三橋事件・昭和27年12月11日・参院外務委・斎藤昇国警長官の答弁」タグアーカイブ

最後の事件記者 p.224-225 私の「幻兵団」を大人の紙芝居と

最後の事件記者 p.224-225 読売新聞が〝幻兵団〟という、幻想的な呼び名をつけて、その編成や組織の一端をあばいたソ連の対日スパイ網は、逐次事件となって、その姿を現わしはじめた。
最後の事件記者 p.224-225 読売新聞が〝幻兵団〟という、幻想的な呼び名をつけて、その編成や組織の一端をあばいたソ連の対日スパイ網は、逐次事件となって、その姿を現わしはじめた。

三橋のスパイ勤務は、帰国から自首まで丸五年間、ソ側から百八万四千円、米側から六十六万

五千円、合計百七十四万九千円を得ていた。これを月給に直すと、二万九千円余でさほど高給でもない。しかし、五十六万八千五百円で自宅を新築したりしているから、技術者らしく冷静に割り切ったスパイだったようである。

三橋事件がまだ忘れられない、翌年の二十八年八月二日、北海道で関三次郎スパイ事件が起きた。これは幻兵団の変型である。樺太で、内務省系の国境警備隊に注目され、誓約してスパイとなり、非合法入国して、資金や乱数表などを残置してくるという任務だ。

この事件は、スパイを送りこむ船が、上陸地点を間違えたため発見されてしまったが、つづいて迎えにきたソ連船のダ捕という事件まで起きて、夏の夜の格好な話題になった。

この時、当局の中に、このソ連船を捕えるべきでなく、関が埋没した連絡文書や現金を掘り起しにくる、国内の潜伏スパイを捕えるべきだったとの意見もおきた。だが、実際問題としては、関が帰任して埋没地点を報告しなければ、国内にいる無電スパイは掘起しに現れないのだから、関のような低級な人物では、逆スパイになること(日本側に捕り、一切を自供しているにもかかわらず、無事任務を果したように、帰任して報告する)は、不可能だったろう。

はじめ、私の「幻兵団」を、〝大人の紙芝居〟と笑っていた当局は、三橋事件につぐ関事件

で、ようやく外事警察を再認識せざるを得なくなってきた。つまり、戦後に外事警祭がなくなってからは、その経験者を失ったことで、そのような著意を忘れていたのだが、「幻兵団」の警告によって、ようやく当局は外事警察要員の教養を考え出したのである。

そのためには、ソ連は素晴らしい教官だったのである。三橋事件では、投入スパイ、連絡スパイ、無電スパイの実在を教えられたし、関事件では、その他に潜伏スパイの存在を学んだのであった。

こうして、読売新聞が〝幻兵団〟という、幻想的な呼び名をつけて、その編成や組織の一端をあばいたソ連の対日スパイ網は、逐次事件となって、その姿を現わしはじめた。まぼろしのヴェールをずり落したのだった。実に、具体的ケースに先立つこと三年である。

当局では改めて「幻兵団」の研究にとりかかった。ソ連引揚者の再調査が行われはじめた。スパイ誓約者をチェックしようというのである。遅きにすぎた憾みはあるが、当局の体制が整っていなかったのだし、担当係官たちに、先見の明がなかったのだからやむを得ない。「幻兵団」の記事が、スパイの暗い運命に悩む人たちを、ヒューマニズムの見地から救おう、という、〝気晴らしの報告書〟の体裁をとったため、文中にかくれた警告的な意義を読みとれなかったのであろう。

最後の事件記者 p.226-227 記者の平常の勉強が問題

最後の事件記者 p.226-227 こうして基礎取材競争が終ってからというものは「幻兵団」のデータが揃っているだけに、もう全く私の独走だった。
最後の事件記者 p.226-227 こうして基礎取材競争が終ってからというものは「幻兵団」のデータが揃っているだけに、もう全く私の独走だった。

三橋事件の取材競争

三橋事件の取材競争は、斉藤国警長官の発言から、各社同時にはじまった。氏名を伏せて、東京郊外に住んでいるというだけだから、いわば、雲をつかむような話だが、どうにか、保谷の三橋正雄とだけは判った。この名前割り出しは、三橋某で朝日、読売、毎日の順序。フルネームが判ったのが、朝日がトップで、読売と毎日が同時であった。

次は保谷の住所である。これは日経、読売、毎日の順、ともかく十三日付朝刊の都内版には、各紙いずれも同じ歩調で出揃ったのである。十二日夜の保谷、田無一帯は、一社二、三台の車、合計二、三十台の車が、三橋の家を探しもとめて、東弃西走。そのヘッド・ライトが交錯して、大変美しい夜景だったというから、如何に凄まじい競争だったか判るだろう。

その後は、原稿を送る電話の争奪戦、さらに今度は留置されている警察の探しッくら。毛布を冠せて横顔すら見せない、三橋の写真の撮り競べと、オモチャ箱を引繰り返したような騒ぎだった。

だが、こうして基礎取材競争が終ってからというものは「幻兵団」のデータが揃っているだけに、もう全く私の独走だった。十三日の夕刊で早くも自供内容を全部スクープしてしまった。それは五年間も調べつづけて、ほとんど完全にデータを持っているものと、そうでないものとの違いである。

ここに、同じ〝事件〟であっても、刑事部の捜査一課事件の、殺人(コロシ)強盗(タタキ)などの、偶発的非組織的事件と、計画的、組織的事件との違いがある。同じ刑事部事件でも、捜査二課となると、やはりこのコロシ、タタキとは違って、記者の平常の勉強が問題になってくる。

この三橋事件当時の、記事審査日報、つまり社内の批評家の意見をひろってみると、「三橋の取調べの状況については、各紙マチマチで、毎日は(鹿地氏との関係はまだ取調べが進まず)とし、朝日は(当面鹿地との関連性について確証をつかむことに躍起になっている)と一段の小記事を扱っているにすぎないが、これに反し本紙は、三橋スパイを自供す、と彼が行ってきたスパイ行為の大部分の自供内容を抜き、特に問題の中心人物鹿地が藤沢で米軍に逮捕された時も、三橋とレポの鹿地が会うところを捕えられたのだと、重要な自供も入っているのは大特報だ。」

と、圧倒的なホメ方である。