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赤い広場ー霞ヶ関 p.094-095 都倉栄二はどちらか?

赤い広場ー霞ヶ関 p.094-095 The most trusted one was Shii, and the most distrusted was Yoshino.
赤い広場ー霞ヶ関 p.094-095 The most trusted one was Shii, and the most distrusted was Yoshino.

志位氏の協力的な供述が、スパイ事件をはじめて取扱った当局係官の、教養資料として役立ったことは大変なものだった。また志位氏の人物にホレこんだ係官たちが、同氏の存在を全く厳秘にしており、二十九年八月十四日、第二次発表の日に読売がスクープするまで、同氏のことは殆ど外部には洩れなかったほどであった。これも志位氏の真面目で研究的な、人間的魅力の賜物であろう。私も志位氏と親しく話してみて、係官たちの同氏への好意が、単なる〝協力者への好意〟だけではないと感じさせられたのである。

「山本調書」の一頁に次のようなラ氏供述があるといわれている。

私の何名かの協力者のうちで、一番信頼できたのは志位であり、一番駄目だったのは吉野です。ラ氏の自分の協力者へのこの感想と、その後の二人の行動――信頼された志位氏は進んで当局に協力し、信じられなかった吉野氏はあくまで否認する――との喰ひ違いは、私にもう一つの、全く同じような例を想い出させるのである。

すなわち、ラストヴォロフの山本課長への告白では、同じようにより多く信頼し、有能だと認めた日暮氏が、進んで当局の協力者となり、事件の全ぼうを告げたのに対し、ラストヴォロフがそれほどには評価せず、信頼度も低かったような庄司氏が、あくまで否認し黙秘して、当局への非協力者となっていることである。

志位対吉野の関係はそのまま日暮対庄司の関係である。つまりラ氏が信頼していたと告白する彼の協力者は、事実上彼の信頼を裏切って彼の非協力者になっており、ラ氏が認めるほどではないと称する彼の非協力者こそ、彼の評価を裏切ってその協力者になっているという事実である。

ここで私は再び読者に対して、恐ろしいことではあるが、全く同様なケースをもう一つ想い出させられることを告げねばならない。

「山本調書」を繰って読み進んでゆくと、都倉栄二という名前が出てくる。昭和十一年東京外語ロシヤ語科卒業の外務事務官、古い東外のロシヤ会会員名簿では外務省管理局引揚課となっているが、現在では欧米第六課(旧第五課、ロシヤ課である)員で、しかも現在進行中の日ソ交渉全権団の随員として、三十年五月二十六日に羽田を発って、交渉地ロンドンへ渡っている人物である。

都倉氏もまたラストヴォロフと接触していた人物の一人である。さきにラ氏の手記に「新日本会を組織した五人の大使館員」とあることを述べたが、そのさいにこの「新日本会」という会名も、「五人」という人数も、また「大使館員」という身分も、いずれも必ずしも事実ではないということを述べておいた。

赤い広場ー霞ヶ関 p.096-097 山本調書に都倉栄二の名も

赤い広場ー霞ヶ関 p.096-097 Rastvorov did not evaluate Eiji Tokura at all. why?
赤い広場ー霞ヶ関 p.096-097 Rastvorov did not evaluate Eiji Tokura at all. why?

ことほどさように、一度でもソ連の地を踏んだことのある外交官、記者、会社員などで、ソ連に対する忠誠を誓わせられなかったということは、極めてまれなことなのである。

全権団随員という、栄えある立場にある都倉氏に対しては、誠に申訳ない限りであるが、同氏もまたその例外ではなかったのであろう。ともかくラストヴォロフの供述として「山本調書」に氏の姓名が記されていることは、事実なのであるから。

つまり、私が志位対吉野の関係で、日暮対庄司を想い浮べ、また都倉氏を想い出したというのは、同氏に関するラストヴォロフの告白が、同氏を全く評価していないからであるのだ。

ラ氏によれば、彼は東京で都倉氏に連絡をつけたのだったが、都倉氏は全くこれに応じなかったというのである。これは日暮氏が反共理論家として有名な存在であったのと同様に、省内外に聞こえた〝右翼〟である都倉氏にとって、極めて有利なラストヴォロフの供述である。

