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赤い広場―霞ヶ関 p022-023 札幌へ飛び立った怪外人、A・ヤンコフスキー

赤い広場ー霞ヶ関 22-23ページ 怪外人A・ヤンコフスキーが札幌へ行くが足取りがつかめず。当局が身許を調べる。
赤い広場ー霞ヶ関 p.022-023 Mystery man, A. Yankovsky leaves for Sapporo.

第三は手紙および身分証明書の内容である。これこそ丸山警視が語らない限り、果して判読 できたのかどうか分らない。

二 怪外人札幌へ飛ぶ 関事件がおきクリコフ船長ら四人のソ連人が逮捕されるや、麻布狸穴の元ソ連代表部がどんな反応を示すかが、関係当局の関心の的だった。八月九日ソ連船だ捕以来、不安な期待の十日間が無気味にすぎた十九日、ついに代表部から外務省に対して、四ソ連人船員の釈放方の要請が行われた。

この日の朝七時半。日航の下り五〇一号便機が、札幌めざして羽田を飛び立っていった。一隅に坐った一人の外人。四角い幅広な顔、ユダヤかスラヴの血を引いたような男だ。乗客名簿には、ミスターA・ヤンコフスキーとのみ記されている。西銀座の日航本社で座席の予約のみして、自家用車で直接かけつけ、往復切符を羽田で買っている。駐留軍の軍人でない事は明らかである。何故なら乗客名簿にミスターと書かれているからだ。軍人ならば階級を記入するのだ。

そして翌々日、二十一日午前十一時二十分、千歳飛行場をとびたった日航上り五〇二号便に 再びA・ヤンコフスキー氏の顔がみられた。ヤンコフスキーが帰京したのと入れ違いのように二十二日ルーノフ、サベリヨワ両元代表部員が旭川に向けて出発した。十九日の釈放要求を外務省に蹴られたので、四ソ連人の拘留されている旭川の現地で交渉しようというのであろう。

何の変哲もない一外国人の空の旅だ。だが当局の眼は鋭かった。直ちにA・ヤンコフスキーなる男の身元調査が行われた。

外国人登録法による登録原票には該当者がなかった。ということは、米軍軍人か軍属、でなければ元ソ連代表部員、または蜜入国者か偽名ということである。

A・ヤンコフスキーという名前は、純然たるロシヤ系である。これでは米国人かソ連人か全く分らない。直ちに指令は彼のあとを追って札幌へ飛んだ。だが、残念なことには八月十九日から同二十一日までの、A・ヤンコフスキーなる怪外人の足取りは全くつかめなかった。

 関事件の渦中にある現地へ、怪外人が急ぎ旅とは……、そして入れ違いに出発した元代表部員、当局ではいよいよ疑惑を深めてきたのである。

では、ルーノフ一行の行動をみてみよう。

1 八月十九日サベリヨフ、チャソフニコフの両名が、外務省欧米第五課を訪れ『今回逮捕された四名は行方不明のソ連船を捜索中、悪天候のためまぎれて日本領海に入ったもので、悪意があったのではないから釈放してほしい』との要旨の、ルーノフ署名の欧米局長宛書面を置き、その際ルーノフ、サベリヨフの両名が旭川に行きたいと付言して立去った。

赤い広場―霞ヶ関 p024-025 ソ連代表部の2人はクリコフ船長たちの釈放を要求

赤い広場ー霞ヶ関 24-25ページ ルーノフとサベリヨフ、2人の元ソ連代表部員は北海道各地を駆け巡りクリコフ船長ほか3名の船員の釈放を要求。
赤い広場ー霞ヶ関 p.024-025 Rounov, Saveljov, Soviet representatives demand release of Krikov captain and three sailors.

2 八月二十一日欧米第五課に、一両日中に前記二名が旭川に行くからと連絡があった。

3 八月二十三日午後七時東京駅発列車にて、参事官兼政治顧問代理ルーノフ、領事部書記サベリヨフの両名が北海道へ出発した。

4 八月二十五日午前十時四十分旭川駅へ到着した。両名は直ちに北海ホテルに入り、午後一時四十分まで休憩した後、旭川方面隊を訪れ、隊長に面会、午後二時十分頃まで会談し次の申入れを行った。

a 樺太と北海道は近接しているので、色々の問題が起ると思うがお互に円満に解決して行きたい。

b 拘留中のソ連船員四名に面会させてほしい。

c 四名を出来るだけ早く釈放してほしい。

これに対し隊長から『旣に事件は検察庁に送致してあるので、詳細は検察庁で聞いて貰いたい』と回答した。

5 そこで両名は引続き、旭川地方検察庁を訪れ、午後二時二十分より同五時三十分の間検事正と面会。国警とほぼ同様の申入れを行ったが、交渉に先だち『ソ連代表部員として公式の立場で交渉したい』と申出た。これに対し検事正は、『公式の立場の交渉は検察庁の管轄外であるから、外務省へ行ってもらいたい』と拒否したので、結局個人の立場で交渉した。

