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読売梁山泊の記者たち p.014-015 中央に児玉右側に渡辺恒雄

読売梁山泊の記者たち p.014-015 児玉邸の二階。中央に児玉、右側に読売政治部記者・渡辺恒雄と、彼が連れてきた中曾根康弘。緒方に一足遅れて、読売経済部記者・氏家斎一郎と、その同伴者、電源開発副総裁・大堀弘が左側に。児玉がいった。「ウン、これで役者は全部揃った。金は持ってきたな。」
読売梁山泊の記者たち p.014-015 児玉邸の二階。中央に児玉、右側に読売政治部記者・渡辺恒雄と、彼が連れてきた中曾根康弘。緒方に一足遅れて、読売経済部記者・氏家斎一郎と、その同伴者、電源開発副総裁・大堀弘が左側に。児玉がいった。「ウン、これで役者は全部揃った。金は持ってきたな。」

その話も終わらないうちに、ドアをあけて、池島が入ってきた。

「オイ、三田クン、キミは五中だナ」

「ハイ、十六回卒業です」

「オレは、第一回、先輩だよ」

「ハイ、お目にかかるのは初めてですが、読売の竹内社会部長も第一回卒ですので、お名前は存じあげてました」

「ウン、原稿はオモシロイけれど、社長としての、オレの頼みがあるんだ。あの、児玉誉士夫のことを書いた部分が、三十枚あるんだ。この部分をオレに免じて、カットしてくれよ」

「……」

「ナ、いいだろう?」

「ハ、ハイ」

私は、読売記者のカンバンを外してからの、第一回の作品で、早くも、新聞社と雑誌社の違いに、直面したのだった。…が、内心、池島の話のもっていき方のウマさに、驚いていた。

「アノ部分も載せたいけれど、オレに面会を求めてくる連中が、ウルサイんだよ」

そして、「財界」誌。さらに、「現代の眼」誌…。私が書く時事モノは、媒体各社でトラブルが続出した。ホントウのことを書けば、モメるのだ。

…そして私は、ついに、雑誌に原稿を書くことに、限界を感じていた。自分がライターであり、エディターであり、パブリッシャーであること…それ以外に、真実は書けない、と。

そうして、私は「正論新聞」の創刊を考えた。紙面の目玉は、児玉キャンペーン。昭和四十一年の〝黒い霧〟解散のころ、児玉の勢力の絶頂時代に、まさに、蟷螂(とうろう)の斧を振るわんとしているのだった。

その第四号。昭和四十二年八月一日付で「九頭竜ダム疑惑」を取り上げた。水没補償問題で、政治家を渡り歩いていた、緒方克行という男(のちに、「権力の陰謀」という著書を出して、真相をブチまけた)に出会って、詳しい話を聞いたからだ。

十二月二十七日、児玉から緒方に電話があって、「話のメドがついたから現金一千万円を持ってこい」という。

児玉邸の二階。中央に児玉、右側に読売政治部記者・渡辺恒雄と、彼が連れてきた中曾根康弘。

緒方に一足遅れて、読売経済部記者・氏家斎一郎と、その同伴者、電源開発副総裁・大堀弘が左側に。児玉がいった。

「ウン、これで役者は全部揃った。金は持ってきたな。(一千万円のうちから、三百万円を取り出し)この分はこの男(渡辺を指した)の関係している、弘文堂という出版社の株式にするからな」

緒方の話を聞いていて、私は考えこんでいた。渡辺も氏家も、交際はなかったものの、顔見知りの仲である。果たして、書いたものか、どうか。私情ではなくとも、いきなり背後からバラリ、ズンと斬れるものではない。