もちろん、ラ氏が都倉氏を評価しなかったという供述があったればこそ、外務省当局もまた、氏を、全権団随員の一人に加えたのでもあろう。これは、都倉氏にとって名誉なことである。また、練達の外交官であり、一つの科学にさえなっているソ連秘密機関の誘惑術をも、敢然と拒み通した同氏が、多難の日ソ交渉に力をいたすことに大いに、期待するものである。

ある治安当局の一幹部はラストヴォロフ・スパイ事件捜査の経過を顧みながら、こう述懐していた。

『捜査の基礎となったものは彼の供述(註、山本調書)であるが、全般的な捜査の経過と結果とから考えてみると、どうも氏はすべてを告白していないという気がしてならない』

モスクワに残してきた妻子の安全を願うが故に、「彼(註、ラ氏)の指摘するところによれば、ソ連内務省が彼の的確な所在ないし、地位について疑問を抱いている限り、彼らは恐らく、彼の八才になる娘に対して、残酷な行動に出ることはないであろう、とのことでありました」(米大使書簡)「なかんずく同人の自発的離脱がソ連内務省に確知された場合、同人の家族に危害の及ぶことを恐れ、可能な限り単なる失踪として、取扱われたいという本人の強い希望に基き」(日本政府発表)と願ったラストヴォロフは、どうして失踪以来半年を経て「亡命」であることを、発表することに同意したのであろうか。 この半年の間に彼の妻子の安全は、如何に確認されたのであろうか。濠洲のペトロフ大尉の亡命のように、本国へ連行される夫人を奪取したというのならばうなずけよう。アメリカの秘密機関は、モスクワからラ氏夫人と愛娘とを救出して、同様本国へ連れてきたというのだろうか。そんなことはあり得まい。二十九年一月二十四日のラ事件以後、彼の妻子の消息については全くニュースがないのである。

赤い広場ー霞ヶ関 p.098-099 ラストヴォロフは亡命ではなく拉致か

赤い広場ー霞ヶ関 p.098-099 Rastvorov says he cannot trust those who value it truthfully. Is Lastvorov lying?
赤い広場ー霞ヶ関 p.098-099 Rastvorov says he cannot trust those who value it truthfully. Is Lastvorov lying?

ここで私は、ラ氏の評価が現実の志位対吉野、日暮対庄司の関係と、さらに前記の当局一幹部の言とを思い合せて、ラ氏の〝自発的離脱〟ということに深い疑問を覚えるのである。つまり亡命ではなくして、拉致であるというのである。

妻子をもすてた真の亡命であるならば、彼は完全な世捨人である。一切の真相を語り終って静かに余生を送るであろう。

彼が真相を語っていない、祖国ソ連に反逆していない、ということは、彼の告白は相当な鑑定を必要とする。例えば逆のことを語っているのではないか。信頼していなかった志位氏を信頼しているといい、高く評価している吉野氏を情報プローカーと極めつけるといったように。

すると、ラストヴォロフの失踪は、亡命でなくて拉致である。アメリカ得意の〝人浚い〟〝引ったくり〟である。すると、彼の妻子の安全は事実である。

ラ氏が拉致され、彼がウソをついてたとなるとこれは事件である。三十年五月二十五日付朝日新聞が報じた、外交暗号がソ連に解読されているのではないかという心配(元ハルビン特務機関長小野打寛少将から、公安調査庁を通じて外務省へ提出された意見)は、より大きくなって、暗号以前のものが筒抜けになるのではないか、という心配にならねばならない。

志位、吉野という二人のラ事件関係者のとった対照的な立場は、私には人間の自己保存の本能がそれぞれの形をとったものだと思われる。即ち一人は顕在化されることによって、死の恐怖から逃れ得ると信じ、一人は顕在化されることが、死の恐怖へ連なるものと信じているのであろう。

