第五章 異説・不当逮捕、立松事件のウラ側
大誤報で地に堕ちた悲劇のスター記者
三十年後に明かされた事件の真相
政治的思惑で立松を利用した河井検事
もしデマのネタモトを暴露していたら…
事件の後始末、スター記者時代の終わり
第六章 安藤組事件・最後の事件記者
ころがり込んできた指名手配犯人
犯人を旭川へ、サイは投げられた
発覚、そして辞職、逮捕、裁判へ…
いま「新聞記者のド根性」はいずこへ
あとがき
序に代えて 務臺没後の読売
第五章 異説・不当逮捕、立松事件のウラ側
大誤報で地に堕ちた悲劇のスター記者
三十年後に明かされた事件の真相
政治的思惑で立松を利用した河井検事
もしデマのネタモトを暴露していたら…
事件の後始末、スター記者時代の終わり
第六章 安藤組事件・最後の事件記者
ころがり込んできた指名手配犯人
犯人を旭川へ、サイは投げられた
発覚、そして辞職、逮捕、裁判へ…
いま「新聞記者のド根性」はいずこへ
あとがき
序に代えて 務臺没後の読売
つまり、売春汚職という、いままでの汚職のうちでも、もっとも汚い、といわれた事件で、読売に
大きくその名前が報道されれば、この二人の落選は、まず、間違いのないところだ。そして、そのそれぞれの選挙区に、安井、藤山の新人二人が、立候補する。
河井の狙いは、この新人二人の当選を期するにあった、というべきであろう。
伊藤栄樹・元検事総長らの、河井信太郎・法務省刑事課長へのガセネタ流しは、いわゆるマルスミメモのうちの、東京出身の九名の議員。そのうちの五人を、〝黒っぽい〟として流したものであろう。
それは、当時の関係者たちに取材した、本田靖春著「不当逮捕」に、描写されている通りであり、最後の河井宅への電話取材に、立ち合っていた、私の記憶の通りでもある。
つまり、〝黒っぽい〟五人のうちから、河井の判断で、宇都宮徳馬、福田篤泰両代議士が、「容疑濃くなる」(読売見出し)として立松和博記者にリークされたのである。
そしてそれは、私が、当時の政治情勢を調べてみると、安井誠一郎、藤山愛一郎という二人の大物新人の当選を期するため、東京二区と同七区とで、〝弱そうな二人〟を落とそうという、陰謀をめぐらせた、としか、判断できないのである。
もしデマのネタモトを暴露していたら…
伊藤は、その遺書「秋霜烈日」の、冒頭部分(63・5・10付第五回)で、河井についてこう書いている。造船疑獄の部分だ。
《…それにもまして、河井信太郎主任検事との、捜査観の相違とでもいうべきもの、それと、判事出
身の佐藤藤佐(さとう・とうすけ)検事総長の人のよさに、相当な不安を抱いていたのである。
河井検事は、たしかに不世出の捜査検事だったと思う。氏の、事件を〝カチ割って〟前進する迫力は、だれも及ばなかったし、また彼の調べを受けて、自白しない被疑者はいなかった。
しかし、これが唯一の欠点、といってよいと思うが、氏は、法律家とはいえなかった。法律を解釈するにあたって、無意識で捜査官に有利に、曲げてしまう傾向が見られた。
…佐藤検事総長は、まことに人柄のよい方であったが、もともと、裁判官の出身であったため、捜査会議の欠点を、十分ご存知なく強気の意見に引きずられがちであった。
全国からの応援検事を加えた、三十人以上の検事が、捜査に従事したこの事件の、節目節目の捜査会議では、まず、河井主任検事の強気の意見が開陳され、地方からの応援検事を筆頭に、次々と、これに同調する意見が述べられる。
慎重な見解は、東京プロパーの検事から述べられるが、その意見は、しばしば総長によって、無視されてしまった。会議において、トップの者は、原則として、消極意見を述べて、吟味をさせるべし、というのが、検事の社会の常識なのだが。
K参院議員の処分をめぐって、証拠の評価が分かれ、その取り調べにあたった、Y検事自身が涙を流して、起訴はむりだと主張し、私も及ばずながらこれを支持したのだが、圧倒的に大きい強気の意見は、起訴すべしとした。裁判の結果は、無罪。今でも、あの涙は忘れられない》