妙案が浮かんだ。かつての社会部長で、七年間もその下で仕事をした原四郎が、二人の上司で編集局長である。

「そうだ。原チンに下駄を預けよう」

読売に原を訪ね、「九頭竜ダムを取材していたら、渡辺と氏家の名前が出てきたんです」

緒方の話を詳しく伝える間、原は黙って聞いていた。聞き終わって、

「お前、その話はホントか?」

「部長、イヤ、局長。あなたは七年間も使っていた私の、取材力を疑うんですか。ホントか、はないでしょう!」

しばらくの沈黙ののち、原は「本人たちの話を聞いてからにしよう」と、その日の結論を出した。

読売梁山泊の記者たち p.016-017 傲岸不遜な渡辺も、鞠躬如

読売梁山泊の記者たち p.016-017 鞠躬如(きっきゅうじょ)として舞台に登場してきた。もちろん、「オレが総理にしてやった」と、豪語する渡辺である。現職総理の中曾根ごときに〝鞠躬如〟するのではない。務臺に対してである。
読売梁山泊の記者たち p.016-017 鞠躬如(きっきゅうじょ)として舞台に登場してきた。もちろん、「オレが総理にしてやった」と、豪語する渡辺である。現職総理の中曾根ごときに〝鞠躬如〟するのではない。務臺に対してである。

しばらくの沈黙ののち、原は「本人たちの話を聞いてからにしよう」と、その日の結論を出した。

その夜、渡辺から電話がきた。

「局長に呼ばれて、叱られたよ。ともかく名前だけはカンベンしてよ。明日、逢いたいんだ。中曾根にも会ってくださいよ。将来、総理になる男だから知っていてソンはないよ」

翌日、約束の場所にいってみると、氏家がきていた。

「ナベさんは、仕事でどうしても来られないんです。局長には、『お前たち同じカマの飯を食った仲だから、お前たちで片づけろ』といわれました。

で、ともかく中曾根に会って、彼の話を聞いてやってよ。知っておいて悪い男じゃないんだから」

「中曾根に、どんな質問をしてもよいというなら、会ってもいいよ」

原に会った時のフンイキや、お前たちで片づけろ、という返事など、私はやはり実名は出せないナと、そう考えていたので、中曾根会見を承知した。その話は省略するが、いかにも、中曾根らしい返事だった。

この時以来、渡辺、氏家の二人三脚は、東大以来つづいているのだ、と感じていた。

だが、昭和四十九年名簿でみると、氏家は一等部長の経済部長、渡辺は三等部長の解説部長。昭和五十年には、氏家は広告局長、渡辺は編集局長の下の五番目のドンジリ局次長。

昭和五十二年では氏家が取締役広告局長、渡辺はやっと、編集局長の次の次の編集総務である。氏家にドンドン先を越されているのだから、おもしろかろうハズがない。

昭和五十七年では氏家の名前がない。日本テレビの専務に出ていった時の挨拶が、冒頭のアイ・シャル・リターンで、読売に帰ってくるぞ、ということだ。

渡辺はこの時、務臺代取会長から数えて、八人目の常務・論説委員長。先輩の編集総務だった水上達也は、渡辺の次の次で、ヒラ取・編集局長だ。

その二年後――昭和五十九年に、日本プロ野球五十年、すなわち、巨人軍の五十周年記念パーティが、ホテル・ニューオータニで盛大に催された。

専務取締役・主筆・論説委員長になって、六番目に栄進していた渡辺が、ファンファーレとともに、時の総理大臣・中曾根康弘を先導して、鞠躬如(きっきゅうじょ)として舞台に登場してきた。待ち受けているのは、代表取締役・名誉会長の務臺光雄。

わざわざ、事典をひいて、〝鞠躬如〟という言葉を使ったのは、「身をかがめ、恐れ慎んでいるさま」(新潮国語辞典)そのままだったからである。

もちろん、「オレが総理にしてやった」と、豪語する渡辺である。現職総理の中曾根ごときに〝鞠躬如〟するのではない。務臺に対してである。

この年の名簿が、手許にないのだが、昭和六十年では、務臺の肩書は代取・名誉会長になっている。多分、この五十年パーティの時も、ひとたび剥がれた代取を、もう取り戻していた、と思う。つまり、あの傲岸不遜な渡辺も、務臺の前では、〝鞠躬如〟だったのである。

かつて、読売新聞では、ヒラの政治部記者・藤尾正行が、傲岸不遜の代表であった。その頃、小田

急梅ケ丘駅で、時の政治部長・古田徳次郎と藤尾、そして私の三人が、朝一緒になったことがある。