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雑誌『キング』p.117中段 幻兵団の全貌 ポルトウインで陶然

雑誌『キング』昭和25年5月号 p.117 中段
雑誌『キング』昭和25年5月号 p.117 中段

っていました。車から降りた二人は、ご持参のポルトウイン(ブドウ酒)やシャンペンスキーの栓を抜き、カルバザ(腸詰)をひろげて、私の方をみてニッコリ笑いながら、人差指と親指でポンとのどを弾くのです。これはソ連人の『一パイやるか』といったような仕種です。

何が何だか、夢のようで分かりませんでしたが、松林の静まり返った中で、捕虜になってからみたこともない御馳走で、宴会がはじまりました。わずか一、二杯のポルトウインで、すっかり陶然としたころ、少佐らしい背広の男がニコヤカに話を進めてきたのです。

『あなたは、絶対に否とはおっしゃいませんでしょう?』

私には、その時になってはじめて、マーシャの残していった、謎のような言葉が思い当たりました。

私は誓約書を書きました。運転手は、いつ、どこに消えたのか、姿がみえません。背広も、中尉も、一言も脅迫がましいことはいいま

迎えにきたジープ p.128-129 恐しい誓約書を書きました

迎えにきたジープ p.128-129 In Harbin, like every night, Communist Party military police squad with large pistol patrolled the dance halls. The purpose was to hunt for the Kuomintang special agency (kuo-tau).
迎えにきたジープ p.128-129 In Harbin, like every night, Communist Party military police squad with large pistol patrolled the dance halls. The purpose was to hunt for the Kuomintang special agency (kuo-tau).

ソ連潜入! 別れねばならなかった愛する和子への、一沫の哀愁を抱いて、彼は特殊任務のため、再び黒河に潜行した。渡河の機会を狙っているうちに、やがて終戦の日が来た。逃げる暇もないソ連軍の進撃に、彼は捕虜としてシベリヤに送られたのであった。

彼が青木大佐の部下として舞鶴で働らいていた、二十四年の九月ごろ、初の中共引揚として、大連集結の婦女子が高砂丸で帰ってきたことがある。その中に華やかな色どりをみせていたのは、中共の享楽追放でハルビンを締出されたダンサー・グループであった。

こうして、再び相見ることはないはずの、勝村と和子はめぐり逢った。解逅の感激はロマンチックであったが、十年近い歳月の流れという現実はきびしかった。

長い長い抱擁と涙ののち、鋭く勝村に問いつめられて、いまはチェリーと名乗る和子は、その赤い密命にのろわれた数奇な運命を語った。

『覚悟はしていたものの、やはり、あなたが憲兵に連れていかれてからは、一月余りも毎夜泣き通しでした……

野獣のようなソ軍を防ぐために、進んでシルクローズのダンサーになりました。これがそもそもの悪夢の始まりだったのです。ソ連兵が去り、国民党が中共に追い出されて、どうやら秩序が回復しかけてきたころです。

中共の享楽追放は、ハルビンの街のネオンを一つ消し、二つ消し、重税と厳重な取締りとで、私たちの回りにもヒシヒシと迫ってきました。

毎晩のように、何回となく、木のケースに入れ長い飾り紐をつけた大型拳銃を、ブラブラさせながら、五人、十人と隊を組んだ中共の執法隊が廻ってくるのです。

第一の目的は国特(クオトオ)狩り、つまり国民党特務を摘発しようというのです。そのため、私たちには密告のノルマが課されたほどです。

第二の目的は課税です。踊っている中国人は住所、氏名、職業を調べられ、果して遊ぶだけの正規な収入があるのか、不正な金ではないかとニラまれ、それだけ収入があれば遊ぶ余裕があるとして、それだけ重税を課せられるのです』

和子は苦しい想い出に眉をしかめた。

『こうしてお客が減り、私たちの生活が苦しくなってきたとき、ソ連の政治将校のイワノフスキーが足繁く通いはじめました。やがて、私たちを身動きのならない羽目におとしこんで、スパイになるようにと脅迫するのです。

身体を投げ出して逃れようとした人もありました。けれども無駄でした。汚されたうえに更に脅迫が続くのです。一人落ち、二人承知し、次々に恐しい誓約書を書いてゆきました。そし