これを読み通してみると、伊藤は、「捜査観の相違」として、八年先輩の河井批判をしている。Y検
事の涙も、〝強気の意見イコオル河井の意見〟の然らしむるところだ、と怒っている。
これを読み通してみると、伊藤は、「捜査観の相違」として、八年先輩の河井批判をしている。Y検
事の涙も、〝強気の意見イコオル河井の意見〟の然らしむるところだ、と怒っている。
その造船疑獄の発端について、伊藤は、こう述べている。(5・9付第四回)
《検察権は、三権のうちの行政権に属する。だから、内閣がその行使について、国会に対して責任を負う。一方、検察権は、司法権と密接な関係にある。検察権の行使が、政党内閣の恣意(しい)によって、左右されることになれば、ひいては、司法権の作用が、ゆがめられることになる。
そこで、検察庁法は、具体的事件の処分に関する、法務大臣の指揮が実現されるか、どうかを、検事総長の判断にかからせたのである。多くの場合は、〝大物〟である検事総長と法務大臣との、話し合いによって解決するのだろうが、極端な場合、検事総長が職を賭して、大臣の指揮に反対する命令を、主任検事に下せば、大臣の意志は、無視されることになる。
法務大臣の検事総長に対する、具体的事件に関する指揮は、「指揮権発動」と、呼ばれる。歴代法務事務次官や、刑事局長の重要な使命の一つは、およそ、指揮権発動というような、事態が起きないように、事前に、十分の調整を行うこと、であるとされている。それにもかかわらず、指揮権が発動された、唯一の例が、造船疑獄事件である。
この指揮権発動は、捜査が次第に核心に迫り、昭和二十九年四月二十一日、検事総長が時の与党自由党の幹事長・衆議院議員佐藤栄作氏を、収賄容疑で逮捕したいと、大臣に請訓したときに、犬養法務大臣によってなされた》
伊藤は、この続きの部分で、ふたたび、河井の〝強気捜査〟を批判する。
《佐藤氏についての逮捕理由は、公表されていないが、日本造船工業会の幹部から、造船助成法案の有利な修正などの請託を受け、その謝礼として、一千百万円を自由党に供与させたという、『第三者収賄』の事実であったと思う。
指揮権発動の後、この事実では、党に対する政治献金みたいなもので、佐藤氏が私腹をこやしたわけでもなく、迫力がない。
他に佐藤氏が、故人の預金口座に入れた口が、いくつかわかっており、中には、これまで名前のあがってこない、海運会社からの分もあったのだから、どうして、そっちで逮捕しようと、しなかったのだろう。
今度の指揮権発動は、逮捕事実の選び方を間違えたことにも、よるものではあるまいかなどと思ったものであった》
この第四回、第五回を読めば、順不同ながらも「河井の強引捜査→総長の優柔不断→逮捕事実の間違い」という、伊藤の、遺書らしい痛烈な批判が、うかがえる。
佐藤総長には、さらにもう一項がある。
《…佐藤総長は、当面、必要最小限の指図をしたら、パッとお辞めになるべきだった、と思っている。
当時の新聞が、最高検検事全員が、総長に「われわれは総長と進退をともにする。どうか、検察全体のことを考えて、隠忍自重していただきたい」と、申し入れたと報じたが、最高検検事ともあろうものが、筋の違ったことをするものだと、苦々しく思ったことであった。…》
この、伊藤のガセネタ流しが、朝日紙上で活字になった時、本田靖春は、その紙面の末尾に、談話をのせている。
《これ(不当逮捕)を書いた時、私は問題の記事は、おそらく誤報だろう、と思っていたが、T記者のネタ元とみられた、法務省の幹部が、なぜ、ガセネタをもらしたのか、がわからなかった。しかし、今回の秋霜烈日で馬場次官の右腕だったこの幹部を、あぶり出すために、ガセネタ流しが仕組まれたことを初めて知った。仕組んだ人間は、岸本派といえぬまでも、非馬場派の立場ではないか。
検察内部にあった、権力闘争の恐ろしさを改めて、感じさせられた》
