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迎えにきたジープ p.172-173 鹿地問題〝英文の怪文書〟

迎えにきたジープ p.172-173 Wataru Kaji says. "I was arrested during the walk. I was hit by several military person. I was handcuffed, blindfolded, and transported somewhere by car. I was hit on the knee with a stick in the car."
迎えにきたジープ p.172-173 Wataru Kaji says. “I was arrested during the walk. I was hit by several military person. I was handcuffed, blindfolded, and transported somewhere by car. I was hit on the knee with a stick in the car.”

さらにそれから一ヶ月後、一月二十九日の発信で、簡単に近況を報じて、『多分近日中に帰れると思います』という、前回と同じような書簡が、東京上落合の夫人宛配達されたが、それっきり音沙汰もなく九ヶ月という月日が経過した。

ところが、二十七年の総選挙も近づいた九月二十四日、大阪の国際新聞など一部の新聞に、〝英文の怪文書〟なるものが届けられて、一躍鹿地問題は、ジャーナリズムの表面に浮び上って来た。その全文は次の通りである。

作家並びに政治評論家として著名な鹿地亘氏は、一九五一年十一月二十五日以来、行方不明となっている。彼は手術をうけた後、神奈川県の鎌倉市に近い鵠沼で療養中であった。失踪当時は町の近在を、二十分間散歩する位にまで回復していた。そして彼は散歩の途中に行方不明になったのである。

しかし、本当に行方不明になったのではない。彼はワシントンに直結し、現在第一ホテルに宿泊中の米陸軍情報将校のG大佐に誘拐されたのだ。G大佐は中共のスパイという嫌疑で鹿地氏を捕えたが、彼は種々の反証をあげてこれを否認した。(中略)

鹿地氏は密告者によるねつ造された訴えで逮捕されたのである。密告者は、戦後アメリカから帰国した日本人牧師である。(中略)

逮捕後数週間、鹿地氏は非人道的で残忍な拷問を受けた。そして、一度野蛮な取扱いに抗議するために、便所でクレゾール液を呑んで自殺を企てたこともあった。

中共スパイとしての証拠を挙げることに失敗したので、G大佐は本年五月、遂に鹿地氏を釈放しようとした。

その時偶々日本に赴任して来たマーフィ大使は、鹿地氏の処置方法をG大佐に指示した。鹿地氏をアメリカのスパイとして日本共産党に入党さすべく、説得することになったのである。

この戦術転換の後、彼は〝賓客〟として取扱われるようになった。しかし嘆願や脅迫にも拘らず、彼はこれまでの凡ゆる提案を拒絶して来た。(下略)

夫人への手紙には、何者かに強制された作為が感じられ、ヘタクソな英文で綴った怪文書にも何か不自然さが感じられる。

ではこの間の消息を、鹿地氏自身の口から聞いてみることにしよう。

私は昨年十一月二十五日の夕食後の七時過ぎ、散歩中に逮捕された。場所は江ノ島鵠沼駅から藤沢に向って二百メートル位歩いたところで、偶々人通りがなかったが、前方から一台の乗用車が来て、ヘッドライトに眼がくらんだ一瞬、五、六人の制、私服の軍人に、ものも言わずに殴りつけられた。どういうことだか穏かに話してくれ、といったが英語で怒鳴られ、みぞおちを拳固で殴られ、手錠をはめられた上、白い布で眼かくしをされ自動車に担ぎこまれた。

車中二人の軍人に挾まれ、一時間以上かかって何処かへ運ばれた。その後で、名前を聞かれたが、知らないというと、棒のようなもので膝を殴りつけられた。何度もこれを繰り返された。

迎えにきたジープ p.184-185 『敵の手で敵を斃す』諜報謀略

迎えにきたジープ p.184-185 The Soviet Union learned from Mitsuhashi's report that Kaji was arrested by the US. So, the Soviet might have used Japanese public opinion to release Kaji and use it to boost anti-American sentiment.
迎えにきたジープ p.184-185 The Soviet Union learned from Mitsuhashi’s report that Kaji was arrested by the US. So, the Soviet might have used Japanese public opinion to release Kaji and use it to boost anti-American sentiment.

米国側には鹿地氏が米国スパイとして働いた記録があり、やはり裏切者への怒りが爆発した

のであろう。その頃には、米国側では〝処置〟として鹿地氏を殺すべく計画していたかも知れない。そして鹿地氏は、その米国側の企図を察知したのか、または他の理由で自殺(狂言?)を図った。

折よく肺病が再発したので各所を転々、殺すか、釈放するかを打合せ中、〝謀略のマーフィー〟といわれるマーフィ大使が着任、さらに利用価値があるかも知れないというので、たらい回しのまま時が経ってしまった。

またソ連側では、鹿地氏が消息を絶ったので、調べてみると(三橋のソ側への報告から?)米側に逮捕されたと分った。そこで、日本の世論を沸せて、鹿地氏を釈放させ、さらにこれを反米感情をたかめるのに利用したのではあるまいか。

それを証拠だてる有力な資料が前掲した怪文書である。この英文怪文書の正体は、いまだにつかめないのであるが、戦後、帝銀、三鷹、松川の怪事件にも登場しており、つねにその事件が米国の謀略であるという内容をもっている。

これらの文書が米側から流されたという判断は、その内容や起きることが予想される反響とから考えられないことである。すると左翼系から出たことになる。なぜか「アカハタ」にはこの好個のニュースが一言半句も掲載されなかったが。鹿地氏逮捕を知ったソ連側が、鹿地氏に

行われた虐待を、反米感情をかき立てる材料として、ヘタクソな英文に託して怪文書なるものを作成させ、バラまかせたことは容易に推測できる。

これは『敵の手で敵を斃す』という、諜報謀略の原則からも肯ける推測であろう。しかし、日本の治安当局は、これら四通の怪文書を入手して、その英文、用紙、タイプの癖などからその正体を突きとめることは出来なかった。

三 せせり出てきた敵役

鹿地事件における日本世論の硬化に驚いた米側では、ついに鹿地氏を釈放せざるを得ない破目に追いつめられた。

自らの不手際のため、鹿地問題でその虚をつかれた米国側としては、釈放に当って鹿地氏から、『私はソ連のスパイだった。この事件で米国に対しては賠償要求などしない』と、一札をとってもいたけれど、すでに鹿地氏を反米斗争の英雄として、祭り上げるお膳立ができているところへ放すのだから、鹿地事件をつぶす準備だけは忘れなかった。

すなわち、鹿地氏釈放の二日前ごろ、つまり十二月四、五日頃に、国警長官に対して、『三橋正雄(多分それはローマ字でミハシ・マサオとあったと思われる)というソ連引揚者のスパイがいる』旨を通告したのだ。

何故米国側が鹿地氏を釈放したか、その真意は分らないが、鹿地氏の言うように〝人民の力

で救われた〟かどうか、ともかく一般に鹿地失踪事件が騷がれてきたからとみることが正しいようだ。