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正力松太郎の死の後にくるもの p.002-003 目次 1~5

正力松太郎の死の後にくるもの p.002-003 目次
正力松太郎の死の後にくるもの p.002-003 目次

正力松太郎の死の後にくるもの——目次

1 正力さんと私(はじめに……)

銀座の朝に秋雨が……/正力〝社長〟の辞令

2 死の日のコラム休載

編集手帖なしの読売/正力なればこその「社主」

3 有限会社だった読売

悲願千人記者斬り/「畜生、辞めてやる!」の伝統/慄えあがった編集局長/五人の犯人〝生け捕り計画〟/社史にはない二度のスト/強まる「広報伝達紙」化/記者のド根性/紙面にクビをかける

4 〝務台教〟の興隆

朝・毎アカ証言の周辺/記事の魅力は五パーセント/読売の〝家庭の事情〟/務台あって の〝正力の読売〟/販売の神サマ復社す/七十三歳のブンヤ〝副社長〟/〝読売精神〟地を払うか/出向社員は〝冷飯〟組/正力〝法皇〟に対する本田〝天皇〟/〝アカイ〟という神話の朝日/封建制に守られる〝大朝日〟

5 正力コンツェルンの地すべり

正力代議士ついに引退す/報知新聞のド口沼闘争/伝説断絶の日本テレビ/〝務台教〟に 支えられる読売/小林副社長〝モウベン〟中/〝社長〟のいない大会社/新聞、週刊誌に追尾す

正力松太郎の死の後にくるもの p.126-127 根ッからの新聞人〝新聞屋〟の姿

正力松太郎の死の後にくるもの p.126-127 その一語一語にこもる闘魂、気魄は、とても、七十三歳の〝老副社長〟のイメージではない。ましてや、あの〝務台教〟伝説の、円満洒脱さなど、その片鱗すらうかがえなかった。
正力松太郎の死の後にくるもの p.126-127 その一語一語にこもる闘魂、気魄は、とても、七十三歳の〝老副社長〟のイメージではない。ましてや、あの〝務台教〟伝説の、円満洒脱さなど、その片鱗すらうかがえなかった。

さきに、原の「記者としての体質」はどうなったか、という疑問の提起をしておいた。実はそ

こに〝一犬実に吠えて、万犬虚を伝う〟と、評した所以があるのであって、新聞の体質が変ったにもかかわらず、記者としての体質は、古き良き時代そのままに変っていない、と私は考えている。原ばかりではない。

〝販売と業務の神様〟務台もまた、古き良き時代の〝神サマ〟であり、その〝神格〟はさらに上昇して、今や、〝務台教〟の御本尊として本堂の奥深く鎮座ましまして、販売の現況を知らないとまで、販売店主に指弾されているのである。これは、読売の一販売店主からの切々の訴えで、私もまた、はじめて知らされたことであった。

現場から〝遊離〟したといわれる、務台—原ラインによって、なおかつ、読売は着々と部数を伸ばし、〝日本一の発行部数の新聞〟という、正力社主の悲願へのコースを突っ走っている——この矛盾を何と説明できようか。

七十三歳の〝ブンヤ副社長〟

私はまず、務台代表を訪ねた。この小柄で柔和な、七十三歳の老副社長も、談「新聞論」に及

ぶと、一変して闘志みなぎる〝青年〟と化した。忙しく応接とデスクを往来しては、資料を示していう。

「確かに、もはや私は販売店を〝歩いて〟いないから、〝現場〟を知らないかも知れない。しかし、〝販売〟の何たるかは、今でも知っている」

若い。決然たる言葉であった。私は、次の言葉を待った——務台副社長の、激しく力強い言葉に、私は一瞬、我れと我が耳を疑ったのであった。

卒直にいって、私が読売記者であったころの務台専務と、「新聞論」やら、「販売政策論」などを、話題とすることは絶無であったし、面談の機会があったとしても、それは、本社モノ取材の指示か儀礼的会話にすぎなかったのである。今、こうして、「新聞論」を話題として会見してみると、その一語一語にこもる闘魂、気魄は、とても、七十三歳の〝老副社長〟のイメージではない。ましてや、あの〝務台教〟伝説の、円満洒脱さなど、その片鱗すらうかがえなかった。

