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編集長ひとり語り第4回 小沢自由党の“馬脚事件”のこと

編集長ひとり語り第4回 小沢自由党の“馬脚事件”のこと 平成11年(1999)4月3日 画像は三田和夫62歳(1983年)
編集長ひとり語り第4回 小沢自由党の“馬脚事件”のこと 平成11年(1999)4月3日 画像は三田和夫62歳(1983年)

■□■小沢自由党の“馬脚事件”のこと■□■第4回■□■ 平成11年(1999)4月3日

東(あずま)祥三。47歳。比例代表東京ブロック当選の自由党衆議院議員。当選3回。創価大学院卒で国連職員だった人物。顔貌(がんぼう)もマトモだし、その年齢からも、将来を嘱望できる議員だと思っていた…。その彼が、先ごろ記者会見をして、「東京15区の柿沢辞職の後の補選出馬はやめた」といった。ところがその記者会見には、中西啓介議員が同席しているではないか。なぜなのだ?

東議員は公明党から出馬して、中選挙区制度最後の前回(平5.7.18)は東京6区で柿沢、不破につぎ第3位で、2回目の当選。小選挙区になれば、柿沢絶対優位なので、不破と同じく比例に回ったのだろう。同席していた中西議員は、自民党時代からスキャンダルまみれの古いタイプの議員。前回中選挙区では、和歌山1区で9万余票のトップ。小選挙区でも同区で6万6千のトップ当選である。しかし、前回当選後、電通社員だった息子の麻薬事件で辞職(平7.5.12)して、1年半後返り咲いた。私の個人的見解では、小沢一郎を評価できないのは、このような側近を登用しているからである。

4月1日の日テレ「ザ・ワイド」は、浅香光代が野村沙知代への“果たし状”宣言をとりあげていた。その時、加藤タキがいった。「あの人が立候補したこと。政治をなんと考えているのか、許せません」と。まさに名言である。東議員の辞職は、野村の繰り上げ当選を意味する。幸いにもそれは消えたが、東議員にはその認識があっての、15区転出だったのだろうか? 繰り上げでも、野村は経歴詐称などで辞職に追い込まれよう。ただ、仮に一時期でも野村が衆議院議員になったら、もう世紀末と笑ってはいられない。議員の私利私欲がムキ出しになり、公明党も、自由党も、ともに信用できないことを示した“事件”であった。 平成11年(1999)4月3日

編集長ひとり語り第27回 日の丸はスポーツグッズか?

編集長ひとり語り第27回 日の丸はスポーツグッズか? 平成11年(1999)8月31日 画像は三田和夫71歳(右側 1993.03)
編集長ひとり語り第27回 日の丸はスポーツグッズか? 平成11年(1999)8月31日 画像は三田和夫71歳(右側 1993.03)

■□■日の丸はスポーツグッズか?■□■第27回■□■ 平成11年(1999)8月31日

昭和20年秋、というよりは、ここシベリアのバイカル湖にほど近い、炭坑町のチェレムホーボでは、10月だというのに冬だった。

旧満州の国境の町、満州里からソ連に入り、左へと進路を取った時、私たちは捕虜にされたことを実感した。そして、シベリア本線の駅で停車するたびに、日本兵を満載した貨車を取り巻く“戦勝国ソ連”の人びとが、どんなに貧しい生活をしていたかが、目に見えたのだった。子供たちは、多くが裸足で、食べ物や衣類をねだっていた。

私たちが収容所に入り、炭坑作業に追い立てられて、意外な風景が現れた。頭に赤い布を巻く女たち、“日の丸バアさん”があふれてきたのである。文革当時の中国と同じように、ソ連にも“色”がなかったのである。兵隊たちの誰もが持っていた、日の丸の旗が流出して、女たちのプラトーク(頭巾)になって、それが大流行したのだった。

「祈武運長久」と墨書きされた日の丸は、その赤丸ゆえに大モテで、暗い冬の黒い炭坑で、女たちの色気を飾っていた。私も、昭和18年9月卒業、10月読売入社、11月入営というあわただしさの中で、正力松太郎社長に署名を頂いた日の丸を、大切にしまっておいたのだが、盗まれてしまったので、ソ連女の頭巾にされていただろう。

