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最後の事件記者 p.222-223 典型的な幻兵団のケース

最後の事件記者 p.222-223 そんな時に、当時の国警本部村井順警備課長だけは、礼をつくして「レクチュアしてくれ」といって来られた。
最後の事件記者 p.222-223 そんな時に、当時の国警本部村井順警備課長だけは、礼をつくして「レクチュアしてくれ」といって来られた。

従って、アメリカ側は幻兵団の記事で、自分たちの知らない幻を、さらに摘発しようと考えていたのに対し、全く何も知らない日本治安当局は、何の関心も示さなかった。日本側で知ってい

たのは、舞鶴CICにつながる顧問団の旧軍人グループと、援護局の関係職員ぐらいのもので、治安当局などは「あり得ることだ」程度だから、真剣に勉強しようという熱意なぞなかった。

そんな時に、当時の国警本部村井順警備課長だけは、礼をつくして「レクチュアしてくれ」といって来られた。千里の名馬が伯楽を得た感じだったので、私はさらにどんなに彼を徳としたことだろうか。

鹿地の不法監禁事件は、三橋を首の座にすえたことで、全く巧みにスリかえられて、スパイ事件の進展と共に、鹿地はすっかりカスんでしまった。

三橋事件こそ、典型的な幻兵団のケースだった。つづいて起った北海道の関三次郎事件、ラストボロフ事件、外務省官吏スパイ事件とに、生きてつながっている。

満州部隊から入ソ、マルシャンスク収容所で選抜されて、モスクワのスパイ学校入り。高尾という暗号名を与えられて誓約。個人教育、帰国して合言葉の連絡——すべてが典型的な幻兵団であった。

姿を現わしたスパイ網

三橋を操縦していたのは、軍情報部系統の極東軍情報部で、ラ中佐などの内務省系ではなかった。従ってレポに現れたのは、代表部記録係のクリスタレフ。二十四年四月に、十二日間にわたって、麻布の代表部で通信教育を行った時には、海軍武官室通訳のリヤザノフ(工作責任者)、経済顧問室技師のダビドフ、政治顧問室医師(二十九年九月にエカフェ会議代表で来日)のパベルの三人が立合っている。

二十三年四月十七日に、クリスタレフとのレポに成功してからは、大体月一回の割で会い、翌年八月二十日ごろまで続いていた。二十四年四月には無電機を渡され、ソ連本国との交信八十二回。同五月からは、元大本営報道部高級部員の佐々木克己大佐がレポとなり、二十五年十一月に自殺するまでのレポは五十七回、その後にレポが鹿地に交代して、二十六年六月から十一月までに、十五回にわたり電文を受取った。

この間の経過は、すべて米軍側の尾行、監視にあったので、米側は全く有力な資料を得ていたことになる。電文は七十語から百二十語の五ケタ乱数だったが、米軍では解読していたのだろう。

三橋のスパイ勤務は、帰国から自首まで丸五年間、ソ側から百八万四千円、米側から六十六万

五千円、合計百七十四万九千円を得ていた。これを月給に直すと、二万九千円余でさほど高給でもない。しかし、五十六万八千五百円で自宅を新築したりしているから、技術者らしく冷静に割り切ったスパイだったようである。

最後の事件記者 p.224-225 私の「幻兵団」を大人の紙芝居と

最後の事件記者 p.224-225 読売新聞が〝幻兵団〟という、幻想的な呼び名をつけて、その編成や組織の一端をあばいたソ連の対日スパイ網は、逐次事件となって、その姿を現わしはじめた。
最後の事件記者 p.224-225 読売新聞が〝幻兵団〟という、幻想的な呼び名をつけて、その編成や組織の一端をあばいたソ連の対日スパイ網は、逐次事件となって、その姿を現わしはじめた。

三橋のスパイ勤務は、帰国から自首まで丸五年間、ソ側から百八万四千円、米側から六十六万

五千円、合計百七十四万九千円を得ていた。これを月給に直すと、二万九千円余でさほど高給でもない。しかし、五十六万八千五百円で自宅を新築したりしているから、技術者らしく冷静に割り切ったスパイだったようである。

三橋事件がまだ忘れられない、翌年の二十八年八月二日、北海道で関三次郎スパイ事件が起きた。これは幻兵団の変型である。樺太で、内務省系の国境警備隊に注目され、誓約してスパイとなり、非合法入国して、資金や乱数表などを残置してくるという任務だ。

この事件は、スパイを送りこむ船が、上陸地点を間違えたため発見されてしまったが、つづいて迎えにきたソ連船のダ捕という事件まで起きて、夏の夜の格好な話題になった。

この時、当局の中に、このソ連船を捕えるべきでなく、関が埋没した連絡文書や現金を掘り起しにくる、国内の潜伏スパイを捕えるべきだったとの意見もおきた。だが、実際問題としては、関が帰任して埋没地点を報告しなければ、国内にいる無電スパイは掘起しに現れないのだから、関のような低級な人物では、逆スパイになること(日本側に捕り、一切を自供しているにもかかわらず、無事任務を果したように、帰任して報告する)は、不可能だったろう。

はじめ、私の「幻兵団」を、〝大人の紙芝居〟と笑っていた当局は、三橋事件につぐ関事件

で、ようやく外事警察を再認識せざるを得なくなってきた。つまり、戦後に外事警祭がなくなってからは、その経験者を失ったことで、そのような著意を忘れていたのだが、「幻兵団」の警告によって、ようやく当局は外事警察要員の教養を考え出したのである。

そのためには、ソ連は素晴らしい教官だったのである。三橋事件では、投入スパイ、連絡スパイ、無電スパイの実在を教えられたし、関事件では、その他に潜伏スパイの存在を学んだのであった。

こうして、読売新聞が〝幻兵団〟という、幻想的な呼び名をつけて、その編成や組織の一端をあばいたソ連の対日スパイ網は、逐次事件となって、その姿を現わしはじめた。まぼろしのヴェールをずり落したのだった。実に、具体的ケースに先立つこと三年である。

当局では改めて「幻兵団」の研究にとりかかった。ソ連引揚者の再調査が行われはじめた。スパイ誓約者をチェックしようというのである。遅きにすぎた憾みはあるが、当局の体制が整っていなかったのだし、担当係官たちに、先見の明がなかったのだからやむを得ない。「幻兵団」の記事が、スパイの暗い運命に悩む人たちを、ヒューマニズムの見地から救おう、という、〝気晴らしの報告書〟の体裁をとったため、文中にかくれた警告的な意義を読みとれなかったのであろう。