本田は司法記者の経験がないので、多分、朝日記者に、この原稿を見せられて(あるいは、話を聞かされて)、動転したのではあるまいか。また、この「秋霜烈日」を、最初から読んでいなかったのであろう。
第四回、第五回の「造船疑獄と指揮権」の項を読んでいれば、「検察内部の権力闘争の恐ろしさ」とは、捉えられないからである。彼は、朝日記者の取材に対して〝売れッ子〟らしく、当たりさわりのない「権力闘争」と答えたのであろう。
ナゼか、といえば、「不当逮捕」のなかで本田は、造船疑獄から、売春汚職に至る間の検察に対して、「検察は政治に屈服し」と、書いているからである。
つまり、「検察は政治に屈服した」という本田が、カン違いしているのであって、検察権は、行政権に属し、内閣が国会に対して、責任を負う、ということである。法務大臣、ひいては総理大臣の責任
のもとに、はじめて検察権の行使がある、ということである。
もし、法務大臣の指揮権に、検察として、検察権の行使に関して不満があるならば、検事総長は、スパッと辞任せよ。そして、次の検事総長もまた、改めて、請訓をして、これまた、指揮権を発動されたら、また辞任せよということだ。
こうして、検事総長の辞任が相次いだならば、もはや、主権者たる国民が、黙っていない、ということになる。
昭電事件から、造船疑獄にいたる六年ほどの間に、検察を代表しているかのような、河井検事の「法律家でない」ところから、いうなれば、検察が暴走した、ということだ。
それは、ひとえに、GHQ(占領軍総司令部)の内部対立に便乗して、〝権力の快感〟を覚えた、馬場—河井ラインの恣意、検察が政治を支配できるという、錯覚だった、ということである。
だからこそ、馬場、河井の影響力が、まったくなくなった時期の、ロッキード事件では田中、小佐野、児玉の三人が、いずれも、逮捕の憂き目を見ている。私は、これを、検察のバランス感覚とみている。
売春汚職では、立松が手に入れてきた、マルスミメモ(政治家の氏名の上に、済の字を丸で囲んだ印がついているメモ)と、立松が河井宅の夜討ちから帰ってきて、印をつけてきた国会議員の名前とが、まったく符号するところから、司法記者クラブ員である、滝沢と寿里が疑問を提起したのだが、「河井検事がネタ元」という一言で、クラブのキャップの私も、デスクも抗することができなかった
のである。
売春汚職では、立松が手に入れてきた、マルスミメモ(政治家の氏名の上に、済の字を丸で囲んだ印がついているメモ)と、立松が河井宅の夜討ちから帰ってきて、印をつけてきた国会議員の名前とが、まったく符号するところから、司法記者クラブ員である、滝沢と寿里が疑問を提起したのだが、「河井検事がネタ元」という一言で、クラブのキャップの私も、デスクも抗することができなかった
のである。
それにしても、立松が、河井よりも八年後輩の伊藤などの、ペエペエ検事と親しかったとは思えない。つまり、伊藤たちが、立松の戦線復帰を知り、それならば、河井にガセネタを流せば、必ず立松がひっかかる、とまでヨンでいたということも、信じられない。
当時、地検特捜部では、〝怪文書〟扱いをされていた、マルスミメモを、法務省刑事局に報告したことを、伊藤が、ガセネタ流しと称しているのではあるまいか。
それを、河井が恣意で立松にリークし、それを読売がまた、一大スクープ扱いで書き、二人の代議士が告訴し、名前の抜けていた高検の岸本検事長が捜査して、立松を逮捕するという〝筋書き〟を、一体、だれが予測し得たであろうか。
せいぜい、伊藤らが予測し得たことは、河井に流しておけば、どこかの社が動き出すだろうから、〝河井のリーク〟を確認できる、といった程度のものであった、と思う。
決して、〈権力闘争の恐ろしさ〉では、ないのである。
だが、この「立松事件」で、私もまた、被疑者調書を取られた。社の方針が、取材源は黙秘せよであったから、とうとう、河井の名前は出さなかった。しかし、「デマ記事のニュースソースは、保護する必要はない」と、主張したが、容れられなかった。
