自由法曹団」タグアーカイブ

編集長ひとり語り第54回 反権力の一途に生きて

編集長ひとり語り第54回 反権力の一途に生きて 平成12年(2000)12月9日 画像は三田和夫60代くらいか
編集長ひとり語り第54回 反権力の一途に生きて 平成12年(2000)12月9日 画像は三田和夫60代くらいか

■□■反権力の一途に生きて■□■第54回■□■ 平成12年12月9日

むかし、徳田球一という共産党の大ボスがいた。「獄中18年」といわれ、日本の敗戦後に、マッカーサーによって合法化された、現在の日本共産党の初代書記長だった。が、昭和25年の朝鮮動乱後、日共幹部が追放され、中国に亡命して客死した。

そのわずかな合法時代。日比谷公会堂での演説を聞いて、“反動読売の反動記者”と左翼から呼ばれていた私が、取材で来たことも忘れ、興奮して、拳を握り、手を振りあげて叫んでいたことを覚えている——それほどのアジテーターだった。大衆を前にして、彼らをトリコにしてしまうカリスマ性だった。

ちなみに、同じアジテーターでも、小人数の聴衆を引きずりこむのが、元参謀の辻政信だった。動と静、対照的な2人のアジテーター。もちろん、新聞記者である私は、この2人のアジテーターに、自分が煽られていることを、客観的に見つめている、もうひとりの自分がいることも、忘れはしなかった。

なぜ、愛称・徳球の話を持ち出したか、といえば、さる12月2日、市谷の私学会館で、「石島泰弁護士を偲ぶ会」が日本国際法律家協会有志によって催されたからだ。そして、彼の弁護によって、無罪の判決を受けた元被告たちの、故人に対する感謝の言葉を聞いているうちに、石島の遺影にダブって、徳球サンの顔や姿が思い浮かんだのだった。

石島と私とは、小学校から府立五中卒業までの10年間ほど続いた級友だった。彼ともうひとり、同じ小学校、中学と歩んだ三ヶ月章とが、一高、東大というエリートコースを歩んだまでは知っていたが、五中の卒業級友会以後、この2人と会うことはなかった。

戦争、敗戦という混乱が、さらにその機会を与えてくれなかった。昭和18年、日大を出た私は、読売新聞に採用されたのち、出征、シベリア捕虜2年を経て、読売に復職。司法記者クラブに所属していた。その当時、「自由法曹団という左翼系に、石島というツワモノがいる」と、耳にはしていたが、石島泰とは結びつかなかった。何故かならば、一高、東大の秀才は、権力志向だから役人になるものだ、という先入観が私にあったからだ。

読売復職後、私が、最初に書いた署名原稿の「シベリア印象記」が、反ソ的だというので前述のようなレッテルを貼られていた。そして、メーデー事件の公判で、“共産党”のレッテルを貼られた被告のひとり(東大大学院学生)が、家庭教師の職を失い、生活に窮して、分離公判を申請した。その取材をした私が書いた記事には、「共産党はお断り」という大見出しがつけられた。

ところが、彼は東大内で吊るし上げられたので、「読売記事はデマだ」と弁明して、その取り消し要求のため、自由法曹団・石島弁護士とともに、社にやってきた。受付からの電話で、私は緊張した。アノ石島が現れた! というのだ。編集局の応接室のドアをあけて、その顔を見たトタン、私は叫んだ。「石島というのはお前か!」「三田というのでもしやと思ったが、やっぱりお前か!」と石島。劇的な再開シーンに、情けなさそうな表情の被告。

それからのち、石島の弁論を法廷で何度か聞いた——明快な論旨、タタミこむ声量と弁説。法廷には、緊張感がみなぎるのだった。それは、アジテーションではないが、十分な説得力で、裁判官も検事も、傍聴席をも巻き込んで、興奮させる。それこそ、徳球張りの演説だった。

自由法曹団気鋭の左翼弁護士と、反動読売新聞切っての反動記者という、対照的な二人の交際は、ともに事務所が銀座だったので、奇妙につづいていった。当時の共産党員にはヒューマニストが多く、石島もそのひとりだ。

一方、もうひとりの同窓・三ヶ月章はどうなったか。東大卒業後、大学に残り、講師、助教授、教授、名誉教授と進み、最後は、小渕内閣で法務大臣という、権力の途を歩んでいった。私が石島を尊敬するのは、一高、東大というキャリアから、望めば権力側での大成が期待されるのに、終始反権力の道を選んだからである。

