正力松太郎の死の後にくるもの」タグアーカイブ

正力松太郎の死の後にくるもの p.192-193 上中下三つの断層がある

正力松太郎の死の後にくるもの p.192-193 武が日テレに入り、柴田専務が実現する前に、局長クラスの一斉更迭が行なわれた。日テレに関する限り、人事異動は、常に突然、いうなれば、〝朝、目がさめたらこうなっていた〟のである。「これでは〝伝説〟が生れない——」
正力松太郎の死の後にくるもの p.192-193 武が日テレに入り、柴田専務が実現する前に、局長クラスの一斉更迭が行なわれた。日テレに関する限り、人事異動は、常に突然、いうなれば、〝朝、目がさめたらこうなっていた〟のである。「これでは〝伝説〟が生れない——」

それらを考えあわせると、亨の日テレ副社長というのも、正力タワー建設の大偉業をやり抜くための、後継者ではないかとみられることである。

日テレの創業時の〝感激〟を、中堅以上の古い局員たちは懐しんで語る。「アメリカのテレビは、受像機がレーダーの研究からできてしまった。商品の受像機を売るには、放送をするしかない。というので局ができ、放送がはじまった。ところが、日本のテレビは、局ができて、放送がはじまった。そこで、メーカーが受像機を造って売り出した……と全く逆なのだ。そこに着眼した、〝正力テレビ〟の街頭受像機の設置という構想は、実にすばらしいものだった——」

構想はすばらしくとも、誰も理解してくれなかった。正力は、資金集めにかけずりまわり、青息吐息であった。だが、その苦心が実って、保全経済会の伊藤斗福の一億円を皮切りに、ようやく事業は緒についた。

「盛り場に設置された街頭テレビの前は、黒山の人だかり。誇らしげに読売の販売店のオヤジさんがかけまわり、私たちもカメラマンの脚立が倒れないように押えてやったものでした。あの感激は、終生忘れられないでしょう。……だから、私たちには、読売新聞というのは、本家とも実家とも感じられます」

四十三年九月期の有価証券報告書をみると、大株主名簿には、もちろん、「保全経済会」などという、〝忌まわしい〟サギ団体の名前などはない。読売テレビ(大阪)の八・○○%を筆頭に、

読売新聞七・三六%、以下、東洋信託、光亜証券、野村証券、大和銀行、第一生命、日本生命、同和火災、三菱信託と、一流どころがズラリと並ぶ。総勢二十七名にもおよぶ役員は、監査役の京成電鉄相談役が四、五六○株をもっているのを除いて、正力会長以下誰も一株ももっていない。

創立当初、朝日、毎日にも協力してもらった義理もあってか、平取ではあるが、毎日梅島社長と、朝日谷口取締役(現社友)とが入っている。しかし、読売で十五・三六%の株をもち、正力一家三名が重役に列していながら、日テレ全体の雰囲気は、全く冷たくよそよそしくて、読売人や報知人にとっては、他人の家である。

「それは、日本テレビが開局十七年にもなろうというのに、上、中、下という大きく三つにわけて、断層があるのです。コミュニケーションが全くないのです」

武が日テレに入り、柴田専務が実現する前に、局長クラスの一斉更迭が行なわれた。それもまた突然であり、何の説明もなかったのであった。日テレに関する限り、人事異動は、常に突然、いうなれば、〝朝、目がさめたらこうなっていた〟のである。

「これでは〝伝説〟が生れない——」

こういって、古手の、開局当時を知っている連中が嘆く。〝伝説〟のないところに、上下のコミュニケーションは生じないという。

どこの社でも、幹部の異動などは、社内で下馬評が生まれ、二、三の意外性をのぞいては、お

おむね、下馬評通りの発令になるというのが定石である。それが、日テレではついぞそんなことはなかったという。

正力松太郎の死の後にくるもの p.194-195 〝務台教〟とその信者

正力松太郎の死の後にくるもの p.194-195 停年退職者が出ると、自分の部屋によんで、上座に座らせ、退職金の袋を渡して『長い間、読売のために働いて頂いて、本当にありがとう。あなたのお陰で、読売もここまで伸びました』と、深く頭をさげて感謝の意を表する。
正力松太郎の死の後にくるもの p.194-195 停年退職者が出ると、自分の部屋によんで、上座に座らせ、退職金の袋を渡して『長い間、読売のために働いて頂いて、本当にありがとう。あなたのお陰で、読売もここまで伸びました』と、深く頭をさげて感謝の意を表する。

どこの社でも、幹部の異動などは、社内で下馬評が生まれ、二、三の意外性をのぞいては、お

おむね、下馬評通りの発令になるというのが定石である。それが、日テレではついぞそんなことはなかったという。

社のウラの自家用車置場。アイボリーや赤の小型、中型車がズラリと並んで、若い女性局員たちがさっそうとのりまわしている。

——確かに、新聞よりはサラリーがいい、若い連中ほど、そうかもしれない。しかし、マスコミという仕事は、そんなふうに、上の人事に無関心で、自分のサラリーだけ働けばよい。労働の報酬なんだと、割り切ってすむものなのだろうか。

〝伝説〟がない、と嘆いた古手局員の述懐である。そして、それは確かである。正力の手がけた事業の中で、〝一流中の一流〟となりつつあるのは、読売新聞だけである。

報知は、スポーツ紙としてはAクラスなのだろうが、一位の座は日刊スポーツに占められ、しかも、次第に水をあけられている。テレビでも、草分けの日テレがTBSに大きく引離されているのである。それなのに、何故、読売新聞だけは、大朝日が百年を費して築いた五百六十万部に対し、半分の五十年だけで迫ろうとしているのだろうか。しかも、その四十万部の差は、すでに刻々と縮められつつあり、読売の戦う姿勢は十分なのである。

〝務台教〟に支えられる読売

これらの〝正力コンツェルン〟の本家、読売新聞には、それに相応しく〝伝説〟が、いろいろとある。その一つが〝務台教〟とその信者であろう。

務台光雄。読売副社長である。務台はそれこそ〝業務と販売の神様〟なのだから、〝務台教信者〟が現れても不思議はない。彼にまつわるエピソードは極めて多い。ある読売関係者が私にこうきいたものである。

「務台さんという方は、全く立派な方だそうですネ。……停年退職者が出ると、自分の部屋によんで、上座に座らせ、退職金の袋を渡して『長い間、読売のために働いて頂いて、本当にありがとう。あなたのお陰で、読売もここまで伸びました』と、深く頭をさげて感謝の意を表する。そして、その夜は、本人の好みに応じてツキ合ってやり、翌朝また電話して、身体は大丈夫かと問合せてくる——という話ですが、本当でしょうか」

そのほかにも、務台にまつわる逸話は前にも述べたが、ここに紹介しきれないほどである。私自身の体験からいっても、務台の人柄には、人の心にジーンとしみこむものがあるのだ。

正力松太郎の死の後にくるもの p.196-197 新聞記者としては額にうけた向う傷サ

正力松太郎の死の後にくるもの p.196-197 私が横井事件に関係して引責退社することになったとき、当時の小島編集局長は、「キミ、キミ。金はとってないだろうネ。金を!」という、大変失敬な返辞しかできない男だったが、務台専務は違っていた。
正力松太郎の死の後にくるもの p.196-197 私が横井事件に関係して引責退社することになったとき、当時の小島編集局長は、「キミ、キミ。金はとってないだろうネ。金を!」という、大変失敬な返辞しかできない男だったが、務台専務は違っていた。

昭和三十三年七月、私が横井事件に関係して引責退社することになったとき、私は務台に挨拶にいった。当時の小島編集局長(故人)という、私の上司は、「キミ、キミ。金はとってないだろうネ。金を!」という、大変失敬な返辞しかできない男だったが、務台専務は違っていた。

「ウム。事情はきいたよ、ナーニ、新聞記者としては、額にうけた向う傷サ。サッパリ片付けたら、また社にもどって働いてくれ給え。元気でナ」

警視庁へ出頭する前のこの言葉は、どんなにか私を感激させてしまったことだろうか。務台の人間的な魅力、人使いのうまさは、ここにあるようだ。そして、これらの言葉は、決してその場限りのものではなく、退社後も何回か、人づてに「務台さんが、三田はどうしたかナ、と心配されてたよ」と、激励の言葉をきかされているのだった。

報知と報知印刷とに赴いた、菅尾と岡本も、多分、務台の懇請に応じて、いわば死地に出陣したものであろう。ここで想起されるのが、昭和四十年春のいわゆる「務台事件」である。

その年の春闘で、読売労組は「七千五百円アップ」の賃上げを要求して、スト権確立の全員投票までを決定した。闘争気運が次第に盛り上ってきた三月十七日、代表取締役専務の務台は、「所感」をもって代表取締役副社長の高橋雄豺のもとに辞表を提出、慰留をさけるため、そのまま居所をくらましてしまった。