最近のワールドカップやオリンピックの時に武運長久に変わって、「頑張れ!」「金メダルを!」と、日の丸の旗の白地が、墨で汚されて、打ち振られるのを見て、私は戦争中の日の丸の旗を思い出し、シベリアの女たちを思い出した。

戦争中の日本軍人たちの大きな過ちのひとつに、国旗・日の丸に落書きを認めたことがあげられる。一銭五厘のハガキ代だけで、徴兵するうしろめたさからか、日の丸を署名帖代わりにすることを、はやらせたのだ。だから戦後、日の丸はその尊厳を失って、ソ連女の頭巾となり、スポーツグッズに成り果ててしまったのである。国旗には、その尊厳への敬意と、侮辱の罪が必要だ。

そこに、自民党政府の法制化という、戦時中の落書き容認以上に、愚かな過ちである。野中という男は、小沢一郎を悪魔と罵っておきながら、それと手を握るという、節操のない男である。それが、法案成立直後から、官房長官会見場に、日の丸を立てた。ナゼ、いままで立てなかったのか。

それを真似たか、通達でも出したのか、各大臣たちが記者クラブとの会見場に、日の丸を持ち込んできて、農林省や自治省の記者クラブとモメ出している。自治組織の記者クラブの部屋で、記者会見をやるのだから、クラブ側の了解なしに、日の丸を立てたがるのは、オカシイというべきだし、第一、どのような効用価値があるというのだ。法制化に当たって、十分に国民との合意を得なかったのだから、記者たちから異議がでるのも、当然というべきだろう。十分な国民的合意を得ないままの、法制化の強行という事実。それにつづいての、政府側の記者会見での日の丸掲揚。この経過を見ると、戦争中さながらの問答無用。「知らしむべからず、依らしむべし」という、権力のらん用が始まり出している。数だけの政治がいまや、押しつけられつつある。

戦争法、盗聴法と、独立国家としての落ち目を食いとめるどころか、いよいよ、アメリカの属国化への道を走り出している。国民の大多数が、アメリカの属国になりたい、というのであれば、それはそれでいいではないか。

90パーセント以上の投票率で、進路を決めるのは、東ティモールではなくて、日本ではないのか。 平成11年(1999)8月31日

新宿慕情 p.024-025 ととやの初代マダムが織田作・夫人の昭子さん

新宿慕情 p.024-025 織田作・夫人の昭子さん、ドレスデン、プロイセン、田辺茂一、池島信平、扇谷正造、中野好夫、相良守峰、時枝誠記…。
新宿慕情 p.024-025 織田作・夫人の昭子さん、ドレスデン、プロイセン、田辺茂一、池島信平、扇谷正造、中野好夫、相良守峰、時枝誠記…。

しかし、この中央口付近のハモニカ横丁という、飲み屋街が〈新宿女給〉の発生源になったことは確かだ。
その奥の突き当たり、いまの中村屋の、鈴屋の並びにあるティー・ルームあたりに、ととやホテルというのがあり、その一階だったか、別棟だったか忘れたが、ととやというバーがあった。

文人、墨客、悪童連

横丁の途中には「居座古座」だとか、「てんやわん屋」などといった、同じような店もあったが、これらが、〝中央線〟派の文人、墨客、先生、記者などのタマリ場になった。

その中心、ととやの初代マダム(当時は、ママではなく、マダムだった)が、織田作・夫人の昭子さんだ。そして、その著『マダム』が、〈新宿女給〉の発生について詳しい。

そして、戦災の復興が進むにつれて、「ドレスデン」「プロイセン」などといった、新宿の正統派バーが、本格的な建物で現われてくるのだが、私など、この二店など、一、二度しか行ったことがないので(しかも、大先輩のお伴で)、語るのはその任ではない。