ソ連側の申入事項は

a 四人のソ連人に面会させてほしい。

b 果物等の差入れをしたい。

c ソ連船に弾痕があるというニュース映画を見たが、賠償を要求したい。

d 小樽へ行ってだ捕された船を見たい。

これに対し検事正は

a 逮捕は国内法に基き合法的に行われたものである。

b 拘留は三十日迄あるので釈放の時期は分らない。

c 四人に対する面接は、裁判所から禁止命令が出ているので応じられない。

d 差入については便宜を図る。

e 弾痕の問題については、海上保安庁の管轄であるから回答できない。

f 船は外から見る分は羡支えないだろうが、大事な証拠品だから中に入ることは出来ない。

と回答した。

これに対してルーノフ氏から『ニュース映画にも内部まで出してあるのに何故見せられないか。ニュースで見ると、弾のあたった痕が出ているが、小樽へ回航したのは弾痕の修理をするためじゃないか』との追求があったが、これに対し検事正は『自分達は法規を守るのが任務だから、法規を曲げることは出来ない』と回答した。

この回答に対し、『私達の印象を悪くしないようにした方がいいだろう。この事件が表面化した場 合、あなたの責任に影響するだろう』

赤い広場―霞ヶ関 p030-031 兵士の死体事件は謀略ではないか?

赤い広場―霞ヶ関 30-31ページ 兵士の死体事件は謀略ではないか?
赤い広場ー霞ヶ関 p.030-031 Is not a soldier’s corpse case a stratagem?

二人の代表部員が、そのため東京—稚内間を旅行し、帰京するや帰国準備をはじめた。帰国すべきものならば、ベリヤ粛正のための帰国ならば、すでに地位を追われたも同然のものが 特に選ばれて日本国内を旅行し、漁民とパーティを開くなどの、政治的行動をするのは、まずないことだろう。従って、遺骨受取りに藉口した計画的北海道旅行ではないか。

 両人の旅行と極めて近接した時期に、関が密入国し、逮捕されている。続いてソ連船もだ捕されたその騷ぎの中で、コテリニコフ、ジュージャ両氏が異例な状況下に帰国した。

一週間後、代表部は船員釈放要求を出し、同時に怪外人が急拠北海道に赴いた。

怪外人はあわただしく帰京し、入れ替りに代表部員二名が正式に現地に向った。

このような状況下で、当局では、これらのナゾを解こうと努力して、次のようにみているもようである。

1 死体事件は一種の謀略ではないか。つまり次に打つべき謀略(この場合は関事件)の第一の手ではないか?

2 コテリニコフ、ジュージャの両氏の、在日間における仕事の傾向、行動に関する情報などから判断して、両氏の活動は注目に値する。即ち秘密警察畑出身ではないか?

3 両氏の旅行は計画的であり、各地の訪客などから、これが重要なるレポではなかったか?

4 日本側から何らの通報もしないのに、死体漂着を探知していたのは、第一二八東丸の死体発見の無電傍受、または地元新聞に掲載された(中央紙では報道されておらず地元紙にも簡単なベタ記事しか出てない)のをみたか、またはこれを報告した機関があったのではないか?

5 関の自供内容は概ね真実だが、連絡スパイに老人でしかも知能程度の低い関を起用し、しかも簡単に捕まり、素直に苜供した点から、三橋事件の如く裏面に何らかの第二次目的がかくされた謀略ではないか?

6 ソ連船もまた、往路と同一船が使用されている点から、投入スパイの輸送としては不自然ではないか?