そこにあるのは、根ッからの新聞人、いうなれば〝新聞屋〟の姿であった。

「六百万の大台? 馬鹿も休み休みいいなさい。読売だって、朝日だって、それどころではない。読売にとっては、打倒朝日の、朝日を追い越すという、ただそれだけの、大きな目標ですよ。朝日だって、死にもの狂いで、読売を寄せつけまいとする。両者共に、苦闘死闘の真最中だ。……六百万の大台競争などとは、まだ、遠い話だ」

正力松太郎の死の後にくるもの p.128-129 新聞の部数を論ずるならば

正力松太郎の死の後にくるもの p.128-129 四十四年二月現在の数字で、読売は五二七・二万。これに対し、朝、毎は、五六〇・〇万、四四五・一万という部数。実に、読売が三百四十万を伸ばしたのに対し、朝日百六十万、毎日六十万の増加にすぎない。
正力松太郎の死の後にくるもの p.128-129 四十四年二月現在の数字で、読売は五二七・二万。これに対し、朝、毎は、五六〇・〇万、四四五・一万という部数。実に、読売が三百四十万を伸ばしたのに対し、朝日百六十万、毎日六十万の増加にすぎない。

この言葉は正確ではないかも知れぬ。だが、雰囲気だけは間違いない。務台は、青年のような熱気のこもった態度で、ある意味では〝ヤクザッぽく〟さえ感じられる〝新聞屋言葉〟で、追いこみ切れない朝日との実数差を口惜しがっていた。

それはちょうど、私たちが、下山事件で、三鷹事件で、他社との抜いた抜かれたを口惜しがり、社の付近の小汚ないノミ屋で、歯をかみ鳴らしながら、ブンヤ言葉で語り合うのにも似ていた。務台はつづける。

「私は、昭和二十六年一月、武藤三徳常務のあとをうけて、読売に帰ってきた。その当時は朝刊二頁、一枚ペラの新聞の時代だった。たしか、昭和十七年春ごろから、新聞用紙が統制になり、販売は共販だった。

私が昭和四年以来の読売へもどってきて、(注。昭和二十年十二月、正力社長辞任=巣鴨へ収監されたため=とともに、務台も辞めた)数カ月、二十六年五月には、用紙の統制撤廃となり、二頁朝刊は四頁に、さらにその十月には、三社協定で夕刊二頁の朝夕刊セット販売へと進んだ。

新聞の部数を論ずるならば、統制のワクが外され、自由競争へと移った、昭和二十六年五月の三社の部数と、現在部数との比率を見てもらわねばならない」

当時の読売は、東京本社だけで、一八六・七万、朝日、毎日両社は東京、大阪、西部、中部四本社制で、合計、それぞれ、四〇〇・二万と三八三・七万。読売の倍以上の部数であった。

それから十八年を経た、四十四年二月現在の数字で、読売は中部を除く三本社制となり、五二七・二万。これに対し、朝、毎は四本社制のまま、五六〇・〇万、四四五・一万という部数である。実に、読売が三百四十万を伸ばしたのに対し、朝日百六十万、毎日六十万の増加にすぎない。(注。数字は読売販売局発行パンフレットによる)

前稿で紹介した業界紙「新聞展望」の、朝日と読売の実数差十五万というのは、読売が名古屋本社をもたないので、その差が除かれている数字だ。私の調べた、ABCレポートによる、三社の全部数は、朝日五六〇・七万、読売五二七・二万、毎日四五三・八万ということになり、朝日、読売の差は、三十三万五千部ということである。

けだし、読売はこの十八年間で、朝日の二倍強、毎日の六倍弱の部数の伸びを示し、かつては倍以上の開きをみせていた朝日に、わずか三十三万の差で迫っているのである。

——この驚異的な伸びの原因は何ですか?

