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迎えにきたジープ p.140-141 戦犯中の極悪人本多は自由の身

迎えにきたジープ p.140-141 "I found out about that man. Fukuzo Honda, 43, a doctor of medicine. From the University of Tokyo Faculty of Medicine. The old occupation was a researcher at the Nagao laboratory of Wakamoto."
迎えにきたジープ p.140-141 ”I found out about that man. Fukuzo Honda, 43, a doctor of medicine. From the University of Tokyo Faculty of Medicine. The old occupation was a researcher at the Nagao laboratory of Wakamoto.”

ハルビン石井部隊の戦犯裁判の公判記録だ。大谷はパラパラとめくりながら、若干イヤな顔をした。ハルビン第二陸軍病院長として自分も関係していたことがあったからだ。証拠書類の項には当時の軍命令や各級部隊命令など、軍事極秘の書類の写真版が多数納められていた。

『ノルマ社長の小竹博助の友人で奥津久次郎というのが、三巴商事という貿易商社を丸ビルで開いている。今度はさらに二千冊のソ連図書が、正式にポンド決済で輸入されるから期待してい給え』

珍らしいキリコフの雑談を聞き流しながら、大谷はフトある一頁に眼を止めた。『……本多研究員ノ命令デ、私ハ〝丸太〟ヲ柱ニ縛リツケマシタ……』この本に、こうして戦犯中の極悪人として扱われている本多は、内地にいて自由の身となっており、何も知らず上官の命のままに動いた一衛生兵が、麗々しく戦犯の片棒をかつがせられている現実。

大谷はハルビン病院の院長室で、女医チェレグラワー女史の豊満な肉体のとりことなってから、生体解剖をきっかけに、ずるずると引ずり込まれた自分の姿を想って、さく然としたままキリコフに答えなかった。

五 朝鮮戦線に発生した奇病

勝村は冷たいコーヒーを注文して、チェリーの現れるのを待っていた。

『待った?』

明るい声がしてチェリーが立っている。人出入りの多いデパートの喫茶室では、この二人に注意する者もない。

『あの男のこと、分ったわ。本多福三、四十三才、医博、論文は何でも消化器系統の伝染病よ。何とかいったけど憶え切れなかった』

『学校は?』

『あ、そうそう。東大医学部。学士会名簿にも出ているから本当よ。職業は昔のだけど、ホラ〝いのもと〟という薬の社長のやっている長屋研究所員』

『やはり、本多に間違いなかったか』

『アラ、知っていたの? あの時は知らないといってたのに』

『イヤ、後で想い出したんだ。シベリヤで逢ったことがあったんだヨ』

『そお、で、私へのプレゼントは?』

チェリーは悲しい表情で勝村をみつめた。彼女の知っている限りのものを、男の仕事の役に立つならばと、何でも話していた。そしてその限りでは献身的な、殉教者的な深いよろこびを感ずるのだった。

しかし、彼女も逃れられない運命を背負っている。男に何か米国側の情報をもらう時、それが特に意識されて悲しかった。意識した二重スパイも、或は強制された逆スパイも、常にどちらかへ比重をおいているものだ。

赤い広場ー霞ヶ関 p.106-107 高毛礼の四人の愛人

赤い広場ー霞ヶ関 p.106-107 Kayoko Sata was a dollar broker from a Japanese prestigious nobles, and Yoshiko Tomioka was a enchantingly beautiful flower of foreigner society called "Madame Black Pearl".
赤い広場ー霞ヶ関 p.106-107 Kayoko Sata was a dollar broker from a Japanese prestigious nobles, and Yoshiko Tomioka was a enchantingly beautiful flower of foreigner society called “Madame Black Pearl”.

女と酒と金、そして賭博と麻薬――ラ氏手記でいうとおり、人間の弱点につけ込む手口は、ソ連諜報機関ではキチンと整理されて一つの学問にさえなっていたという。高毛礼氏の二週間にわたる尾行の結果、登場してきた四人の女性とは、一体どんな婦人たちであったろうか。

当局では彼女たちをいずれも高毛礼氏の愛人だとみているが、本人たちはいずれも否定しており、調室で出会ってたがいに気まずい思いをしたこともあるという。当局が参考人としてとった四人の供述調書に浮彫りされた、〝マタハリ〟の妖しい姿をみてみよう。

▽佐多可世子さん(三八)の場合

彼女は斜陽夫人である。明治の元勲伊藤博文公の息伊藤文吉男爵の長女として、大正五年東京で生れた。封建制日本の最上流階級の出身である。女子学習院卒業後、大阪医大学長佐多愛彦氏の三男輝雄氏に嫁した。

試みにこの一族の経歴を興信録によって紹介しよう。伊藤文吉男爵は従三位勲三等、貴族院議員、北樺太石油取締役、大東亜建設審議会委員、長男は東大独法科卒、長女は可世子さん、次女は日経連顧間三菱重工会長で白根松介氏の義兄にあたる人の長男に嫁ぎ、三女も同じく実業家、四女は伊藤博精公爵の弟に嫁いでいる。可世子さんの嫁いだ佐多家は父親がドイツ留学の医博で従四位勲三等、夫君輝雄氏は京大経済卒、弟は阪大教授の理博という家柄である。

戦後、夫君が事業に失取し、しかも糖尿病を患うにいたって、〝華族様のお姫さま〟は生活力を失った夫君と三児を抱えて〝生活〟に直面した。こうして彼女は街に出た。

名門の看板と高貴な冷たい美貌の彼女に慕いよる男たちは、殊に貴族に好奇心をもつアメリカ人に多かった。タバコ、キャンデー、衣類など、当時貨幣同様の価値をもっていた進駐軍物資を動かすことで、金が作れるということを、彼女はこの時にはじめて知ったのだった。

そして、高毛礼氏のドル関係捜査に彼女の名が浮んできたときには、彼女はすでにヤミ物資で何回か警察の門もくぐり、数寄屋橋マツダビル付近のバイ人たちの間でも有名な、いっぱしのドル・プローカーになっていた。

彼女はいま、「ラ事件には関係なし」とされて、処分保留のままでいるが、彼女をよく知る某氏は『佐多さんが、〝関係なし〟といわれるのは、彼女の門閥によるものだ』と、この間の微妙ないきさつを語っている。

▽富岡芳子さん(三六)の場合

彼女は十余年前までは、少くとも平凡な家庭の一主婦にすぎなかった。だが、最初の結婚の失敗が高毛礼氏と結び、さらに〝マダム黒真珠〟と呼ばれる外人社交界の妖花にまで変貎させてしまった。 昭和十六年一児を抱えて夫と別れた彼女は、新宿のあるバーに勤めだした。そこに現れたのが、モスクワから帰ってきた、北樺太石油社員の高毛礼氏だったのである。