丸山警視のいう、これらのナゾは、ここにあげた六つのナゾ以外に、まだまだあるのかも知れない。何しろ、国警全管下にはりめぐらされた情報網、即ち十五万の警察官の眼や耳は、もっと多くの目立たない出来事を報告してきているに違いないからだ。

現地での対立した意見のため、関一味の追及は絶たれて、ポツンと現れた関一人のスパイ事件となり、もはやその反響の破紋も消えようとしている。

三 失敗した人浚いギャング団 この事件の後始末も一応述べておかねばならない。八月三十日、クリコフ船長は船舶法第三条(不開港寄港)入管令第三条(旅券不所持)で起訴され、三 名の船員は起訴猶予で強制退去となった。

赤い広場―霞ヶ関 p032-033 執行猶予のクリコフの再収容を要請。

赤い広場―霞ヶ関 p.32-33 執行猶予のクリコフの再収容を要請。
赤い広場ー霞ヶ関 p.032-033 Requests a re-imprisonment of Krikov on probation.

三名の船員は起訴猶予で強制退去となった。

九月八日関の初公判、同二十二日クリコフの初公判と、いずれも旭川地裁でスピード裁判が開かれた。一方強制送還の三名は十月二日小樽出港の石炭積取船で、北樺太西柵円に送還、同五日ソ連側官憲に無事引渡された。

また十月十四、十五の両日にわたり、裁判権の有無についての公判準備手続が東京地裁で開かれ、四対一で裁判権が支持された。

関、クリコフの裁判は第二回から並行審理されていたが、二十八年二月十九日、両名とも懲役一年(執行猶予二年)、クリコフには船を返すとの判決があった。

ところが、判決から四日目の二十三日、クリコフ船長の杉之原弁護人が、札幌入管事務所を訪れ『船長を再収容してほしい、送還は広島、山口両県で修理中のソ連船でしてほしい』という申入れを行った。

再収容とはどうしてだろうか。この問に答えて元ソ連代表部では、三月四日次のような声明を発表した。

ソヴエト船のクリコフ船長は、二月二十三日代表部をおとずれ、アメリカ諜報部員と思われる二名のアメリカ人に数日間つきまとわれ、故国に帰るのを拒否して、アメリカへ行くようおどかされたと

のべた。クリコフ船長はアメリカ諜報部員の追求から守ってほしいと依頼した。彼はつぎのような声明を発表した。

本年二月十七日午後十一時、私が旭川市の「ニュー北海」ホテルの自室にいると、見知らぬ男が入ってきた。この男はあとでわかったのだが、アルバート・バーミンという名でホテルに投宿していたものだった。アルバート・バーミンの言によると、彼の両親はカリフオルニアに住んでおり、母は女教師で、彼は米軍の通訳をしているとのことだった。彼はうちとけた振舞をして、なるベく私を酔わせようとした。二月十八日の昼間は、このアメリカ人がつきっきりで私につきまとい、御馳走をして私の気嫌をとろうとした。この日の夕方、彼は「ニュー北海」ホテルの自室に私を招待したが、そこにはもう一人のアメリカ人がいた。宿帳にのっている彼の名前は、エドワード・マーチンであった。彼らはアメリカ当局に亡命を願いでて、直ちに飛行機でカリフォルニアへ行こうともちかけて来た。そのとき彼らはこういった。『日本人などくそくらえですよ。奴らはアジア人ですからね……中請書を書きさえすれば、私たちの手から五万ドル貰ってアメリカへ飛んで行けますよ』

二月十九日、バーミンはまたアメリカへ行こうと私にすすめた。彼は私を自室につれこんで、直ぐに鍵をかけ、予め用意した、ロシヤ語の不帰国申請書に署名させようとした。私はそれを断って、彼の強要をきっばりはねつけたあと、バーミンは図々しくなり、私の部屋に無断でちん入し、中請書に署名させようとして私につきまとうようになった……

赤い広場―霞ヶ関 p034-035 米人パーミンがクリコフにつきまとう。

赤い広場―霞ヶ関 p.34-35 米人パーミンがクリコフにつきまとう。
赤い広場ー霞ヶ関 p.034-035 An American, Parmin, was dogging Krikov.

クリコフは以上のことをソ同盟政府に報吿すると共に、その帰国を促進させるため、できるだけの措置をとるよう依頼した。一力月以上前、代表部員ラストヴォロフが忽然と失踪したこと、及びクリコフの声明にのべられたような事実は、在日アメリカ諜報員が犯罪的な目的をもって、ソ同盟市民に対しほしいままに、挑発行動をとっていることを示している。代表部は、在日ソヴエト市民に対するアメリカ諜報部の挑発行動を取締るため、日本当局が適当な措置をとる義務があると考える。

