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迎えにきたジープ p.034-035 引揚者たちの代々木詣り

迎えにきたジープ p.034-035 In response to the U.S. side's military and ideological investigations, the Soviet Union trained a number of activists in all Siberian camps, advocating anti-military, anti-officer and anti-fascist, with the "Nihon Shimbun" as an agitator.
迎えにきたジープ p.034-035 In response to the U.S. side’s military and ideological investigations, the Soviet Union trained a number of activists in all Siberian camps, advocating anti-military, anti-officer and anti-fascist, with the “Nihon Shimbun” as an agitator.

幻兵団第三号の齊藤氏が保護を訴え出たころになると、ソ連側の教育も徹底してきた。例えば何号ボックスの調べ官は何という男で、何と何をきくから、それに対してはこう答えろ。六

号ボックスの寄地(ヨリジ)少尉と、二号ボックスの東(アズマ)中尉の所へ行ったら、メッタなことを言うな。在ソ経歴をきかれたら、こう答えろ。などという工合で、ウランウデの途中の森林伐採の状況まで教え込まれてくるといった按配であった。この辺の米ソスパイ戦はまさに虚々実々というところである。

これがさらに十一月に入ると、要注意者の中には、訊問拒否のため調査日になると仮病を使って入室戦術をとる者が現れてきた。

冬が来て引揚船はナホトカに来なくなった。この時期にソ連側の政治教育は徹底した。日本新聞がアジテーターとなり、反軍、反将校階級闘争が指導された。それと併行して文化活動が奨励され、「日本新聞友の会」運動がまき起され、やがてこれは民主グループ運動へと移っていった。

アメリカの軍事、思想調査に対するソ連側の対抗策である。こうしてシベリヤ民主運動は、二十二年冬から二十三年春へかけての引揚中止期間に、みるみる盛り上っていった。やがて春三月、民主グループ運動はさらに発展してハバロフスク・グループに最高ビューローを置く、反ファシスト委員会が、全シベリヤ収容所に結成された。多数のアクチヴィスト(積極分子)が成長していった。

二十三年四月、再び引揚が始った。その年の引揚は変っていた。船内斗争、上陸地斗争が民主グループ幹部によって指導され、米側の調査を拒否しソ連謳歌を談ずるものが増えてきた。LS、CICの打撃は大きかった。二十二年度の報告書を検討したGHQでは、山田大尉の後任にマウンジョイ少佐を送り、さらに権限を強化して、レントゲン写真と同時に栄養度をみるという名目で、要注意人物の顏写真撮影をはじめた。

一方、引揚者たちは米側に対して反抗の態度を明らかにした。六月ごろからは東京へ着いた一行は援護局のスケジュールも無視して、出迎えの共産党員たちと一緒に代々木の党本部訪問の集団〝代々木詣り〟をはじめだした。

NYKビルでの再調査を命ぜられる者が多くなり、その調書は顔写真とともにファイルされ、厖大な対ソ資料が着々と整備されていった。こうして幻兵団として米側にマークされた人々のうちには、幹候出身ではなくて、陸士卒の正規将校も多かった。

天皇陛下の軍人として、一命をこう毛の軽きにおいた旧軍人たちが、いまや、一方は米国に加担して昔の上官、部下を摘発し、また一方ソ連について同様に上官、部下と闘うということになってきたのである。この元陸軍将校団のまさに骨肉相喰む相剋こそ、元海軍将校団とのよい対照であり、日本国軍史の最大研究テーマである。プロシヤ将校団の伝統あるドイツ将校団

と比較するとき、いよいよ興味深いものがある。(「旧軍人とアメリカ」「旧軍人とソ連」については第三集参照)

赤い広場ー霞ヶ関 p.112-113 「日本しんぶん」掲載のスターリンへの誓い

赤い広場ー霞ヶ関 p.112-113 “Nihon Shimbun,” which promotes Siberian detainees, developed “Friends' Society” into “Democratic Group” and “Anti-fascist Committee” and praised Stalin.
赤い広場ー霞ヶ関 p.112-113 “Nihon Shimbun,” which promotes Siberian detainees, developed “Friends’ Society” into “Democratic Group” and “Anti-fascist Committee” and praised Stalin.

「友の会」運動が普及したとみるや、この運動の組織者である日本新聞社では、直ちにこれを「民主グループ」運動へと発展させていった。

この運動は二十三年春、さらに、「反ファシスト委員会」に昇華させられ、二十四年秋にいたる一年半の間、全シベリヤを席捲しその全盛を極めたのだった。各収容所に設けられたこの地方、地区「反ファシスト委員会」は、生活、生産、青年、文化、宣伝などの各部に分れ、ハバロフスクの最高ビューローの指揮を受けていた。殊に二十四年夏に行われた「スターリン感謝署名運動」が、その絶頂期であった。

当時の熱病的狂躁振りを、同年七月十五日付日本新聞第六〇〇号に掲載された地方反ファシスト委員会ビューローの一文にみてみよう。一読、感激するも大笑するも読者の自由である。

親愛なる日本しんぶん!

