第三は手紙および身分証明書の内容である。これこそ丸山警視が語らない限り、果して判読 できたのかどうか分らない。
二 怪外人札幌へ飛ぶ 関事件がおきクリコフ船長ら四人のソ連人が逮捕されるや、麻布狸穴の元ソ連代表部がどんな反応を示すかが、関係当局の関心の的だった。八月九日ソ連船だ捕以来、不安な期待の十日間が無気味にすぎた十九日、ついに代表部から外務省に対して、四ソ連人船員の釈放方の要請が行われた。
この日の朝七時半。日航の下り五〇一号便機が、札幌めざして羽田を飛び立っていった。一隅に坐った一人の外人。四角い幅広な顔、ユダヤかスラヴの血を引いたような男だ。乗客名簿には、ミスターA・ヤンコフスキーとのみ記されている。西銀座の日航本社で座席の予約のみして、自家用車で直接かけつけ、往復切符を羽田で買っている。駐留軍の軍人でない事は明らかである。何故なら乗客名簿にミスターと書かれているからだ。軍人ならば階級を記入するのだ。
そして翌々日、二十一日午前十一時二十分、千歳飛行場をとびたった日航上り五〇二号便に 再びA・ヤンコフスキー氏の顔がみられた。ヤンコフスキーが帰京したのと入れ違いのように二十二日ルーノフ、サベリヨワ両元代表部員が旭川に向けて出発した。十九日の釈放要求を外務省に蹴られたので、四ソ連人の拘留されている旭川の現地で交渉しようというのであろう。
何の変哲もない一外国人の空の旅だ。だが当局の眼は鋭かった。直ちにA・ヤンコフスキーなる男の身元調査が行われた。
外国人登録法による登録原票には該当者がなかった。ということは、米軍軍人か軍属、でなければ元ソ連代表部員、または蜜入国者か偽名ということである。
A・ヤンコフスキーという名前は、純然たるロシヤ系である。これでは米国人かソ連人か全く分らない。直ちに指令は彼のあとを追って札幌へ飛んだ。だが、残念なことには八月十九日から同二十一日までの、A・ヤンコフスキーなる怪外人の足取りは全くつかめなかった。
関事件の渦中にある現地へ、怪外人が急ぎ旅とは……、そして入れ違いに出発した元代表部員、当局ではいよいよ疑惑を深めてきたのである。
では、ルーノフ一行の行動をみてみよう。
1 八月十九日サベリヨフ、チャソフニコフの両名が、外務省欧米第五課を訪れ『今回逮捕された四名は行方不明のソ連船を捜索中、悪天候のためまぎれて日本領海に入ったもので、悪意があったのではないから釈放してほしい』との要旨の、ルーノフ署名の欧米局長宛書面を置き、その際ルーノフ、サベリヨフの両名が旭川に行きたいと付言して立去った。