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迎えにきたジープ p.184-185 『敵の手で敵を斃す』諜報謀略

迎えにきたジープ p.184-185 The Soviet Union learned from Mitsuhashi's report that Kaji was arrested by the US. So, the Soviet might have used Japanese public opinion to release Kaji and use it to boost anti-American sentiment.
迎えにきたジープ p.184-185 The Soviet Union learned from Mitsuhashi’s report that Kaji was arrested by the US. So, the Soviet might have used Japanese public opinion to release Kaji and use it to boost anti-American sentiment.

米国側には鹿地氏が米国スパイとして働いた記録があり、やはり裏切者への怒りが爆発した

のであろう。その頃には、米国側では〝処置〟として鹿地氏を殺すべく計画していたかも知れない。そして鹿地氏は、その米国側の企図を察知したのか、または他の理由で自殺(狂言?)を図った。

折よく肺病が再発したので各所を転々、殺すか、釈放するかを打合せ中、〝謀略のマーフィー〟といわれるマーフィ大使が着任、さらに利用価値があるかも知れないというので、たらい回しのまま時が経ってしまった。

またソ連側では、鹿地氏が消息を絶ったので、調べてみると(三橋のソ側への報告から?)米側に逮捕されたと分った。そこで、日本の世論を沸せて、鹿地氏を釈放させ、さらにこれを反米感情をたかめるのに利用したのではあるまいか。

それを証拠だてる有力な資料が前掲した怪文書である。この英文怪文書の正体は、いまだにつかめないのであるが、戦後、帝銀、三鷹、松川の怪事件にも登場しており、つねにその事件が米国の謀略であるという内容をもっている。

これらの文書が米側から流されたという判断は、その内容や起きることが予想される反響とから考えられないことである。すると左翼系から出たことになる。なぜか「アカハタ」にはこの好個のニュースが一言半句も掲載されなかったが。鹿地氏逮捕を知ったソ連側が、鹿地氏に

行われた虐待を、反米感情をかき立てる材料として、ヘタクソな英文に託して怪文書なるものを作成させ、バラまかせたことは容易に推測できる。

これは『敵の手で敵を斃す』という、諜報謀略の原則からも肯ける推測であろう。しかし、日本の治安当局は、これら四通の怪文書を入手して、その英文、用紙、タイプの癖などからその正体を突きとめることは出来なかった。

三 せせり出てきた敵役

鹿地事件における日本世論の硬化に驚いた米側では、ついに鹿地氏を釈放せざるを得ない破目に追いつめられた。

自らの不手際のため、鹿地問題でその虚をつかれた米国側としては、釈放に当って鹿地氏から、『私はソ連のスパイだった。この事件で米国に対しては賠償要求などしない』と、一札をとってもいたけれど、すでに鹿地氏を反米斗争の英雄として、祭り上げるお膳立ができているところへ放すのだから、鹿地事件をつぶす準備だけは忘れなかった。

すなわち、鹿地氏釈放の二日前ごろ、つまり十二月四、五日頃に、国警長官に対して、『三橋正雄(多分それはローマ字でミハシ・マサオとあったと思われる)というソ連引揚者のスパイがいる』旨を通告したのだ。

何故米国側が鹿地氏を釈放したか、その真意は分らないが、鹿地氏の言うように〝人民の力

で救われた〟かどうか、ともかく一般に鹿地失踪事件が騷がれてきたからとみることが正しいようだ。

迎えにきたジープ p.186-187 三橋の身柄までつけて国警に

迎えにきたジープ p186-187 The US side notified the National Rural Police that a Siberia repatriator, Masao Mihashi(Mitsuhashi), was a spy. However, the National Police were looking into Tadao Mihashi by mistake.
迎えにきたジープ p.186-187 The US side notified the National Rural Police that a Siberia repatriator, Masao Mihashi(Mitsuhashi), was a spy. However, the National Police were looking into Tadao Mihashi by mistake.

すなわち、鹿地氏釈放の二日前ごろ、つまり十二月四、五日頃に、国警長官に対して、『三橋正雄(多分それはローマ字でミハシ・マサオとあったと思われる)というソ連引揚者のスパイがいる』旨を通告したのだ。

何故米国側が鹿地氏を釈放したか、その真意は分らないが、鹿地氏の言うように〝人民の力

で救われた〟かどうか、ともかく一般に鹿地失踪事件が騷がれてきたからとみることが正しいようだ。

日本の独立後は、CICとCISとは対内的防諜に専念し、対外的防諜は国警が担当、その全般的な情況を、強化されたCIAがみるような仕掛けになっていたらしい。

そのためCICは、二十六年末頃から、今までの業務と資料とを国警に譲り渡す準備を始めていたし、国警もまた外事警察確立のため、ソ連引揚者の調査などを始めようとしていた。事実十月頃から「幻兵団」容疑者六千名の名簿を作りつつあった。

そこへ、米国側からこの通告である。経験も知識もなく「幻兵団」を大人の紙芝居位にしか考えていなかった当時の国警東京都本部では、ソ連スパイならアクチヴ(積極的共産分子)だろうと思ってさがしてみると、いた、いた!

