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新宿慕情 p.020-021 日活の滝新太郎・花柳小菊、松竹が上原謙・桑野通子

新宿慕情020-021 伊勢丹も三越も小さかった。新宿駅の正面玄関は、二幸に面していた。映画館は、日活帝都座。新宿松竹館は…。
新宿慕情 p.020-021 伊勢丹も三越も小さかった。新宿駅の正面玄関は、二幸に面していた。映画館は、日活帝都座。新宿松竹館は…。

小さかった伊勢丹

伊勢丹だって、今日の隆盛ぶりが、信じられないほどの、小さなデパートだった。確か、角が伊勢丹で、その手前に、ほてい屋という、同じぐらいのデパートがあって、それを合併したのは昭和十年代の初期だったと思う。

いまの伊勢丹本館の四分の一か、六分の一ぐらいの広さだろう。

三越も、いまの位置で、もちろん、小さいものだった。当時は、三越は、「きょうは三越、あすは帝劇」という、第一級社交場——伊勢丹などは、足許にも寄れないデパートだ。いまの三越の現状を見ると、それこそ斜陽の感が深い。

同郷の立教大学の英文科の学生が、下宿の侘びしさをまぎらわしに、良く、私の家に食事にきては、ダベっていた。

まだ、私が小学生のころだった、と思う。その人が、新宿の三越の、店内掲示の英語看板にミス・スペリングを発見して、売り場の店員に注意をした、というのだ。

すると、翌日、支店長が五円の商品券を持って、下宿にまでお礼の挨拶にきた、という話をしていたのを、まだ憶えているが、当時の五円が、どれほどの値打ちがあったか——昔日の三越の店の格式を物語って、あまりある話、ではある。

新宿駅の正面玄関は、二幸に面していた。つまり、東口である。いまの駅ビルに変わる前まで

古臭い駅舎があったのだが、それももう、忘れてしまった。

映画館といえば、伊勢丹角にあった、日活帝都座しか、記憶がない。いまの、丸井の場所である。当時から、日活多摩川作品に対して、松竹蒲田映画、とくるのだが、どうしても、新宿松竹館が、どこにあったのか思い出せない。

日活の滝新太郎・花柳小菊の夢心コンビに対しては、松竹が上原謙・桑野通子の、都会的なコンビで売っていた。日活側はやや下町調なのだ。

上原、桑野の御両人は、ファンからは、当然、結婚するものだ、と、思われていたのだが、上原は、小桜葉子と結婚して、全国のファンを驚かせた。桑野通子は、森キャンだか、明菓だったかの、スイート・ガール出身(ウェイトレスや売り子を、こう呼んでいた)の美人で、売れっ子のあまり、兵隊に取られて台湾に行った上原に、あまり手紙を書かなかった、という。

そのスキに、三枚目で、あまりモテなかった小桜葉子が、セッセと、毎日、手紙を書きつづけて、上原謙の心を動かした、と、ファン雑誌で知ったものだが、その上原謙の、六十何歳だかの再婚ニュースが、同じような雑誌に書かれている。

松竹系の、新宿第一劇場というのが、南口、明治通りと甲州街道の交差点近く、いまの三越モータープールのあたりにあった。新宿松竹館は、その付近だった、カモね……。

新宿慕情20-21 小さかった伊勢丹

伊勢丹も三越も小さかった。新宿駅の正面玄関は、二幸に面していた。映画館は、日活帝都座。新宿松竹館は…。
新宿慕情20-21 伊勢丹も三越も小さかった。新宿駅の正面玄関は、二幸に面していた。映画館は、日活帝都座。新宿松竹館は…。

赤い広場ー霞ヶ関 p.092-093 眼下の路地で口笛が鳴った

赤い広場ー霞ヶ関 p.092-093 A man appeared, killed his voice and said coldly. "Совершаете самоубийством!(Commit suicide!)"
赤い広場ー霞ヶ関 p.092-093 A man appeared, killed his voice and said coldly. “Совершаете самоубийством!(Commit suicide!)”

ユーリは、はじめのうちには二、三人のソ連人と一緒にやって来たが、一年目頃からは、一人で車を飛ばして、連絡場所にやって来るようになった。

東京における、彼らソ連人の行動は、私にとってなかなか興味深いものであった。(中略)

二月三日の夕暮れどき、当時すでに幡ヶ谷のアパートに転居していた私は、二階の自室で節分の豆撤きしながら、何気なく窓を開けると、眼下の路地で口笛の鳴ったのを聞いた。

ピューッというソ連人独得のあの鋭い口笛だった。誰か連絡に来たのかも知れない、と咄嵯に考えて、私はオーバーを着込んで外へ出た。口笛のした方向に二、三間注意深く歩いて行くと、電柱の陰から一人の男が現われて、私に触れんばかりに近寄り、声を殺して冷たくいった。

『サヴェルシーチェ・サマウビーストヴォ!(自殺しろ)』

その男はそれだけいうと、そのまま甲州街道のほうに去ってしまった。

私はその瞬間、恐怖にとらわれて全身を硬ばらせた。が、その次には無性に癪にさわって、怒りの感情がこみ上ってくるのを覚えた。(中略)

二月四日の夜は都内の旅館に泊った。そして私の考えた結論、それは『私の運命を決めてゆくのはこの私自身だ』という平凡なことであった。五日の朝、私は東京警視庁の石段を登っていった。私の「独相撲」には終止符が打たれたのである。

この手記のうち間題となるのは、〝自殺せよ〟とささやいた男の件りである。ラ氏が失踪してからのち、彼の協力者であった志位氏のもとに、果して誰が何の目的で〝自殺せよ〟とささやく必要があるのであろうか。

抹殺する必要があるなら、ささやくよりも黙って殺すであろうし、脅かせば敵陣営内に逃げこむことは、その後の事実の通り明らかである。志位氏は私のこの疑間に対しても、『自分自身も何のため、このようにささやかれたか分らない』と答えて、その場の状況を、手記の通りに繰返すばかりであった。

捜査当局では、志位氏の供述によって、この〝ささやいた男〟を捜査した。志位氏は、この手記では「一人の男」とのみ書いているが、週刊読売には「一人の見知らぬ男―多分東洋人であったろう―」と書いているし、当局への供述では『最初のレポのジープの運転手だったような気もする』といっている。 そこで、当局では元ソ連代表部に関係のある人物すべてを網羅した、然るべきアルバムをみせて、一人一人の〝面通し〟をしたところ、『これではないか』と、彼が記憶を頼りに指摘した数人の人物は、いずれも当時は日本にいない人物だった。その結果、当局では志位氏の記憶が不正確なのか、或は故意に適当な人物の写真を示したのか、というようなアイマイな結論を出したが、当局もまたこの部分の信ぴょう性について、深い疑問を抱いたままでいる。