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最後の事件記者 p.156-157 津村追放の表面上の理由

最後の事件記者 p.156-157 日共内部が、「徳田要請」は事実であるという一派と、そんなことはデマだという一派とに分れて、モメているという。しかも、事実だと主張するのが、〝ナホトカ天皇〟津村謙二だという。
最後の事件記者 p.156-157 日共内部が、「徳田要請」は事実であるという一派と、そんなことはデマだという一派とに分れて、モメているという。しかも、事実だと主張するのが、〝ナホトカ天皇〟津村謙二だという。

その数日後のことである。私は日共関係のニュース・ソースである一人の男から、実に意外なことを聞いたのであった。

それは、日共内部が、「徳田要請」は事実であるという一派と、そんなことはデマだという一派とに分れて、モメているというのである。しかも、事実だと主張するのが、〝ナホトカ天皇〟とまで呼ばれて、在ソ抑留同胞がその一挙手一投足で左右されたと伝えられる、上陸党員の大幹部津村謙二だという。

これこそビッグ・ニュースであった。ことに、徳田書記長にやられてしまって、国会の権威がどうのこうのと、騒いでいる時であったから、その書記長の下にある党員が、事実だと主張しているとあれば、もちろんトップ記事である。

私は張り切って、すぐ調べはじめた。もともと、津村はソ連帰還者生活擁護同盟委員長であったのだが、この一月にその地位を追われたばかりであるし、ソ帰同は改組されて、日帰同となっていた。徳田要請問題は、その前年の暮に、日の丸梯団の帰還者から持ち出された問題である。私は、ソ帰同の改組の当時から調べはじめたのであった。

ソ帰同というのは、二十三年に〝ナホトカ天皇〟こと津村らの、ナホトカ・グループの帰国と同時に組織されたもので、その名の通り、ソ連帰還者の生活擁護を目的としていた。ところが、

二十四年十月二十八日に、第二回全国大会が開かれ、中共引揚を考えて、帰還者戦線の統一が叫ばれ、「日本帰還者生活擁護同盟」と改称されて、日共市民対策部の下部組織となった。

この第二回大会で組織の改正が行われた。つまり、最高機関は全国大会で、中央委員会三十名、中執委と常任各十名で平常活動を行い、事務局は組織、文化、財政の三つに分れたのである。そして、文化工作隊として、シベリア十六地区楽団と、沿海州楽劇団を合流させて、楽団カチューシャとし、高山秀夫をその責任者とした。これは津村一派でしめていた、委員長、書記長制の廃止であった。

そして、明けて一月になると、役員の改選が行われた。津村委員長は、①楽団カチューシャの資金は、地方帰還者中の情報担当者に渡すべきなのに、本部人件費として十二万円を流用した。②下部組織に対して発展性なし。③逆スパイを党内に放っている。④婦人問題を起した。などの理由で、はげしく非難され、ついに三月に入ると、委員長の地位を追われてしまった。

このような経過はすぐ判ったのだが、それをさらに調べてみると、津村追放の表面上の理由は、前記の四つの点であったが、事実は恐るべきものだった。

赤い広場ー霞ヶ関 p.116-117 「日本新聞」をめぐる主導権争い

赤い広場ー霞ヶ関 p.116-117 Nihon Shimbun groups such as Kovalenko, Nobujiro Kobari, Seiki Asahara, Hisao Yanami and others, reigned as organizers and supreme bureaus.
赤い広場ー霞ヶ関 p.116-117 Nihon Shimbun groups such as Kovalenko, Nobujiro Kobari, Seiki Asahara, Hisao Yanami and others, reigned as organizers and supreme bureaus.

コバレンコ少佐というのは、元タス通信日本特派員として在日八年の日本通で、大場三平のペンネームまでもつモスクワ東洋大学日本科出身である。一説には極東赤軍情報部長といわれ、のち中佐に進級したが、二十四年六月ごろからハバロフスクの日本新聞社から姿を消しており、二十七年十月末強制退去となって日本を去った、タス通信東京支局長エフゲニー・セメノヴィッチ・エゴロフ氏が、コバレンコ中佐だといわれていた。小針氏も、新聞技術者として日本新聞に入ったとみるのが妥当であろう。事実彼の入社後は発刊当時の、新聞とはいえないような稚拙な紙面から、一応は新聞らしい形を整えてきたから。ところがその後「諸戸文夫」のペンネームを持つ、東大政治科卒の浅原正基上等兵が入社してきて、浅原氏の手によって小針氏は粛清され、浅原氏の代となった。前記「真相」によると、

ようやく非難されはじめたころ(註、小針氏が)、満州の特務工作員であった浅原正基がこれまた日本共産党員と称して入社してきた。

これには小針もさすがに泡をくって、浅原に、オレも党員ということになっているからバラさないでくれと、コッソリ頼みこむ始末であった。しかしその売名振りと編集のデタラメさが問題となり、二十一年五月には日本新聞社から追放されたという。

