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雑誌『キング』p.129下段 幻兵団の全貌 人民裁判で逆送のはずが

雑誌『キング』昭和25年5月号 p.129 下段
雑誌『キング』昭和25年5月号 p.129 下段

にしていなければならない。

つまり、二十三年まで(共産党演出するところの〝代々木詣り〟——復員者の共産党本部集団訪問のこと——が、この年の六月四日からはじめられた)の引揚者で、前職者でありながら、あるいは法務官であるとか、反ソ分子、惨虐行為者など、ナホトカ民主グループに〝人民裁判〟にかけられたりして、当然再び逆送されるべき人間で、まともに乗船して帰ってきたものは、一応Ⓑ要員であると考えてもよいことになる。すなわち、早く帰れないはずなのに、早く帰ってきている者は、おかしいわけである。また、帰還者名簿を眺めて、抑留地区がただ一人違う者なぞも、そうである。

これは余談であるが、吉村隊長はナホトカで罪状を認めたというのに、隊員と同じ船で帰ってきていることもうなずけない。人民裁判事件で、多数の逆送を認めた津村謙二氏が、吉村隊長を吊るしあげておきながら、そのまま帰したということが、腑に落ちない。筆者は吉村隊長にその旨を質したところ、彼も『私自身何故すぐ乗船できたか分からない』と答えているが、この裏面には何らかの問題が、伏在しているに違いない。

2 連絡と組織

雑誌『キング』p.129上段 幻兵団の全貌 アクチヴを反動偽装

雑誌『キング』昭和25年5月号 p.129 上段
雑誌『キング』昭和25年5月号 p.129 上段

っていることなど、いずれも符節を合わしている。

二十二年上半期には、『アクチヴは、帰還の第一関門である舞鶴で警戒されるから、反動を採用した方が有利である』という根拠にもとづき、大量生産をしたのであるが、やがてそれでは決して質の向上を期待できないという失敗に気付いた。そのため、下半期では、Ⓑ要員に厳選主義をとり、エラブカ、バルナウル、ハバロフスク、ウォロシロフなどの各地では、筋金入りの民主グループ委員、いわゆるアクチヴに着目した。

そして誓約書をかかせると同時に、民主運動から脱落せしめ、反動としての偽装に着手した。同時にある輸送計画をたて、逐次、日本潜入を開始したのだった。輸送計画というのは、さきの〝どんなに吊るしあげられても、必ず帰してやる〟という言葉で裏書きされよう。

二十二年上半期製造の〝反動スパイ〟は、二十二年下半期からすでに帰還をはじめ、上陸後に寝返る奴も出てきた。その結果として、当局では、このスパイ組織に気がつき警戒をしはじめた。

このような事態に対処するべく、ソ連側では、潜入のための輸送計画をたてたのだ。それは、Ⓑ要員は決してその地区梯団と共に帰らせず、一人一人を、他の地区梯団にまぎれこまし

雑誌『キング』p.123下段 幻兵団の全貌 スパイ採用・任命

雑誌『キング』昭和25年5月号 p.123 下段
雑誌『キング』昭和25年5月号 p.123 下段

いないが、近接した二、三の収容所の引揚者の証言によれば、同一人らしいことから、一人の少佐がある地区を担当して、数カ収容所を巡回したと判断できる。

この少佐の最後的決定ののちに、いよいよドラマティックな採用任命式となる。

三、任命

二十一年中に完成された俘虜カードにもとづき、同年暮れごろからはじまったスパイ採用の選考は、〝モスクワの少佐〟の決定により、ほとんどの者が、二十二年中に誓約書を提出し、ⒶⒷの任命を受けている。

1 人員 誓約書に署名したスパイ個人間においては、横の連絡はない。収容所付思想係将校を中心とする縦の連絡だけである。従って一収容所内におけるスパイの総数は、スパイ自身には分からない。だが、自分に対して行われた選考期間の呼び出しの状況、収容所事務所への出頭の事情などから類推すると、他のスパイのことは、おおむね判断され得るのである。

これによって計算すると、二千名中七、八十名(チェレムホーボ)ともいい、五百名中十名ぐらい(タイセット)などというので、平均二—四%と判断される。するとシベリア地区七〇万人として、一万四千—二万八千人の人たちが

雑誌『キング』p.122下段 幻兵団の全貌 インテリの弱さを利用

雑誌『キング』昭和25年5月号 p.122 下段
雑誌『キング』昭和25年5月号 p.122 下段

装工、厩など)勤務者、さらに、前職者など、各個人の履歴を知っている者、知りやすい状態にある者を選んでいる。

ところが、Ⓑ要員になると、目的が目的なだけに、学歴、職歴を参考として、極めて慎重な態度である。第一は、高商、商大等の英語熟練者をあげている。ついで一般の大学、高専以上の学歴をもつ者で、これは〝死の恐怖〟に当然盲従すると思える、インテリの弱さを利用した感じがあり、従って、幹候出身で軍国主義に固まり切れなかった、中尉以下の下級将校に多い。

次は職歴によるもので、原職が米軍の情報を少しでもつかめる立場にあるもの、すなわち官吏、鉄道、新聞通信などのジャーナリスト、外国商社と関係ある大会社員などである。これは前項の学歴によるものと一致する場合が多い。

その三は、名門、金持ちなど、主として社会的地位のある者。これらの者は、やはり米軍に接触する機会が多いし、また日本の支配階級とも連絡があるので、これをしっかりと握ろうとした。したがって、元華族、元将官級の子弟などは、ほとんど含まれている。

その四は、参謀系統の高級将校と、情報系統の将校で、これはその経歴と体験とを生かそうと狙ったらしい。そのため、一万名の将校を収容していたエラブカ収容所などが問題となって

雑誌『キング』p.122中段 幻兵団の全貌 全ソ連地域で要員摘出

雑誌『キング』昭和25年5月号 p.122 中段
雑誌『キング』昭和25年5月号 p.122 中段

収容所で、専属の思想係将校がおらず、しかもⒶ要員であった。

2 地区 アルチョムでは二十一年暮れにはじめられたらしいが、大体において、アルチョム、ウォロシロフなどの沿海州地区、チタ、イルクーツク、チェレムホーボなどの東部シベリア地区などで、二十二年上半期に大量に、まさに玉石混淆の状態で選考された。

この連中は結局主としてⒶ要員とされて、しかも、極反動も含んだため、この組織の暴露される原因ともなった。

これと並行して選考はされていたが、コムソモリスク、ハバロフスク方面、及びカラガンダ、ベゴワード、アルマアタ方面、バルナウル、ビイスク、ロフソフカ方面、カザン、エラブカ方面などでは、二十二年下半期において、粗製らん造をさけた厳選主義で、Ⓑ要員がえらばれていた。

もちろん、ここにあげた地名は、ごく大ざっぱな分類であって、全ソ連地域の各収容所で、この要員摘出は行われていた。ただ、二十二年上半期の玉石混淆の大量生産が、主としてⒶ要員となり、同年下半期の粒選りがⒷ要員となっていることは面白い。

3 基準 Ⓐ要員には、軍隊の人事関係者、民主グループ員、特殊(本部、炊事、理髪、縫