その詳細は、さきに述べた通りであるが、この「務台事件」の結果、〝正力の読売〟とは、その

前置詞として〝務台あっての〟正力の読売であることが、明らかにされた。

正力と務台との出合いは、今から四十年も前の昭和四年、当時全盛の報知新聞の市内課長であった務台を、販売部長として読売に迎えたのにはじまる。こうして、務台は正力の女房役として、販売一本槍で四十年を共に歩んできた。今日の読売の大をなした正力も、確かに、務台あったればこそのことであった。

務台は、明治二十九年六月六日生まれ。早大政経科を大正七年に出て、新聞界に入った。

思えば、わずか四年前のあの務台事件当時の危機を脱し、隆々たる今日の実力を回復したのは、果して何であろうか。

「朝日」取材の時に、朝日大阪編集局長の泰はいった。「宅配制度の崩壊は、時の流れでもあろう。読売の強力な追いあげに、朝日も懸命である。そして、三紙てい立の維持に必死の毎日——販売費はいよいよ高騰し、小刻み値上げが断続し、各社ともに戦力を使い果したとき、ようやく共販・共同集金などの合理化が検討されよう。その時、どの新聞が生き残っているかが問題である」と。

販売費の高騰——ということは、各社が血みどろの販売合戦に、どれだけ経費を注ぎこめるか、という、〝金融能力〟にかかってきている。

朝日は、大阪、名古屋などの新社屋建設のために借入金が増大し、毎日は、もはや担保に入れるべき自社社屋を失って、パレスサイド・ビルの借家人である。その時、読売が借金のできる体

制であることは、大変な強味であろう。

正力松太郎の死の後にくるもの p.198-199 〝非現代的〟な人間模様の闘い

正力松太郎の死の後にくるもの p.198-199 新聞という企業は、不思議な近代企業である。新聞のすみずみにまで、あらゆる〝現代科学の粋〟がとり入れられていながら、それを造る人々の中には〝非現代的〟なあらゆるものが巣喰っているのである。
正力松太郎の死の後にくるもの p.198-199 新聞という企業は、不思議な近代企業である。新聞のすみずみにまで、あらゆる〝現代科学の粋〟がとり入れられていながら、それを造る人々の中には〝非現代的〟なあらゆるものが巣喰っているのである。

朝日は、大阪、名古屋などの新社屋建設のために借入金が増大し、毎日は、もはや担保に入れるべき自社社屋を失って、パレスサイド・ビルの借家人である。その時、読売が借金のできる体

制であることは、大変な強味であろう。

さて、一応の結論へと進まねばならない。ポスト・ショーリキとは、事実上はポスト・ムタイであるということである。正力は〝郷土の後進〟に選挙区をゆずるよりは、やはり、小林に渡したい気持ちは十分なのであろうが、今、読売が、正力、務台とたてつづけに失ったならば、一体どうなるであろうか。

原四郎編集局長は、務台に極めて近い、とされている。事実、務台——原ラインが、今の読売新聞をガッチリとおさえて、朝日打倒の陣を進めているのであろう。しかし、ポスト・ムタイである。小林を今読売から抜いたのでは、その時が心配なのであろう。

報知の〝正常化〟は、務台がのりだしたからには一安心。亨にはテレビ塔に専念させれば、レールは自分がひいておくから、これまた安心。他の細かいものは、武にみさせる。こんな〝跡目〟青写真が、正力の脳裏に描かれていたのであろう。私はそう考える。

問題は、日本テレビである。

正力亡きあとに、〝正力コンツェルン〟から、脱落し、あるいは離反するものは、日本テレビに違いない。

新聞という企業は、不思議な近代企業である。新聞のすみずみにまで、あらゆる〝現代科学の粋〟がとり入れられ、織りこまれていながら、それを造る人々の中には〝非現代的〟なあらゆる

ものが巣喰っているのである。

毎日のある記者がいう。「朝日には〝大朝日意識〟がある。読売は〝読売精神〟というでしょう。だが、毎日には何もない」と。

この言葉と、日テレ局員のいう「日テレには〝伝説〟がない」という言葉とを考え合わせるとき「新聞」という奇妙な近代企業の、不可思議な体質が暗示されるのである。現実に朝日新聞百年の王座を支えてきたものは、〝大朝日意識〟であったし、読売五十年の躍進を可能ならしめたものは、〝読売精神〟でもあった。そして、毎日が東京日々新聞以来の有楽町の古いビルをすてて、〝伝説〟を断絶させた時からの斜陽ぶりが、それを事実として示しているのだ。

朝日と読売という、超巨大紙の角逐は、実にこの〝非現代的〟な人間模様の闘い、とでもいい得よう。

〝伝説〟と〝神話〟との闘い——果して、六百万の大台に早くのるのは、朝日であろうか、読売であろうか。

正力松太郎の死の後にくるもの p.200-201 正力が高文合格者いずれも内務官僚

正力松太郎の死の後にくるもの p.200-201 小林与三次。大正二年七月二十三日生まれ。正力の長女梅子を夫人としている。小林は、自治省次官から住宅金融公庫総裁に転じていたのを、昭和四十年に辞して読売入りをした。
正力松太郎の死の後にくるもの p.200-201 小林与三次。大正二年七月二十三日生まれ。正力の長女梅子を夫人としている。小林は、自治省次官から住宅金融公庫総裁に転じていたのを、昭和四十年に辞して読売入りをした。

小林副社長〝モウベン〟中

正力松太郎の政界引退声明にこめられた〝声なき声〟を承けて、その女婿の小林与三次は、今や真剣に「読売新聞」に取組んで、猛ベン中である。

というのは他でもない。ここ数カ月来、小林は編集各部の中堅デスク・クラスと、〝勉強会〟を継続的にもっているからである。

小林与三次。大正二年七月二十三日生まれ。正力の長女梅子を夫人としている。正力が明治四十四年採用の高文合格者であり、長く僚友として読売をもりたてた品川主計が、同四十五年の一期後輩。また、副社長を勤めた高橋雄豺は大正四年の、田中耕太郎や唐沢俊樹(故人)らの同期生である。そして、娘のムコとした小林が、昭和十一年採用という、いずれも内務官僚である。小林の同期といえば、元警視総監の原文兵衛、陸幕長の山田正雄らがいる。そして、小林は、自治省次官から住宅金融公庫総裁に転じていたのを、昭和四十年に辞して読売入りをした。

読売に入社した小林は、衆議院議員正力松太郎の後継者と目されていた。というのは、業務に務台光雄、編集に原四郎という〝大黒柱〟があって、小林の〝戦闘正面〟に特記すべきものがな

かったからである。いわば予備隊的存在に近かったからである。

それこそ、務台は〝業務と販売の神様〟であり、原は法政を出て国民新聞に入り、昭和十一年読売に移籍。社会部長在任七年にもおよんだ、というベテランとあってみれば、小林が代議士の跡目とみられたのは、その官僚経歴からしても当然であろう。

だが、事態は変った。

前に述べたように、正力の政界引退声明には、読売だけ削除はしたものの、「郷土には人材も多く、後進に道をゆずることが、最善だと考えている」旨の正力談話があり、小林を指名していないのである。

そして、小林の〝勉強会〟の講師は、決して部長や古参次長ではなくて、もう一クラス下の、いうなれば四、五年先の部長候補クラスなのである。これは、何を物語るのであろうか。

小林は、読売の副社長である。彼に編集各部の仕事の内容や実情について、御進講申しあげるべき人物は、部長でなければ、筆頭次長(注。新聞は朝夕刊あるので、勤務が交代制になるため次長が三~七名ほどいる)クラスであるのが、自然というべきである。

現況把握のための〝勉強会〟であるなら、部長がデスクやキャップから話をきくように、副社長は、部長クラスか、編集総務(注。編集局長の補佐役として、同様に数人いる)あたりにレクチュアさせるべきだろう。それなのに、小林は、もっと若手を講師に起用して、二次会へと流れても、

器用にその連中の気持ちをつかんでいるようである。つまり、小林は編集の現場とのコミュニケーションをもとうとしていると、解されるのである。

正力松太郎の死の後にくるもの p.202-203 いわゆる〝務台文書〟配布事件

正力松太郎の死の後にくるもの p.202-203 務台が「オレは、ただの副社長ではないのだゾ。生半可なことでは、読売とオレとの仲を割くことはできないのだゾ」と、小林に対して、その〝意志〟を明らかにしたのだ、という、〝下司のカングリ〟が、流れはじめたのであった。
正力松太郎の死の後にくるもの p.202-203 務台が「オレは、ただの副社長ではないのだゾ。生半可なことでは、読売とオレとの仲を割くことはできないのだゾ」と、小林に対して、その〝意志〟を明らかにしたのだ、という、〝下司のカングリ〟が、流れはじめたのであった。