われわれは厳粛な生涯にかってなかった最大の日、全世界勤労者の仰ぎみる偉大なる指導者、同志スターリンその人へ、われわれの誓いと決意をおくることができました。

この歴史的な日、われわれはわれわれの誓いにわが全生命をかけて斗うことを決意したのです。かくも栄誉あるかくも誇りある歴史的事業に、レーニン、スターリンの忠実な一兵士として署名しえたこの日こそ、じつに、きみ、日本しんぶんがあったればこそなのです。

そして日本しんぶんの生み育てあげた、幾十万のわが帰還同志たちが、勇躍、われわれの偉大な教師の教えたごとくその教えを体し、日本共産党の戦列の先頭に、米日反動と売国ファッショの狂乱をおしつぶしつつ、平和と民主々義・社会主義のために斗いつつある事実に、無限の感銘と誇りをくみとりつつ、われわれもまたかく斗うであろうことを重ねて誓い、われわれの感謝とします。

このスターリンへの誓いというのは、一九二四年スターリンがレーニンの柩前で誓った「レーニンへの誓い」をもじった日本版の誓いであるが、この一文こそシベリヤ民主運動そのものと、この一文を受けた日本新聞そのものとを、端的に現わしている。

「木村檄文」に始まり、その宣伝を「日本新聞」が行ったことから発生した民主運動は「日本新聞」グループの指導によって、ついに「反ファシスト委員会」という思想結社にまで高められ、ソ連的人間変革に大きな功績をたてたのである。 この運動の先端に立ったアクチィヴィスト(積極分子指導者)カードル(基幹要員)ヤチェーカー(細胞員)たちは、これを〝盛り上った〟運動だと信じ込み、〝かくあるべきだ〟として同胞たちを苦しめ苛んで、これを「人間変革への闘い」と称した。それは或時は最高ビューローの指令であり、或時は彼らのハネアガリであった。

赤い広場ー霞ヶ関 p.116-117 「日本新聞」をめぐる主導権争い

赤い広場ー霞ヶ関 p.116-117 Nihon Shimbun groups such as Kovalenko, Nobujiro Kobari, Seiki Asahara, Hisao Yanami and others, reigned as organizers and supreme bureaus.
赤い広場ー霞ヶ関 p.116-117 Nihon Shimbun groups such as Kovalenko, Nobujiro Kobari, Seiki Asahara, Hisao Yanami and others, reigned as organizers and supreme bureaus.

コバレンコ少佐というのは、元タス通信日本特派員として在日八年の日本通で、大場三平のペンネームまでもつモスクワ東洋大学日本科出身である。一説には極東赤軍情報部長といわれ、のち中佐に進級したが、二十四年六月ごろからハバロフスクの日本新聞社から姿を消しており、二十七年十月末強制退去となって日本を去った、タス通信東京支局長エフゲニー・セメノヴィッチ・エゴロフ氏が、コバレンコ中佐だといわれていた。小針氏も、新聞技術者として日本新聞に入ったとみるのが妥当であろう。事実彼の入社後は発刊当時の、新聞とはいえないような稚拙な紙面から、一応は新聞らしい形を整えてきたから。ところがその後「諸戸文夫」のペンネームを持つ、東大政治科卒の浅原正基上等兵が入社してきて、浅原氏の手によって小針氏は粛清され、浅原氏の代となった。前記「真相」によると、

ようやく非難されはじめたころ(註、小針氏が)、満州の特務工作員であった浅原正基がこれまた日本共産党員と称して入社してきた。

これには小針もさすがに泡をくって、浅原に、オレも党員ということになっているからバラさないでくれと、コッソリ頼みこむ始末であった。しかしその売名振りと編集のデタラメさが問題となり、二十一年五月には日本新聞社から追放されたという。

ところが、二十四年になると編集長だった浅原氏は、相川春喜のペンネームをもつ矢浪久雄氏らに、「極左的ダラ幹、英雄主義のメンシヴィキ的偏向」と極めつけられ、さらに「元特務機関員、ハルビン保護院勤務員」という前職まで指弾され、これまた矢浪氏に粛清されてしまった。

小針氏の粛清は『オレは、プチブルだった。大衆の中に入って鍛え直してくる』という立派な言葉を残して、あとは要領よく引揚船にモグリ込んでしまったのだが、浅原氏の粛清は裁判となり、五十八条該当者として二十五年の矯正労働という刑をうけたのだから手厳しい。

それらのメムバーのほか、宗像肇、高山秀夫、吉良金之助氏らがおり、二十四年十月帰還のため出発後は、矢浪氏から作家山田清三郎氏へバトンが渡されて、約一ヶ月、十一月七日付第六五〇号で終刊となり、約四年間にわたる歴史を閉ぢた。この日本新聞グループこそ、シベリヤ民主運動の開花「反ファシスト委員会」のオルグ、「最高ビューロー」のメムバーであり、地方、地区ビューローにもそれぞれ最高オルグが派遣されていたのである。

日本新聞の果したこの「人間変革」における役割は、極めて大きいことは事実である。それではこの「人間変革」はどんな形で行われたであろうかといえば、表面的には「スターリンへの誓い」感謝署名運動がその卒業式であった。