場所も、せいぜい二幸ウラまでで、まだ、靖国通りも、現在のように整備されておらず、まして、歌舞伎町など、盛り場の態をなしていなかった。

ハモニカ横丁から二幸ウラにかけて、炭屋のセガレ田辺茂一、牛乳屋の息子の池島信平、それに、トロッコ記者の扇谷正造といった悪童連が、中野好夫、相良守峰、時枝誠記といったPTAといっしょになって、客とともに呑み、怒り、泣き、唱っては、文学を論じ、映画を語る、〈新宿女給〉の育成に、一ぴの力をいたした、ものらしい。

銀座とは違って、独特の雰囲気を持つ、〈新宿女給〉たちも、歌舞伎町が栄え、そのウラ側の〝サカサ・クラゲ〟旅館街を浸蝕して、東大久保一帯にまでネオン街が広がってしまった現在で

は、もはや、ギンザ・ホステスと、なんら変わりのない連中ばかりになってしまった。

私が、シベリアから帰って、直ちに書き上げた『シベリア印象記』は、当時の一枚ペラ朝刊だけ、という時代ながら、二面の大半のスペースを費やして、トップ記事になった——私の、読売新聞での、初めての署名記事であった。

しかも、この記事に対して、米英ソ華の、四連合国で組織していた対日理事会の、駐日ソ連代表部首席のデレビヤンコ中将が、記者会見して反論し、それを、日共機関紙・赤旗が、大きく報道するなど、なかなかの評判であった。

私は、〝シベリア呆け〟していない、と判断されて、すぐに地下鉄沿線である、日本橋、上野、浅草のサツまわりに出された。だから、戦後の上野(ノガミ)については語れるのだが、残念なことには、昭和二十年代の新宿については、あまり、正確な記憶がない。

しかし、異邦人よろしく、当時の流行語であったリンタクとパンパンについての、新宿における〈知的好奇心〉についてはエピソードを持っている。

なんにも保証なし

パンパンと呼ばれる職業婦人について、同僚たちは、いろいろな忠告をしてくれた。

つまり、遊郭では、その店が客の〈生命・財産〉の保証をしてくれるのに対し、パンパンはその意味では〝危険〟なのだが、遊郭のオ女郎サンが、経験豊かなプロフェッショナルなのに比べ

て、パンパンの場合には、アマチュアリズムの可能性があるということだった。

p58下 わが名は「悪徳記者」 並び大名の記者たち

p58下 わが名は「悪徳記者」―事件記者と犯罪の間―三田和夫 1958 この発表を咀嚼して、批判を加えることもできないのである。これが果して、新聞記者であろうか。役所の発表文がそのまま活字になって、紙面にのるだけである。
p58下 わが名は「悪徳記者」―事件記者と犯罪の間―三田和夫 1958 この発表を咀嚼して、批判を加えることもできないのである。これが果して、新聞記者であろうか。役所の発表文がそのまま活字になって、紙面にのるだけである。

これは発表である。誰でもが簡単に知り得ることは、これはニュースとしての価値が低いのは当然である。

例えば、両国の花火大会の記事は、ニュースではあるが、誰でもがこのニュースにふれることができる。公開されているニュースだからである。機会は均等である。

新聞記者の中にも、こういう公開されたニュースしか書けない記者がいるし、それが多い。特ダネの書けない記者である。それは、その記者が、不断の勉強を怠っているからである。記者の財産である、ニュース・ソースの培養を心がけていないからである。

役所を担当しても、その役所のスポークスマンしかしらないし、スポークスマンの言い分を文宇にして本社へ伝えるだけである。この発表を咀嚼して、批判を加えることもできないのである。これが果して、新聞記者であろうか。だから、役所の発表文がそのまま活字になって、紙面にのるだけである。心ある読者は、一度役所の記者会見なるものを覗いてみられよ。二十人もの記者がいても、質問の発言をするのは二、三人だけである。それは決して代表質問ではない。並び大名の記者たちには、質問すら浮かんで来ないのである。

あんたにやるよ

私はサツ廻りののち、法務庁、国会、警視庁、通産省、農林省、法務省と、本社の遊軍以外に、これだけの役所のクラブを廻ってみたが、どこのクラブでもそうである。記者会見で談論風発という光景は少ない。質問さえできない記者は、他社の記者の質問によって「成程そうか」と思い、本社へ送る時には、自分の質問であるかの如くよそおうのである。