「紙面が、つねに時代と大衆にマッチしていたこと。それと、販売店が努力をつづけてやまなかったこと——」

答は即座にハネ返ってきた。ソツのない、そしてまた、〝味〟のない答であった。

だが、務台のいわんとした答は、そんなものではなかったようである。

「朝日の五六〇万、これは押し紙(注。本社が販売店に押しつける部数)が多い。ある社などは、あ

えて社名を伏せますがネ。ABCレポートで、二十万部もの水増しをしているし、読売だけは、ホントの実販売部数です。私はABCの監査委員です。ですから、その部数を、承認しなかった。水増しのウソ部数を認めれば、ABCレポートに権威がなくなる。朝日の部数は確かだが、内容は、押し紙だ。ある社の水増しも、確証がつかめた——」

正力松太郎の死の後にくるもの p.130-131 岩淵辰雄は回想する

正力松太郎の死の後にくるもの p.130-131 この計画は失敗に終って、務台の復帰となる。私は務台にいった。『読売は、正力の〝モノ〟なのだから、正力に返してやるのが本当だ』と。務台も、もちろん賛成した。
正力松太郎の死の後にくるもの p.130-131 この計画は失敗に終って、務台の復帰となる。私は務台にいった。『読売は、正力の〝モノ〟なのだから、正力に返してやるのが本当だ』と。務台も、もちろん賛成した。

だが、務台のいわんとした答は、そんなものではなかったようである。

「朝日の五六〇万、これは押し紙(注。本社が販売店に押しつける部数)が多い。ある社などは、あ

えて社名を伏せますがネ。ABCレポートで、二十万部もの水増しをしているし、読売だけは、ホントの実販売部数です。私はABCの監査委員です。ですから、その部数を、承認しなかった。水増しのウソ部数を認めれば、ABCレポートに権威がなくなる。朝日の部数は確かだが、内容は、押し紙だ。ある社の水増しも、確証がつかめた——」

務台の話は、私が質問をさしはさむ余地すら与えず、とうとうとつづく。彼の脳裡には、もはや、毎日新聞のごときは、その存在すらない。

あるのは、大朝日五百六十万部のみであった。その差を、ジリジリと詰めて行く、冷酷なまでの〝販売の務台〟の姿であった。

正力松太郎。八十四歳。当時、熱海で静かに休んでいたが、彼の全生涯を打ちこんだ読売が、日本一の発行部数の新聞になることが、彼の夢であった。イヤ、「世界一の新聞」というべきであろうか。

正力の読売に賭けた夢のほどが、前述したテレビのクイズ「プラウダか読売か」の、寓話にしのばれるのであるが、今や、読売は、報知や福島民友などといった、系列紙の発行部数を加えなくとも、自前で「日本一」に迫りつつあるのだった。

そして、その〝正力の夢〟の完成は、もはや、務台に委ねられたというべきであろう。

「正力は、務台のただ者ならざる器を、見抜き、かつ恐れ、仲々枢機に参画させなかった時期も

あった」(40年3月20日「新聞情報」紙)見方も紹介した。評論家の耆宿(きしゅく)である岩淵辰雄は、馬場恒吾社長時代の読売で、招かれて主筆を数カ月つとめたことがあるが、彼もまた、そのような〝正力の不安〟を指摘する。

「安田庄司と武藤三徳とが組んだスクラムは、読売を正力から奪おうとした、一種のクーデターである。あの当時の金で五千万円を武藤は準備していた。正力が払いこめないのを見越して、増資しようというのである。この計画は失敗に終って、務台の復帰となる。私は務台にいった。『読売は、正力の〝モノ〟なのだから、正力に返してやるのが本当だ』と。務台も、もちろん賛成した。事実、あのころの正力は、非常に疑ぐり深くなっていて〝務台に読売を奪られる〟といった感じを持っていたようだ。しかし、務台はそんなケチな男じゃない」