現況把握のための〝勉強会〟であるなら、部長がデスクやキャップから話をきくように、副社長は、部長クラスか、編集総務(注。編集局長の補佐役として、同様に数人いる)あたりにレクチュアさせるべきだろう。それなのに、小林は、もっと若手を講師に起用して、二次会へと流れても、

器用にその連中の気持ちをつかんでいるようである。つまり、小林は編集の現場とのコミュニケーションをもとうとしていると、解されるのである。

このことは、本稿冒頭でもふれたように、小林には、務台と対立拮抗しようという意志がなく、五、六年先の政権担当を描いているということである。務台も、もうそのころには、八十歳に手がとどくころで、新社屋の建設も終って、正力に托された〝正力の夢〟を実現して、功なり名をとげての引退、という時期である。

従って、読売においては、実に、ポスト・ショーリキではなくして、ポスト・ムタイが現実の問題だということである。だが、ことさらに騒ぎを好むヤジ馬の常として、務台と小林の動きを、対立させて考える動きがあるのである。

読売の重役会の様子をきいてみると、常務会などでは、原四郎の独り舞台だそうである。他の常務たちは、そこで、何か仕事をしようという時には、どうしても、務台か小林かの、どちらかの副社長を立てて、やらざるを得ない。そのため、ともすれば、務台、小林の〝対立〟なるものが、秘やかに〝喧伝〟されるということになるらしい。

さきごろの、いわゆる〝務台文書〟配布事件というのも、〝怪文書事件〟扱いをされているが、務台が、務台の個人名で発送したことを認めているのだから、〝怪文書〟ではない。そして、務台側近のいう「意外な反応」とは、このようなことである。

コピーの配布を、〝務台の先制攻撃〟とみるのが、いわゆる〝意外な反応〟なのであった。つまり、これは、務台が「オレは、ただの副社長ではないのだゾ。オレが読売に入社し、終戦の年に正力に殉じて去り、ふたたび復社するについては、これだけの経緯があってもどったのだゾ。生半可なことでは、読売とオレとの仲を割くことはできないのだゾ」と、小林に対して、その〝意志〟を明らかにしたのだ、という、〝下司のカングリ〟が、流れはじめたのであった。

そのカングリは、さらに、「それでは、務台、小林間に、すでにそのような〝情勢〟がかもし出されていたのか!」と発展し、一波乱はまぬかれないものと、期待する向きも出てきたのである。そのような〝向き〟とは、必ずしも、読売社内だけとは限らない。当面の外敵、朝日もそうであるし、毎日、サンケイ、あるいは、報知、日本テレビなどの、コンツェルン系統にもあろう。

これらは、あくまで〝下司のカングリ〟にすぎないのであるが、私は、これを別な形でとらえて、「務台の政権担当の決意表明」ととる。もちろん、全社員への〝檄〟の意味もこめられていよう。

私の務台インタビューの時点で、まだ、発送こそされてはいなかったが、計画は進んでいたハズである。しかも、務台の話の中で、それらの片鱗は現れているのだった。私が、「決意表明」とみる理由はこれまで、しばしば示してきた務台のあの〝熱気〟である。だからこそ、朝日打倒と新社屋建設が、務台の〝男の花道〟というのである。

正力松太郎の死の後にくるもの p.204-205 充実感のウラ側の不安と落胆

正力松太郎の死の後にくるもの p.204-205 もはや「読売信条」などというのは、古文書と化し、「読売精神」などというものは、全く失なわれてしまう——メンタルなものが一切なくなった、組織と機構と、それのオペレーターとによって、〝新聞〟がつくりだされていく
正力松太郎の死の後にくるもの p.204-205 もはや「読売信条」などというのは、古文書と化し、「読売精神」などというものは、全く失なわれてしまう——メンタルなものが一切なくなった、組織と機構と、それのオペレーターとによって、〝新聞〟がつくりだされていく

だが、一方では、全社員六千名に、〝檄〟を飛ばさざるを得ないという務台の気持を、裏返してみるならば、「読売も大きくなりすぎたなあ」という、深い充足感と、わずかながらの不安、落胆の入りまじった、ある感慨にふけっているのではなかろうか。

わずかながらの不安、落胆! この心理のカゲは、幸福すぎる時にフト心をよぎる、この幸福を失うことへのおそれ、とは、ニュアンスが少し違う。

マスコミの集中化が進んで、読売、朝日という二巨大紙が、さらに超巨大紙へと進む時、そこでは、もはや「読売信条」などというのは、古文書と化し、「読売精神」などというものは、全く失なわれてしまう——メンタルなものが一切なくなった、組織と機構と、それのオペレーターとによって、〝新聞〟がつくりだされていくに違いない。務台が、前述の復帰第一声の中で述べた、「新聞」と「読売」とへの愛情などは、もはや、誰にも理解されなくなるのである。充実感のウラ側の不安と落胆とは、その現実への〝予感〟である。

八幡製鉄の子会社、松庫商店の業務上横領事件を、取材していると、八幡幹部の経理面の不正が、いろいろと出てくる。たとえば、某社長夫人の葬式に、八幡と関係が深い人物だったので、八幡から香典が供えられた。

その中身は二十五万円也。ところが、八幡の経理からは、五十万円が出金されている。なるほど、香典などは、受取証の出ない金なのだから、担当者がフトコロに入れてしまったのだろうか。

これでは、死者への礼を欠くどころか、死んでもなお、関係者の〝汚職〟に利用されて、霊魂も浮ばれまい。

私の「読売も大きくなったなあ」という感慨とは、この八幡製鉄のケースから考えてのことである。務台が、今さら〝読売精神〟を訴えんとすれば、これは、「小林副社長との対立か?」と、カンぐられる時代になっているのである。そして、務台側近筋の〝思いもかけない反応〟という言葉が、その時代の流れを〝読みきれない〟ということを、裏書きしていよう。

現に、〝販売の神様〟であった務台にとっては、新聞業界紙が、匿名で取りあげた「某紙某局長が私財一億円を貯めこんだ」という記事を目して、〝一億円局長〟を、読売の局長になぞらえられたり、販売部門の部下が、悪徳店主と〝組んだり〟して、新聞販売店従業員を学校に入れるという読売奨学資金制度を〝食いもの〟にしているなどとして、善良店主の造反がおきたりしている、ということは、かつての読売精神からは考えられないことであろう。

その時、さる四十四年八月十日付の朝刊一面で、大手町の新社屋建設計画が公表された。地上十階、地下五階の、最新、最大の設備で、この八月から二年計画で工事を進め、昭和四十六年十月を期して、移転するというものだ。

「こうした最大、最新の新社屋建設の目的は、もとより、より充実した紙面の作成と、読者への最善のサービスのためのもの」という謳い文句。発行部数は全国で五百五十七万(八月一日現

在)、東京本社だけで、三百七十四万と呼号している。これだけの部数を印刷するためには、輪転機九十六台を収容する工場を必要とするというのである。総工費は一口に二百億。

正力松太郎の死の後にくるもの p.206-207 「ゴ、五万円出す。その男を」

正力松太郎の死の後にくるもの p.206-207 私の「正論新聞」に、かねてから、若いヤル気のある青年がほしい、と、私は考えていた。ある日、街のレストランで出会った、読売の仲間(当時は部長)に、その旨を話して、「誰かいないだろうか」と、問うたのであった。
正力松太郎の死の後にくるもの p.206-207 私の「正論新聞」に、かねてから、若いヤル気のある青年がほしい、と、私は考えていた。ある日、街のレストランで出会った、読売の仲間(当時は部長)に、その旨を話して、「誰かいないだろうか」と、問うたのであった。

「こうした最大、最新の新社屋建設の目的は、もとより、より充実した紙面の作成と、読者への最善のサービスのためのもの」という謳い文句。発行部数は全国で五百五十七万(八月一日現

在)、東京本社だけで、三百七十四万と呼号している。これだけの部数を印刷するためには、輪転機九十六台を収容する工場を必要とするというのである。総工費は一口に二百億。

薄給にあまんじ、読売と共に生き、読売とともに死ぬ——この〝読売精神〟に徹するためには、読売はあまりにも、大きくなりすぎてしまった。

私の「正論新聞」に、かねてから、若いヤル気のある青年がほしい、と、私は考えていた。ある日、街のレストランで出会った、読売の仲間(当時は部長)に、その旨を話して、「誰かいないだろうか」と、問うたのであった。

「ウム。今年、大学を出て、読売を受けたが落ちた男がいる。だが彼は『どうしても新聞記者になりたい』というので、来年もまた読売を受ける、というんだ。……一体、いくら(月給)出すのだ?」

どうしても新聞記者になりたい! 何という、カッコいい言葉であろうか。私は反射的に叫んだ。

「ゴ、五万円出す。その男を、ゼヒ紹介してくれ!」

地方紙の、ある古手の記者に、こんな話をきいたことがある。社会部は事件なんだと、若い記者の何人かを、子分同様にして、育てていたんだ、という。それこそ、夏場に〝女〟を買いに行けば、若い記者が背中をウチワであおぐほどであったと。

