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編集長ひとり語り第31回 ガングロたちへの提言

編集長ひとり語り第31回 ガングロたちへの提言 平成11年(1999)10月16日 画像は三田和夫71歳(左側 成田空港1992.08.06)
編集長ひとり語り第31回 ガングロたちへの提言 平成11年(1999)10月16日 画像は三田和夫71歳(左側 成田空港1992.08.06)

■□■ガングロたちへの提言■□■第31 回■□■ 平成11年(1999)10月16日

さる10月3日付の「しんぶん赤旗」紙は、女子美短大の池田孝江講師(服飾史)の「歴史はくり返す? 厚底サンダル」という一文を掲載していた。今週封切り予定の米映画「娼婦ベロニカ」の予告編に、木靴カルカニーニが出てきた、という書き出しである。

16世紀ベネチアでは、高級娼婦から一般女性まで、14センチから40センチもの、カルカニーニを履いていた。それは、ベネチアでは、運河が洪水を起こすので、女性の自衛のためのものだった。当時の画家ヴェチェッリオの描いたものがあり、スカートの下に男性用の半ズボンを着け、カルカニーニを履いている姿が見られる。

「私たちは男のうしろからついてゆくのではなく、同等に、時には男の腕をとってリードしてゆくのです」と、女子学生が語っているそうだ。「体位の上でも仕事の上でも、男性と同等の目線でものを見、活躍する時代は、もう手の届くところまで来ています」が「しかし厚底サンダルは、男女機会均等に寄与する積極性より、行動を束縛されかねません」と、男性と同じ高さの目線でものを見るという前段部分を引っ込め、行動の束縛という実相を認めている。

16世紀のベネチアで、厚底木靴が流行していたということは、さすがの私も知らなかったが、水溜りを歩くのに便利という実用性だけだったのだろうか。池田講師の文中、「娼婦ベロニカ」「高級娼婦」という言葉が出てくる。そこで私が思い出したのが、いまでは全く見られなくなった纏足(てんそく)だ。79年に私が戦後初めて中国に旅行した時には、北京の胡同(フートン・うら町の意)で、ヨチヨチ歩きする纏足の老婆がいたものである。辞典によれば「昔中国で子供の時から女の足に布を堅く巻きつけ、大きくしないようにした風習」とある。

もちろん、中国の女の子のすべてが、纏足したのではない。売買婚の形が強く残っており、一夫多妻だったころ、いうなれば娼婦に近い女性たちの(妻も含めて)、逃亡を防ぐ狙いもあったようだ。農婦をはじめ、労働者階級ではやらない。その亜流が、祇園舞妓のポックリ(高下駄)だったのだろう。

今の風俗で、ガングロ・キンパツという画一的な流行にとらわれる女の子たちが、厚底サンダルの常習者である。決して、男と同じ高さの目線を持ちたいという、希求があるのではない、と私は断じたい。

中国の纏足は、女性の足、くるぶしより先の部分の発達を防ぐのが目的である。つまり、身長、体重に比例させないので、О脚風にヨチヨチ歩きを強いられる。その狙いはなんなのだろうか。ベネチアでも、娼婦たちから流行したヨチヨチ歩き。日本のポックリも、水商売の女たちの風俗である。これらに共通する効果は、女性器の訓練である。

日本の俗言に、「ビッコの女はいい」というのがある。足の不自由さのゆえに、日常の歩行の中で、腰の安定のために、下腹部の筋肉が鍛えられて、性器の緊縛度が強くなるといわれる。同じく俗語のキンチャク(巾着袋のこと)になると信じられている。

私が警視庁記者クラブ時代、新任の社会部長歓迎会の行事で、幹事の私は、浅草で“花電車観賞会”と洒落こんだ。バナナ切りのあとのゆで卵飛ばしとなった時、膣内に残っていたバナナのスジが飛び出し、新社会部長のほっぺたにくっついて、大笑いだった。

