飾っていた」タグアーカイブ

編集長ひとり語り第27回 日の丸はスポーツグッズか?

編集長ひとり語り第27回 日の丸はスポーツグッズか? 平成11年(1999)8月31日 画像は三田和夫71歳(右側 1993.03)
編集長ひとり語り第27回 日の丸はスポーツグッズか? 平成11年(1999)8月31日 画像は三田和夫71歳(右側 1993.03)

■□■日の丸はスポーツグッズか?■□■第27回■□■ 平成11年(1999)8月31日

昭和20年秋、というよりは、ここシベリアのバイカル湖にほど近い、炭坑町のチェレムホーボでは、10月だというのに冬だった。

旧満州の国境の町、満州里からソ連に入り、左へと進路を取った時、私たちは捕虜にされたことを実感した。そして、シベリア本線の駅で停車するたびに、日本兵を満載した貨車を取り巻く“戦勝国ソ連”の人びとが、どんなに貧しい生活をしていたかが、目に見えたのだった。子供たちは、多くが裸足で、食べ物や衣類をねだっていた。

私たちが収容所に入り、炭坑作業に追い立てられて、意外な風景が現れた。頭に赤い布を巻く女たち、“日の丸バアさん”があふれてきたのである。文革当時の中国と同じように、ソ連にも“色”がなかったのである。兵隊たちの誰もが持っていた、日の丸の旗が流出して、女たちのプラトーク(頭巾)になって、それが大流行したのだった。

「祈武運長久」と墨書きされた日の丸は、その赤丸ゆえに大モテで、暗い冬の黒い炭坑で、女たちの色気を飾っていた。私も、昭和18年9月卒業、10月読売入社、11月入営というあわただしさの中で、正力松太郎社長に署名を頂いた日の丸を、大切にしまっておいたのだが、盗まれてしまったので、ソ連女の頭巾にされていただろう。

最近のワールドカップやオリンピックの時に武運長久に変わって、「頑張れ!」「金メダルを!」と、日の丸の旗の白地が、墨で汚されて、打ち振られるのを見て、私は戦争中の日の丸の旗を思い出し、シベリアの女たちを思い出した。

戦争中の日本軍人たちの大きな過ちのひとつに、国旗・日の丸に落書きを認めたことがあげられる。一銭五厘のハガキ代だけで、徴兵するうしろめたさからか、日の丸を署名帖代わりにすることを、はやらせたのだ。だから戦後、日の丸はその尊厳を失って、ソ連女の頭巾となり、スポーツグッズに成り果ててしまったのである。国旗には、その尊厳への敬意と、侮辱の罪が必要だ。

そこに、自民党政府の法制化という、戦時中の落書き容認以上に、愚かな過ちである。野中という男は、小沢一郎を悪魔と罵っておきながら、それと手を握るという、節操のない男である。それが、法案成立直後から、官房長官会見場に、日の丸を立てた。ナゼ、いままで立てなかったのか。

それを真似たか、通達でも出したのか、各大臣たちが記者クラブとの会見場に、日の丸を持ち込んできて、農林省や自治省の記者クラブとモメ出している。自治組織の記者クラブの部屋で、記者会見をやるのだから、クラブ側の了解なしに、日の丸を立てたがるのは、オカシイというべきだし、第一、どのような効用価値があるというのだ。法制化に当たって、十分に国民との合意を得なかったのだから、記者たちから異議がでるのも、当然というべきだろう。十分な国民的合意を得ないままの、法制化の強行という事実。それにつづいての、政府側の記者会見での日の丸掲揚。この経過を見ると、戦争中さながらの問答無用。「知らしむべからず、依らしむべし」という、権力のらん用が始まり出している。数だけの政治がいまや、押しつけられつつある。

戦争法、盗聴法と、独立国家としての落ち目を食いとめるどころか、いよいよ、アメリカの属国化への道を走り出している。国民の大多数が、アメリカの属国になりたい、というのであれば、それはそれでいいではないか。

90パーセント以上の投票率で、進路を決めるのは、東ティモールではなくて、日本ではないのか。 平成11年(1999)8月31日

編集長ひとり語り第50回 戦争とはなんだ?(2)

編集長ひとり語り第50回 戦争とはなんだ?(2) 平成12年(2000)9月2日 画像は三田和夫23歳と70代(三田和夫が自身で机上に飾っていた小さな額縁写真)
編集長ひとり語り第50回 戦争とはなんだ?(2) 平成12年(2000)9月2日 画像は三田和夫23歳と70代(三田和夫が自身で机上に飾っていた小さな額縁写真)

■□■戦争とはなんだ?(2)■□■第50回■□■ 平成12年9月2日

8月下旬になって、ソ軍の司令部も進駐してきたようで、新京は首都だということで、日本軍は南の公主嶺に撤退するということになった。と、在満の日本軍の将軍たち(少将、中将)は、ソ軍機で輸送されることになり、公主嶺の飛行場に集められた。

その時、私は将校伝令として、大隊長の命令で、飛行場にいた北支那派遣軍第十二軍第百十七師団長(私の部隊長である)の、鈴木啓久中将に会いに行った。何かを届けたのか、何を伝えに行ったのか、その部分の記憶がまるでない。

陸軍中将で、師団長の閣下の様子を見て、新品少尉の私は、愕然としたのだけは、鮮明に覚えている。つまり、ソ軍の捕虜となり、ソ軍機でどこかに連れていかれることへの恐怖にオロオロしている男をみたのである。

——これがオレたちの師団長なのか!

