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赤い広場ー霞ヶ関 p.086-087 スパイの手記は信じられるか?

赤い広場ー霞ヶ関 p.086-087 Lastvorov, Shoji Shii-Are Spy's Writings Believable?
赤い広場ー霞ヶ関 p.086-087 Lastvorov, Shoji Shii-Are Spy’s Writings Believable?

しかし、志位氏がラ氏の協力者だったということも、両者の自供以外には何も物証はないのである。もっともこの場合には、両者の自供がおおむね一致したのだから問題はないが、二十九年八月二十九日、読売がスクープした「志位自供書」および、週刊読売同年九月十二日号の「志位正二手記」を読んでみると、その事実を立証すべき第三者の、全く関与しない二人だけの環境下のことだけに、疑えばきりのない内容でもある。

もともと、スパイ事件というのは相対的事件であり、双方の利害が直接からみ、それが国家という大きな背景だけに、発表はつねに当事国の利益を守って行われざるを得ないのである。従って本当の真相は、永遠のナゾのままに秘められてしまうのであるし、関係者の数が少ないのだから、いよいよ分らなくなる。捜査当局である警視庁の発表も、刑事特別法という法律の素性から、日本と米国の共同の国家的利害という背景で行われるのだから、すべて事実とは限らないし、警視庁自身もその捜査経過や何かで発表したくないこともあろうし、関係者自身の利害や都合も配慮されるであろう。

従って公表された手記なるものも、常に真実ばかりであるとは限らない。某係官が文芸春秋のラ氏手記を評して、『スパイの手記がその大綱はともかく、細部にいたるまで常にその真相を明らかにするものではない、という常識がよく判る』と洩らしたように、その手記の内容で、数字とか名称とかが、意識的に伏せられるのは事実である。

大体からして『私はスパイだった』『私は〇〇機関員だった』と名乗り出るスパイなどというのには、余り大物がいないことも確かである。これはスパイという特殊な任務についた人物が、任務終了後も自ら自分自身を顕在化するということは、とりも直さず彼自身の任務や地位が、それほど重要ではなかったということでもある。

ラ氏にせよ、また西独で亡命したホフロフ大尉などのように、具体的な事件によって自らの意志に反して顕在化された人たちの手記はまた違うが、顕在化される要因もないのに名乗り出た例が極めて多い。

例えば、「風が私を連れてゆく―赤い日本人スパイの手記」(日本週報二十六年五月五日号)小森(筆者名は小森氏という紹介のみ)は有名な情報プローカーで、ついにニセ記者やニセ特審局員の寸借サギで逮捕された男であるし、「私はアメリカのスパイだった」(話二十六年九月号)小針延二郎氏は、読売の幻兵団キャンペインのキッカケとなってから、自分が英雄であるかの如き錯覚におち入り、情報ブローカーになって、ニセ記者の寸借サギという、小森某と同じケースを辿っている。

赤い広場ー霞ヶ関 p.092-093 眼下の路地で口笛が鳴った

赤い広場ー霞ヶ関 p.092-093 A man appeared, killed his voice and said coldly. "Совершаете самоубийством!(Commit suicide!)"
赤い広場ー霞ヶ関 p.092-093 A man appeared, killed his voice and said coldly. “Совершаете самоубийством!(Commit suicide!)”

ユーリは、はじめのうちには二、三人のソ連人と一緒にやって来たが、一年目頃からは、一人で車を飛ばして、連絡場所にやって来るようになった。

東京における、彼らソ連人の行動は、私にとってなかなか興味深いものであった。(中略)

二月三日の夕暮れどき、当時すでに幡ヶ谷のアパートに転居していた私は、二階の自室で節分の豆撤きしながら、何気なく窓を開けると、眼下の路地で口笛の鳴ったのを聞いた。

ピューッというソ連人独得のあの鋭い口笛だった。誰か連絡に来たのかも知れない、と咄嵯に考えて、私はオーバーを着込んで外へ出た。口笛のした方向に二、三間注意深く歩いて行くと、電柱の陰から一人の男が現われて、私に触れんばかりに近寄り、声を殺して冷たくいった。

『サヴェルシーチェ・サマウビーストヴォ!(自殺しろ)』

その男はそれだけいうと、そのまま甲州街道のほうに去ってしまった。

私はその瞬間、恐怖にとらわれて全身を硬ばらせた。が、その次には無性に癪にさわって、怒りの感情がこみ上ってくるのを覚えた。(中略)

二月四日の夜は都内の旅館に泊った。そして私の考えた結論、それは『私の運命を決めてゆくのはこの私自身だ』という平凡なことであった。五日の朝、私は東京警視庁の石段を登っていった。私の「独相撲」には終止符が打たれたのである。

この手記のうち間題となるのは、〝自殺せよ〟とささやいた男の件りである。ラ氏が失踪してからのち、彼の協力者であった志位氏のもとに、果して誰が何の目的で〝自殺せよ〟とささやく必要があるのであろうか。

抹殺する必要があるなら、ささやくよりも黙って殺すであろうし、脅かせば敵陣営内に逃げこむことは、その後の事実の通り明らかである。志位氏は私のこの疑間に対しても、『自分自身も何のため、このようにささやかれたか分らない』と答えて、その場の状況を、手記の通りに繰返すばかりであった。

捜査当局では、志位氏の供述によって、この〝ささやいた男〟を捜査した。志位氏は、この手記では「一人の男」とのみ書いているが、週刊読売には「一人の見知らぬ男―多分東洋人であったろう―」と書いているし、当局への供述では『最初のレポのジープの運転手だったような気もする』といっている。 そこで、当局では元ソ連代表部に関係のある人物すべてを網羅した、然るべきアルバムをみせて、一人一人の〝面通し〟をしたところ、『これではないか』と、彼が記憶を頼りに指摘した数人の人物は、いずれも当時は日本にいない人物だった。その結果、当局では志位氏の記憶が不正確なのか、或は故意に適当な人物の写真を示したのか、というようなアイマイな結論を出したが、当局もまたこの部分の信ぴょう性について、深い疑問を抱いたままでいる。