それだけをきけば、封建的な徒弟制度、ヤクザの親分、子分の関係のようであるが、この話には、それなりに「新聞記者の基礎教育」における、先輩と後輩の関係を、象徴しているものがある。

私は本稿の中で、先輩たちに与えられた教育や言葉を例示してきた。「新聞記者は疑うことで始まる」「名誉棄損の告訴状が、何十本と舞いこんでも、ビクともしない取材」と、いったような言葉である。

そしてまた、新人の教育とは、次のようなものであった。拙著「最後の事件記者」(昭和33年実業之日本社)の抜粋だ。

イガグリ坊主頭に、国民服甲号という、この新米記者も、即日働きはじめていた。実に清新、爽快な記者生活の記憶である。確か午前九時の出勤だというのに、当時の日記をみると、午前七時四十分、同二十五分、八時五十分と、大変な精励ぶりだ。それに退社が、六、七時、ときには九時、十時となっている。タイム・レコーダーが備えられていたので、正確な記録がある。

十名の新入社員は、九名までが社会部に配属された。私たちの初年兵教官は、松木勇造現労務部長であった。その教育は文字通りのスパルタ式、わが子を千仭の谷底に落す、獅子のそれであった。

入社第一日目に亡者原稿を、何も教えられずに書かされた。この数行の処女作品は、早大教授

の山岸光宣文博の逝去であった。私のスクラップの第一頁に、この記事が、朝日毎日のそれと並べてはられている。死亡記事でさえ、朝毎の記事と、優劣を競おうという心意気だったらしい。

正力松太郎の死の後にくるもの p.208-209 「読売の方が経済的に安定していますから」

正力松太郎の死の後にくるもの p.208-209 どうしても新聞記者になりたい! という青年に、私は、昭和十八年当時の、このような私自身の姿を想起したのであった。それこそ、「読売精神」なのであった。
正力松太郎の死の後にくるもの p.208-209 どうしても新聞記者になりたい! という青年に、私は、昭和十八年当時の、このような私自身の姿を想起したのであった。それこそ、「読売精神」なのであった。

入社第一日目に亡者原稿を、何も教えられずに書かされた。この数行の処女作品は、早大教授

の山岸光宣文博の逝去であった。私のスクラップの第一頁に、この記事が、朝日毎日のそれと並べてはられている。死亡記事でさえ、朝毎の記事と、優劣を競おうという心意気だったらしい。

第二日は、初の取材行だ。戦時中の代用品時代とあって、新宿三越で開かれていた、『竹製品展示会』である。今でもハッキリと覚えているが、憧れの社旗の車に、ただ一人で乗って、それこそ感激におそれおののいたものである。

車が数寄屋橋の交叉点を右折する時、社旗がはためいた。大型車にただ一人の、広い車内をみまわして、『これは本当だろうか!』とホオをつねってみたい気持だった。尾張町(銀座四丁目)からバスにのれば、十五銭ですむのになア、と、何かモッタイないような気がした。

この感激のテイタラクだから、取材も大変なものである。待っていてくれた(アア、待たせておいたのではない!)車に飛びのり、帰社するや否や、書きも書いたり、七十枚余りの大作、竹製品展ルポだった。

提稿をうけた松木次長は、黙って朱筆をとると、私の大作を読みはじめた。左手で原稿のページは繰られてゆくが、右手の朱筆は一向におりない。ついに読み終った原稿は、一字の朱も入らずに、バサリと傍らのクズ籠に投げすてられてしまった。

呆然として立ちつくす私を、彼はふりむきもせずに、次の原稿に手をのばした。私は無視され、黙殺されていた。新米も新米、二日目記者の私は、自分をどう収拾したらよいかわからない。怒

るべきなのか、憐れみを乞うべきなのか、お追従をいうべきなのか!

そこへ掃除のオバさんがきて、私の労作は大きなクズ籠にあけられ、アッと思う間もなく、反古としてもちさられてしまった。これは大変な教育であった。それからの私の記者生活を決定づけたのはこの時であり、また、新聞とは冷酷無残なりと覚えたのであった」

どうしても新聞記者になりたい! という青年に、私は、昭和十八年当時の、このような私自身の姿を想起したのであった。それこそ、「読売精神」なのであった。

だが、数日後に、私は、正論新聞のスタッフとともに、新聞論をたたかわせながら、新宿のバーで泥酔していた。その青年からの返事が、その仲介者を通じてもたらされたのであった。青年は、来年の再受験に備えて、読売の都内支局に、バイトとして働いていた。

「読売の方が、正論より、経済的に安定していますから……(正論へ入るのは見合わせたい)」と、いっているという。

私は、バーのカウンターを、手が痛くなるほど叩いた。

「バカヤロー奴が! ナニが、どうしても新聞記者になりたい、だ。奴のは、新聞記者になりたい、ではなくて、読売社員になりたいということだ。こんな、ボキャブラリイの少ない男が、記者などと口にするな!」と。

正力松太郎の死の後にくるもの p.210-211 「週刊現代」誌の記者の断定

正力松太郎の死の後にくるもの p.210-211 「読売に内紛があるそうですね。正力さんの跡目をめぐって、戦いがはじまっているそうじゃありませんか」私には、即座にハハンときた。例の〝務台文書〟の〝思いもかけない反響〟というのがこれであった。
正力松太郎の死の後にくるもの p.210-211 「読売に内紛があるそうですね。正力さんの跡目をめぐって、戦いがはじまっているそうじゃありませんか」私には、即座にハハンときた。例の〝務台文書〟の〝思いもかけない反響〟というのがこれであった。

社長のいない大会社

かくの如く、〝大きくなりすぎた〟読売新聞には、もはや、〝読売精神〟など、小指の先ほども残ってはいないのだ。それなのに、務台は、「読売精神」を喚起すべく、社中に〝檄〟を飛ばした、という。これが、務台攻撃派に乗ぜられないでおられようか。

八月末ごろのある日、私は用事があって、読売本社を訪れた。たまたま、廊下で務台副社長に出合った。

「キミ、君の指摘した販売店従業員の工科大学校の件ネ。あれは、読売が直接やることにしたよ。これで問題は一まず解決だ。読売本社が、直接、学校にタッチするんだ。……たったいま、会議で決めてきたよ」

私も、わがことのように嬉しくなって「ハ、ハイ。ありがとうございます」と、お礼の言葉を述べていた。私を信じ、私の書く「読売論」を信じて、その苦衷を訴えてきた、一人の〝販売店主〟の声に、こんなにも、卒直に反応する務台の、読売への愛情が私を打ったのであった。

私は、その、嬉しそうに話しかける務台の姿にオーバーラップして、数日前、訪問を受けた、「週刊現代」誌の記者の姿を想い出していたのである。

「読売に内紛があるそうですね。正力さんの跡目をめぐって、すでに、戦いがはじまっているそうじゃありませんか」

私には、即座にハハンときた。例の〝務台文書〟の〝思いもかけない反響〟というのがこれであった。

「証拠はこれです。そう話してくれる人は、二、三人いるのですが、いずれも、誌上に名前を出すのはカンベンしてくれというので、あなたに、名前を出して語ってほしいのですが……」

その記者は、〝務台文書〟を示しながら、読売の内紛、と断定した、カサにかかったいい方をして、私を促した。

彼が社を出る時の、この企画の担当デスクとその男との、会話のヤリトリまでが、ほうふつとするようなインタビューであった。

読売の内紛! 週刊誌のデスク・プラン——それこそ、〝机上の空論〟が描いた青写真は、務台光雄・小林与三次両副社長の対立ということである。この二人の副社長(共に代表取締役)が、ポスト・ショーリキに、社長を争う——ことがあり得るであろうか。

まず、戦後の読売史をふりかえらねばなるまい。

正力松太郎の死の後にくるもの p.212-213 戦後の読売には「社長」はいない

正力松太郎の死の後にくるもの p.212-213 正力追放間の「代表取締役」安田庄司もまた、副社長である。高橋もまた同じで、現在の務台、小林は、ともに「代表取締役副社長」であって、いずれも、「社長」ではない。つまり、正力に対する礼儀からいっても、社長は常に空席なのである。
正力松太郎の死の後にくるもの p.212-213 正力追放間の「代表取締役」安田庄司もまた、副社長である。高橋もまた同じで、現在の務台、小林は、ともに「代表取締役副社長」であって、いずれも、「社長」ではない。つまり、正力に対する礼儀からいっても、社長は常に空席なのである。

戦後の読売には、正力の留守居役であった馬場恒吾を除いて、「社長」はいないのである。社員名簿が、それを雄弁に物語る。しかも、正力もまた、社長の地位にはついていない。戦犯容疑で巣鴨に収容され、釈放。つづいて、追放指定、同解除となってからもである。