と、岩淵は回想する。

「務台はただ一筋に読売の発展を祈念し、滅私奉公を信条として忠勤を励んできた。だから、務台光雄だけは(読売の重役商売ほどアホらしいものはなく、という前段をうけて)別格であったらしい」

と、前出の「新聞情報」紙もいっている。

私が、読売の驚異的な発展の理由を問うたのに対し、務台の即答をソツもなければ、味もないといったのは、この辺の〝今昔物語〟に由来しているのである。務台が、いわんとしていること は、「販売の何たるかを知っている」という務台の言葉である。

正力松太郎の死の後にくるもの p.132-133 敢闘に次ぐ敢闘の〝読売精神〟

正力松太郎の死の後にくるもの p.132-133 岩淵のあげる務台の功績の第一は、朝日、毎日という、関西商法の新聞販売方式の盲点を衝き、本社から直接に、その小売店を工作して、毎日系の小売店を大量に、読売系列に編入した、点にあるという。
正力松太郎の死の後にくるもの p.132-133 岩淵のあげる務台の功績の第一は、朝日、毎日という、関西商法の新聞販売方式の盲点を衝き、本社から直接に、その小売店を工作して、毎日系の小売店を大量に、読売系列に編入した、点にあるという。

私が、読売の驚異的な発展の理由を問うたのに対し、務台の即答をソツもなければ、味もないといったのは、この辺の〝今昔物語〟に由来しているのである。務台が、いわんとしていること

は、「販売の何たるかを知っている」という務台の言葉である。

「確かに、もはや、私は販売店を〝歩いて〟いないから、〝現場〟を知らないかも知れない。しかし、〝販売〟の何たるかは、今でも知っている」

昭和四年、務台は、正力に迎えられて、読売の販売部長となった。岩淵のあげる務台の功績の第一は、務台の入社後数年ののちに、朝日、毎日という、関西商法の新聞販売方式(注。一県ごとに大卸し新聞店があり、その下に小売店を置いた)の盲点を衝き、本社から直接に、その小売店を工作して、毎日系の小売店を大量に、読売系列に編入した、点にあるという。

これによって、読売は大きく伸びて、今日の販売店を組織し、さきにあげた驚異的数字の伸びを示すにいたるのだ。と同時に、これが、今日の〝務台教〟の基礎ともなっているのである。そして、今日まで、務台を一筋につらぬいてきたものこそ、敢闘に次ぐ敢闘の〝読売精神〟なのであった。

「八月二十九日には大手町の新社屋の地鎮祭があるし、銀行借入金は殖えこそすれ、減る状況ではないよ。二百億もの大仕事なのだから、それこそ、全社員がフンドシを締めてかかるべき、決戦の秋なのだ」

務台は、心に期するものがあるかのように、言葉を切って、しばし沈黙した。

毎日をふり切ってもはや相手とせず、朝日追いあげに執念を燃やす彼の表情は、まさに〝勝負

師・務台〟のそれであった。朝日制覇ののちの六百万の大台のせと、新社屋の完成こそ、務台が正力の知遇に報いる、最後の花道なのであろう。

〝読売精神〟地を払うか

四十四年八月中旬ころ、読売の全社員と、新聞関係者に、務台の個人名の一通の封書が郵送されてきた。印刷物なので、ここに全文を紹介しよう。

「読売復社の挨拶(昭和二十五年三月七日)掲載紙『新聞通信』の送付について」という見出しの印刷文の末尾は、「務台光雄(読売新聞社 代表取締役 副社長)」の個人名で、肩書は括弧内に小さくそえられている。

「前略、暑さ酷しい折柄ますますご清祥のこととお慶び申し上げます。降て小生儀、大正七年早大を卒業後、富士瓦斯紡績、郡山紡績を経て大正十二年から数年間、当時の報知新聞社で新聞の勉強をさせて頂き、昭和四年、正力社長のご好意により、読売新聞社に入社して今日に至っております。その間五十余年、公私、内外に亘り、いろいろのことがありましたが、日本にとり一番

大きな事件は第二次大戦と日本の敗戦であることは申すまでもありません。