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正力松太郎の死の後にくるもの p.002-003 目次 1~5

正力松太郎の死の後にくるもの p.002-003 目次
正力松太郎の死の後にくるもの p.002-003 目次

正力松太郎の死の後にくるもの——目次

1 正力さんと私(はじめに……)

銀座の朝に秋雨が……/正力〝社長〟の辞令

2 死の日のコラム休載

編集手帖なしの読売/正力なればこその「社主」

3 有限会社だった読売

悲願千人記者斬り/「畜生、辞めてやる!」の伝統/慄えあがった編集局長/五人の犯人〝生け捕り計画〟/社史にはない二度のスト/強まる「広報伝達紙」化/記者のド根性/紙面にクビをかける

4 〝務台教〟の興隆

朝・毎アカ証言の周辺/記事の魅力は五パーセント/読売の〝家庭の事情〟/務台あって の〝正力の読売〟/販売の神サマ復社す/七十三歳のブンヤ〝副社長〟/〝読売精神〟地を払うか/出向社員は〝冷飯〟組/正力〝法皇〟に対する本田〝天皇〟/〝アカイ〟という神話の朝日/封建制に守られる〝大朝日〟

5 正力コンツェルンの地すべり

正力代議士ついに引退す/報知新聞のド口沼闘争/伝説断絶の日本テレビ/〝務台教〟に 支えられる読売/小林副社長〝モウベン〟中/〝社長〟のいない大会社/新聞、週刊誌に追尾す

正力松太郎の死の後にくるもの p.028-029 日本の新聞は戦争によって発展

正力松太郎の死の後にくるもの p.028-029 戦時中の占領地のために、朝日の昭南(シンガポール)新聞、毎日のマニラ新聞と並んで、読売はビルマ新聞の経営、育成を軍から委託されて、大新聞に次ぐ社会的評価が与えられた。
正力松太郎の死の後にくるもの p.028-029 戦時中の占領地のために、朝日の昭南(シンガポール)新聞、毎日のマニラ新聞と並んで、読売はビルマ新聞の経営、育成を軍から委託されて、大新聞に次ぐ社会的評価が与えられた。

そしてそれと同時に、「三大紙」時代から「二大紙」時代へと移行していたのであった。 戦後の昭和二十年代の前半ごろまで、二大紙といえば、朝日新聞と毎日新聞をさしていた ものである。

昭和二十七年十一月、読売新聞が全株を持って、大阪読売新聞社が設立され、翌年四月には、夕刊をも発行するにいたって、朝日、毎日、読売の三大紙時代となるのである。そしていま、新聞関係者たちの間で語られる「二大紙」とは、凋落の毎日と躍進の読売とが入れ替って、朝日と読売の対立する二大紙時代のことである。

正力なればこその「社主」

ここで、三社の簡単な社史をべっ見しなければなるまい。

朝日新聞社は資本金二億八千万円。大阪、東京、西部(小倉)、名古屋の四本社、北海道支社。明治十二年大阪で第一号創刊。同二十一年「めざまし新聞」を買収して、「東京朝日新聞」として東京進出。昭和十年、西部、名古屋両本社設置、昭和十五年、現題号に統一。大株主は、村山長挙、一二%、村山於藤、一一・三%、村山美知子、八・六%、村山富美子、八・六%、(村山一族合計四〇・五%)、上野精一、一三・八%、上野淳一、五・七%、(上野一族合計一九・五%)

となり、六氏六〇%を占める。この数字は、私の手許の資料で昭和三十五年以来変っていない。

毎日新聞社は資本金十八億円。大阪、東京、西部(門司)、中部(名古屋)の四本社。明治十五年、日本憲政党新聞として大阪で創刊、明治二十一年大阪毎日新聞と改題(朝日の東京朝日発刊の年)明治四十四年、東京日日新聞を合併した。昭和十年、西部、中部両本社開設(朝日と同年)。昭和十八年現商号となり、題字を東西ともに毎日新聞に統一した。

読売新聞は明治七年創刊。昭和十八年報知新聞を合併、読売報知となる。昭和二十一年、報知を夕刊紙として分離、現題号に復題。昭和二十七年大阪進出、同三十四年北海道進出(朝、毎とも同じ)同三十六年、北陸支社開設。正力松太郎社主が、警視庁を退官して部数三、四万でツブれかかった読売を松山忠二郎から買い取ったのは、大正十三年だが、務台光雄副社長が請われて入社したのは昭和四年だから、現在の読売新聞の社史をいうなれば、この時期からとみるべきである。

こうして、三社の小史をひもとけば、戦前からの、朝日、毎日の二大紙対立時代は、容易に理解できよう。そして、戦時中の占領地のために、朝日の昭南(シンガポール)新聞、毎日のマニラ新聞と並んで、読売はビルマ新聞の経営、育成を軍から委託されて、読売もようやく、大新聞に次ぐ社会的評価が与えられたのであった。この事実をみても、日本の新聞は、戦争によって発展し、成長してきたことが明らかである。