戦後はじめて、名簿がつくられたのが、二十三年二月現在のものだが、「有限会社」時代で、「代表取締役社長」に馬場がおり、他にヒラ「取締役」が五名。二十四年度は、馬場は変らず、取締役主筆に安田庄司、常務取締役に武藤三徳、ヒラ取四人に監査役が加わる。

二十五年度は、「株式会社」となったが、馬場が社長で、安田が副社長。ヒラ取が六人にふえて、この時はじめて、務台がヒラ取で名を出した。二十六年度は、馬場が顧問となって、安田が「代取副社長」、武藤常務の名が全く消えて、務台が代って常務になった。ヒラ取も一人ふえて七名になる。

二十七年度。安田副社長、務台常務は変らずで、ヒラ取がまた一名増の八人。ただし、馬場顧問と並んで高橋雄豺が顧問に列した。二十八年度も、この陣容のままで、二十九年度は、監査役が一名増の二名になっただけ。

ところが、三十年六月十五日現在の社員名簿になると、第一行目に「社主、正力松太郎」の名が加わり、「代表取締役副社長」高橋雄豺、「代表取締役専務」務台光雄の連名となる。翌年には、ヒラ取から二名が常務になって、このまま推移してゆく。

この経過で明らかな通り、正力の公職追放もあって、内務官僚で四年後輩の高橋を副社長に据えて、正力は「社主」という新らしい地位(呼称というべきか)に、ついたのであった。その時の用意に高橋は三年前から顧問の地位にあったのである。新聞社の役員は、新聞業務の経験者でなければならない。小林与三次が官を辞したあと、若干期間、主筆として勤務したのちに、取締役になったのと同じである。

正力追放間の「代表取締役」安田庄司もまた、副社長である。高橋もまた同じで、現在の務台、小林は、ともに「代表取締役副社長」であって、いずれも、「社長」ではない。つまり、正力に対する礼儀からいっても、社長は常に空席なのである。

さて、ポスト・ショーリキで、果して、務台は、人と争い、抵抗を排除してまで、「社長」の地位を得ようとするのであろうか。務台文書の中にも、「昔から、派閥のある新聞は、必ず読者と世間の信用を失い、やがて没落の運命を免れないのであります」(25・3・11付「新聞通信」務台演説)と、自ら講演している務台が、事実上の〝社長〟の地位にありながら、単なる「社長」の名を求めてその晩節を汚すの愚を、あえてするであろうか。

務台の地位と存在とを、客観的に評価するならば、かの四十年の務台事件によって、正力がまだ健在であった当時ですら、「務台あっての」「正力の読売」であることを、内外に認識されたのではなかったか。どうして、その女婿小林副社長と争う必要があろうか。それこそ、毛を吹いて

傷を求むるの愚、といわざるを得ない。

正力松太郎の死の後にくるもの p.214-215 〝読売の跡目争い〟を興味本位に

正力松太郎の死の後にくるもの p.214-215 小林側にしてみても、務台と覇を競うべき、何の必然もないのである。務台を排してまでも、社長の地位につかねばならぬ年齢と健康ではない。まして、新社屋建設の資金、二百億の金繰りなどは、務台を措いて、誰になし得よう。
正力松太郎の死の後にくるもの p.214-215 小林側にしてみても、務台と覇を競うべき、何の必然もないのである。務台を排してまでも、社長の地位につかねばならぬ年齢と健康ではない。まして、新社屋建設の資金、二百億の金繰りなどは、務台を措いて、誰になし得よう。

務台の地位と存在とを、客観的に評価するならば、かの四十年の務台事件によって、正力がまだ健在であった当時ですら、「務台あっての」「正力の読売」であることを、内外に認識されたのではなかったか。どうして、その女婿小林副社長と争う必要があろうか。それこそ、毛を吹いて

傷を求むるの愚、といわざるを得ない。

さらにまた、小林側にしてみても、務台と覇を競うべき、何の必然もないのである。現時点で、務台を追放してみても、なんのメリットがあるだろうか。務台を排してまでも、社長の地位につかねばならぬ年齢と健康ではない。まして、新社屋建設の資金、二百億の金繰りなどは、務台を措いて、誰になし得よう。新聞界に日の浅い小林には、到底無理なことである。

毎日新聞において、本田親男から上田常隆へと、社長が交代したのは、一種のクーデターであった。そして、上田は、政権交代のための、暫定社長であったといわれている。だが、毎日の今日の斜陽を招いたものは、このクーデターによって、銀行金融筋に、もっとも信任あつかった、原為雄を失ったからだという、説をなす新聞人もいる。

新社屋完成は二年後。務台に花をもたせて、ポスト・ムタイの構想を描くのに、小林にとって、三年、五年を待つのは、少しの難事ではあるまい。しかも、九月十三日付の読売PR版をみると、八月二十九日の地鎮祭で、「クワ入れする小林副社長」の写真が掲載されている。務台は、それだけの礼儀をわきまえた紳士である。

こうみてくると、週刊誌記者が、〝読売の跡目争い〟を、興味本位に書き立てようとしても、ケムリすらないのである。では、どうして、務台の〝読売精神〟作興への檄が、このようにネジ曲げられるのであろうか。

この時、示唆に富んだ一本の外電がある。別項で解説した、岩淵辰雄のいう〝疑い深くなった正力〟にも似た話である。

「米国に亡命したスターリンの娘、スベトラーナさんが、今月末『わずか一年』と題する新しい本を出版する。彼女は、新著でもスターリン首相を『冷酷ではあったが、きちがいではなかった』とかばっている。

同女史によると、スターリンは一九三〇年代の粛正のときには、正気を失わず、反対派を弾圧しただけだった。だが、晩年は病人とおなじで、陰謀がくわだてられているのではないかという、疑惑と妄想になやまされ、少しでも疑いをもつと、忘れることができなくなっていたという」(四十四年九月十九日サンケイ紙)

そればかりではない。務台とガッチリ組んだ編集局長原四郎の存在がある。

新社屋建設の金繰り、朝日との六百万部の大台のせ競争という、苦しく困難な命題を抱えた務台の後釜というのはさておき、「編集局長」のポストなら、オレにだって、という対抗馬の何人かがいるのである。

また、亨、武という、正力の二子をいままでカツいできて、アテの外れた人たちもいるであろう。——それらの人々にとっては、務台—原体制が、まだこれから数年もつづくのでは、自分の年齢、客観情勢からみて、〝出番〟がなくなってしまう、というアセリがあるのではなかろうか。

正力松太郎の死の後にくるもの p.216-217 週刊誌に〝売りこんだ〟男がいる

正力松太郎の死の後にくるもの p.216-217 私の正論には、名前を明らかにしたがらない奴ばらの〝務台と小林のケンカさ〟というササヤキでは、抗すべくもない。あの〝務台文書〟を、〝内紛の発火点〟とみるには、人間の善意をネジ曲げすぎているのであった。
正力松太郎の死の後にくるもの p.216-217 私の正論には、名前を明らかにしたがらない奴ばらの〝務台と小林のケンカさ〟というササヤキでは、抗すべくもない。あの〝務台文書〟を、〝内紛の発火点〟とみるには、人間の善意をネジ曲げすぎているのであった。

新聞、週刊誌に追尾す

読者は、ここで、さきほどの記者になりたい、青年の話を想い起して頂きたい。

もはや、〝大きくなりすぎて〟しまって、読売精神さえ地を払っている読売で、読売精神を鼓吹しようとして檄を飛ばし、それゆえに内紛を喧伝される——務台の悲劇的とさえもみられ得る姿。そしてその務台自身が、六百万部を目指し、輪転機九十六台が稼動する工場を内蔵した、大社屋建設の巨歩を進めつつあるという現実。

読売は〝大きくなりすぎた〟のではなくて、務台自身の努力で、〝大きくしすぎた〟のである。昭和四年の読売入社から四十年。その人生のすべてを賭け、正力を助け、女房役に甘んじ、販売店主が〝造反〟したときけば自らのり出して解決するという、母親がわが子を育てるほどの、こまやかな愛情をそそいで、それが大きく成長した今日、もはや、務台の〝読売への愛情〟は、読売社員に理解されなくなっているのである。——

業務の務台ばかりではない。編集の原とて同じである。

〝務台文書〟のような、直接のキッカケこそないが、編集局長原四郎に対する、〝批判〟の声は、

澎湃として起っている。そして、キッカケのないことが、務台攻撃を一そう強めたとみられるのである。

週刊誌記者は、以上のような私の〝解析〟の前に「読売の内紛」を記事にすることを諦めたのであった。私の正論には、名前を明らかにしたがらない奴ばらの〝務台と小林のケンカさ〟というササヤキでは、抗すべくもないのであった。全くのところ、あの〝務台文書〟を、〝内紛の発火点〟とみるには、あまりにも真実に眼をおおい、人間の善意をネジ曲げすぎているのであった。