三橋忠男という元軍曹、埼玉県の男だ。マサオとタダオだから、米国側が間違えたのだろうと思って、この男のことを調べ出したが、全くの別人なのだから、何が何だか分らない。

何故通告があったというかといえば、国警都本部では遅くも十二月五日に復員局へ行って、ミハシ某なる引揚者を調べている事実がある。また、ローマ字でというのは、漢字ならば間違えない「正雄」と「忠男」なのに、三橋忠男の名を持って帰っているのである。

そうこうするうちに、米国側が予想した通り、鹿地問題の火の手が上ってきた。米国側としては、鹿地事件が表面化すれば米諜報機関の内幕も曝露されるだろうから、喧嘩両成敗で、ソ連側の「幻兵団」も曝露させてやろうと思っていただろう。

ところが待てど暮せど国警は三橋事件を発表しない。一体何をしているんだ、と問合せてみたら、ナンと国警ではピント外れの男を追っかけて首を捻っている。今更ながら呆れて、九日頃再度三橋の詳しい資料を揃え、しかも『身の危険を感じて自首』してきたという、三橋の身柄までつけて国警に渡してやった。

この時の様子を二十八年一月十八日付朝日新聞はこう伝えている。

三橋は講和後、米CIA(中央情報局)のM氏からの指令で二重スパイの役割を果していた。鹿地問題が世間に騒がれるようになってから、三橋はM氏と度々打合せを行ったといい、昨年十二月八日夜(発表の三日前)にはM氏の来訪をうけ、『鹿地問題がうるさくなったので、君には気の毒だが、日本の警察へ出頭してもらわねばならなくなった』といわれ、当座の生活費二万五千円を渡された。
翌九日午後、三橋はM氏の指令通り警視庁表玄関付近をブラついた。すると、M氏からの連絡で張り込み中の国警都本部員が「職務質問」の形で三橋を警視庁に連行、同夜は留置場に泊められた。

国警では、こうしてやっとのことで、ソ連スパイ三橋の取調べをはじめたが、彼は実に協力

的にスラスラと一切を自供に及んだ。

迎えにきたジープ p.188-189 ソ連スパイ三橋の取調べ

迎えにきたジープ p.188-189 Masao Mitsuhashi signed a spy pledge at the Morshansk camp. After returning to Japan, he regularly made contact with Katsumi Sasaki, Wataru Kaji and others.
迎えにきたジープ p.188-189 Masao Mitsuhashi signed a spy pledge at the Morshansk camp. After returning to Japan, he regularly made contact with Katsumi Sasaki, Wataru Kaji and others.

国警では、こうしてやっとのことで、ソ連スパイ三橋の取調べをはじめたが、彼は実に協力

的にスラスラと一切を自供に及んだ。

上野の岩倉鉄道学校を卒業後、昭和十年に帝国電波会社に入り、十九年千葉の野戦重砲隊に召集され、続いて新京の関東軍固定通信隊司令部に転属、通信一等兵として無電技術を覚えた。

入ソしてからは、欧露マルシャンスク収容所にいたが、二十一年春に、〝モスクワから来た少佐〟に調べられた挙句、脅迫されてスパイ誓約書に署名した。

それから七月になって、モスクワ郊外にあるスパースクの特殊収容所に移された。ここは収容所というものの、実はスパイ学校で、各地から集められた連中が、無電、暗号、スパイなどの特殊技術を教えられるのだ。ここで約一年間、二十二年十月まで教育をうけた。

それから日本人将校と同道でハバロフスクに移され、病弱者として十二月三日舞鶴入港の朝嵐丸で帰国した。帰国の際、上野公園付近で、合言葉の男と連絡をとるように命ぜられた。

翌二十三年四月十七日、上野公園入口交番裏の石碑付近で、ソ連代表部員クリスタレフ氏とはじめて逢った。この男は無電技師だということだった。合言葉は不忍池のそばで、『この池には魚はいますか→戦時中はいましたが今はいません』というものだ。

それからは毎月一回、都内の各所でレポに逢い、無電機やら二、三万円の現金を受取った。レポは、三人のソ連人らしい男と日本人で、日本人として最初のレポは、二十四年三月から元駐ソ日本大使館付武官佐々木克己氏で、鹿地氏がレポになったのは二十六年五月からだった。

ところが二十四年春頃、東京駅前の郵船ビルに呼び出され、ソ連スパイとして追究をうけ遂に一切を自白して、逆スパイになることになった。それからは、レポの日時、人相、さらにソ連側から打電を命ぜられた暗号文などを、みんな米側に報告することになった。

二十六年十一月頃、米側から新しいレポとの連絡を報告するようにいわれ、鵠沼で逢うことを話したところ、そのレポ中に米側の係官がやって来てレポを逮捕してしまった。その後米側で写真をみせられ、その男がはじめて鹿地氏だと分った。

レポとの連絡方法は、指令された場所に行きレポと逢い、土中に埋められた送信用の暗号電文と現金を受取った。殆ど会話はしていない。都下北多摩郡へ移転してからは石神井公園や、自宅近くの稲荷神社脇の土中に暗号電文が埋められ、それは金属性のマッチ箱大の箱に入れてあった。

レンガがそこに置いてあれば、埋めてある知らせだった。こちらで受信したものはその代りに、箱へ入れて埋めていた。

さる六日(二十七年十二月)レンガは置いてあったが、暗号電文はなく、こちらが埋めて置いたのがそのままになっていた。そんなことは今までになく、自分が米側に協力していることが分ってしまったと思い、不安がつのり自首してきた。

この自供に基いて国警当局は、直ちに鵠沼をはじめ、都内十数カ所の現場検証を行った。そして、自供通りの現場をみて、自供は真実なりとの結論を下した。