正力松太郎の死の後にくるもの p.030-031 毎日は極めて〝健全〟な会社

正力松太郎の死の後にくるもの p.030-031 私は、その毎日凋落の裏付けをとるべく、毎日新聞のメイン・バンクである三和銀行の村野副頭取を、毎日と同じパレスサイド・ビルの九階に訪ねた。
正力松太郎の死の後にくるもの p.030-031 私は、その毎日凋落の裏付けをとるべく、毎日新聞のメイン・バンクである三和銀行の村野副頭取を、毎日と同じパレスサイド・ビルの九階に訪ねた。

戦後、東日本を地盤とする読売の部数に加えて、二十七年に大阪進出が成って全国紙の形を整えたことで、ついに念願の三大紙時代になったものである。読売は、その後も、九州に進出、地元紙と朝毎に押えられた名古屋をさけて、正力の郷里高岡に北陸支社を開設、完全な全国紙となったが、以来、僅々数年にして、二大紙として朝日と対立するにいたった。

四十三年三月の、販売関係における五社の発行部数がある。朝日五四七万、読売四九五万、毎日四四一万、サンケイ一九八万、日経九一万という数字である。新聞の発行部数について、正確な数字をつかむことは、極めてむずかしい。例えば、広告関係では、部数をふくらませて、広告価値と広告単価との根拠にせねばならないし、新聞協会が毎年四月と十月に行う部数調査では、部数に応じて会費負担が増減するので、とかく内輪の数字を公表するといった実情にあるからだ。

ここ数年来、読売の元旦付紙面を飾り出した、恒例の部数発表によれば、東京(北海道、北陸支社分を含む)、大阪、西部で、合計五百六十万部。前記数字を六十五万部も上廻った、四十三年元旦号の部数が示されている。一方、朝日は自社発行の「広告統計月報」で、四十三年二月の数字として、五百四十九万(弱)部を発表している。

いずれの数字が正しいかは別として、寂として声のない毎日をみれば、新しい二大紙時代が、この昭和四十年代に始まりだしていることは明らかであろう。朝日と読売の、次は六百万の大台

のせ競争によって……。

私は、その毎日凋落の裏付けをとるべく、毎日新聞のメイン・バンクである三和銀行の村野副頭取を、毎日と同じパレスサイド・ビルの九階に訪ねた。

「毎日は、今や極めて〝健全〟な会社になった。詳しい数字は知らないが、不動産を処分して借金を返済し、経営を圧迫する厖大な金利負担を軽減した。ことに、大阪に持っていた沼みたいな土地がビル建築の出土で埋め立てられ、新幹線にひっかかったのは、全く幸運であった」

私はさらにたずねた。不動産を次々に処分したというのは、いうなれば〝売り喰い〟で、今や本社もこのビルの店子、毎月、家賃の日銭に追われるのではないか、と。

「新聞界における評価は別として、銀行家として見るならば、発行部数に見合った、以前よりも堅実な会社になった、というべきでしょう」

村野副頭取のこの言葉は、朝日と読売との二大紙時代を裏付けるに十分であろう。〝栄光ある老大英帝国〟にも似た、毎日新聞の詳しいレポートは、続稿にゆずろう。

昭和二十年代の十年間は、戦後新聞史のうちで、最も華やかな、「スター記者」時代、紙面の優劣の戦いの時代であった。新聞記者個人の才能と個性とが、いうなれば〝妍〟を競った時代で、また、殺伐な戦後の世相を反映し、その実力競争のモノサシとしての「事件」にも事欠かなかったのである。その中で〝事件の読売〟が大きく伸びて、三社てい立の時代をつくった。

正力松太郎の死の後にくるもの p.032-033 何人かの雑誌記者の訪問

正力松太郎の死の後にくるもの p.032-033 笑止にたえぬ愚問ばかりの中で、古い新聞記者の老人が、電話をかけてきた。「遺言はありましたですかナ!」と。新聞記者と雑誌記者の、素養と訓練の差はこの質問一つでも明らかである。
正力松太郎の死の後にくるもの p.032-033 笑止にたえぬ愚問ばかりの中で、古い新聞記者の老人が、電話をかけてきた。「遺言はありましたですかナ!」と。新聞記者と雑誌記者の、素養と訓練の差はこの質問一つでも明らかである。

昭和三十年代に入ると、世情は落ち着きをとりもどして、「事件」は国際的な規模にひろがり、一人のスタープレーヤーよりも、組織の力に、取材力の比重が傾いてゆく。同時にテレビの急速な発達から、新聞は速報性の王座と、広告媒体としての優位を奪われ、経営と編集の両面から、体質改善を余儀なくされてゆく。新聞変質の過渡期である。そして毎日の凋落が進み、二大紙時代へと移る。

さて、昭和四十年代に入ると、その傾向が一そうハッキリとしてきた。資本の集中による企業の大型化に伴い、新聞企業とて例外ではいられなくなった。兵庫新聞、東京新聞といった、地方紙の倒産が目立ち、全国紙としても、日経という専門紙は例外として、サンケイの危機、毎日の衰退が深刻化し、朝日、読売の巨大化が進んでゆくのだ。