て私もとうとうその一人になりました。

最後の事件記者 p.130-131 命令を与えられたスパイ

最後の事件記者 p.130-131 誓約書を書いたことは、果して正しいことだろうか。許されることだろうか。弱すぎはしなかっただろうか。
最後の事件記者 p.130-131 誓約書を書いたことは、果して正しいことだろうか。許されることだろうか。弱すぎはしなかっただろうか。

ソ連人たちは、エヌカーの何者であるかを良く知っている。兄弟が、友人が、何の断りもなく、自分の周囲から姿を消してしまう事実を、その眼で見、その耳で聞いている。私にも、エヌカーの、そしてソ連の恐しさは、十分すぎるほどに判っているのだ。

——これは同胞を売ることだ。不当にも捕虜になり、この生き地獄の中で、私は他人を犠牲にしても、生きのびねばならないのか!

——或は、私だけ先に日本へ帰れるかもしれない。だが、それもこの命令で認められればの話だ。

——次の命令を背負ってのダモイ(帰国)か。私の名前は、間違いなく復員名簿にのるだろうが、その代りに、永遠に名前ののらない人もできるのだ。

——私は末男で独身ではあるが、その人には妻や子があるのではあるまいか。

——誓約書を書いたことは、果して正しいことだろうか。許されることだろうか。弱すぎはしなかっただろうか。

——だが待て、しかし、一カ月の期限は、すでに命令されていることなのだ……。

——ハイと答えたのは当然のことなのだ。人間として、当然……。イヤ、人間として果して当然だろうか?

——大体からして、無条件降伏して、武装をといた軍隊を捕虜にしたのは国際法違反じゃないか。待て、そんなことより、死の恐怖と引替えに、スパイを命ずるなんて、人間に対する最大の侮辱だ。

——そんなことを今更、いってもはじまらない。現実のオレは命令を与えられたスパイじゃないか。

私はバラツキ(兵舎)に帰ってきて、例のオカイコ棚に身を横たえたが、もちろん寝つかれるはずもなかった。転々として思い悩んでいるうちに、ラッパが鳴っている。

『プープー、プープー』

哀愁を誘う、幽かなラッパの音が、遠くの方で深夜三番手作業の集合を知らせている。吹雪はやんだけれども、寒さのますますつのってくる夜だった。

p55上 わが名は「悪徳記者」 人を信じる信念

p55上 わが名は「悪徳記者」―事件記者と犯罪の間―三田和夫 1958 私の部隊はシベリアに送られたが、その軍隊と捕虜の生活の中から、人を信ずるという信念が私に生れてきた。

私は答えた。『棒に振った? グレン隊と心中した? 飛んでもない! オレは棒に振ったり、心中したなんて思ってみたこともないよ』と。

私は自分の仕事に責任を持ったのである。私とて、大好きな読売新聞を、こんな形で去りたいと願ったことはない。もちろん、胸は張り裂けんばかりに口惜しいし、残念である。

人を信じるという信念

昭和十八年の秋、私は読売新聞に入り、すぐ社会部に配属された。やがて出征、そして終戦。私の部隊は武装解除されてシベリアに送られたが、その軍隊と捕虜の生活の中から、人を信ずるという信念が私に生れてきた。今度の事件で、全く何の関係もないのに、事件の渦中に捲きこんでしまった人、塚原勝太郎氏はこの地獄の中で私の大隊長だった人である。私は彼を信じ、彼もまた私を信じて、普通ならば叛乱でも起きそうな、〝魔のシトウリナヤ炭坑〟の奴れい労働を乗り切ったのである。

細い坑木をつぶしてしまう落盤、たちこめる悪ガス、泥ねいの坑床、肩で押し出す一トン積の炭車、ボタの多い炭層――こんな悪条件の中で、「スターリン・プリカザール」(スターリンの命令だ)と、新五カ年計画による過重なノルマを強制される。もちろん、栄養失調の日本人に、そのノルマが遂行できる訳はなかった。そのたびごとに、塚原さんは大隊長としての責任罰で、土牢にブチ込まれた。寒暖計温度零下五十二度という土地で、一日に黒パン一枚、水一ぱいしか与えられない土牢である。こんな環境から生れた、人間の相互信頼の気持である。