十月二十四日夕刻に、立松は逮捕状を執行されて、丸の内署の留置場に入った。ところが、読売新
聞は、翌二十五日の朝夕刊とも、この件については、一行も記事を書いていないし、他社も同様である。
というのは、社会部長を古い仲間の景山与志雄にゆずり、編集総務になっていた原四郎が、この「現職記者の名誉毀損逮捕」という未曾有の事件を、どう扱うべきかについて、時間を稼いでいたのであった。
前にも述べたが、本田靖春は読売記者時代に、司法クラブの経験がない。だから、一知半解の部分があるのである。宇都宮代議士は私に対して、「弁護士一任だった」と、のちに語ったのだから、弁護士は、地検の「検事某」を告訴するのに、検事正、検事長、検事総長の三人をも含めたら、一体、誰が、何処が捜査するのか、という着意をもつのが、当然だろう。
従って、監督責任の追及は、直接の検事正、最高の総長に絞るのが、妥当というものである。そしてまた、岸本検事長の指揮のもとで立松の逮捕にいたったのも、決して、本田のいうように、故意でも偶然でもない。
その年の初夏、司法クラブのキャップを命ぜられて、前任者の萩原記者と二人で、挨拶まわりをしていた時の、強烈な印象を、私はまだ忘れられない。
いまは、東京第一弁護士会所属弁護士だが、検事総長秘書官だったS検事が、私の手を固く握って、熱っぽく訴えたのである。
「お願いです。検察がダメになってしまうのです。これだけは、どうしても阻止しなければなりませ
ん。それには、記者のみなさんのご協力が必要なのです。ゼヒ、ゼヒとも、お願いいたします」
いまは、東京第一弁護士会所属弁護士だが、検事総長秘書官だったS検事が、私の手を固く握って、熱っぽく訴えたのである。
「お願いです。検察がダメになってしまうのです。これだけは、どうしても阻止しなければなりませ
ん。それには、記者のみなさんのご協力が必要なのです。ゼヒ、ゼヒとも、お願いいたします」
長身で美男のせいか、若く見えるその検事は、新任の読売キャップの手を握って、しばらくは離そうともしなかった。
私には、彼のアピールの趣旨が、よくのみこめず、困惑していた。廊下に出ると、萩原は、ニヤニヤしながらいった。
「オレにもそういってたから、お前にも、伝わっていると思ったんだろ。岸本サ…」
岸本検事長が、検事総長たらんとしていることを、〝阻止に協力〟せよ、ということであった——この一事をもってしても、当時の「検察の派閥対立」の、感情的な一面を、垣間見ることができよう。
「あれは立松君だろう」と、滝沢の顔を見るなり、こうぶっつけてきた天野特捜部長。そして、川口主任検事、軽部、野中、岡原と、当時の東京高検の主な検事たちは、ほとんどが岸本検事長の〝親分肌〟の人柄に魅せられて、いうなれば岸本派と呼ばれる人たちであった。そして、昭電事件以来、読売の立松のネタモトは河井検事だということは、もはや公知の事実だったのである。
そして、河井は、馬場派のコロシ屋、いまようにいえば、〝ヒットマン〟であった。
井本台吉総長、福田赳夫幹事長、池田正之輔代議士の三者が、新橋の「花蝶」で会談した、いわゆる「総長会食事件」(昭和四十三年)で、私が、「東京地検、検事某」を、国家公務員法百条違反で告発した時も、東京高検に告発状を出したのである。
この時のネタモトは、井本総長の失脚を狙った、河井検事であったと、判断されたが、告発状では、「検事某」とした。だから、宇都宮、福田両代議士の「検事某」も、東京高検が捜査を担当するのは、当然である。
天野特捜部長が、滝沢に一パツかませて、立松—河井ラインは、すでに明らかであったから、岸本派の天野が、のちに、二人揃って最高裁入りをした、岡原次席に連絡したぐらいは、容易に考えられよう。
川口は出張先から呼び戻されて、主任検事になる。まずは、キャップである私が、川口に被疑者調書を取られた。