電波媒体はさらに発展し、経営、編集ともに大きな影響を新聞におよぼす。そして、極めて皮肉なことには、新聞に対して経営と編集の両面から、その体質改善を迫るキッカケとなったテレビの急速なる発達は、実に他ならぬ正力松太郎の日本テレビ創立が、その機運を促したのである。

正力が育てたプロ野球の隆昌が、スポーツ新聞なる新しい種類の娯楽紙の隆盛をもたらしたのだが、〝大正力の死の報道〟を、このスポーツ紙たちは一面トップの大扱いで酬いてくれた。にも拘らず、肝心の「新聞」は、テレビによる体質改善から、極めて冷淡な扱い方しかできなかっ

たのは、皮肉なことだった。

こうして、新聞は、今や決定的な変革を迫られている。その内部では、政治と資本、思想と表現とが、それぞれにブツカリ合って、まさに「社会の木鐸」とか、「無冠の帝王」などという、かつて新聞を表現した古語の看板を、ハネ飛ばそうとしているのである。

この「現代新聞論」の意図するところも、新聞の現状から、変革さるべき「新聞の近い未来像」を探ろうと試みるものである。

正力の死を報じた朝毎の夕刊は、いずれも一段組み。型通りの、〝亡者記事〟で、ただ、毎日だけが、同社会長である田中香苗主筆の追悼談話を加えた。葬儀にいたっては、両紙とも全くのベタ記事、〝冷淡な扱い〟といえるものであった。

さきほども述べたが、その死とともに、私は何人かの雑誌記者の訪問を受けた。曰ク。「最後の枕頭には、愛人がつきそっていたというのですが……」「社主には誰がなるのですか」「いよいよ読売社内での、跡目争いの内ゲバですか」ETC いずれも、いうなれば笑止にたえぬ愚問ばかりの中で、古い新聞記者の老人が、電話をかけてきた。「遺言はありましたですかナ!」と。

新聞記者と雑誌記者の、素養と訓練の差はこの質問一つでも明らかである。遺言状の有無については、私もウームと唸らざるを得なかったが、まだ、正力タワーを軌道に乗せていない正力は、おのれの天寿を、さらに確信していたに違いない。後述するが、昨四十三年秋から四十四年

にかけて現象化してきた、亨、武の両遺子、ならびに 女婿たちの配置転換をもって、私は〝遺言〟とみるのだ。

正力松太郎の死の後にくるもの p.034-035 〝蒙〟を啓いておかねば

正力松太郎の死の後にくるもの p.034-035 正力が読売を今日までに育てつつあった、その愛着が〝オレのモノ〟としての「社主」という呼称に表現されたのであって、正力以後に「社主」はあり得ないのだ。
正力松太郎の死の後にくるもの p.034-035 正力が読売を今日までに育てつつあった、その愛着が〝オレのモノ〟としての「社主」という呼称に表現されたのであって、正力以後に「社主」はあり得ないのだ。

新聞記者と雑誌記者の、素養と訓練の差はこの質問一つでも明らかである。遺言状の有無については、私もウームと唸らざるを得なかったが、まだ、正力タワーを軌道に乗せていない正力は、おのれの天寿を、さらに確信していたに違いない。後述するが、昨四十三年秋から四十四年

にかけて現象化してきた、亨、武の両遺子、ならびに 女婿たちの配置転換をもって、私は〝遺言〟とみるのだ。

この機会に〝蒙〟を啓いておかねばならない。〝愛人〟とは誰を指すのか、武の生母。中村すず女であろう。正力の戸籍をみると夫人はま女は、大正七年五月一日に結婚昭和三十八年元旦に、死去している。すず女が臨終をみとって何が不自然であろうか。また、「社主」に誰がなるか、社長は、というものも、商法上の「代表取締役」と混同していて、正力なればこそ、「社主」と称し得るのである。しかも、この「社主」なる呼称は、英語の「オーナー」とはまたニュアンスが違う。朝日の村山、上野家とはまた、その事情を異にする。私が昭和十八年の読売入社時に提出した誓約書の宛名が、すでに「読売新聞社主正力松太郎」であることに最近気付いたのだが、正力が読売を今日までに育てつつあった、その愛着が〝オレのモノ〟としての「社主」という呼称に表現されたのであって、正力以後に「社主」はあり得ないのだ。

内ゲバにいたっては、務台、小林両代表取締役副社長の、人柄はもちろん、読売を取りまく、客観情勢さえ判断できぬ、その無知を嘲うべきであろう。

務台七十三歳、小林五十六歳。その新聞経歴は務台が十倍にもなろうという差がある。そしていま、大手町の新社屋建設二百億の金繰りを控えての、読売の正念場である。務台を措いて、余人をもってはかえられない、大事業に直面しているのである。

このとき、官僚としての最高位、自治省事務次官まで進んだほどの小林が、内ゲバをあえてしてまで、務台と事を構えねばならぬ、何の必然があるだろうか。いうなれば、福田赳夫と田中角栄との年齢の開きにも似て、小林としては、ポスト・ショーリキではなくて、ポスト・ムタイの構想を練るべき秋なのである。