そして私は、幻兵団キャンペイン以来の信念で、志位氏の立場こそ、米ソ秘密戦の間にまきこまれた日本の犠牲を、最小限に喰い止め得るものだと思っている。

五 暗躍するマタハリ群像

強盗、殺人の一課モノ、詐欺、汚職の二課モノと、風紀衛生の保安、それに思想関係の公安。警視庁詰記者の担当は、ザッとこんな風に分れている。

どの分野にしろ、調べ室や事務室をのぞいてみて〝敵情〟を偵察し、係官たちとの雑談から片言隻句の〝情報〟を得て、そこで作戦参謀として最後の〝決心〟を下し、原稿を書くことに変りはない。これが「取材」であり、「発表」と根本的に違う点である。

だがこれらのうちで、絶対にふだんの努力がなければ情勢分析ができないのが公安関係だ。左翼も、日共の理論面の動きや、人と人とのつながりがわからなければ、パッとでてきた「伊藤律除名」の情報も、確度がわからない。スパイ事件も同じで、思想的背景があり、政治的謀略さえ考慮しなければならない。 三橋事件がそうだ。

赤い広場ー霞ヶ関 p.178-179 庄司対日暮、吉野対志位、都倉対菅原

赤い広場ー霞ヶ関 p.178-179 Those evaluated by Rastvorov betrayed Rastvolov and cooperated with police authorities. But, those he says badly are uncooperative with police. So are they really Soviet spies?
赤い広場ー霞ヶ関 p.178-179 Those evaluated by Rastvorov betrayed Rastvolov and cooperated with police authorities. But, those he says badly are uncooperative with police. So are they really Soviet spies?

これは都倉氏にとって極めて名誉なことである。ラ氏の口から、都倉氏の名前が出されたので、捜査当局では直ちに彼について調べてみた。この捜査は、ラ自供が真実なりや否やの、裏付け捜査だから当然のことである。ラ氏がスパイではないというものを、警視庁へ召喚して取調べることはできない。だからまず彼の抑留間のことと、帰国後のこと、そしてさらに、当局が彼の名を知ってから以後のことである。

そのため、同収容所の人たちにきき、さらに現在の部分は尾行してみた。その調べによると在ソ間の彼の行動については、幻兵団としてスパイ誓約をさせられたことは、まず間違いのない事実だという。

尾行、張り込みなどの身辺捜査からは、残念ながらラ自供の額面通りの、あまり良い結果は出なかったらしい。通商使節団のクルーピン氏らの、滞日期限延長問題などにからんで、当局では何らかの結論をつかんだようであった。

当局のアナリストはこう考えた。

――庄司対日暮、吉野対志位、この二組に共通したものは、ラストヴォロフの評価の高い者が簡単に当局の捜査に協力し、彼の評価の低い者が、非協力的だということである。

――都倉氏もまた、スパイにならなかったといって、けなしている。評価は低い。

――けなされた者は、庄司氏と吉野氏だ。そして、都倉氏だ。

アナリストは、そう考えこみながら、机上の一冊の雑誌を取って眺めた。三十年三月二十五日号の日本週報である。そこには「北海道を狙う軍事基地、南樺太の実態」という、大きな見出しが躍っている。筆者の菅原道太郎という名前と、その経歴とが書かれてあった。彼は意味もなく、その経歴を眼で追っていった。

――大正十一年北大農学部卒、昭和三年樺太庁農事試験所技師、昭和二十年赤軍進駐後、ソ連民政局嘱託となり、日本人食糧増産を督励中、反ソ容疑をもって逮捕投獄せらる。昭和二十二年証拠不充分で、ハバロフスク検事局で不起訴となり帰国。昭和二十四年連合軍総司令部情報部特殊顧問。昭和二十九年同退職しソ連研究に専心、著作に従事。

――ウム、菅原氏も樺太でスパイ誓約をさせられ、ラ氏の手先にさせられた。そして、ラ氏は賞めていたが、彼もまた快く当局に協力してくれた人物である。つまり、ラ氏の評価は高いがそれを裏切って、当局に協力してくれている。

――庄司対日暮、吉野対志位、都倉対菅原。何と対照的なことだろうか?

彼は雑誌を机上に落した。そこにはまた新聞の切抜きが二枚。五月十八日付の朝日新聞社告であり、五月二十一日付の朝日新聞のトップ記事である。社告には、朝日の海外特派員の、異

動と新配置が報じられ、清川勇吉氏をモスクワ駐在としてあった。そして、もう一枚はその入ソ第一報であった。