、読売側から潜入してくるだろうという声もあって、警戒厳重だというから、よほどウマイ状況をつけないと、入会できない。そこで、導き親を探しはじめた。

「誰か知っている人に、佼成会の信者はいないかネ」

部内はもちろん、社内の誰彼れと、まんべんなく声をかけたが、神信心を必要とするようなのは、新聞社にはいないとみえて、どうにも手がかりがないままに数日すぎた。

手がかりをつかむ

と、ある日、Tというサツ廻りの記者が、「どうもそれらしい心当りをみつけた」と知らせて

くれた。日蓮宗には違いないが、佼成会かどうか、確かめてみるというのだった。

最後の事件記者 p.414-415 生きる希望を失った男

最後の事件記者 p.414-415 中からヨレヨレの古ズボンをみつけ出した。膝はうすくなり、シリは抜けている。Yシャツはエリのきれたの、クツ下はカカトに穴のあいたのと、一通りの衣裳が揃った。
最後の事件記者 p.414-415 中からヨレヨレの古ズボンをみつけ出した。膝はうすくなり、シリは抜けている。Yシャツはエリのきれたの、クツ下はカカトに穴のあいたのと、一通りの衣裳が揃った。

「誰か知っている人に、佼成会の信者はいないかネ」
部内はもちろん、社内の誰彼れと、まんべんなく声をかけたが、神信心を必要とするようなのは、新聞社にはいないとみえて、どうにも手がかりがないままに数日すぎた。
手がかりをつかむ

と、ある日、Tというサツ廻りの記者が、「どうもそれらしい心当りをみつけた」と知らせて

くれた。日蓮宗には違いないが、佼成会かどうか、確かめてみるというのだった。

都内のあるターミナルの盛り場、その駅付近には例によって、マーケットの呑み屋が集っている。そのうちの一軒、五十幾つになる人の良さそうなオバさんが、佼成会の、あまり熱心でなさそうな信者だった。そんな信心ぶりだから、記者に狙われるような、〝業〟を背負っていたのだろう。でも、オバさん自身は、信者だということで、心の安らぎを得ているに違いない。

私は車をとばして家に帰った。ボ口類をつめた行李を引出すと、中からヨレヨレの古ズボンをみつけ出した。膝はうすくなり、シリは抜けている。Yシャツはエリのきれたの、上衣も古ぼけたの、クツ下はカカトに穴のあいたのと、一通りの衣裳が揃った。

サテ、そこで困ったのは、ボロオーバーがないのである。タンスの中を探すと、戦争中に叔母が編んでくれた、〝準純毛〟のセーターがでてきた。ダラリとして、重くて、とても今時は、人の前で着れた代物ではない。コレコレとよろこんで着こんだ。

メガネも、当今流行のフォックス型では困る。子供のオモチャ箱から、昔風の細いツルのフチをみつけた。クラブのベッドの下に突っこんであった底の割れたボロ靴もあった。

衣裳はこれですっかり揃った。台本は、すでに考えてある。霊験あらたかな立正佼成会の御教祖様「妙佼先生」の御慈悲にすがる、あわれな男である。

年齢は三十歳位、中学卒。戦後、中小企業の鉄会社に勤めていたサラリーマン。朝鮮動乱の好景気で遊びを覚え、妻との仲がうまくゆかなくなる。やがて、動乱が終り、会社は左前。サラリ

ーはおくれがちで、生活はつまってきた。妻とのいさかいが多くなり、会社はついに前年秋に倒産。失業する。愛想をつかした妻は、彼をすてて逃げてしまう。生きる希望を失った男。しかし、まだ失業保険が半年あるので、新橋のある保険会社で、外交の講習を受けており、ヤケにもなるが、何とか立直りたいとの努力も忘れさってはいない男だ。

銀座を呑み歩いていたころ、知り合ったのが新聞記者T。その記者をたずねて、何か職を世話してもらおうと考えた。記者はその男に一パイ呑ませて帰してしまおうと、オバさんの呑み屋に入ってくる。

(写真キャプション 宗教団体は外圧には強く、佼成会も大きく伸びた)

にせのルンペン

ライトが消えて、暗い舞台のドン帳のかげで、ドラが鳴りひびいて、幕が静かに上る。