「これでは、企画通りにゆかなくなった。絵にならないなあ(記事にならない)。折角の材料だったのに……」

週刊誌記者は、アキラメの悪いツブヤキを残しながら、私に一礼して去っていった。そして、明らかな事実として残ったことは、そのようにネジ曲げた趣旨で、この話を週刊誌に〝売りこんだ〟男が、読売社内にいる、ということであった。

現実に、読売には〝内紛〟などはないし、しかも、務台—原体制は、さらに続くということである。そして、務台—原体制にアダをしようという動きも、その体制が育て、培ってきた「読売新聞」そのものがさせるのである。ここに、従来の意味における「新聞」で従来の意味の「新聞人」として成長した、務台—原ラインの、現実とのギャップがあるのである。

務台—原体制が、さらに三、四年もつづくであろうという、見通しの根拠を述べねばならない。

正力松太郎の死の後にくるもの p.218-219 原の後釜を狙える者はまずいない

正力松太郎の死の後にくるもの p.218-219 さらに人事体制がある。金久保、長谷川の交代が八月末で、つづいて九月中旬になるや、編集局内の異動が行なわれた。社会部長の青木照夫らが局次長に進み、最重要部の政治、経済、社会の三部長が新任となった。
正力松太郎の死の後にくるもの p.218-219 さらに人事体制がある。金久保、長谷川の交代が八月末で、つづいて九月中旬になるや、編集局内の異動が行なわれた。社会部長の青木照夫らが局次長に進み、最重要部の政治、経済、社会の三部長が新任となった。

もちろん、二年後に完成を予定される、新社屋という大事業がある。これは、務台をおいては、他に人を得られないことだ。原為雄を失った毎日新聞の前例があるのだから、読売がその轍を踏むことはあるまい。

さらに人事体制がある。

報知の救援に、務台直系の菅尾と、乞われた岡本が赴いた経緯は詳述した。そして、さきごろ報知のド口沼ストが、ひとまず解決したのであるが、これは、労使ともにみるべき成果がなく、数回の休刊という犠牲を払って、なおかつ〝停戦〟的解決でしかない。

ところが、昨秋、報知入りして、平取締役(広告担当)にすぎなかった金久保通雄が、さる四十四年二月十七日、常務・編集局長に選任されて、ド口沼ストを経過しておったのだが、さきごろ、スト解決とともに、突如として解任されて、非常勤の平取締役に格下げされた。そして、読売本社から審通室長(役員待遇)で元社会部長の長谷川実雄が派遣され、代表取締役副社長兼編集局長という、破格の待遇が与えられた。

この解任劇は、もちろん、報知社内でも何の説明も行なわれていないのだが、さきごろのスト解決とは無関係ではないらしい。

金久保は、社会部長、出版局長というポストで、原の後を追うようにピタリとついてきた男だ。いうなれば、原の次期編集局長としては、対抗馬ともみられてきていた。それが、報知入りをし

て、編集局長となった時、その〝施政方針〟演説をして、「紙面で巨人軍優遇はしないし、労使の紛争解決のためとはいっても、休刊などは絶対すべきではない」旨の、組合迎合ともとれる〝スジ論〟をブッたといわれている。

このような態度が、荒廃した報知経営陣再建のため、菅尾—岡本体制を造った務台にとって、決して、愉快なものではなかったと思われる。その揚句の、解任、非常勤である。もちろん、読売復帰は望むべくもないし、原の対抗馬はこうして〝落馬〟となった。

後任の長谷川は、もちろん編集出身。なかなかのヤリ手で、労担であったのだが、代表取締役副社長というのだから、全く、金久保と違って、会社側の編集局長である。ところが、長谷川もまた、金久保にピタリとつづいたポストで、出版局長こそ経てないが、やはり、読売編集局の部長クラスに〝子分〟をもつ、原の対抗馬の二番手であった。

それが、務台直系の菅尾社長と棒組みで、代取・副社長となったということは、〝報知に骨を埋め〟にやらされたワケで、これまた読売編集局長としては、〝落馬〟である。こうなってみると読売の重役その他では、編集局部長クラスに有力な〝子分〟をもち、原の後釜を狙える者はまずいない。

この、金久保、長谷川の交代が八月末で、つづいて九月中旬になるや、編集局内の異動が行なわれた。社会部長の青木照夫らが局次長に進み、最重要部の政治、経済、社会の三部長が新任と

なった。

正力松太郎の死の後にくるもの p.220-221 「サンケイは『新聞』をかえます」

正力松太郎の死の後にくるもの p.220-221 サンケイ紙に目を通してみると、第一印象は、「週刊誌」化である。スポーツ欄は、男用に、テレビ欄は女用に。女子供用には、政治も経済も社会もない。いうなれば、完全な娯楽週刊誌の、日割り印刷物である。
正力松太郎の死の後にくるもの p.220-221 サンケイ紙に目を通してみると、第一印象は、「週刊誌」化である。スポーツ欄は、男用に、テレビ欄は女用に。女子供用には、政治も経済も社会もない。いうなれば、完全な娯楽週刊誌の、日割り印刷物である。

この、金久保、長谷川の交代が八月末で、つづいて九月中旬になるや、編集局内の異動が行なわれた。社会部長の青木照夫らが局次長に進み、最重要部の政治、経済、社会の三部長が新任と

なった。

青木は、原社会部長時代に、大阪社会部へ出たりもしていたが、生粋の社会部育ちとあってみれば、原直系といえよう。そして、後任に、世論調査室長で社会部出身の竹内理一をもってきた。竹内は「日本総点検」担当の論功行賞とみられるが、重症の〝原チン恐怖病患者〟といわれており、また、従来の政治部を徹底解体して派閥を破壊し、さらに、経済部長の河村隆をも局次長に登用したことによって、政治、経済、社会の三部を、完全に掌握した形となった。しかも、局長、二総務、三局次長のピラミッド形で、編集総務の為郷恒淳、鷲見重蔵が、間にはさみこまれるスタイルである。

このような、最近の人事の動きをみてみると、これは、務台—原体制強化である。と同時に、務台文書の趣旨を、故意にネジ曲げて読売の〝内紛〟を宣伝しようとする動きに対しての、無言の解答でもあろう。

務台の〝花道〟ともいうべき、大手町の一角に立ってみると「読売新聞社本社建設用地」と、大書された板囲いの中では、早くも工事が進められているのがうかがわれる。その用地の向う側には、サンケイ新聞の社屋があって、フンドシ(垂れ幕)が一本。

「サンケイは『新聞』をかえます」

八月の末ごろ、サンケイのPR版が都内に配られた。「九月一日から新紙面!」と謳ったそれ

にも、「サンケイは『新聞』をかえます」とある。

「どの新聞も同じようなもの——個性時代だというのに、日本の新聞は、このような批判をうけています。サンケイ新聞は、この批判にこたえる決意をしました。九月一日から、朝刊紙面を大刷新します。ありきたりの紙面改善ではありません。新しい時代が要求する新聞、読者が心から待ち望んでいる新聞、それをサンケイは一年以上にわたって、徹底的に追求しました。ほかの新聞と、どこがどうちがうか——」

そのPR版の冒頭の言葉である。これが、フンドシにいう〝新聞をかえ〟る、ということである。

ここがちがいます——新聞もどうやら、スーパーのバッタ商品のようなキャッチ・フレーズを使うまでに、〝身を落し〟たようである。試みに、九月十九日付サンケイ紙に目を通してみると、第一印象は、「週刊誌」化である。

全二十頁を、ご主人向き十二頁、奥さま向き八頁の二本立てにわけてある。スポーツ欄は、男用に、テレビ欄は女用にとなっていて出勤の時にもち出されても、自宅では困らない、というのが特徴である。

女子供用には、政治も経済も社会もない。いうなれば、完全な娯楽週刊誌の、日割り印刷物である。男用には、「連日世論調査」「行動する論説委員」「社説ではなく主張」の三本の柱がある。

正力松太郎の死の後にくるもの p.222-223 日本工業新聞社は資本金十億円として再発足

正力松太郎の死の後にくるもの p.222-223 日本工業新聞といえば、俗称〝ポン工〟とよばれる、その世界での三流紙である。日刊工業新聞という、超一流紙が、日本経済新聞とは別の意味の読者を確保して、九段下に威容を誇るその社屋とともに、頑張っている。
正力松太郎の死の後にくるもの p.222-223 日本工業新聞といえば、俗称〝ポン工〟とよばれる、その世界での三流紙である。日刊工業新聞という、超一流紙が、日本経済新聞とは別の意味の読者を確保して、九段下に威容を誇るその社屋とともに、頑張っている。

女子供用には、政治も経済も社会もない。いうなれば、完全な娯楽週刊誌の、日割り印刷物である。男用には、「連日世論調査」「行動する論説委員」「社説ではなく主張」の三本の柱がある。

