亡き父に捧ぐ
目次
悲しき独立国民
黙って死んだ日本人
佐々木大尉とキスレンコ中佐
還らざる父
キング・オブ・マイズル
関東軍特機全滅せり
ウイロビー少将の顧問団
天皇島に上陸した「幻兵団」
パチンコのテイラー
秘密戦の宣戦布告
見えざる影におののく七万人
参院引揚委の証言台
亡き父に捧ぐ
目次
悲しき独立国民
黙って死んだ日本人
佐々木大尉とキスレンコ中佐
還らざる父
キング・オブ・マイズル
関東軍特機全滅せり
ウイロビー少将の顧問団
天皇島に上陸した「幻兵団」
パチンコのテイラー
秘密戦の宣戦布告
見えざる影におののく七万人
参院引揚委の証言台
キング・オブ・マイズル
一 関東軍特機全滅せり
日本陸軍の建軍以来の仮想敵国はロシヤであった。だからこそロシヤ——ソ連邦に関する研究と調査とは全く完璧であった。陸士出身の正規将校で親ソ的な人が多いのも、ソ連研究が徹底して知ソ派になり、それが戦後に親ソ派に転移していったものであろう。
この日本軍の対ソ作戦資料は、その全諜報網をあげて作られたもので、もちろんその中心になったものは、関東軍特務機関である。正式の名を関東軍情報部といい、本部をハルビンにおき軍総司令官に直属していた。
支部は、牡丹江、チチハル、ハイラル、黒河、ヂャムス、奉天、興安、通化、アパカ(内蒙)、承徳の十カ所にあり、本部がハルビン特機と称しているのと同様に、それぞれの地名を冠して
〇〇特機と呼ばれていた。
その創設はシベリヤ出兵直後の大正七年、林大八大尉がハルビンに乗りこんできたのがはじまりといわれるが、それから約三十年、三千名の人員をようして、対ソ諜報を行ってきたのだから、その成果である資料のほどもうなずけよう。
だが、この特務機関も、敗色ようやく決定的となってきた二十年八月一日、改編命令が出された。これが関東軍特警隊令である。憲兵と特機とを合併して、第一隊が牡丹江、第二隊がハルビン、第三隊が奉天におかれた。
同時にソ連参戦の意図を探るため「ハ」作業なる命令が出された。これは武装諜者で、強力偵察をしようというのである。
「ハ」作業用の謀略部隊として、吉林を基地に機動旅団が設けられた。そして、十八組の武装諜者が、国境線一帯に投入されたが、帰ってきたのはただ一組、一切があのソ連侵攻のドサクサの中で消えてしまったのであった。これが関東軍特機、最後の仕事であった。
だが、対ソ資料は関東軍だけではない。樺太の第五方面軍、駐蒙軍もまた、それぞれに特機を動員して、スパイ戦をくりひろげていたのだ。これらの全部を統轄していたのが、中央の参謀本部第二部である。
二十三年暮ごろ、LSとCICのセクショナリズムがひどすぎるので、この調整機関と広報をかねて、新しい組載として第五班ができた。この班の仕事はCIE(民間情報教育局)に属し、引揚者の更生教育の指導と報道関係とにあった。この長には函館からキヨシ・坂本(サカモト)という二世大尉が着任した。彼の発言はLSのリッチモンド少佐を押えるほどであった。広島県出身の二世で、中学は日本で卒業しているといわれ、非常に日本人的感覚のある二世らしからぬ二世であった。
第二次大戦に州兵師団の兵隊として軍隊に入ったが、ガダルカナルの戦闘で、攻撃進路の偵察、島嶼作戦の事前工作などで、抜群の功績をたて、さらに、ブーゲンビル、比島と転戦して任官した。
着任した坂本大尉は、アドバイザーを探して、舞鶴在住のシベリヤ帰り、元第三十五航空軍参謀志位正二少佐(52期)を採用した。これがのちにラストヴォロフ事件で自首してきた問題の人物である。
舞鶴の港を握っていたのは軍政部で、ポート・コマンダーは同部の若い少尉スターだった。彼はテイラーと同様に抜身の拳銃をブラ下げていたが、さっそうとしていて、キング・オブ・マイズルと呼ばれていた。引揚船が入港すると、星条旗をハタめかしたランチに乗って船にいった。
船長、パーサー、復員官らからナホトカの状況、引揚者の船内動向などを聞いて、下船の指示を下す。そして、彼自身は援護局の入口桟橋で引揚者を迎えて、『ミナサン、モウココデハダレモ〝ダワイ、ダワイ〟トイイマセン、アンシンシテクダサイ』と挨拶しては、〝ダワイ〟というロシヤ語に喜んでいた。
もう一つ書かねばならない組織がある。新しいアドバイザー・グループである。復員庁の顧問団がやめて、G—2から八名の日本人が派遣されてきたのである。その中にはハルピン特機育ちで、ハルピン保護院(監獄)長だった前田瑞穗元大佐(33期)、前川国雄元少佐(45期)らがおり、この八名のうち七名までが元軍人だった。
米国の秘密機関の詳細については、後のNYKビルの項にゆずって、このようにして東京駅前のNYKビルに直結する諜報基地〝マイズル〟は着々と整備された。まず引揚者は軍政部系統のHMで京都府職員の日本人の手によって下調査され、LSかCICに廻される。LSは一—四班まであり、前記八名の日本人を顧問として兵要地誌の調査をやる。ここは前期には言学部といったが、後期は連絡部と呼ばれていた。CICは飜訳部といいスパイ摘発専門。坂本(サカモト)大尉の第五班がその間の調整という分担だった。LSとCICには鉄条網が張られ、武装した米兵が立つというものものしさである。
しかし、終戦直後の対ソ資料収集でも、陸海空の三軍がそれぞれにソ連関係将校を呼んでは人材の奪い合いをしたという、セクショナリズムのはげしい米人たちである。これら各機関が、ここでも同様に引揚者の奪い合いで、自己の業務ばかりを主体として他を顧みないので、引揚者の帰郷出発が遅れたり、NYKビル送りの数の多少まで争うので、日本側の業務はしばしば混乱させられていた。