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警視庁の記者クラブ詰めだったころの、ある正月。目黒の課長公舎で、午後からの延長戦の酒がはじまった。
翌日、正午ごろになって、ふたりは、新宿二丁目のとある妓楼で、目を覚ましたのであった――正月だというのに…
旺盛な新宿の活力が、この一帯までを盛り場として侵蝕し、境界線はさらに後退して、職安通りにまで移った。旅館街も…
府立五中の制服が背広姿だったこともあって、いっぱしのオトナを気取って新宿の街を歩いていた。
村山知義率いる新協劇団、薄田研二らの新築地劇団、長岡輝子・金杉淳郎夫妻のテアトル・コメディ
美人喫茶のハシリは日比谷交差点の「美松」。戦後は、銀座のプリンスが先か新宿のエルザが先なのか。
私は、むかし気質のエンピツ職人。一業をもって一家をなすべし。ナンデモ屋でみな中途半端な〝すなっく〟を軽蔑する。
食べ物屋というのは、コックが代わったら終わりなのだ。少し儲かると、店を広げたり、支店を出したりするが、これが間違いのもと。
関西風のナンデモ屋がキライだ、と書いた。大阪でナニかを食べようとしたら、私はホテルのレストランしかえらばない。
テレビで宣伝された、マスプロの同じものを着、同じオモチャで遊び、同じマスプロ食品で育つ、いまの子供たち――恐ろしいことではないか。
無批判・大勢順応精神しかない。巣鴨のトゲヌキ地蔵の縁日などの見世物にあった〝箱娘〟みたいなものだ。生まれてすぐミカン箱などに入れて育てる。
いま時の連中は、「ハンバーグですよ」と与えられたら、「これがハンバーグだ」と、思いこむように教育されているのだ。
やはり、私のフランチャイズは、東口、中央口。スパゲティを食べるなら、丸井横通りのミラノ。
ケーキなら、伊勢丹横の小鍛冶である。新宿では、小鍛冶のケーキ以上に美味いケーキには対面していない。
私の食べ歩きは、一店一品種。「いまナニが食べたいか」「ではあの店に行こう」となる。西口と歌舞伎町は、いっぺんこっきりのフリの客相手の浅草仲見世通りと同じ。
コマ劇場通りとさくら通りの中間にあるオデン屋の利佳は、安藤リカさん。才気煥発の女史で、浅学菲才の私など足許にも寄せつけてもらえない。
隣の五〇三号には、丸山明宏が住んでいた。「黒蜥蜴」がヒットしていたころだった。香料の芳香が立ちこめ美貌が妖しい魅力を呼んで、息苦しいほどだった。
「丸山明宏の部屋の隣で正論新聞というんだ。隣に出前して、どうしてウチにはできないのだ」「牛やになんか絶対行かないゾ!」
読売時代から「三田ほど、メシのオゴリ甲斐のある奴はいない」と、極め付きであった。
しゃぶしゃぶを、肉だけ二人前も食べる。すると摩訶不思議やナ……翌朝の九時ごろまで、眠気ひとつ覚えず、原稿を書きつづけて、約束通り上げられるのである。