これが〝ありきたりでない紙面改善〟の中身である。

やたらと、小組みや囲いもの(注。ケイ線で記事を巻いた小記事や、紙面をケイで区切った中記事のこと)が多くて、凸版の見出しやカットがふえて、全紙面を眺め終ってみた印象は、どうしても、「週刊誌」化の一語につきるようである。

新聞が、週刊誌のマネをしだした——これは重大なことである。そればかりではない。サンケイをめぐる情勢は、朝日、読売の超巨大紙化のアオリをうけて、極めてキビしいものとなってきている。

さる四十四年七月一日付で、資本金五百万円の日本工業新聞社(サンケイ系列)が、一躍、十億円の大会社に変ったことである。これを報じた日本新聞協会の機関紙「新聞協会報」の記事をおめにかけよう。

「日本工業新聞社は一日から資本金十億円の新会社として再発足するとともに、海外経済ならびに技術情報や新製品情報の充実など、大幅な紙面刷新を行なった。

これは、資本自由化の新時代に必要な産業情報を、各界の職場で働く人のため提供しようという趣旨で、〝仕事に役立つ総合産業紙〟をめざして行なわれたもの。

紙面刷新の主な内容は、①第四、第五面の見開きを、海外の経済、技術に関するワイドページ

とする。②流通面、労務面のページをそれぞれ週三回、週二回新設し、欧米式の合理的なマーケット技法や人を使うための人材情報を豊富にする。③新製品の紹介を充実させるため、編集局内に新製品室を設置、各メーカーから新製品に関する案内を集める、などとなっている。

新会社の社長には従来どおり、鹿内信隆氏が就任、これまでの資本金五百万円の日本工業新聞社は、日工出版局と名前を変えて、同社の出版業務を継続する。」(7・1付同紙)

こんな唐突な〝発展〟の記事が、素直にのみこめるであろうか。日本工業新聞といえば、俗称〝ポン工〟とよばれる、その世界での三流紙である。ここでは、すでに、日刊工業新聞という、超一流紙が、日本経済新聞とは別の意味の読者を確保して、九段下に威容を誇るその社屋とともに、頑張っている。

新聞という事業は、金さえあれば〝商売〟になるものではないことは、すでに幾度にもわたって述べてきている。従来から、すでに〝人〟を得ていない〝ポン工〟が、資本金を一挙に二百倍にしたからといって、それなりに(それに見合うだけ)〝発展〟するものではない。

第一、ここに報じられた「紙面刷新」なるものをみても、金をくう〝刷新〟は何もないようである。そして、機を同じうして、親会社サンケイの一部局で発行されていた、タブロイド版の、サラリーマン向け夕刊紙の「フジ」が、これまた独立して、フジ新聞社となったのである。

正力松太郎の死の後にくるもの p.224-225 女とガードマンとの〝野合〟を「愛」と表現

正力松太郎の死の後にくるもの p.224-225 堀でさえ、〝残酷だとか、非道だとか、そんな言葉は役に立たない〟と、言葉を探すのに苦しんでいるのである。私が指摘したいのは「愛と断絶」という四文字である。これは、あの前文の中で、どのような文意なのであろうか。
正力松太郎の死の後にくるもの p.224-225 堀でさえ、〝残酷だとか、非道だとか、そんな言葉は役に立たない〟と、言葉を探すのに苦しんでいるのである。私が指摘したいのは「愛と断絶」という四文字である。これは、あの前文の中で、どのような文意なのであろうか。

このナゾときは簡単である。もはや、サンケイの名前では、資金の借り入れも、融通さえもつかなくなったので、ポン工を十億円の大会社にして、その名前で親会社サンケイの資金の面倒をみよう、という、〝金繰り新聞〟である。と同時に、新聞はフジ・テレビ(ニッポン放送、文化放送とも)系列化に「夕刊フジ」を残して、フジ・グループとして老残のサンケイは見捨ててしまおうという作戦であろう。そして、大阪のサンケイは発祥地だけに、独立して大阪地方紙として残る公算が大きい。

それほどに、〝四大紙〟を誇称していたサンケイの実情は悪いのだし、東京新聞が中日新聞に吸収合併される直前と同じく、アラシを予知したネズミが、貨物船から逃げだすように、有能な人材は、どしどしサンケイを去りつつある。

さて、サンケイの実情はさておき、本論の「新聞の週刊誌化」という、体質変化にもどって、読売の紙面へと移ろう。わずか、一日だけの紙面を問題にするのは、群盲象を撫するのソシリがあるかもしれないが、あまりにも顕著な実例であるから、その傾向を認めざるを得まい。

四十四年九月六日付朝刊。夫が服役中の二十二歳の妻が、愛人のガードマンのため、二歳の女の子を殺した事件があった日の紙面である。この日は、大宮でも、十九歳の二男が両親を殺したという、血なまぐさいニュースの日であったが、私が指摘するのは、〝子殺し〟の事件の前文である。

「母とは名ばかりの親

——福生町でおきた幼女殺しは、若い人妻の、ゆがんだ愛の残酷な結末だった。

幼いわが子を、なんの苦もなく〝消す〟残忍な行為、愛と断絶。この悲しい事実をどう受けとめればいいのか。……」

この一文を読んで、私は、原編集局長の統卒する読売編集局の現状に、想いを馳せたのである。

九月八日付朝刊、婦人面。堀秀彦が「ときの目」で、この事件をとりあげている。

「……二十二歳の母親の記事。残酷だとか、非道だとか、そんな言葉はもはやこの場合役に立たない。尊属殺人とか幼女殺しとかいった言葉も、私にはピッタリこない。絶望的といったらいいのか、文字通り末世といったらいいのか」

堀でさえ、〝残酷だとか、非道だとか、そんな言葉は役に立たない〟と、言葉を探すのに苦しんでいるのである。文章書きのプロがそうなのである。

そのとき、この前文を書いた「読売記者」は(多分、本社詰めの遊軍記者であろう)、何と書いたのだろうか。私が指摘したいのは「愛と断絶」という四文字である。これは、あの前文の中で、どんな意味をもち、かつまた、どのような文意なのであろうか。

この事件に、果して「愛」という言葉が使わるべき内容であろうか。百歩譲って、女とガードマンとの〝野合〟を「愛」と表現したとしようか。それにしても、「愛の断絶」でもない。つま

るところ「愛と断絶」の四文字は、文章作法上、何の意味もない、感覚的文字にしかすぎないのである。このような、日本語を乱した感覚的表現は、女性週刊誌が好んでしばしば使う文字であり、文章である。

正力松太郎の死の後にくるもの p.226-227 女性週刊誌のサル真似と罵倒

正力松太郎の死の後にくるもの p.226-227 本文記事中には、子殺しの女の夫が、「窃盗容疑で服役中の刑務所……」とある。〝容疑〟で服役するようでは、一線記者たちの素養のほどがしのばれる。刑法も、刑事訴訟法もしらないことからくる、このミスである。
正力松太郎の死の後にくるもの p.226-227 本文記事中には、子殺しの女の夫が、「窃盗容疑で服役中の刑務所……」とある。〝容疑〟で服役するようでは、一線記者たちの素養のほどがしのばれる。刑法も、刑事訴訟法もしらないことからくる、このミスである。

この事件に、果して「愛」という言葉が使わるべき内容であろうか。百歩譲って、女とガードマンとの〝野合〟を「愛」と表現したとしようか。それにしても、「愛の断絶」でもない。つま

るところ「愛と断絶」の四文字は、文章作法上、何の意味もない、感覚的文字にしかすぎないのである。このような、日本語を乱した感覚的表現は、女性週刊誌が好んでしばしば使う文字であり、文章である。

だがしかし、この記事は、詩でもなければ署名記事でもない。レッキとした新聞文章なのである。五百何十万部も印刷される、大読売新聞の、社会面のトップ記事なのである。

ああ! この乱れ。このような悪文を書いた原稿が、そのままデスクの目を通り、印刷されてしまうのである。これではサンケイを嘲うことはできない。読売でさえ、このように、週刊誌のサル真似の傾向をみせている。〝どうしても新聞記者になりたい〟男のように、彼らが「新聞」に期待するものは、その高い待遇であり、カッコよさにすぎないようである。

「愛と断絶」という、この四文字は、事は小さくみえるのであるが実に、「新聞」の体質変化の具体的現れである。前述したように私の受けたデスクの教育の如きは、さらになく、多少の疑問を感じても、そのまま、この悪文を通すのであろう。

かつて、「社会の木鐸」であった新聞記者が、かくの如く、小手先きの器用さで原稿を書きなぐり、マス・プロ、マス・セールの〝一商品〟と化した新聞に拠る。〝ここが違います〟という、スーパーまがいのキャッチ・フレーズも当然である。