もう浅草あたりでも、花電車の芸人はいないようだ。府立五中の同窓会で、私は北関東の温泉に、その芸人がいると聞き、余興に呼んだ。クリスチャンの学校長が真剣に見つめていたのが印象的だった。年増の芸者の演技は、まさに芸術的で、ワイセツ感はなし。

ガングロ・キンパツたちも、こういう“芸術家”を目指すべきだ。 平成11年(1999)10月16日

新宿慕情 p.120-121 田中栄一警視総監がオカマに殴られた

新宿慕情 p.120-121 そのころの上野。それは、ノガミと陰語でいうのがふさわしいような町だった。~街角には、パンパン、オカマが、道行く人の袖を引いていた。
新宿慕情 p.120-121 そのころの上野。それは、ノガミと陰語でいうのがふさわしいような町だった。~街角には、パンパン、オカマが、道行く人の袖を引いていた。

ワンの〝部分〟は、紡錐状である。よく、街頭などで見かけるオツナガリは、「水をブッかけろ!」などいわれるように、紡錘状部分の基底部にある、二個の付属品が、相手方の門内に没入してしまっているためで、シロの芸人は、これを恐れなければならない。

しかし、ワンのほうは、やはりパーフェクトを望むので、付属品の没入まで志す。従って、〝腰振りダンス〟の姿勢をとらざるを得なくなる。

一方のシロは、その攻勢を、右に左にと、なんとかして逃げなければならない。この動作があたかも、観る者をして、感嘆手を拍つどころか、ツバを呑みこませる〝迫真〟の演伎に映ずる、という次第だ。

警視庁の留置場で、同房になった「浅草のヨネさん」と呼ばれる、パン助置屋のオヤジから聞いた話である。

管理売春という、重罪容疑で入っていたこの男は、吉屋信子に大辻司郎、さらに、フランキー堺を加えて、三で割ったような顔をして、くったくなげに、おもしろい話をしてくれた。

だから、〈花電車〉の芸人も〈ワンシロ〉も〈シロシロ〉もみんな、〝商売道具〟を大切にして日常の手入れを怠らず、ほとんどが、男などをつくらない、という。ことに〈花電車〉は、プロローグ場面で、料亭などで使う、細長いビールのグラスを使って、深奥部分までノゾかせるのだから、人一倍、手入れと節制を励行するそうだ。

オカマを見せてよ

話が、すっかり飛んでしまったが、まだまだ、〝ホモのヤッちゃん〟の項なのであった。ヤッちゃんは、オカマではなく、ホモらしい。

私が、シベリアから帰ってきて、読売社会部に復職したのが、昭和二十二年の秋のこと。そして、翌二十三年には、上野、浅草のサツまわりに出た。

そのころの上野。それは、ノガミと陰語でいうのがふさわしいような町だった。

浮浪児ばかりか、家も職もない連中が、駅の地下道を埋めつくし、街角には、パンパン、オカマが、道行く人の袖を引いていた。

当時の、田中栄一警視総監が上野の山を視察に出かけて、オカマの集団に襲われ、殴られたという珍事さえ、堂々と出来するのである。

そんなころ、婦人部の女性記者が、私に頼みがある、といってきた。

「ネ、三田サン。オカマっていうの、私に見せて下さらないかしら?」

「アア、いいとも。でも、夜のノガミは、コワイよ」

「だから、三田サンに頼んでいるんじゃない。これでも、オヨメに行くつもりなんだから」

それから、三十年近くたったのだが、読売の社員名簿を見てみると、この女性記者は、まだ婦人部に名を連ねているし、姓も変わっていない。やはり、オヨメには、〝行け〟なかった、のカモネ……。

こうして、私は彼女を伴って宵の上野広小路あたりを、ブラブラと散歩していた。

「アラ、ミーさん!」

人ごみのなかから、嬌声が飛んできた。