石島の訃報は、一般紙にも出たのに、赤旗には載らなかった。私の憶測では、共産党を除名されたのではないかと思う。それは、「田中角栄の弁護を引き受けてもいい」という、刑訴法321条の問題。ロッキード事件で、有罪の決め手となったコーチャン調書の証拠能力への疑念問題で、左翼は猛然と石島批判を展開したからである。(この件は月刊文芸春秋10月号、蓋棺録に詳しい)スピーチを指名された私は、こう結んだ。「…二人の同窓生、三ヶ月は法相をやったので、死ねば勲一等でしょう。しかし、石島には、遺影だけでナニもありません。それが、私をして彼を尊敬せしむるのです」と。 平成12年12月9日

最後の事件記者 p.034-035 分離希望の第一号はニュースだと感じた

最後の事件記者 p.034-035 会って話を聞いてみると、分離希望の第一の根拠は、『もう、共産党はゴメン』ということだった。家庭教師の口は断られ、就職が内定していた会社は取消す、妻は臨月で、もう喰って行けないのだ。
最後の事件記者 p.034-035 会って話を聞いてみると、分離希望の第一の根拠は、『もう、共産党はゴメン』ということだった。家庭教師の口は断られ、就職が内定していた会社は取消す、妻は臨月で、もう喰って行けないのだ。

Kという東大工学部大学院の学生であった。彼は、メーデーに参加して、あの騒ぎが始ま

り、落したメガネを拾おうとしたところを、警官に殴られたので殴りかえしたという、検挙第一号の男だった。

私選弁護人を頼んできた理由というのが、統一公判を受けていたら、一体何時になったら終るのか判らないし、公判の度に休まねばならない。メーデー事件の被告というだけで職にもつけない、という悩みからだという。

そのころ、メーデー公判は、「統一なら無罪、分離なら有罪」と、しきりに宣伝されていて、被告団の結束を固め、法廷斗争を行っていた時期だった。村木弁護士に聞けば、さらに二人の被告が、分離を希望して相談にきているという。

私は、このようなメーデー公判の客観状勢を知っていたので、この分離希望の第一号はニュースだと感じた。しかも、K被告だけではなく後にも続いているという。

共産党はもうゴメン

車を飛ばして、練馬の奥の方のK氏の家を探した。会って話を聞いてみると、分離希望の第一の根拠は、『もう、共産党はゴメン』ということだった。家庭教師の口は断られ、就職が内定し

ていた会社は取消す、妻は臨月で、もう喰って行けないのだ。だから、共産党でないということを、客観的事実で示したい――というのである。

私は心中ニヤリとした。いわば、彼の立場は〝裏切者〟第一号である。

『宜しい。あなたが共産党でないことは、記事の中にハッキリ書いてあげましょう。共産党とされて、喰って行けなくなったのだから、それを明らかにすれば、道は通ずるでしょう。そのことを手記にして、弁護士に訴えなさい。それがニュースのキッカケになるのですから……』

こうして、その記事は「自由法曹団をやめないと、真実はいつまで経っても判らない」という、共産党の指令のもとに、法廷斗争という戦術の場に、メーデー公判を利用している自由法曹団を、被告という内部から批判したものとしてまとめられた。

十月一日の投票日の数日前に、私はその原稿を提稿したのだったが、選挙前で紙面がなく、しばらくあずかりになっていた。

ところが、共産党の候補者が全滅し、それに対する論調が賑っていた十月三日の夕刊に、それがトップで掲載されたのである。「共産党はお断り」という、大きな横見出しが、開票直後だっただけに、凄く刺激的で、効果的だった。

p57下 わが名は「悪徳記者」 王長徳と小林初三

p57下 わが名は「悪徳記者」―事件記者と犯罪の間―三田和夫 1958 これが私と王長徳との出会いのはじめであるが、〝過去のない男〟の彼は、とかく〝大物〟ぶりたいという癖のある男だった。
p57下 わが名は「悪徳記者」―事件記者と犯罪の間―三田和夫 1958 これが私と王長徳との出会いのはじめであるが、〝過去のない男〟の彼は、とかく〝大物〟ぶりたいという癖のある男だった。