ところが、二十四年になると編集長だった浅原氏は、相川春喜のペンネームをもつ矢浪久雄氏らに、「極左的ダラ幹、英雄主義のメンシヴィキ的偏向」と極めつけられ、さらに「元特務機関員、ハルビン保護院勤務員」という前職まで指弾され、これまた矢浪氏に粛清されてしまった。

小針氏の粛清は『オレは、プチブルだった。大衆の中に入って鍛え直してくる』という立派な言葉を残して、あとは要領よく引揚船にモグリ込んでしまったのだが、浅原氏の粛清は裁判となり、五十八条該当者として二十五年の矯正労働という刑をうけたのだから手厳しい。

それらのメムバーのほか、宗像肇、高山秀夫、吉良金之助氏らがおり、二十四年十月帰還のため出発後は、矢浪氏から作家山田清三郎氏へバトンが渡されて、約一ヶ月、十一月七日付第六五〇号で終刊となり、約四年間にわたる歴史を閉ぢた。この日本新聞グループこそ、シベリヤ民主運動の開花「反ファシスト委員会」のオルグ、「最高ビューロー」のメムバーであり、地方、地区ビューローにもそれぞれ最高オルグが派遣されていたのである。

日本新聞の果したこの「人間変革」における役割は、極めて大きいことは事実である。それではこの「人間変革」はどんな形で行われたであろうかといえば、表面的には「スターリンへの誓い」感謝署名運動がその卒業式であった。

赤い広場ー霞ヶ関 p.120-121 津村は「徳田要請」は事実と主張

赤い広場ー霞ヶ関 p.120-121 The Nakhodka Group was purged by the Nihon Shimbun Group.
赤い広場ー霞ヶ関 p.120-121 The Nakhodka Group was purged by the Nihon Shimbun Group.

ソ帰同は二十三年に〝ナホトカ天皇〟こと津村謙二氏らのナホトカ・グループが帰国すると同時に、組織されたもので、その名の通りソ連帰還者の生活擁護を目的としていた。ところが、二十四年十月二十八日に第二回全国大会が開かれ、中共引揚を考えて帰還者戦線の統一が叫ば

れ、「日本帰還者生活擁護同盟」(日帰同)と改称され、日共市民対策部の下部機関で、指導は同部の久留義蔵氏が当っていた。

ところが、これもあくまで一貫した政策からみれば〝前座〟であって、シベリヤ民主運動の経過を見守ってきた日本新聞グループという〝真打〟が、二十四年十一月に帰国するに及んでナホトカ・グループは御用済みになったわけである。

第二回大会で日帰同の組織改正が行われた。つまり最高機関は全国大会で、中央委員会三十名、中執委と常任委各十名によって平常活動が行われ、事務局は組織、文化、財政の三つに分れたのである。そして文化工作隊として、十六地区楽団と沿海州楽劇団を合流させて楽団カチュシャとし、高山秀夫氏をその責任者とした。これは津村一派でしめていた委員長、書記長制の改廃である。

そして二十五年一月には役員の改選が行われ、津村委員長は、①楽団カチュシャの資金は地方の帰還者中の情報担当者に渡すべきなのに本部人件費として十三万円を流用した。②下部組織に対し発展性なし。③逆スパイを党内に放っている。④婦人問題(註、須藤さんの件)を起した、などの理由からついに粛清されるにいたった。津村氏は三月になって委員長の地位から筋書き通りに追われたのであった。

ソ帰同改め日帰同がこのような経過で改組されていったことは承知していたのだが、私はその日この問題に関する、次のような情報を得ていたのであった。

津村追放の表面上の理由は、前にのべたような四点であったが、事実上の理由は、①徳田要請問題に関して否定資料を集めなかったばかりか、肯定資料はあるけど否定資料はない旨の発言を数回にわたって行った。②現在の党批判をソ連代表部員ロザノフ氏(註、二十九年のスケート団監督、ラ氏の帰国命令の監視者)を通じてソ連側へ呈出していたがそれが妥当を欠いていた。③日共幹部袴田里見氏を数々の偏向ありと指摘し、また同氏弟睦夫氏をボスとして批判した、という三点にあった。

そして、そのため袴田氏の命をうけた久留氏が、津村氏らのナホトカ・グループ六名(佐藤五郎、生某、大棚某、陣野敏郎、大石孝氏ら)を三月九日から十三日までの間、産別会館に軟禁して徹底的に吊し上げを行い、ついに党活動停止の処分に付した。

そのかげには日本新間グループの矢浪久雄、高山秀夫、小沢常次郎、山口晢男氏らが、ロザノフ氏と連絡をとっていたというような内容の情報であった。

私はこの情報を受取って驚いた。〝上陸党員〟中では大幹部ともいうべき津村氏が、徳田要請は事実なり、という資料しかないと主張して、五日間にわたる吊し上げののち、党活動停止 の処分を喰ったというのであるから、委員会の徳田証人喚問が大荒れで結論の出しようもないときては、それこそビッグ・ニュースである。