さらに付言するならば、この前文につけられた「狂った残暑」という見出しもまた、全く見当

外れである。これまた、週刊誌の見出しに他ならない。

かつて、原が出版局長時代、昭和三十年代のはじめの新聞週間におりからの週刊誌ブームに対して、日本新聞協会の講師となった原は、こういっている。「週刊誌ブームというものも、ラジオが思わぬ発達をとげたため起ったものだが、新聞がしっかりしていれば、週刊誌など作る必要はなかったハズだ。新聞が増ページして、週刊誌などつぶしてしまわねばならないと思う」(新聞協会報一三五六号)

この講演から十余年を経て、編集局長となり、完全に局内を掌握し、局長としての抱負がすべて実行可能となった現時点で、事実、新聞は増ページしているにもかかわらず、週刊誌はツブれるどころか、いよいよ花盛りである。そして、その原の部下は、週刊誌のサル真似で、「愛と断絶」などという、正体不明の日本語を、さも〝美文〟らしくトップ記事におりこみ、デスクもまた、それを見逃しているのである。

蛇足ながら、さらにつけ加えれば、同本文記事中には、子殺しの女の夫が、「窃盗容疑で服役中の刑務所……」とある。「愛と断絶」を、女性週刊誌のサル真似と罵倒するのは、この本文記事もからんでのことだ。〝容疑〟で服役するようでは、一線記者たちの素養のほどがしのばれる。刑法も、刑事訴訟法もしらないことからくる、このミスである。

刑法、刑事訴訟法をノゾきもしない、社会部記者の書く〝事件記事〟——これこそ、女性週刊

誌の社外記者たちの書く記事と、軌を一つにしており、感覚で取材し、感覚で執筆しているとしか認められないのである。

正力松太郎の死の後にくるもの p.228-229 そんなことをしたら今後の取材がやれなくなる

正力松太郎の死の後にくるもの p.228-229 このような基本的な姿勢の積み重ねの結果、「週刊新潮の記事はツブせない」という〝週刊誌らしからざる〟評価を獲得しているのである。しかし、このような「姿勢」とその「評価」は、本来は「新聞」のものでなければならなかった、のである。
正力松太郎の死の後にくるもの p.228-229 このような基本的な姿勢の積み重ねの結果、「週刊新潮の記事はツブせない」という〝週刊誌らしからざる〟評価を獲得しているのである。しかし、このような「姿勢」とその「評価」は、本来は「新聞」のものでなければならなかった、のである。

刑法、刑事訴訟法をノゾきもしない、社会部記者の書く〝事件記事〟——これこそ、女性週刊

誌の社外記者たちの書く記事と、軌を一つにしており、感覚で取材し、感覚で執筆しているとしか認められないのである。

そのミスを見落すデスク、疑問を感じない校閲(私が社会部記者だったころの校閲記者たちは、「これは間違いでしょう」「これでは文意が通りません」「これは用法上誤まりです」と、ゲラを片手に、社会部デスクに押しかけてきたものであった)、全くのところ「新聞」はすでに「新聞」ではなくなってしまったのである。

そして、この〝新聞記者魂〟は、もはや、読売や朝日などの、超巨大新聞の、編集局現場にはたずね当らず、小人数ながら、大きな発行部数をもつ、「週刊新潮」などに見られるのも、何と皮肉なことであろうか。

「週刊新潮」をひろげてみると、毎号二本ほど入っている「告発シリーズ」、「罪と罰」欄、「週刊新潮」欄、「東京情報」、「タウン」などの頁は、その批判と抵抗の精神において、新聞本来のあり方を踏襲しているようである。もっとも、雑誌らしい〝糖衣錠〟であったり、〝人工甘味料〟などを用いたりはしているが、今日の「新聞」よりは、はるかに積極果敢に、社会正義のためへの戦いを挑んでいる。

さきごろ、新潮社の社員の夫人が、身重の身体で、北海道の雪の下から、死体となって発見される、という事件があった。同社幹部と、いささか縁辺の者であったとかで同姓だったため、こ

のニュースは新聞雑誌を色めきたたせた。〝社長夫人〟と誤伝されたためであった。

この時、同社幹部は、事情が明らかでないために狼狽して、マスコミ関係各社に、同事件の不掲載方の工作をはじめだしたという。それと知った現場の記者たちは、猛烈な突きあげで、そのような〝ウラ工作〟に反対した、といわれている。「そんなことをしたら今後の取材がやれなくなる」という理由だったらしい。

幸いにも、その後、事情が明らかになって、スキャンダルではないということになり、幹部たちも〝ウラ工作〟をやめる結果となった。記者たちは、この事件を故意にスキャンダルにとりあげる社があったなら、真相を十分に納得がゆくまで説明し、それでもやるというなら、その社に対して、反撃を加えようと、体制を整えて待機していた、とまで伝えられている。

伝聞で恐縮だが、この話の真否は、取材していない私にとって、明らかではない。しかし、この〝ヤミ取引〟を中止させる、現場記者の突きあげ、取材側への十分な説明と、デマ・メーカーへの反撃準備などというのは、いわゆる週刊誌記者の、従来のあり方とは全く違って、いうなれば、あまりにも新聞記者的である。

このような基本的な姿勢の積み重ねの結果、「週刊新潮の記事はツブせない」という〝週刊誌らしからざる〟評価を獲得しているのである。しかし、このような「姿勢」とその「評価」は、本来は「新聞」のものでなければならなかった、のである。そして、読売新聞もまた、その例外 ではない。

正力松太郎の死の後にくるもの p.230-231 出来高払いの売文業

正力松太郎の死の後にくるもの p.230-231 それらの、〝エンピツ女郎〟〝エンピツ風太郎〟の一つの典型を私は、松本清張と、その周辺に群がる下請け売文業者、そして、それを黙認して、活字にし、出版している文芸春秋社とにみるのである。
正力松太郎の死の後にくるもの p.230-231 それらの、〝エンピツ女郎〟〝エンピツ風太郎〟の一つの典型を私は、松本清張と、その周辺に群がる下請け売文業者、そして、それを黙認して、活字にし、出版している文芸春秋社とにみるのである。

このような基本的な姿勢の積み重ねの結果、「週刊新潮の記事はツブせない」という〝週刊誌らしからざる〟評価を獲得しているのである。しかし、このような「姿勢」とその「評価」は、本来は「新聞」のものでなければならなかった、のである。そして、読売新聞もまた、その例外

ではない。

正力松太郎という、「偉大なる新聞人」の衣鉢を継いで、務台光雄、原四郎というコンビが、今、読売新聞の世界制覇という、歴史的瞬間へと向って、着実な歩を進めつつあることは、誰も否定できない。だが、正力に次ぐ、〝偉大な新聞人〟たらんとしている、この二人が、その任務を果し終えた時、「新聞」や、「読売新聞」は、果して、彼らが期待した通りの、「新聞」や、「読売新聞」であるかどうかは、疑問である。なぜかならば、務台も原も、あまりにもマトモな「新聞人」であるからである。

そして、私は、43年1月に書いた、「誤報論」(正論新聞43年1月1日号)の一節を想起するのである。

「国会議員の国政調査活動と、作家の資料調査活動、そして、記者の取材調査活動は、一見、同じように見えても、それぞれに、全く異質のものであるのだ。

ところが、雑文書きが記者の取材調査活動の、動きの動作だけを真似て、〝記者の取材調査活動〟らしきことをして、その結果を文章にまとめ、活字にすることが極めて多い——週刊誌の無署名記事のほとんどが、それである。

彼ら、ライターと称せられる手合は、ほとんど全く、〝記者としての基礎訓練〟はおろか、人

間としての基礎教養すら、欠けるところが多いのである。それは、活字になった事実が、雄弁に証明しているではないか。

新聞は、まだしも、新入社員に対しては記者としての基礎訓練を施すが、雑誌にいたっては、編集記者とも取材記者とも区別せず、かつ、基礎教育などは、やっていないようである。

それどころか、自社の社員として管理責任をもつべき記者を減らし、小器用なだけの、売文業者を大量に使用する。ライターもしくは社外ライターとよばれる彼らは、いうなれば、〝デモシカ記者〟である。記者デモやるか、記者シカやれない、という連中だ。これが原稿の量で収入を得るという、出来高払いの売文業だから、極めて無責任な文章を書くのは、当然であろう。

それらの、〝エンピツ女郎〟〝エンピツ風太郎〟の一つの典型を私は、松本清張と、その周辺に群がる下請け売文業者、そして、それを黙認して、活字にし、出版している文芸春秋社とにみるのである。

虚報、歪報をふくめての、広い意味での〈誤報〉が、報道の自由を貫き、言論の自由を守るために、大きな障害になりやすいことは明白である。そのためには、ゴシップやスキャンダルは除き、時事問題の報道には、やはり、徹底した「真実」の厳しさが要求される。雑誌であると新聞であるとを問わず、活字媒体のもつ、記録性と随時性とからみて、絶対にベストを尽して、〈誤報〉を避けねばならないのである。