早くもCIAと覚しき米国秘密機関の手が伸びていたのであった。この事件については私自身は直接関係していないので、週刊読売二十八年三月二十一日号をみてみる。

二月二十四日、元ソ連代表部ルーノフ参事官は、札幌入管事務所を訪れ、植田所長に『クリコフを仮放免のまま旭川におくのは、引致されるおそれもあるから、札幌に身柄を移し、強制収容のうえ保護を与えてほしい』と申入れた。

これらのただならぬ言葉がほのめかしている事実、それが判決前後クリコフ船長の周辺に突然現われた二人の怪米人の存在なのである。

二月十六日午後八時頃。クリコフは宿舎旭川ニュー北海ホテルのロビーで休んでいた。と、そこへ派手な緑のダブル背広を着込んだ三十五、六、中肉中背、面長のアメリカ人らしい一外人が現われ、 クリコフの肩を叩き乍らロシヤ語で挨拶をかわし、談笑していたが、そのまま自室三十五号室にクリコフを連れ込んだ。

夜おそくまで二人が替る替る酔った声でロシヤ民謡を歌うのが、ドアの外に聞えていた。そして飲み明した十七日午前四時には連れ立ってハイヤーに乗り、市内某特飲店から女二人を連れホテルに引揚げた。突然現われたこの怪米人の行動を怪んだ、クリコフ付添いの日共党員が、ホテルの宿帳を調ベてみると、アルバート・パ—ミン(ALBERT PARMIN)宿所連絡先AFO500=電話57・8507 勤務先U・S・ARMYと書かれてあった。

この日からこのパーミン氏はずっとクリコフに付きまとい、更に同日夜にはエドワード・マーチンと称する米人が現れてクリコフと酒食を共にした。

クリコフ付添いの日共上川地区委員会山口清さんはこれについて『数回にわたって「ソ連代表部は君を見放している。ソ連からさえ見捨てられて一体どうする気だ。アメリカに行く気があるなら飛行機で連れて行ってやる。家は準備してある」と持ちかけ、誓約書への署名を迫った。そして金に窮しているクリコフに規金一万二千円を与え、酒、女、金でクリコフを亡命させ、反ソ宣伝工作を行わせるつもりだったのだ』と語っている。

国警や札幌入管など治安当局も、最初は単なる観光客を日共が神経質に騒いでいるものと、見ていたらしいが、やがて、パーミン氏が日露英三国語をいずれも巧みに話すことや、 57・8507という電話の所在地が東京都千代田区霞ヶ関三ノ二、キャンプ東京であるなどの点に疑問をもち、それとなくクリコフの身辺に注意を向けるようになっていた。

赤い広場―霞ヶ関 p036-037 パーミンは米国の諜報機関員。

赤い広場―霞ヶ関 p.36-37 パーミンは米国の諜報機関員。
赤い広場ー霞ヶ関 p.036-037 Parmin is a U.S. intelligence agent.

二十二日記者団と会見したパーミン氏は『クリコフと話したのは母が亡命したロシヤ人なので、ロシヤ語やソ連人が懐しかっただけだ』と語り、伝えられていた噂を否足した。

その一日おいて二十四日午前十時頃、杉之原氏がルーノフ参事官と札幌グランドホテルで話をしている時、パーミン氏が米航空将校の服装で同ホテルから出ていった。

さらにもう一人のマーチン氏らしい人物が杉之原氏らの周囲をうろうろしていたが、やがて日航のバスに乗って姿を消したともいわれている。

いずれにせよ、これらの事実から国警や札幌入管では、マーチン氏はともかく、パーミン氏が米諜報機関関係者で、クリコフに何らかの工作をしようとしたのは確実だと見ているようだ。

ルーノフ参事官や杉之原氏が、数回にわたって札幌入管を訪れ「強制収容」を依頼した際その態度があまりに強硬、執拗であったことが、この見方を生んだものだ。

事実、札幌入管が東京の本庁から『強制収容の必要なし』と指示があったため、申人れを拒否すると、ル参事官は、『非常に不愉快な印象を受けた。この不愉快な印象はそのまま本国に報告されるだろう。そして三月初めの戦犯引揚げに影響を与えるかも知れない』と語ったと言われ、是が非でもクリコフの身柄を収容させたいようだった。また、ル参事官は旭川でクリコフと会った後、記者団にパーミン氏のことを告げられると『その話ははじめて聞いた』と手帳を出してメモをとったが、これはクリコフがなぜかパーミン氏との交際を、ル参事官に報告しなかった事実を物語るもので、ここにもクリコフがパーミン氏の工作によって動揺していた一つの証拠を見出せるわけだ。