「川口さん。この告訴されている『検事某』ですがね。この検事、ニュースソースとして実在し、立松に情報を出した、と仮定しますよネ。もし、私が、その検事の名前を知っていて、私の調書に、その名前が記載されたとしますと、高検は、どうするんですか?」
「もちろん、その検事を取り調べます」
「パクるんですか」
「供述如何で、任意でやるか、パクるかは、状況次第、ですよ」
「その検事が、相当な地位にあるとしたら」
「犯罪の容疑の有無であって、地位や身分は関係ないですよ」
「フーン…」
川口は出張先から呼び戻されて、主任検事になる。まずは、キャップである私が、川口に被疑者調書を取られた。
「川口さん。この告訴されている『検事某』ですがね。この検事、ニュースソースとして実在し、立松に情報を出した、と仮定しますよネ。もし、私が、その検事の名前を知っていて、私の調書に、その名前が記載されたとしますと、高検は、どうするんですか?」
「もちろん、その検事を取り調べます」
「パクるんですか」
「供述如何で、任意でやるか、パクるかは、状況次第、ですよ」
「その検事が、相当な地位にあるとしたら」
「犯罪の容疑の有無であって、地位や身分は関係ないですよ」
「フーン…」
「立松君のネタモト、知っているんでしょう」
「知ってますよ。でも、ニュースソースは秘匿せよという社命だから、いえません」
「話してくれないと、困るんだよなあ…」
そんなヤリトリのあと、私が質問したのは前述したように、高検が、その検事の名前をつかんだあとの、対応であった。「犯罪容疑の有無であって、地位や身分は関係なし」という、川口の表情は、私の眼を直視して、毅然としていた。
私は、「フーン」といいながら、河井検事だと供述したあとに、どんなにか、ドラマティックな〝事件の展開〟があることかと、考えると、話したい〝誘惑〟にかられた。
土井たか子発言ではないが、それこそ〝山が動く〟のである。河井検事は高検に調べられ、辞職を迫られるであろう。当時の馬場義続・法務事務次官も、辞任に追いこまれるかも知れない。岸本は総長になり、〈歴史〉が私の一言で変わるのである——この〝誘惑〟は、まさに、私の人生をも、一変させるようなものであった。
「その検事が、馬場派の検事だったら、川口さんにパクられて、もう、総崩れだネ。高検のメンバーが、このまま、最高検だ。ハハハおもしろいねぇ」
私は、川口の追求を、こんな与太を飛ばして、辛くも、振り切った。
やはり、竹内四郎、原四郎と、二人の対照的な性格の社会部長に、教えられ、育てられた、〈新聞記者・魂〉が、しっかりと根付いていたのだった。
世論形成のため、時間稼ぎをしていた原四郎が、各社と連帯して、高検の不当逮捕を非難する、ゴウゴウたるキャンペーンを捲き起こし、立松は、拘留がつかずに、二十七日午後、釈放された。
事件の後始末、スター記者時代の終わり
それ以後、舞台は、国会の法務委員会に移った。と同時に、読売にとっては、ニュースソースは検察筋と答えた小島編集局長の、法務委への証人喚問という、新しい展開を見せてきた。
国会の証人喚問となれば、証言拒否ができなくなる。被疑者には黙秘権があるが、証人には、黙秘権はない。しかも、そんなヤリトリに慣れていない、小島編集局長が喚問されたら、どんなことになるか。
実際のところ、マルスミメモによって、九名もの代議士に、〝容疑あり〟の記事を書いたのだから、これらの議員が、入れ換えで法務委員に登録してくると、局長の喚問が実現する可能性は、十分にある。
その報告をした時の、小島局長の周章狼狽ぶりは、見ていて、情ない思いであった。これが、読売新聞の編集局長か、と、呆れざるを得ない、ほどであった。
——そこに、正力松太郎代議士が登場する。
原四郎の〝努力〟で、立松記者は釈放された。と同時に、読売新聞あげての、高検・岸本検事長叩きが開始されたのだった。