話を聞いてみると、帆足、宮腰氏らの訪ソ旅行の旅費を出したとか、自由法曹団の布施弁護士は父親みたいな仲だとか、花村元法相とは「花ちゃん」という付き合いだとか、いろいろと面白い話が多い。そこで窮余の一策として、彼に会って、『貴方が上海の王といわれる有名なバクチ打ちか』と、当ってみたものだ。

すると、ハッキリ別人だということが調査して判っていたのに、意外にも彼はニコヤカにうなずきながら、『そうです。私が上海の王です。上海時代はビッグ・パイプとも仇名されていたので、このキャバレーにもその名をつけたのです』というではないか。

こうして、「登録証を信ずると、十一歳の時にビッグ・パイプという名を持った国際バクチの大親分という、世にもロマンチックな話になる」と、皮肉タップリな記事となって紙面を飾った。

これが私と王長徳との出会いのはじめであるが、〝過去のない男〟の彼は、朝鮮人とも北鮮育ちの中国人ともいわれるが、異国での生活の技術にか、とかく〝大物〟ぶりたいという癖のある男だった。金の話は常に億単位なのだから、国際バクチ打ちの〝身分〟を買って出たのも、彼の生活技術であろう。

ニュース・ソース

小林元警部補とは昭和二十七年から三十年の三年間、私が警視庁クラブにいた時に、彼が現職だったので知り合っていた。ところが彼は退職して、銀座警察の高橋輝男一派の顧問になってしまった。そのころも、銀座あたりで出会ったりしていたのだ。

高橋が死んでから、彼は〝事件屋〟になって王と近づいたらしい。

赤い広場―霞ヶ関 p056-057 日暮が警察の待ち伏せをラストヴォロフに通報。

赤い広場―霞ヶ関 p.56-57 日暮が警察の待ち伏せをラストヴォロフに通報。
赤い広場ー霞ヶ関 p.056-057 Higure tells Lastvorov the ambush of the police in secret.

彼女ははじめて事の重大さに驚いて協力を約束した。この間の経緯は将来に備えて、正規の警察官調書となって、彼女の署名捺印とともにいまも当局に残されている。

こうして、米兵とラ氏とのレポの時間と場所が判明した。だが、その現場を包囲した係官たちの顔には、ようやく焦躁の色が浮んできた。米兵は定時刻に現れたが、ラ氏は来ないのである。

ラストヴォロフはついに、現れなかった。何も知らない米兵と、何も彼も知っている係官たちとは、それぞれに失意のうちに帰っていった。ラリー大尉も、ジェニー一等兵も、そしてソ連人と親しくしていた他の米兵も、本国へ送還されたことはもちろんである。

「山本調書」には、この件りについて次のようなラ氏の供述が書いてあるという。

……警視庁の係官たちが現場に張り込んでいる。危険である。という日暮からの知らせがあったので、それ以後はその米兵と会うのは止めました。

当時、日暮氏はモスクワ時代の〝事件〟について、率直にその旨を上官に申告していたのである。だが上官たちは、自己にその責任の及ぶことを恐れ、また或いは対ソ情報源としてその〝事件〟と〝事実〟とを黙認していたといわれている。もしこれが事実ならば、この上官たちには何の責任もないものだろうか。日暮氏のこのラ氏への通報は、明らかに公務員法第百条違

反であろうが、日暮氏一人に負担させられるべき性質の問題だろうか。

また日暮氏の供述には新日本会グループのことがある。私はこのことを〝説“として以下に紹介したが、彼はこれを〝事実〟として供述しているのである。

さらにまた、内閣調査室における複雑な彼の立場がある。彼はまたこの事実も語っているのである。

自供しようが、否認しようが、また、その名前が公表されようが、されなかろうが、〝スパイ〟は殺されるのである。長谷検事はこういっている。『きよう出来上った調書が問題で、内容を明らかにすれば自殺者の気持が判ると思う』(八月二十八日付毎日夕刊)

一切を否認して、左翼系の自由法曹団の庇護を受けて強弁する庄司氏の態度よりは、率直に一切の真相をブチまけ、ソ連の諜報謀略工作の全貌を当局に教え、さらに政府内部への忠告として、外務省幹部たちの氏名と、その非日活動(という言葉が当るならば)の事実とを曝いた、日暮氏の勇気ある行動は、やがて史家によって認められ、賞讃に値することになるに違いない。

後に遺された幼い子供達の、健やかな成長のためにも、その日のあるを願ってやまない。日暮氏もまた、ソ連スパイ組織の脅迫と強制とによって、その平和と幸福とを奪われた一人であるから……