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読売梁山泊の記者たち p.016-017 傲岸不遜な渡辺も、鞠躬如

読売梁山泊の記者たち p.016-017 鞠躬如(きっきゅうじょ)として舞台に登場してきた。もちろん、「オレが総理にしてやった」と、豪語する渡辺である。現職総理の中曾根ごときに〝鞠躬如〟するのではない。務臺に対してである。
読売梁山泊の記者たち p.016-017 鞠躬如(きっきゅうじょ)として舞台に登場してきた。もちろん、「オレが総理にしてやった」と、豪語する渡辺である。現職総理の中曾根ごときに〝鞠躬如〟するのではない。務臺に対してである。

しばらくの沈黙ののち、原は「本人たちの話を聞いてからにしよう」と、その日の結論を出した。

その夜、渡辺から電話がきた。

「局長に呼ばれて、叱られたよ。ともかく名前だけはカンベンしてよ。明日、逢いたいんだ。中曾根にも会ってくださいよ。将来、総理になる男だから知っていてソンはないよ」

翌日、約束の場所にいってみると、氏家がきていた。

「ナベさんは、仕事でどうしても来られないんです。局長には、『お前たち同じカマの飯を食った仲だから、お前たちで片づけろ』といわれました。

で、ともかく中曾根に会って、彼の話を聞いてやってよ。知っておいて悪い男じゃないんだから」

「中曾根に、どんな質問をしてもよいというなら、会ってもいいよ」

原に会った時のフンイキや、お前たちで片づけろ、という返事など、私はやはり実名は出せないナと、そう考えていたので、中曾根会見を承知した。その話は省略するが、いかにも、中曾根らしい返事だった。

この時以来、渡辺、氏家の二人三脚は、東大以来つづいているのだ、と感じていた。

だが、昭和四十九年名簿でみると、氏家は一等部長の経済部長、渡辺は三等部長の解説部長。昭和五十年には、氏家は広告局長、渡辺は編集局長の下の五番目のドンジリ局次長。

昭和五十二年では氏家が取締役広告局長、渡辺はやっと、編集局長の次の次の編集総務である。氏家にドンドン先を越されているのだから、おもしろかろうハズがない。

昭和五十七年では氏家の名前がない。日本テレビの専務に出ていった時の挨拶が、冒頭のアイ・シャル・リターンで、読売に帰ってくるぞ、ということだ。

渡辺はこの時、務臺代取会長から数えて、八人目の常務・論説委員長。先輩の編集総務だった水上達也は、渡辺の次の次で、ヒラ取・編集局長だ。

その二年後――昭和五十九年に、日本プロ野球五十年、すなわち、巨人軍の五十周年記念パーティが、ホテル・ニューオータニで盛大に催された。

専務取締役・主筆・論説委員長になって、六番目に栄進していた渡辺が、ファンファーレとともに、時の総理大臣・中曾根康弘を先導して、鞠躬如(きっきゅうじょ)として舞台に登場してきた。待ち受けているのは、代表取締役・名誉会長の務臺光雄。

わざわざ、事典をひいて、〝鞠躬如〟という言葉を使ったのは、「身をかがめ、恐れ慎んでいるさま」(新潮国語辞典)そのままだったからである。

もちろん、「オレが総理にしてやった」と、豪語する渡辺である。現職総理の中曾根ごときに〝鞠躬如〟するのではない。務臺に対してである。

この年の名簿が、手許にないのだが、昭和六十年では、務臺の肩書は代取・名誉会長になっている。多分、この五十年パーティの時も、ひとたび剥がれた代取を、もう取り戻していた、と思う。つまり、あの傲岸不遜な渡辺も、務臺の前では、〝鞠躬如〟だったのである。

かつて、読売新聞では、ヒラの政治部記者・藤尾正行が、傲岸不遜の代表であった。その頃、小田

急梅ケ丘駅で、時の政治部長・古田徳次郎と藤尾、そして私の三人が、朝一緒になったことがある。

迎えにきたジープ p.196-197 三橋氏のように偽装して帰国

迎えにきたジープ p.196-197 Eight people, who were sent to the Spassk camp, received private instruction on spy technology in a special operative's house. They disguised themselves as general repatriates and returned to Japan.
迎えにきたジープ p.196-197 Eight people, who were sent to the Spassk camp, received private instruction on spy technology in a special operative’s house. They disguised themselves as general repatriates and returned to Japan.

そこに四ヶ月いたわけですが、大体教育は三ヶ月で終ったんです。まあ通信機の隠し場所はどういうところがいいとか、例えば漬物の桶を二重底にして下に無線機を入れろ、炭俵の底に機械を入れて、上に炭を入れておけ、小さいものは壁をえぐって中に入れ、元通り蓋しておけ、天井裏なんかすぐ狙われるからまずい、などと言っておりました。

また庭の敷石を持上げて、その下に入れるようにとか、電文など書類は箱かなんかに入れて石垣なんかあったら、石を一つ抜けば入れられるように細工をしてかくせなど言われた。永久的に一年なり二年なり使わない場合は罐に湿気が入らないように密封して、エナメルでも塗って地下に埋めておけとも言われた。

それから尾行を発見する方法については、ときどき振返ってみずに、曲り角で来た方向をちょっと見るとか、電車の乗降のとき自分と一緒に乗った人間を覚えておいて、降りるときにその中の人間が一緒に降りたら注意しろ。次に尾行されたら、約束の場所には来ないのが鉄則だと教わった。

十月三十日の午後三時頃急行列車でモスクワ駅を、雪の降る中を出発しました。バイカル湖をちょっと通り過ぎたあたりでゲーペーウーみたいなものが入ってきました。付添の将校が証明書を出したけれどもやっぱりさすがに私には目をつけましたね。日本人というとおかしいとみられると思ったのでしょうか。私の名は朝鮮人の何とかいう名前になっていたらしいんです。

やっばりこうなったら、向うは同じソ連人の内部でも知らせないという態度をとっているんですね。

出発するときにリヤザノフが、朝鮮人ということになっているんだが、ということを言っておりました。それでハバロフスクへ着いたわけです。

ハバロフスクの隊長の家に、すぐ行ったんです。そこで、今まで着てきた私服を全部ぬいで、またそこの日本人の捕虜の服を着て、そっくり新京からシベリヤへ出発した当時の元に還って、十六地区の十八分所というのに入ったわけです。他の兵隊には病気で入院しておって、こっちへ送られたんだと言うことにして、体が悪いからとの口実で作業はしませんでした。

十一月の二十二日頃、ナホトカを出て十二月の三日に舞鶴へ着いたというわけです。

この一緒にスパースクに送られた八人というのは、高田少佐、土田、小林、近藤、野崎、平島各少尉、伊藤曹長、三橋一等兵の八名であるが、いずれも、特殊工作家屋の中で、スパイ技術の個人教授を受け、三橋氏のように偽装して帰国したのである。

そしてこれらの多くの人が、ラストヴォロフ事件で警視庁の取調べをうけ、参考人として供述調書をとられたのである。

その調べから、帰国後の最初のレポ状況をみよう。

▽三橋氏の場合

十月三十日、そこを出発したが、その前つぎのような指示をうけた。内地へ帰ったら、その月の中

旬のある日(たしか十六、七日と思う)に、上野公園交番裏の石碑にチョークで着の字を丸でかこんだのを記せ。