私は左翼的な立場の人々からは〝反動記者〟と罵られつづけてきた。それは、私が「真実」に対して眼をつむり、彼らの御用記者となって、そのアジに乗らなかったからである。
良い例をあげよう。私が取材し執筆したいわゆる〝反動的〟な記事の多くは、いろいろな抗議や取消要求を受けた。私はその人たちに進んで会い、その言分を聞いた。再調査もした。そ
して、抗議を蹴り、取消を拒んだ。その結果、私は〝反動記者〟〝デマ記者〟〝職業的ウソつき〟と、彼らの陣営にある新聞雑誌によって、口を極めて攻撃された。また告訴さえも受けたのであった。
だが一方、私は同様に多くの、いわゆる〝反米的〟もしくは〝反政府的〟な記事も、それが「真実」である限りは書いてきたのであった。すると彼らはこれを『…日付の読売によれば』というクレジットをつけたり、甚だしい時には自分達の取材によるかの如くクレジットもつけずに引用した。
「国際トバク団」がそうであり、菊池寛賞をもらった「東京租界」がそうであり、続き物の「生きかえる参謀本部」「朝目が覚めたらこうなっていた」などがそうである。
これは一体全体どうゆうことなのだろう。『われらは左右両翼の独裁思想に対して敢然と戦う。それは民主主義の敵であるからだ』という読売信条に従って、四百万の読売読者が、いや日本国民のすべてが、自由に考え論ずることができるようにと、そのおりおりの「真実」を伝えたにすぎない私なのである。
もう一つ例をあげよう。私が「幻兵団」のキャンペインをつづけていたころ、雑誌「真相」(二十五年四月、第四十号)は、〝幻兵団製造物語〟と題して、これがデッチあげのインチキだ
と攻撃してきたのであった。その中に私個人の経歴がでているが、その方のインチキ振りが甚だしい。引用すると、
三田和夫は東北きっての大地主で、岩手銀行、九〇銀行の取締をやっていた三田義正の孫で、読売盛岡支局から戦時中北支に派遣され、鍋山貞親の子分格でとび廻っていた。その頃、粗製ラン造で有名なサクラ兵器製造をやっていた岡元義人と知合い、いまは女房同志まで行ききするほどの親密な仲となっている。岡元らの持ち出す人民裁判事件をはじめ、反ソ引揚デマ工作にはかならず一役買っている。
と、いうものである。個人の履歴はただ一つしかない。このデタラメにいたっては、もう何もいう必要はあるまい。「真実」ほど大きな説得力をもっているものはない、などと、今更めいた言葉はやめて『御都合主義は止めなさい』と、再び私に加えられるであろうバリザンボウへの挨拶を送っておこう。
「真実」を伝えるということは、また同時に勇気がいることである。それによって不利益を受ける人たちの反撃は、実際に恐いのである。私も本音を吐くならば、この著を公けにすることはコワイのである。不安や恐怖を感ずるのである。だから、何も今更波風を立てなくとも、といった卑怯な妥協も頭に浮んでくる。
私のたった一つの記憶、数年前に父親が実の娘を犯し、そのため彼女は死を選んだという事
件があった。