階級制の軍隊では、将軍などと接することは、下っ端の兵にはほとんどない。私自身も保定の士官学校に入った時と卒業した時の2回だけ、はるかかなたに学校長の少将を“望見”しただけ。鈴木師団長とは対で会い、会話を交わした、初の体験であった…。敗戦直後のことではあったが、日本陸軍の中央にいる将官の、あまりにも程度が低いのに驚き、その反動で、将校伝令の内容を忘れてしまったのだ、と思っている。

なぜこんなことを、事細かに書くのかというと、後日譚があるのだ。1、2年前のこと、「フォト・ジャーナリスト」という肩書きの人物が、東京新聞に記事を提供して、そこに鈴木啓久元中将が登場していたのだ。ソ連の収容所で調べを受けたのち、中国戦犯として満州の収容所に移され、何十年間かの後に、釈放、帰国し、その収容所(監獄)時代の自供調書の内容が記事になった。

私の同期生(予備士官)にも、シベリアから中国に引き渡され、昭和33年ごろ帰国した男がいる。バイカル湖畔の炭坑町チェレムホーボの収容所も一緒だったが、私が作業隊で出ていたのに、彼は大隊副官として作業割りやデスクワークをしていた。口下手で反応の遅い方だったが、それが災いして戦犯として中国渡しになった。

その戦犯の内容は、対共産八路軍の討伐作戦の時、壊れた家の材木で、暖を取った(彼の小隊員が)のが、放火、焼き尽くし作戦の責任者とされたらしい。そのような調書が取られる時、彼は口下手で反論もしなかったので、戦犯として12、3年も監獄暮らしをした。だが、帰国後に、彼の名誉回復があり、国慶節に招待されて、天安門上に立ったという。

そういう話を承知していたので、鈴木元中将が、監獄でどのような調書を取られたのか(しかも、公主嶺飛行場での狼狽ぶりに見られる小心者)、私には想像がつく。つまり、中国側のいいなりである。その内容たるや、従軍慰安婦の強制連行を命令したとか、中国人民に対する残虐行為を命令したなど、軍の実情を知るものにとっては、まさに噴飯モノなのだ。北支軍下の慰安婦は、すべて朝鮮人と日本人である(実体験から)。それがどうして“強制連行”か。第一、師団長が軍の慰安婦管理の命令を出す立場か。バカ気ている。記事提供者も新聞デスクも無知!

このフォト・ジャーナリストには、会合で出会ったので、それを指摘したら、不愉快気な表情で、なにもいわずいってしまった。私はこのような、ジャーナリストとしての訓練もなく、見識もなく、時流に乗るだけの連中の蠢動を厳しく阻止したい。

韓国人の元慰安婦が、自分の被害体験を訴えるが、それが事実かどうかの見極めもなく、媒体は大きく取り上げる。中国のどこで醜業を強いられたのか、地名と時期を明らかにすれば、まだ、その土地にいた日本軍の戦友会があるから、すぐ調べられる。

中国では、軍が朝鮮人と日本人以外の娼婦を認めなかった。それは、兵隊たちの部隊名や作戦名が、中国人に漏れないよう、中国語の話せない女たちを選んだ、防衛上の配慮だった。そして私の知る限り、彼女らは朝鮮人の売春業者に連れて来られ、管理されていた。軍は、衛生管理の面で関与していた。性病予防である。

さて、丸2年のシベリア捕虜から帰国して読売社会部記者に復職し、数カ月で戦後の日本にも馴れてきたころ、ナント、将官級の連中が、まだ生きていることを知って、ビックリしたものだった。大佐、中佐級の参謀たちとともに、ほとんどが自決したもの、と思いこんでいたからだった。

「戦争とはなんだ?」というテーマで、答えられるのは、司令官たちとその参謀たちだけである。いま、多くの体験談や目撃談が出ているが、それは、「戦闘」の名場面だけで、残虐も、勇壮も、「戦争」という大テーマのそれではない。陸軍士官学校、海軍兵学校出身の“職業軍人”たちは、いうなれば“軍事官僚”で、彼らが兵士たちの生命を左右し、国家を滅亡させたのである。

いま、警察官僚のキャリアたちの不祥事が続発しているが、私は、軍事官僚と彼らとをオーバーラップさせてみている。エリート意識のおごりである。日本国と日本国家の、50年前の敗戦の徹底追及がなかったため、ふたたび、同じ道を歩んでいる。国家は衰退から滅亡へと進んでいるようだ。

その第一の戦犯はマスコミである。その場その場の現象に飛びつくだけで、「社会の木鐸」という言葉は死語になってしまった。

その著書で、相手の名前を出して、中国人を袋詰めにして池に投げ込み殺した、といった男は、中国各地を講演して回り、名士気取りである。名前を出された男は、裁判に訴えて、現実には袋詰めできないと、勝訴したが、著者は平気の平左だ。鈴木元中将のウソを宣伝するヤカラも同じである。(続く) 平成12年9月2日