日本に抑留中、生れてはじめてトルストイ、ドストエフスキーなど、ロシヤ古典を読む機会を持ったと語り、白くなった手をなでながら『こんなインテリの手になったのははじめてだ』と笑っていたクリコフが、酒、女、多額の金、将来の生活保障など、パーミン氏が持ちかけただろう条件に、心を動かしたかも知れないことは、容易に想像できる。

しかし、もしここでクリコフの米国亡命という事態が起ったとしたら、そして日本領海に入ったのは、スパイを送り込むのが目的だった、などと放送でもしたら、これほど日本国民にソ連諜報機関を知らせる宣伝材料はないだけに、ル参事官もクリコフが強制収容されることに懸命だったのだろう。

公判廷で密入国の意図を初めから否定していたクリコフが、札幌入管の「密入国」との認定には簡単に服したのも、ル参事官、杉之原氏らが、名はどうでも、できるだけ早く帰国させようと考えたためだろうと見られている。

相手は例の人浚いギャング団である。尾道へ無事送り届けるまでは、何時、何処で襲われるかも知れないというので、入管局では懸命の警戒をしいていたが、すでに占領は終っているので、そう手荒なこともできないと諦らめたらしく、クリコフ船長は二月二十八日、尾道市日立 向島工場内の、ソ連船セプザプレス号に無事乗船した。

赤い広場―霞ヶ関 p038-039 パーミンとA・ヤンコフスキーは同一人物。

赤い広場―霞ヶ関 p.38-39 パーミンとA・ヤンコフスキーは同一人物。
赤い広場ー霞ヶ関 p.038-039 Parmin and A. Yankovsky are the same person.

向島工場内の、ソ連船セプザプレス号に無事乗船した。日本側当局もホッとしたのである。

同船は同日午後五時出港、帰国の途についたが、元代表部員サベリヨフ領事ら八名の帰国組も同乗していた。

なお、同年十一月一日、ラズエズノイ号の送還に当った、樺太炭積取船東洋丸の菊川船長から、小樽海上保安本部への報告によると、クリコフ船長は機密ろうえいの廉で、懲役十三年の刑に処せられ、豊原刑務所(推定)に服役中であるという。

このニュースが事実ならば、行方不明の漁船を探して、誤って領海を侵犯したクリコフ船長が、どうして重刑に処せられねばならないのだろうと、考えるのは私ばかりだろうか。

最後にロシヤへの郷愁を感じてという、アルバート・パーミン氏について語ろう。このパーミン氏こそ、先にのベた怪外人ヤンコフスキー氏である、と当局では判断している。ヤンコフスキーという、ロシヤ名前が意味する悲しい宿命。それは戦後、自由と共産と二つの対立した世界の間に流れる、血と政治と思想という〝渦〟である。

ソ連人といっても日本にいるのは、元代表部員の八名とその家族三名、通商使節団の八名、 合計十九名(三十年五月末現在)をのぞくと、すべてが元白系露人で、戦後ソ連籍を取得した連中である。

ところで白系露人の中にもなかなか頑固なのがいて、赤色ソ連政権の祿を喰むのを潔しとしないものもおり、法務省入管局の統計をみると、三十年一月末現在でソ連人一八六名、無国籍人八二八名(内白系露人四〇八名)となっている。これを都内(二十三区)でみると、ソ連人一〇七名、白系一四二名、その他の無国籍一二一名となっている。

もちろん、現在ソ連とはまだ外交関係はないが、ソ連人だからといって法的には一般米英人と変りはなく、単なる外国人にすぎないのである。ただ戦後に国際的な力関係が変ったので、彼ら戦後派ソ連人は、戦勝国民の方が何かにつけて有利だろうと、父祖の志を裏切ってソ連国籍をとったのだ。

ここから〝東京租界〟の渦がまき起る――横浜に住む流亡の白系露人老ミネンコ夫婦は、一流日刊紙に広告を出して、『私ことこの度ソ連国籍を放棄しました』と、元の白系にもどることを宣言した。

この措置はソ連政府が国籍離脱を認めない限り法的には無効である。しかし、老ミネンコ夫婦はこれによって白系としての感情的、社会的節操を恢復したつもりであろう。また同時に、 ソ連政府がこれら戦後派ソ連人に対しても、一般ソ連人と同様、旅行や住居の自由を認めないのだから、彼らにしてみれば、ロシヤに帰って故旧の地に昔を偲ぶこともできないし、赤いと みられることが、生活上にも不便が多いとすれば、ソ連籍を放棄するのが当然であろう。